七月に入った。
誰もが夏休みを意識する、本来であれば浮かれるべき季節だ。
それなのに、最初のロングホームルームの時間、教室は、またしても荒れ模様の気配を呈していた。
文化祭の出し物で、何をレトロ風にするかで議論した結果、女子の意見が採用され、大正時代の喫茶店のメニューを再現することに決まってはいた。合わせて、ウエイトレスに扮する女子は、着物に袴という、大学生が卒業式に着るような衣装を借りると言う。
「服のレンタル代だけで学校からの予算をほとんど使っちゃうとか、頭おかしいだろ」
「仕方ないでしょ。大正時代を再現したらそうなるんだから」
「それに、ケーキの材料費がなんでこんなにかかるんだよ。誰もそんな本格的な物を望んでねえよ。足りない分は俺たちが金を出すんだぞ」
「その分、儲かったらみんなに還元されるんだから。文句ばっかり言ってないで、どうやってお客さんを呼ぶか、ない頭をそっちに使いなさいよっ」
例によって、教壇に立った十島は、議論とはもはや呼べない、男女間の罵り合いを前に、右往左往するだけだ。
殺伐とした空気は、終鈴でいったんリセットされるが、問題解決の糸口が示されるまで、担当者は苦悩をずっと抱え続けることになる。そして、そんな彼女を見る圭太も、当然気が重かった。
「ああ、どうしよう。このままじゃ大変なことになるよ」
昼休みも、ずっと同じ悩み相談を繰り返し聞いているような状態だ。
「別に問題ないだろ。結果じゃなくて、同じ目標に向かって仲間たちで苦労することに価値があるんだ」
「あんたの心は粘土でできてるの?もしこのまま赤字に終わったら、クラスは間違いなく崩壊するわよ」
客寄せ、すなわちマーケティングはどんな業種でも最重要テーマであることは理解していたが、素人の高校生が、効果的な具体案を簡単に出せるはずもない。
「俺は自分の役目はこなしてるけどな。学校の文化祭のサイトに、うちのクラス紹介ページを作ってもらったし」
圭太も一度だけ目にしたことがあった。
女子が二人、例の衣装を着て立つ間に、メニューをはめ込んだだけの、素人感が満載のページだ。
「長坂くんの猫、店長さんとかにできないかな」
「名前、アビーだっけ。ほんと、あり得ないくらいひねりのない名前だよな。でも、長坂が動物飼うなんて、ちょっと意外だったよ」
「癒やされたいから、今度見に行っていい?」
「ダメに決まってるだろ」
「何でOMにダメ出しされなきゃなんないのよ」
実際のところ、もっと手がかかるのかと思っていた。しかし、普段はほとんど寝ているだけだ。起きている時間は、ご飯かトイレ、あるいは外を見ているだけ。圭太が食事をもたらす存在であることは理解しているようで、決してなつくようなことはなかったが、離れることもしない。椅子でPCを開いているときは、出窓かベッドの遠い側にいる。圭太がベッドに横になると、椅子の上か本棚のうしろに黙って移動した。一階にいるときもしかり。彼女はいつの間にか下りてきて、空いている椅子か、部屋の角の決まった場所で丸くなる。
学校に行っている間のことは、もちろんわからないが、詩乃によれば、ほとんど一階に下りることはないらしい。
行動範囲の狭さが心配になり、勝手口に猫用の扉を付けたらどうかと、尋ねたことがあった。
「ダメよ。車とか、他の猫とケンカしたりとか。外は危ないでしょ」
「でも野原を自由に歩くのが動物だし、家の中に閉じ込めておくのって不自然じゃないんですか?」
「圭太さんの言う自然な状態は、今の世の中には存在しないわ。猫にとって何が幸せか、簡単に決めることなんてできないのよ」
普段、真面目なことをあまり言わない叔母に、珍しく説き伏せられた。
さすがに猫に関しては彼女の意見に逆らうような真似はできない。
そして、アビーを初めて連れ帰ったときの言葉に違わず、彼女は猫を可愛がるどころか、近づこうとさえしなかった。
大崎のフォトグラファーに放った言葉をはっきり覚えている。治療にいくらかかっても私なら払う、そんなことを毅然と述べていたはずだ。
「猫は好きなんですよね?」
「そうね、好きよ」
「だったら――」
「ね、そんなことより、お仕事の依頼が来たの。また送ってくれるかしら」
深い人間関係など不要だ。生きていくために必要なのは経済的な余裕で、ネットさえあれば、知りたい情報にはすぐにたどり着ける。
そんなこれまでの価値観が、高校に入学以降、ずっと否定され続けている気がする。
誰もが夏休みを意識する、本来であれば浮かれるべき季節だ。
それなのに、最初のロングホームルームの時間、教室は、またしても荒れ模様の気配を呈していた。
文化祭の出し物で、何をレトロ風にするかで議論した結果、女子の意見が採用され、大正時代の喫茶店のメニューを再現することに決まってはいた。合わせて、ウエイトレスに扮する女子は、着物に袴という、大学生が卒業式に着るような衣装を借りると言う。
「服のレンタル代だけで学校からの予算をほとんど使っちゃうとか、頭おかしいだろ」
「仕方ないでしょ。大正時代を再現したらそうなるんだから」
「それに、ケーキの材料費がなんでこんなにかかるんだよ。誰もそんな本格的な物を望んでねえよ。足りない分は俺たちが金を出すんだぞ」
「その分、儲かったらみんなに還元されるんだから。文句ばっかり言ってないで、どうやってお客さんを呼ぶか、ない頭をそっちに使いなさいよっ」
例によって、教壇に立った十島は、議論とはもはや呼べない、男女間の罵り合いを前に、右往左往するだけだ。
殺伐とした空気は、終鈴でいったんリセットされるが、問題解決の糸口が示されるまで、担当者は苦悩をずっと抱え続けることになる。そして、そんな彼女を見る圭太も、当然気が重かった。
「ああ、どうしよう。このままじゃ大変なことになるよ」
昼休みも、ずっと同じ悩み相談を繰り返し聞いているような状態だ。
「別に問題ないだろ。結果じゃなくて、同じ目標に向かって仲間たちで苦労することに価値があるんだ」
「あんたの心は粘土でできてるの?もしこのまま赤字に終わったら、クラスは間違いなく崩壊するわよ」
客寄せ、すなわちマーケティングはどんな業種でも最重要テーマであることは理解していたが、素人の高校生が、効果的な具体案を簡単に出せるはずもない。
「俺は自分の役目はこなしてるけどな。学校の文化祭のサイトに、うちのクラス紹介ページを作ってもらったし」
圭太も一度だけ目にしたことがあった。
女子が二人、例の衣装を着て立つ間に、メニューをはめ込んだだけの、素人感が満載のページだ。
「長坂くんの猫、店長さんとかにできないかな」
「名前、アビーだっけ。ほんと、あり得ないくらいひねりのない名前だよな。でも、長坂が動物飼うなんて、ちょっと意外だったよ」
「癒やされたいから、今度見に行っていい?」
「ダメに決まってるだろ」
「何でOMにダメ出しされなきゃなんないのよ」
実際のところ、もっと手がかかるのかと思っていた。しかし、普段はほとんど寝ているだけだ。起きている時間は、ご飯かトイレ、あるいは外を見ているだけ。圭太が食事をもたらす存在であることは理解しているようで、決してなつくようなことはなかったが、離れることもしない。椅子でPCを開いているときは、出窓かベッドの遠い側にいる。圭太がベッドに横になると、椅子の上か本棚のうしろに黙って移動した。一階にいるときもしかり。彼女はいつの間にか下りてきて、空いている椅子か、部屋の角の決まった場所で丸くなる。
学校に行っている間のことは、もちろんわからないが、詩乃によれば、ほとんど一階に下りることはないらしい。
行動範囲の狭さが心配になり、勝手口に猫用の扉を付けたらどうかと、尋ねたことがあった。
「ダメよ。車とか、他の猫とケンカしたりとか。外は危ないでしょ」
「でも野原を自由に歩くのが動物だし、家の中に閉じ込めておくのって不自然じゃないんですか?」
「圭太さんの言う自然な状態は、今の世の中には存在しないわ。猫にとって何が幸せか、簡単に決めることなんてできないのよ」
普段、真面目なことをあまり言わない叔母に、珍しく説き伏せられた。
さすがに猫に関しては彼女の意見に逆らうような真似はできない。
そして、アビーを初めて連れ帰ったときの言葉に違わず、彼女は猫を可愛がるどころか、近づこうとさえしなかった。
大崎のフォトグラファーに放った言葉をはっきり覚えている。治療にいくらかかっても私なら払う、そんなことを毅然と述べていたはずだ。
「猫は好きなんですよね?」
「そうね、好きよ」
「だったら――」
「ね、そんなことより、お仕事の依頼が来たの。また送ってくれるかしら」
深い人間関係など不要だ。生きていくために必要なのは経済的な余裕で、ネットさえあれば、知りたい情報にはすぐにたどり着ける。
そんなこれまでの価値観が、高校に入学以降、ずっと否定され続けている気がする。