マンションを出て、タクシーでホテルへと向かう。さすがにこの状態では電車には乗れない。
案内されたクロークで待つ間、周囲の人間の目が圭太の紙袋に集まった。
やがて、慇懃な態度のコンシェルジュから差し出された、ウエスタンの名入り封筒の中にあったのは、事務所などに転がっていそうな、安っぽいパイロットの青色ボールペンだった。
これに六十万も払ったのかと思うと、頭がおかしくなりそうだ。
車止めに待たせておいたタクシーに再び乗り込んだときには、破れかぶれの心境だった。
「大月までお願いします」
最終目的地を告げると、運転手はあからさまに愛想が良くなった。
「あっちに有名な動物病院でもあるんですか?」
「そんなところです」
どうにかおとなしくさせようと、袋の中に手を入れ、撫でたりしてみたが、結局、最後まで啼き止むことはなかった。
帰宅すると詩乃は目を丸くした。
「こっちが、ボールペンです。間違いないですか?」
「ありがとう、ええ、これだわ。でも圭太さん、そっちは……」
「あいつ、今回のためだけに買ったみたいです。本当にクズなんです」
「そう、だったの……」
紙袋からそっと取り出し、彼女の手に預ける。
着替えるために、二階に向かおうとした圭太の肩に手がかかった。
「待って。わたしは無理なの。猫は飼えないの」
どこか不安そうな、申し訳なさそうな、そんな声調だった。
「獣医にもできない給薬を生業としてるんですよね。まさか猫が嫌いなんてことは――」
言わせないぞ。
語尾に、にゃをつけてる段階で、絶対に。
「そうじゃないの。でも、無理なんです」
詩乃の腕に抱かれてから、猫はずっと目を閉じてグルグルと大きな呼吸音を出している。素人目にも、心を許しているのが明らかだ。
「無理って。だったら、あいつのところに返したほうがいいってことですかっ?」
思わず強い語調になってしまった。
正直、予定外の行動だったのは確かだ。ただ、あのまま男の元に置いていくことはできなかった。聖人ぶるつもりはなかったが、最低限の倫理観に抵触したのだ。
「もちろん、それは違うわ。圭太さんの決断は称賛されるべきです。でも……でも、どうしても無理なんです。私には」
「そうなんですね。わかりました。じゃあ明日、保健所に持って行きますから」
「そんな……」
「それがダメなら、野生に戻しますか?」
相手を傷つけているのだと、途中からわかっていた。
だが、きっと詩乃は喜ぶだろうと思っていた。
違う。褒めてもらえるのだと、そんな期待があったのだ。
それが完全に否定され、感情を抑えることができない。
むき出しの感情は、ただの凶器だった。
叔母は顔を伏せ、ごめんなさいと絞り出すように言って嗚咽をもらした。
涙が、薄茶色の猫の毛の上にぽたりと落ちる。
他人を泣かせた経験など、これまでになかった。想定外の反応に、罪悪感と区別のできない焦燥感が、瞬く間に胸に広がっていく。
続けて口をついたのは、脳の中で承認された内容ではなかった。
「あの、だったらこういうのはどうですか。とりあえず、僕の部屋で飼うっていうのは――」
言葉が終わるより早く、詩乃は顔を上げた。
まだ涙を目にためていたが、にっこり微笑み、圭太のそばに駆け寄ってきた。
猫をそっと床に置き、背中に手を回して抱き寄せる。
「すごくうれしいわ。圭太さんが自分からそう言ってくれて」
何だ、この素早い反応は。まさか今まで演技だったのか?
「でも、部屋に置いておくってだけで世話は――」
「大丈夫よ。学校に行ってる間くらいは、きっと大人しくしてるから。部活もしてないから帰りも早いでしょう?」
「あの、でもトイレとか――」
「今は人間のトイレに流せる砂もあるの。二階の廊下の突き当たりにでも置けばちょうどいいんじゃないかしら」
いったいどういうつもりだ。まさか、全部の世話を押しつけるつもりなのか?
あり得ない。今日計算したばかりだ。十年生きるとして、百人日以上の労働になるというのに。
「きちんとお世話すれば、きっと二十歳くらいまでは生きると思うわ。今はご飯も良い物がたくさんあるから」
一瞬、気を失いかけた。
二十年後、圭太は三十六歳。中年だ。
「あの、やっぱり僕には荷が――」
「圭太さんを尊敬するわ。ううん、誇りに思う」
わざとなのか。
普段、天然のように振る舞っているのは、すべて見せかけである気がしてきた。
彼女は猫を甥に押しつけ、居間の扉を開ける。そばにあった折り込み広告の裏に、たった今、取り返したばかりのボールペンを走らせた。
書き終えると、慎重に見直し、満足そうに圭太に手渡した。
「当面必要な物よ。ペットショップに行けば、全部揃うから」
背中を押され、無理やり二階へ押し出された。
部屋に戻り、床に放すと、猫はすぐさま探索を始めた。一歩ごとに匂いを嗅ぎ、満足するとまた進む。八畳ほどの部屋だったが、隅から隅まで確認するのに二十分は要しただろうか。
椅子に座り、その行動を見ながら、どこで間違ったのかを考えた。
生まれて初めて、良心なる機能を発動した。あの状況を看過することは、人の道に外れるという結論だったからだ。
「いや、この場合は猫の道か」
まさか詩乃が拒否するなんて思わなかった。
無理と話していたが、いったい何が無理なんだ。
この先、二十年と口にしていた。そんな長期間、束縛されるのかと思うと、頭が爆発しそうだ。
小考して、すぐにある解決策を思いつき、急いで携帯を取り出した。
猫の里親、という名称でたくさんのサイトが見つかる。
「子猫で病気がなければ引き取り手はすぐに現れるのか。しかもこの品種は、そこそこ人気みたいだ」
とりあえず獣医に連れて行こう。まずはそこからだ。
ベッドに腰かけたとき、彼女が弱々しい泣き声を出した。移動中に全力を出し切ったのか、口は開いているが、はっきりとした声にならない。
そして、さっきまでとは違い、部屋の中をせわしなく歩き回り始めた。
「もう調査は終わったのか」
猫はちらりと圭太を見て、それから床に投げ出してあったトートバッグの上に移動する。
引っ掻くような動作を数回したあと、小さな両手と両足を踏ん張ったように見えた。
十秒ほどして、バッグから逃げるように離れ、今度は本棚に向かうと、本とうしろの壁のわずかな隙間に身を隠して、それっきり出てこなくなった。
信用されていない気がして、軽く憤慨したとき、何かの臭いが鼻をついた。
嗅いだことのない異臭だ。
出元を確かめようとして、すぐに認識した。
バッグが濡れていたのだ。
慌てて詩乃から受け取った広告を見る。
最初の行に、トイレ、とあった。
電子機器を中に入れていなかったのが不幸中の幸いだった。
苛立ちながら、階段を下りる。
「すみません、叔母さん――」
「これ、作っておいたわ。何日かは大丈夫だと思うけど、ちゃんとしたものを買ってね」
彼女は、浅い段ボールの中に、刻んだ新聞紙を敷いたものを、笑顔で差し出した。
「すでに、バッグにされちゃったんですけど」
文句を言ったつもりだったが、相手の返事に耳を疑った。
彼女とは一生わかりあえない気がした。
「まあ、可愛い」
そう言ったからだ。
「あの、本当に無理なんですか?そんなに猫が好きなら――」
「圭太さん。男の子が一度引き受けたことをなしにするつもりなの?」
わけのわからない、身勝手な論理を振りかざされた。ジェンダー的に、今の発言はいかがなものか、とも考えたが、反論する気にはならなかった。
部屋に戻り、本棚の横からそっと覗くと、彼女は目を閉じて窮屈そうに横たわっていた。死んでいるのかと思ったが、腹が小刻みに上下していた。
机に向かい、エクセルを起動する。
時計代――。これは無関係か。タクシー代。これは猫がいなければ不要な出費だった。項目と金額を記入する。
続けて、詩乃のリストを転記して、猫経費という名のファイルが、デスクトップに保存された。
もう一度、本棚に振り返る。いつの間に体勢を変えたのか、後ろ足の先端が二つ見えた。
しばらく考えたあと、ファイルを削除して、ノートPCを閉じた。
案内されたクロークで待つ間、周囲の人間の目が圭太の紙袋に集まった。
やがて、慇懃な態度のコンシェルジュから差し出された、ウエスタンの名入り封筒の中にあったのは、事務所などに転がっていそうな、安っぽいパイロットの青色ボールペンだった。
これに六十万も払ったのかと思うと、頭がおかしくなりそうだ。
車止めに待たせておいたタクシーに再び乗り込んだときには、破れかぶれの心境だった。
「大月までお願いします」
最終目的地を告げると、運転手はあからさまに愛想が良くなった。
「あっちに有名な動物病院でもあるんですか?」
「そんなところです」
どうにかおとなしくさせようと、袋の中に手を入れ、撫でたりしてみたが、結局、最後まで啼き止むことはなかった。
帰宅すると詩乃は目を丸くした。
「こっちが、ボールペンです。間違いないですか?」
「ありがとう、ええ、これだわ。でも圭太さん、そっちは……」
「あいつ、今回のためだけに買ったみたいです。本当にクズなんです」
「そう、だったの……」
紙袋からそっと取り出し、彼女の手に預ける。
着替えるために、二階に向かおうとした圭太の肩に手がかかった。
「待って。わたしは無理なの。猫は飼えないの」
どこか不安そうな、申し訳なさそうな、そんな声調だった。
「獣医にもできない給薬を生業としてるんですよね。まさか猫が嫌いなんてことは――」
言わせないぞ。
語尾に、にゃをつけてる段階で、絶対に。
「そうじゃないの。でも、無理なんです」
詩乃の腕に抱かれてから、猫はずっと目を閉じてグルグルと大きな呼吸音を出している。素人目にも、心を許しているのが明らかだ。
「無理って。だったら、あいつのところに返したほうがいいってことですかっ?」
思わず強い語調になってしまった。
正直、予定外の行動だったのは確かだ。ただ、あのまま男の元に置いていくことはできなかった。聖人ぶるつもりはなかったが、最低限の倫理観に抵触したのだ。
「もちろん、それは違うわ。圭太さんの決断は称賛されるべきです。でも……でも、どうしても無理なんです。私には」
「そうなんですね。わかりました。じゃあ明日、保健所に持って行きますから」
「そんな……」
「それがダメなら、野生に戻しますか?」
相手を傷つけているのだと、途中からわかっていた。
だが、きっと詩乃は喜ぶだろうと思っていた。
違う。褒めてもらえるのだと、そんな期待があったのだ。
それが完全に否定され、感情を抑えることができない。
むき出しの感情は、ただの凶器だった。
叔母は顔を伏せ、ごめんなさいと絞り出すように言って嗚咽をもらした。
涙が、薄茶色の猫の毛の上にぽたりと落ちる。
他人を泣かせた経験など、これまでになかった。想定外の反応に、罪悪感と区別のできない焦燥感が、瞬く間に胸に広がっていく。
続けて口をついたのは、脳の中で承認された内容ではなかった。
「あの、だったらこういうのはどうですか。とりあえず、僕の部屋で飼うっていうのは――」
言葉が終わるより早く、詩乃は顔を上げた。
まだ涙を目にためていたが、にっこり微笑み、圭太のそばに駆け寄ってきた。
猫をそっと床に置き、背中に手を回して抱き寄せる。
「すごくうれしいわ。圭太さんが自分からそう言ってくれて」
何だ、この素早い反応は。まさか今まで演技だったのか?
「でも、部屋に置いておくってだけで世話は――」
「大丈夫よ。学校に行ってる間くらいは、きっと大人しくしてるから。部活もしてないから帰りも早いでしょう?」
「あの、でもトイレとか――」
「今は人間のトイレに流せる砂もあるの。二階の廊下の突き当たりにでも置けばちょうどいいんじゃないかしら」
いったいどういうつもりだ。まさか、全部の世話を押しつけるつもりなのか?
あり得ない。今日計算したばかりだ。十年生きるとして、百人日以上の労働になるというのに。
「きちんとお世話すれば、きっと二十歳くらいまでは生きると思うわ。今はご飯も良い物がたくさんあるから」
一瞬、気を失いかけた。
二十年後、圭太は三十六歳。中年だ。
「あの、やっぱり僕には荷が――」
「圭太さんを尊敬するわ。ううん、誇りに思う」
わざとなのか。
普段、天然のように振る舞っているのは、すべて見せかけである気がしてきた。
彼女は猫を甥に押しつけ、居間の扉を開ける。そばにあった折り込み広告の裏に、たった今、取り返したばかりのボールペンを走らせた。
書き終えると、慎重に見直し、満足そうに圭太に手渡した。
「当面必要な物よ。ペットショップに行けば、全部揃うから」
背中を押され、無理やり二階へ押し出された。
部屋に戻り、床に放すと、猫はすぐさま探索を始めた。一歩ごとに匂いを嗅ぎ、満足するとまた進む。八畳ほどの部屋だったが、隅から隅まで確認するのに二十分は要しただろうか。
椅子に座り、その行動を見ながら、どこで間違ったのかを考えた。
生まれて初めて、良心なる機能を発動した。あの状況を看過することは、人の道に外れるという結論だったからだ。
「いや、この場合は猫の道か」
まさか詩乃が拒否するなんて思わなかった。
無理と話していたが、いったい何が無理なんだ。
この先、二十年と口にしていた。そんな長期間、束縛されるのかと思うと、頭が爆発しそうだ。
小考して、すぐにある解決策を思いつき、急いで携帯を取り出した。
猫の里親、という名称でたくさんのサイトが見つかる。
「子猫で病気がなければ引き取り手はすぐに現れるのか。しかもこの品種は、そこそこ人気みたいだ」
とりあえず獣医に連れて行こう。まずはそこからだ。
ベッドに腰かけたとき、彼女が弱々しい泣き声を出した。移動中に全力を出し切ったのか、口は開いているが、はっきりとした声にならない。
そして、さっきまでとは違い、部屋の中をせわしなく歩き回り始めた。
「もう調査は終わったのか」
猫はちらりと圭太を見て、それから床に投げ出してあったトートバッグの上に移動する。
引っ掻くような動作を数回したあと、小さな両手と両足を踏ん張ったように見えた。
十秒ほどして、バッグから逃げるように離れ、今度は本棚に向かうと、本とうしろの壁のわずかな隙間に身を隠して、それっきり出てこなくなった。
信用されていない気がして、軽く憤慨したとき、何かの臭いが鼻をついた。
嗅いだことのない異臭だ。
出元を確かめようとして、すぐに認識した。
バッグが濡れていたのだ。
慌てて詩乃から受け取った広告を見る。
最初の行に、トイレ、とあった。
電子機器を中に入れていなかったのが不幸中の幸いだった。
苛立ちながら、階段を下りる。
「すみません、叔母さん――」
「これ、作っておいたわ。何日かは大丈夫だと思うけど、ちゃんとしたものを買ってね」
彼女は、浅い段ボールの中に、刻んだ新聞紙を敷いたものを、笑顔で差し出した。
「すでに、バッグにされちゃったんですけど」
文句を言ったつもりだったが、相手の返事に耳を疑った。
彼女とは一生わかりあえない気がした。
「まあ、可愛い」
そう言ったからだ。
「あの、本当に無理なんですか?そんなに猫が好きなら――」
「圭太さん。男の子が一度引き受けたことをなしにするつもりなの?」
わけのわからない、身勝手な論理を振りかざされた。ジェンダー的に、今の発言はいかがなものか、とも考えたが、反論する気にはならなかった。
部屋に戻り、本棚の横からそっと覗くと、彼女は目を閉じて窮屈そうに横たわっていた。死んでいるのかと思ったが、腹が小刻みに上下していた。
机に向かい、エクセルを起動する。
時計代――。これは無関係か。タクシー代。これは猫がいなければ不要な出費だった。項目と金額を記入する。
続けて、詩乃のリストを転記して、猫経費という名のファイルが、デスクトップに保存された。
もう一度、本棚に振り返る。いつの間に体勢を変えたのか、後ろ足の先端が二つ見えた。
しばらく考えたあと、ファイルを削除して、ノートPCを閉じた。