次の訪問地は鎌倉だった。依頼主は五十過ぎの夫婦だ。
 ホームページがあるわけでもなく、いったい誰からの紹介なのか。
「どうも。わざわざすみません。実は二ヶ月ほど前に、知り合いから猫を譲り受けましてね。ただ、我々二人とも、動物を飼うのが初めてだったんです。最初はそうでもなかったんですが、最近ご飯をほとんど食べてくれなくなって。獣医さんからは、環境変化にともなうストレスが原因じゃないかって。ただもしそうなら薬を飲ませるより何か別の対処をしたほうがいい気がしたのですが、なにぶん、経験も知識もなくて」
 その言葉にどきっとした。
 環境の変化によるストレス――。アビーにあってもおかしくない。
「職場でその話をしていたら、いい人がいますよって教えてくれたんですよ。それで市ノ瀬さんのお名前を知った次第です」
「まあ、光栄です。ちなみに、どなたですか?」
「女優の芦川凛音ちゃんって、ご存じですか?」
 飲んでいた紅茶が鼻腔に逆流した。
「あら、圭太さん、大丈夫?凛音ちゃんということは、井出(いで)さんのお仕事もテレビ関係ですか?」
「はい、音響の仕事をしています。彼女とは生まれる前からのお付き合いでして」
「ということは、ご両親と、ですか?」
「私、これでも女優でしたのよ。彼女の母親も」
 女優、といっても、どちらも、名前を聞いて、顔を思い出してもらえるような存在ではなかったそうだ。
「私は早々に限界を悟って主人と一緒になりましたの」
 彼女はそう言って、夫の腕にそっと触れた。
 芦川の母は、どうしてもあきらめきれず、娘が生まれると彼女に夢を託したという。
「まあよくある話ですよ。その怨念っていったら失礼だけど、それが実ったのかなあ、彼女は子役の頃から数少ないチャンスをものにしてきました」
 小学生の頃から、授業が終わると仕事がなくても現場に顔を出したそうだ。
「この業界、人脈がほとんどと言っていいくらいでしてね。そういう意味では天性の素質があったんでしょう。そうそう、彼女、今日はこのあと来る予定です」
 紅茶が肺に濁流のように流れ込み、再び激しくむせた。
「圭太さん、さっきからどうしたのかしら?」
「え、ええ。あの、僕は処置の間、外出してていいですか?鎌倉は初めてなので」
「そうなんだね。それは是非。いいところだよ。三十年住んでる人間が言うんだから間違いない」
 圭太の言葉を合図に、依頼の内容に話が移った。
「それでは、処方されたお薬を見せていただけますか?」
 差し出された薬を見て叔母は眉間にしわを寄せた。
「私は獣医でもなんでもありません。ですが、もし信頼していただけるなら、今の症状には漢方を試してみることをおすすめします」
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
 そんな提案もできるのだなと、感心しながら頭を下げたときだ。
 チャイムが聞こえ、脈拍が一挙に倍の速度になった。
 夫人が部屋を出てしばらく、遠くで挨拶が聞こえ、やがて戻ってきた。
 うしろに美少女を従えて。
「井出さん、こんにちは。市ノ瀬さんもお久しぶりです」
「ご丁寧に。先日は凛音ちゃんのおかげですごく楽しかったわ。またお会いできるなんて、本当にうれしいです。しかも紹介までしていただいて」
 女優は、圭太の存在を空気のように無視して、三人と楽しそうに話し始めた。
 それはそれで好都合だ。
 家人には、外出する許可を得ている。
 息をひそめ、居間を出るため芦川の横を通り過ぎようとした瞬間だった。
「なんで挨拶しないの?高校生だって社会人なのよ。馬鹿じゃないの?」
 まるで人感センサーに反応したライトのように、唐突に会話の対象を変更した。
 おそるおそるうしろを振り返ると、なぜか大人三人は笑みを浮かべている。
「凛音ちゃん、口の利き方がなってませんよ」
 そう、誰かたしなめる場面ではないのか。
 そして愕然とした。
 適当な挨拶を思い浮かばなかったからだ。
 こんにちは、とは言いたくない。久しぶり、という間柄でもなく。
 その二つ以外――。汗が首筋を伝う。
 やあ、元気、くらいしかないとあきらめたとき、背中で声がした。
「凛音ちゃん、今日は近くで撮影って言ってたっけ?」
「はい。雑誌のインタビューで金沢動物園なんです。ここからどうやって行けば近いですか?」
「うーん。確かに直線距離は近いけど、電車では行きにくいね。タクシーかなあ」
「そうなんですね。時間、かかりますか?」
「車なら三十分くらいだと思うよ」
 このすきに部屋を出ようと一歩踏み出したとき、叔母の言葉に失禁しそうになった。
「それくらいの距離ならバイクで行ったらどうかしら。凛音ちゃんさえ、嫌でなければ」
「嫌だなんて。でもいいんですか?」
「いいのよ。私は来るときと帰るときだけ乗せてもらっているの」
「それならそっちのほうが楽ですね」
 なぜ所有者兼運転手の意向をまったく無視して、計画が進んでいるのだ。
「あの、僕これからちょっと予定があって――」
「鎌倉観光だろう?凛音ちゃんは子供の頃からうちに来ているから、この周辺には詳しいよ。案内してもらえばいい」
「あら、それはいいわね。圭太さんもこの前、凛音ちゃんの映画を観てたものね」
 頭を鈍器で打たれたような衝撃だった。
 どうして詩乃が知っている?!ブルーレイはバッグの中に入れっぱなしになっていたはずだぞ。
 そして何よりその事実、いや秘密を芦川にさらされた衝撃は大きすぎた。
 恐怖に怯えながら横目で彼女を盗み見ると、悪魔が、天使の堕天に成功したときのような表情だった。
「お掃除してるときに、ね。アビーがときどき圭太さんのバッグの中で寝てるの、知ってる?」
 そういえば……。何度かバッグが倒れて毛だらけになっていたことがあったような。
「掃除って……どういうことなんですか?お二人って叔母と甥だって、以前に――」
「圭太さん、私の家に下宿してるのよ。もちろんお家賃も払ってもらってるわ」
 羞恥で頭が熱くなり、二人の会話は遠くに聞こえた。
 冷静な判断も反論もできず、いつの間にか大人たちの意見に押し切られてしまっていた。
 仕方なく先に玄関を出て、バイクのそばで立っていると、しばらくして芦川が姿を現した。
 だが、先ほどまでと違い、口をぎゅっと結んで圭太と視線を合わせる気配がない。
「安全運転しなさいよ。あなたが死んでも親くらいしか悲しまないだろうけど、わたしは全国に泣く人がいるんだから」
 一度は収まったはずの血流が、再び上昇を始める。
 いつもいつも平然と他人を傷つけることのできる彼女に、いや、そんな相手と会話しなくてはならない理不尽な境遇に、怒りで涙が出そうだ。
 中学の頃、自分はクラスメートたちとは違うのだ、とずっと信じていた。世の中のことを誰よりも理解していて、精神的にもずっと大人なのだと。
 高校に入ってから、それが間違いだったと思い知らされている。
 ただ、他人との接触が少なかっただけだった。社会の一員として生きることの意味を理解していなかった。
「なんで断らなかったんだよ。そんなに僕のことが嫌いなら」
 声が震えていたことに圭太自信が驚く。
 同時に、芦川の表情がこわばるのが見えた。
「嫌いとまでは言ってないでしょ……。それよりまだ謝ってもらってないんですけど。前に、わたしを殴ったこと」
 とりあえず場を収めるためには、嘘でもいいから悪かったと言えばいい。
 頭では理解していたが、どうしても言葉にすることができない。
 黙ってポケットから鍵を取り出し、バイクにまたがる。
 ヘルメットをかぶると、その圧迫感が適度に外界を遮断し、どうにか理性を取り戻した。
「どうするんだよ。送るのか?」
 詩乃のヘルメットを差し出すと、彼女は「もう」と短く不満をもらしながら、受け取った。
「道、わからないけど」
「わたしが画面を見ながら指示するから」
「いくら何でもそれは危ないだろ」
「じゃあこうしたらどう?」
 彼女は圭太のうしろに座ると、ぎゅっと体を押しつけた。両腕を胸に回し、右手にあった携帯を、圭太の肩越しに見るような格好になる。
 このバイクを買ったとき、ほんの出来心だったはずだ。それなのに、どうしてこうも色んな人間を同乗させる巡り合わせになるのだろうか。
「これなら大丈夫でしょ。指示は左手でするから」
 仕方なくそのまま走り出した。
 交差点があると、彼女は圭太の体を叩き、曲がる方向に指を差し出す。
 しばらくは指示のタイミングが遅かったり、早かったりしていたが、やがて連携は円滑になり、予定されていたより早く、無事目的地に到着した。
「たぶん三時間くらいだから」
「――何のこと?」
「撮影よ。インタビューがなければもっと早いんだけど」
「いや、そうじゃなくて――」
 その時間を圭太に伝えた理由を知りたかった。
「このあたりは緑地や史跡なんかがすごくたくさんあって飽きないと思うわ」
「まさか……待ってろってことじゃないよな」
「逆に聞くわ。あなたがいなくなったら、わたしどうやって戻ればいいの?」
「ちょっと待て。井出さんの家からここまでは交通の便が悪かったわけだけど。ここから最寄り駅まではまた事情が異なるだろ」
 地図を調べるため、携帯を取り出すと、彼女は静かにそれを奪い取った。
「もう一度言うけど。まだ謝罪の言葉、聞いてないわ」
 くっ。
 孫悟空のヘアバンドの名前は何と言っただろうか。非を認めない限り、ずっとその呪文を詠唱され続けるのか。
「わかったよ。あのときは悪かったよっ」
 謝るときは深く考えずに、勢いよく言うことがコツだと知った。
 達成感でひそかに息をついたが、なぜか相手は瞬き一つしていない。
「言っとくけど。謝罪は被害者が受け入れて初めて成立するってこと、理解してる?」
「そんな理屈、通用するはずないだろっ。そっちの都合で永遠に終わらないじゃないかっ」
「人気女優を一人でこんなところに置き去りにするつもりなの?明日、ニュースでわたしの名前を聞くことになるわよ」
 誰か、この一方的で理不尽な状況に名前をつけてほしい。傲慢という言葉では、はるかに足りない。
 そのとき、芦川の手が振動した。
「市ノ瀬さん、今日は近くに宿をとったから直接帰っていいって」
 そう言って、画面を圭太に向けた。
「人の携帯、勝手に見るなよ。女優だったら何してもいいっていうのか」
「誰もタダなんて言ってないでしょ」
「何のことだよ」
「待っててくれたら、夕食くらいはおごってあげるから」
 それまでとはわずかに違う語調に、気勢がそがれた。
 黙った圭太を見て、彼女は見えない速度で画面を操作し始める。やがて、あとで連絡するからと、それを押しつけ、去って行った。