土曜日、学校前で待ち合わせだ。
 そこからバスで大月に出る。
 着いた店は、国道沿いによく見かける、バイクが歩道まであふれ、奥が暗くてよく見えず、古びた看板の文字が読めないような、そんなありふれたところだった。
「兄貴、来たぞ」
 彼が声をかけたのは、茶髪で小柄な痩せた男だった。つなぎの作業着は油に汚れていて、横顔に見える目つきは鋭い。不良あがりなんだろうと、ひそかに判断した。
 事前に連絡されていたはずだが、弟の前で椅子に座っていた彼は、圭太を一瞥しただけで、挨拶するどころか、表情も変えずに整備をしている。
「相変わらず愛想が悪いな。あ、こんちは。落居の弟です」
 薄暗い店内の奥、雑誌や書類が散乱している机のそばに座っていたのは、髪のだいぶ薄くなった、店主らしき初老の男だ。
「いらっしゃい。今日は何の用?」
「友達が原付二種買いたいってんで、勉強させてもらおうと思って」
「ああ、そう。ゆっくり見ていって」
 彼はそう言ったあと、うしろのスチールラック並んでいた書類の中から、何かを取り出し、圭太に差し出した。
「これ、とりあえずホンダのカタログ。ちょっと古いけどラインナップは変わってないから。もう免許は取ったの?」
「いえ、まだこれからです」
「マニュアル?オートマ?」
「オートマで十分かなって思ってますけど――」
「それはダメだろ」
 背中から声がした。
 振り返ると、落居の兄が、それまでと同じ姿勢のまま作業を続けていた。
「免許取るのに一万かそこらしか変わんないのに、選べる車が半減するんだぞ。悪いこと言わない、普通のやつ取っとけ」
 手にしていた部品に向かって話しかけているのかと思ったが、内容は圭太向けのようだ。
「わかりました。そうします」
 手渡された冊子に目を通すが、どれも同じに見える。
 圭太に必要な条件は一つしかない。二人乗りができることで、このクラスのバイクを買えば必然的にそれが可能であることは知っていた。
 制約が無さすぎると、逆に選ぶのに一苦労だ。
「何か、買いたいのあるの?」
 従業員と違って、店主は人が好さそうだ。
「そうですね、強いて言えば燃費がいいのかな」
 そう言うと、またしてもうしろから声がした。
「燃費なんて基準にしたら、この世のバイクは全部カブになっちまうぞ。悪いたって三十やそこらは走るんだ。そんな親父くさいこと言ってないで、気に入ったデザインのやつを買ったほうがいい」
「オークションとかで買っても大丈夫なんですか?」
 今度は最初から兄に向かって質問すると、ようやく手を止め、真っ直ぐ圭太を見た。
「やめたほうがいい。素人が事故車かどうか判断できないだろ。これから命を預けるんだから、そんなところケチってどうする」
 彼はやれやれという体で腰を上げ、圭太の横を通り過ぎる。うしろの棚の前に立つと、迷うことなくクリアファイルを一つ抜き出し、ぐいと圭太に押しつけた。
「そんなに遠くない店の良さそうなやつ、印刷しておいたから」
「だったら最初から出してくれればいいだろ。何、格好つけてんだよ」
「うるせえんだよ」
 男兄弟とは、こうあるべきだという、見本のような掛け合いのあと、仕事に戻っていった。
 渡された資料には、なるほど、比較的新しいものから、年代物とおぼしきものまで、見た目の異なるバイクが何種類か選ばれている。
 その中の一つで手が止まった。
「あ、いいんじゃない。ベスパなら」
「ベスパ?どこのメーカー?」
「ベスパは……ベスパだよな、兄貴」
「ピアッジオ」
「だってさ。フランスのメーカーだよ」
「イタリアだっ」
 とりあえず、弟を頼るのはやめたほうが良さそうだ。
「ベスパってPX125だっけ。それはおすすめだ。値段はちょっと高めだけど、その店は信用できる」
「長坂、こんな金額払えるのか?免許だってこれから取るんだろ?それとも叔母さんが買ってくれるとか?」
「いや、買うとしたらローンだから。でも……この値段なら国産で新車が買えるんじゃないですか?」
「買ったバイクを壊れるまで乗り続けるならそれでもいいけどさ。でもいつか売るときがくるだろ。そのとき、今言ったみたいな安いバイク、買い手がつくと思うか?」
「なるほど、希少性の問題ですね。あと、一つ気になっているんですけど……。他のお店から買ってもいいんでしょうか?この店もバイク売ってるんですよね?」
「見ての通り、うちは中型と原付しか置いてないから、気にするな」
 不良は義理人情に厚いというのは、どうやら本当のようだ。
 いくつか技術的な質問をして、店をあとにした。
「そういえば、お兄さんの名前は何ていうんだ?」
景克(かげかつ)だよ」
「武将ばっかりだな」
「母親が戦国フェチなんだ。これ、十島には言うなよ」
 二人の間にある、深い溝の影響で、圭太の中の秘密が、制御できない量になってきた気がする。