ドライバーとしての初仕事がおとずれたのは、三日後だ。
 住所が横浜とは聞いていたが、詳細を知らされたのは当日の朝だった。
「テレビ局、ですか?」
「そうなの。どうしよう、私、おかしくないかしら」
 玄関の姿見の前で、彼女はくるりと反転する。
「叔母さんは出演するわけじゃないんですよね?」
「当たり前でしょう」
 楽しそうに笑い、圭太の背中を叩きながら、ヘルメットを手にした。
 すでに一人では何時間も走ってはいたが、念のため、低速で走行する。
 しばらくは必要以上に怖がっていた彼女だったが、相模湖のあたりまで進んだ頃には、「風が気持ちいいわね」だとか、「ドラマの主人公になったみたい」と、タンデムを楽しむ余裕を見せるようになった。
 最初の送迎任務の目的地で目にしたのは、撮影スタジオだった。
 ゲートの前、詩乃が担当者を呼び出したが、相手がやってきたのは、それから十分以上経ってからだ。
「どうもです、早かったっすね」
 遅くなってすみません、という言葉が最初にあるのだと疑っていなかったが、三十前後だろうか、襟にほつれの見えるポロシャツにジーンズ姿の女性は、そんな概念がないかのように振る舞う。
「こっちです。中は走行禁止なんで、バイクは押してもらっていいっすか。あ、自分、第二ADです。よろしくです」
 詩乃は、テレビ関係の施設にいるというだけで、普段以上に気が回っていないようだが、ぞんざいな扱いに、あまりいい気がしない。
 建物に入り、エキストラ控え室という、手書きの紙が貼られた一室に通された。
 中に人はおらず、正面の壁は一面が鏡張りだ。大きなテーブルが中央に一つあって、猫はその上のケージにいた。平凡な柄の成猫のようだ。
 しばらくして外が騒がしくなり、中年の、いかにもテレビマンという風情の男が、さっきの女性を従え荒々しく扉を開けて入ってきた。
「ああ、お疲れさまです。わざわざすみませんね。早速なんですが、こいつなんです」
 テーブルをばんと叩いたが、猫はピクリとも動かない。
「九月スタートのドラマで使ってるんですよ。主人公の家で飼ってる猫っていう設定でして。でも三話ほど撮ったところで、調子悪くしちゃって。借り物なんで、慌てて病院に行きましてねえ。薬を渡されたんですけど、全然飲まなくて。やる気あんのかって話ですよ、まったく」
 がははと耳障りな笑い声を上げた。
「それで、すぐ代わりの猫を準備させたんですけど、主人公の家の子役さんが、これじゃなきゃ嫌だって。情が移ったっていうんですか?多感な年頃ですから」
 そう言って、また大口を開ける。
 忍耐強く待っていた詩乃は、話が途切れたところを見計らい、声を発した。
「事情はわかりました。こちらがお見積りになります。お薬を見せていただけますか?」
 男が振り返ると、ADの女性は腰のポーチから素早く紙袋を取り出し、詩乃に手渡した。
「日に二回ですね。日数はどうされますか?」
「じゃあ治るまでってことでどうですか?」
「了解しました。こちらはオフィスが遠方ですので、宿泊させていただきますが、問題ないでしょうか」
「ああ、全然問題ないですよ。なんだったら、私のマンションでも。今ちょうど別居中なんで」
 そう言って、これまでの最大音量で笑った。
 二人が部屋から出るのを待って、詩乃は圭太に振り返った。
「今日は本当にありがとう。乗り換えもなくてすごく楽だったわ。またお願いしてもいいかしら」
「もちろんです。とりあえずは帰る日が決まったら教えて下さい。迎えに来ますから」
「いいわよ、そんなの。帰るくらいは自分でできるから。それに、ほら……今回は安心でしょう?」
「いえ、気にしないで下さい。買ったばかりで乗る理由がほしいんです」
 心にもない言葉が口をつき、圭太自身が驚いた。
 確かにバイクは快適で、移動時間も短くて楽ではある。
 それでも、車のうしろは排気ガスが気になるし、周囲の不注意で事故に巻き込まれる可能性は絶対になくならない。リスク管理という意味では、不要不急以外で使わないのが理想だろう。
 彼女がそれに応えて、何かを言おうとしたとき、扉がノックされ、続けて「失礼します」と声がして、高校生くらいの少女が入ってきた。
 目が大きく、背中まで落ちる明るく長い髪の一部を編み込んでいる。
 彼女は圭太を見て一瞬表情を硬くしたが、すぐに詩乃に向き直って頭を下げた。
「この子、大丈夫でしょうか。わたしも薬を飲ませようとしたんですけど、全然言うこと聞いてくれなくて」
「大丈夫です。私、それしか取り柄がないですから」
 そう答えた叔母の声調は、それまでより一段高く、なぜか頬を上気させていた。
 もしかして、有名な俳優なのだろうか。白いシャツに肩紐のついた長いスカートで、清楚に見えるが、芯の強そうな雰囲気を隠せていない。一般的には美少女という分類になるのだろう。
 細い腕は簡単に折れそうだなとぼんやり見ていると、いつの間にか彼女は圭太の前に立っていた。
「あなたは何なの?」
 初対面のはずなのになぜか刺々しい物言い。
「何って、助手だけど。君はテレビ関係の人?」
「は?まさか、わたしのこと知らないの?信じられない。『女住職、せみ丸』っていう映画で助演してるんですけど?」
「映画は……ごめん、興味がないんだ。じゃあ、さっきの男の人が言ってた子役って君のことか」
「男の人って、もしかしてエロプロデューサー?わたしのこと、何て言ってた?」
「代わりの猫を探そうとしたら、君が反対したって」
「当たり前のことだと思うわ。撮影の途中で変わったら、おかしいじゃない」
「よくわからないけど、それまでの猫の場面をカットするとかじゃダメなのか?それか、似たような柄の猫はいくらでもいるだろうから――」
「かわいそうな人ね。生き物を飼ったことがないんでしょ」
 初対面にもかかわらず、いつまでたっても攻撃的な態度に、さすがに苛立ちが抑えきれなくなる。
「申し訳ないけど、今、子猫を飼ってる」
 思わず強い口調になってしまったが、相手はまるで怯むことがなかった。
「あなたみたいな人間に飼われるなんて、気の毒ね。わたし、もう行くわ。撮影があるから」
 肩の髪を払う仕草をすると、口を尖らせたまま、部屋を出て行った。
 一人残され、感情の持って行き場がない。取り乱したことと、その様子を詩乃に見られていた事実に、居心地が悪くなる。
 視線の端で様子を窺うと、彼女は口元を押さえて、含み笑いをしていた。
「可愛いわねえ。まさか芦川凛音(あしかわりんね)ちゃんとお話できるなんて思わなかったわ。写真、撮らせてもらえば良かった」
「可愛いって、どこがですか?性格悪すぎますよ」
 テレビに出ているというだけで、上から目線だ。さらには、それを咎めようともしない叔母の態度にも納得できなかった。
「それじゃ、帰ります」
 交通事故の最大の要因は、ドライバーの苛立ちだと聞いたことがある。
 気を鎮める努力をしながら、駐輪場に向かっていると、行く手に、数人が集まっているのが見えた。衆目の先にあったのは、圭太のバイクだ。
「プロデューサー、あの子っす」
 最初に案内してくれたADの女性が、エロプロデューサーに声をかけた。
「ああ、獣医さんの付き添いだったっけ。このバイク、ちょっと借りていい?」
「え。借りるって。これから帰るところなんですけど」
「ほんのちょっとだけだから。ね、頼むよ。撮影に使いたいんだ。このレトロな感じがイメージにぴったりだって、監督がさ」
「困ります。このあと行くところがあって」
 今日は日曜だ。もとより予定なんてない。
 ただ、撮影だと言えば何でも許されるという、連中の傲慢さが気に入らなかった。
「もちろんレンタル料、払うよ。今日一日、一万円でどう?」
 次に準備していた文句が喉で止まった。
 ここから家まで、電車なら往復でも三千円しないだろう。差額は七千円。バイクにかけた経費の一部を回収できることになる。
「まあ、そういうことでしたら――」
 そこまで口にしたところで、真後ろから声がして、思わず飛び上がりそうになった。
「情けないわね。性根が腐ってるんじゃないの?お金で懐柔されるなんて」
 距離が近かったから、だけじゃない。圭太自身が、きっと心のどこかで同じことを思っていたのだ。
「意味わからないけど。頼んできたのはそっち側だろ。だいたい、このやり取りに君は無関係じゃないか。文句言われる筋合いじゃないと思うけど」
「君じゃなくて、芦川よ。あなた、高校生でしょう?バイク乗ってるくらいなんだから。同年代として、生き方を指南してあげてるのよ。大人になったら親も叱ってくれなくなるわ」
 それがスイッチだったことは圭太にもわかった。
 彼女は何も知らない。ただの子供が、大人ぶっているだけなのだ。
 だが、脳の指令は手には伝わらなかった。これまでの不快感が蓄積されていたことも理由だと思う。
「さっきから偉そうなんだよ」
 気づいたときには、相手の肩を強く押していた。
「最っ低。女の子に手を出すなんて。バカじゃないの、死ねばいいのに」
 彼女はうしろに数歩よろけただけだったが、顔を真っ赤にしてそう叫ぶと、建物のほうへと走り去った。
 周囲の大人たちのため息が聞こえて、頭から血の気が引いた。しでかした失態に気づく。
「こりゃ機嫌直るのに時間かかりそうだな。今日の撮り順、変えるしかないか」
 直接、文句を言われたわけではなかったが、彼らに不利益を与えたことは間違いなさそうだ。
 気まずさが全開になり、エロプロデューサーにバイクの鍵を渡して、逃げるようにその場を離れた。
 横浜線に乗る頃には、どうにか平静を取り戻した。
 ドアに背中を預けて、映画を検索する。
「名前はアレだけど意外におもしろい」「凛音ちゃん、マジ天使」「主演を食っちゃってるよ」
 主人公の幼少時代を彼女が演じていたようで、意外にも評判は悪くない。
「才能と人間性は別物ってことか」
 一人、強がってはみたが、人前で感情をあらわにしてしまった事実をなかったことにはできない。
 恥ずかしさが後悔に変わり、過去に原因を追求していた。
 英語なんてできません、と断れば良かった。
 ボールペンなんかどれでもいいじゃないですか、と説得することはできたはずだ。
 バイクに至っては、買う必要などまるでなかった。
 どの道も進むことができて、今この状況は圭太自身の選択の結果だったのだ。