翌週から新学期が始まった。
 授業に間に合うバスは一本しかなく、乗り遅れたらタクシーだ。
 高校なんて、中に入ればどこも同じだと、深く考えていなかったが、これから三年間、毎朝、時間勝負になるのかと思うと、いささかうんざりした。
 バスは定刻から五分遅れでやってきた。乗客は三人だけだったが、景色が山あいから住宅街に変わるあたりから、ぽつりぽつりと人が増え始める。大月駅近くになった頃には、移動が面倒になる程度には混雑していた。
 高校の最寄りの停留所がアナウンスされたとき、圭太の肩に誰かの手が触れ、ぎょっとした。
 知り合いは一人もいない。見上げると、同じブレザーを着た背の高い男子が、白い歯を見せて圭太を見下ろしていた。
「おい、次だぞ」
 以前からの知り合いのような口調だ。中学時代の同級生を必死に思い浮かべていると、相手はさらに続けた。
「同じ新入生だろ。よろしくなっ」
「ああ……。そうだな」
 バスを降りると、彼は右手を差し出した。
「俺はオチイだ。よろしくっ」
 前日に続き、また漢字のわからない単語だ。
 語彙力に不安を感じながら、そっと手を握り返したが、幸いそちらはすぐに明らかになった。中庭の掲示板に、落居光成(おちいみつなり)と書かれていたのだ。
「同じクラスじゃないか。ますますよろしくっ」
 彼は片手を上げ、今度は手のひらを圭太に向けた。
 ハイタッチを強要される状況に遭遇したのは人生で初めてだ。知り合ったばかりの同級生に、恥をかかせるわけにもいかず、やむなく応じたが、意味なくテンションが高い状態の人間は苦手だった。
 高校は、目立つことなく三年が通り過ぎてくれれば、それ以上望むことはないというのに。
 最初のホームルーム。担任からの事務連絡と、自己紹介に続いて、落居はクラス委員に立候補した。
 高校生にもなって、そんな面倒な役職に就きたがる人間が他にいるはずもなく、簡単に当選する。
 初日はそれだけで終了だ。昼前には解散になる。
 帰り支度をしていると、新クラス委員が近づいてきた。
「部活巡り、行くだろ?」
 なれなれしい態度は、傍から見れば、旧知の仲に見えるのではないか。
「いや、僕は……」
「俺、こう見えて文化系の予定だぜ」
 なるほど、こう見えて、の使い方は間違ってはいないか。
 背が高いだけでなく、肩幅もそれなりにある。バスケ部あたりから勧誘されても不思議じゃない。
 ただ髪は長めで、運動部の規律に従える雰囲気ではなさそうだ。将来ストリートダンサーにでもなればきっと成功するだろう。
 その誘いをどう断ろうか、思索にふけっていると、斜めうしろから別の声がした。
「委員長、担任が呼んでるわよ」
 首だけ振り返ると、濃紺の縁取りで、大きめの眼鏡をかけた女子が、すぐそばに立っていた。
 髪を肩くらいまで伸ばした、知的というよりは、大人びた感じが強調された印象で、腰に手を当て、にこりともしないで落居をにらんでいる。
「いきなりクラス委員としての初仕事?まいったなあ」
「何がそんなにうれしいのよ。さっさと行ったら?」
「部活、入る前に教えてくれよ」
 落居は、突き放したような口調を特に気にする様子もなく、明るくそう言い残して去って行った。
 毅然というよりは、やや尊大な態度の理由を推測しながら彼女に見入っていると、相手は慌てたように視線をそらせた。
「もしかして、早速口説くつもり?今のところ、同年代の男子と付き合う気はないんだけど――」
 これまでの人生経験からは、予測できない発言だった。
「えー……と。落居とは中学が一緒だったとか?」
「ああ、落居って言うんだ。挨拶のとき、光成のほうしか聞き取れなかったから。名前も態度も自己主張が激しいわね」
「まあ、確かに。てことは、初対面なんだ」
「もちろん。正確には朝、バス停であなたと話しているのを見かけたのが最初だけどね」
 であれば、がさつな性格ということか。元気な人間もだが、他人の領域にためらうことなく侵入してくる相手も、できれば遠慮したい。
 叔母と会って以降、立て続けに個性的な人間に引き合わされているのは、何かの罰だろうか。
「それで……っと、長坂くんは部活どこかに入るの?」
 頬を少しだけ染め、だが、以前からの知り合いのようにそう言った彼女の発言に、自己紹介をただの通過儀礼だと認識していた圭太の考えを、咎められているように感じた。
「僕は特に部活をするつもりはないんだ。君は――ごめん、名前、聞きそびれて」
十島千紘(とおしまちひろ)よ。同じく帰宅組。両親が離婚してて、家事は全部あたしがしなくちゃならないんだ」
 それから彼女は、喋る速度を一段上げ、圭太がどこから通っているのか、出身中学はどこかといった身の上について、出口調査のアンケートのように間断なく尋ね、すべての回答を集めると、そこまでが今日の目標だったと言わんばかりに、さっさと教室をあとにした。
 気づくと、教室からは人がほとんどいなくなっていた。
 わけもなく焦燥感が込み上げる。
 慌てて校舎を出ると、上級生たちが二列になり、部活案内を配っていた。
 あちこちから勧誘を受けたが、どうせ社交辞令だろうと斜に構えてしまう性格は、いつか改善するだろうか。
 バスに乗り、ようやく一息ついたが、近隣に一つしかないコンビニが、はるか後方に遠ざかった頃、昼を買い忘れたことに気づいた。
 家賃に含まれているのは、朝と夕食だけだ。
 家に着いたとき、自転車が装備されていないことを目にして、愕然とす。
 昼を抜くか、徒歩で戻るか。
「ただいま」
 悩みながら勝手口を開けたが返事がない。中は、無人の家で感じる、どこか気圧の高い気配だ。
 ダイニングへと進んで、すぐに匂いに気づき、続いて机に書き置きを見つけた。
「二、三日留守にします。夜はカレーを食べて下さい」
 鍋を開けると余熱を感じた。量を調整すれば、日に三食でも、三日はいけそうだ。
 ホッとするのと同時に、出張に出た彼女の仕事に改めて興味がわいた。
 職業を表し、最後に付く「し」の文字は、普通は士か師だろう。つまり、前段の部分が解明には重要となる。
 食事をしながら、携帯で辞書サイトを開いた。
「とりあえず平仮名で、きゅうやく……と」
 もしかして旧約聖書、と出た。変換候補に休薬も見つかる。
 後者は、例えば、ステロイドの継続利用を避けるために投薬を一時中断することなど、とあり、これはおそらく違うだろう。
「最初のなら教会関連か。つまり、牧師……?」
 告解室で、信者の相談を受ける詩乃の姿が思い浮かんだ。あの憂き世離れした性格だ。人気になりそうではあるが――現実味という意味では弱いような。
 それに、もしそうなら、聖職者と名乗ればいいだけだ。
 辞書にない以上、これまでにはなかった分野ということになる。
 本人が名乗るだけで、新たな職業が拓かれる多様性の時代とはいえ、彼女に何か特別な技能があることは想像できなかった。