立川駅で、下りのホームに立つのは新鮮だ。
 学校までは徒歩だったし、電車に乗るのはせいぜい月に一度、それも新宿行きだ。
 生活という意味では、駅周辺ですべて事足りた。祖母がそういう街を選んだからだ。
 そして、そんな彼女が、自分の持ち家だというのに唾棄していた場所に、これから住むことになる。
 目的地に向かう途中で、その理由は察しがついた。
 大月まで一時間以上。新宿からなら二時間近くかかることになる。そこからバスでさらに三十分だ。
 国道を離れたあたりから人けがなくなり、店はもちろん、家もまばらになった。
 早朝から開いていてコスパが高いと、ファミレスのモーニングを好んで食べ、夜はイケアをただ巡り、そのレストランでビールを飲むような人に、確かにこの場所は合わないだろう。
 目的の建物を見つけるのに、時間はかからなかった。
 周囲は田畑と農家が多い場所で、弁護士から聞いていたその外観はすぐに目についた。
 なるほど、祖父や叔母が手放したくないと言った理由も理解できる。
 赤い瓦屋根で洋風な作り。出窓もどこか懐かしさを感じさせる。自然な雑木に囲まれ、それが道路や隣家との境界にもなっている。玄関のそばには水鉢があり、そこへ向かうレンガの石畳の前に、表札と郵便受けのための木製のレトロな門柱。築年数はそれなりに経っていて、建物自体も大きくはなかったが、水彩画にでもすればきっと絵になるに違いない。
 インターフォンを押すと、すぐに扉が開いた。
 姿を見せた叔母は、三十代のはずだが、どうみてもそれよりは若く見えた。
 白とブルーのストライプのブラウスに、ふわりと広がるパステルカラーのフレアスカート。薄いピンクのサンダルを履いていて、あとは麦わら帽子でもかぶれば、ここはプライベートビーチだ。
 少しは母の面影があるのかと想像していたが、服のセンスを含めて、祖母とも母とも似ていなかった。
 彼女は爽やかな笑顔で、腰まであろうかという長い髪を揺らしながら距離を縮めたかと思うと、初対面の相手を強い力で抱きしめた。
 互いの耳と耳が触れ合う。
「遠いところまでよく来てくれたわ。ようこそ、我が甥よ。市ノ瀬詩乃(いちのせしの)です。私のことを母さんだと思ってくれていいのだにゃ」
 彼女の腕の力が緩んだところで一歩下がる。
「あの、初めまして。長坂(ながさか)圭太です。今日からお世話になります」
「まあ、なんて礼儀正しい。圭太さん、中学校のときは女の子から人気があったでしょう?そんなに素敵なんだもの」
「いえ、まさか。背も高くないし、髪とか服装にお金をかけたことなんてありません」
「そんなの関係ないのよ。小顔で顎のラインがしゅっとして。無造作な雰囲気も、どうにかしてあげたいって、女心をくすぐるにゃ」
 にゃをつけると、どんな褒め言葉も効果がなくなることを知った。
 詩乃は甥の手を掴んだまま、くるりと背を向け、元気よく玄関へと進んだ。
 屋内も、外観と調和のとれた内装だ。
 入り口から真っ直ぐ伸びる、よく磨かれた板張りの廊下。彼女はその左手にある、一つ目の扉を開けた。
 入ってすぐ目につくのは、黒っぽい木製のレトロな書棚だ。その正面の壁には、印象派のシルクスクリーンが飾られている。妙に細長い形状の最奥部は、庭へ続く部分が大きめの出窓になっていて、その格子戸から差し込む光が、やや薄暗い部屋の色調を別の空間に変えていた。勧められたソファは、使い込まれた木のフレームに、黒い革の固さが心地良い。
 昭和モダンという言葉があっただろうか。西洋と日本の調和が安心感をもたらす部屋だった。
「あら。今、笑ったかしら?」
「いえ……。その、あまりに、おばあちゃんのイメージと真逆だったので」
 圭太の言葉に、詩乃は小さく笑い、それからほうっと長いため息をついた。
「ここは、元は父の書斎だったの。夫にだけ逃げ場所があったことも、母は気に入らなかったんでしょうね」
 そう言って静かに立ち上がり、出窓に向かう。その先には、葉の繁った雑木が見えた。
「よくこんなところで……って、すみません、おばあちゃんが我慢して住んでましたよね」
「父は、土地を買ったあとで告白したそうよ。どれだけか文句を言われたでしょうね。それでも一応、家長としての顔を立てていたんだと思うわ。自分は働いていなかった負い目もあったんでしょう。圭太さんには、もっと都会が良かったかしら」
「いえ、問題ありません」
 そう返事をしながらひそかに安堵の息をついた。どうやらずっと猫語というわけではなさそうだ。
「もし良かったら……母の最期を教えて下さる?弁護士の方から、すい臓癌だったとは聞いてはいるのですけど」
「おばあちゃんが食堂をしていたのはご存じですか?」
 彼女は驚いた様子で振り返った。
 まともな学校を出ていないことを、社会に出て働いてこなかったことを、よく自嘲していた。それが、新しいことへ取り組もうとする動機にもなっていたのだと思う。
「取り柄は料理くらいだって。それで、知り合いのお店を昼間だけ間借りして始めたんだそうです」
 髪をいつも短くして、男物にも見えるシャツとジーンズ姿で客と雑談するのが楽しそうだった。
「すい臓が悪いことはずっとわかっていたんですけど……。疲れていても仕事を休みたくないって……。結局、入院する前日まで、土日と正月以外、七年間ほとんど店を休まなかったみたいです」
「そう……。母のことだから、お酒も休まなかったんでしょう?」
 無言で頷くと、彼女は目を伏せた。
「圭太さんはいつから一緒に住んでたの?私は、恥ずかしながらそんなことも知らなかったの。亡くなったことすら、火葬のあとに聞かされたくらいだから、どれだけ嫌われてたのよ、って感じね」
 そう言って、悲しそうに口角を上げ、腰を下ろす。二人がけの肘かけに重心を置いてしばらく、「この場所が母のお気に入りだったわ」と、抑揚なく呟いた。
「ああいう人ですから、お見舞いとか、そういう気遣いは不要だと思ったんでしょう。葬式もしていませんし、遺骨も市営の共同墓地です。同居は五年前からです。聞いていると思いますけど、母が失踪しまして」
 すると彼女は驚いた表情に変わる。
「姉さんが、失踪っ?!」
「ええ――。ご存じなかったんですね」
「本当にごめんなさい。旦那さんと死別したことまではかろうじて――。今は出稼ぎにでも行っているんだと、勝手に決めつけてしまっていたわ。家族の中で、父と私は、母と姉から役立たずだって思われてたみたいで、何を決めるにも無視されていたの」
 役立たずという言葉に思わず笑ってしまった。
 それを見た彼女も笑顔になる。
「いやだ、会ったばかりなのに圭太さんもそう思う?」
「いえ、そんなことは。ただ、あの二人と、叔母さんの性格がまるで違うことだけはわかります」
「勘当同然の扱いだったの。父が亡くなったとき、家を売ると言った母に逆らったのが、よほど気に入らなかったんだと思うわ」
 祖母の考えは手に取るようにわかった。
 建物は悪くないが、いかんせん、交通の便が悪すぎる。少し離れたところに温泉があるらしく、別荘としての価値が多少ある程度か。
「そういえば、仕事は何をされているのですか?」
「ああ、まだ言ってなかったですね。キュウヤクシをしているの。出張が多くなりますから、住む場所はさほど問題にならないの」
 文脈から、キュウヤクシ、というのは職業のことだろうか。知っていて当然のような言い方だった。
 出張が多い仕事……?似た単語で思い当たるものがない。
 さらなる質問が失礼に当たらないか悩んでいた圭太をよそに、彼女はしなやかに立ち上がると、扉に向かう。
「では、そろそろお部屋に案内しますね」
 廊下を進み、居間の並びにあるダイニングキッチンを通り過ぎると、古い家にありがちな、わずかなかび臭さが鼻をついた。嫌いじゃない匂い。光のあまり届かない廊下。
 正面に見える扉は、四角いすりガラスが斜めに二つ入った、やや細身の開き戸だ。
「ここが勝手口になります。一応下宿ということなので、圭太さんにはこちらの鍵をお渡ししますね」
 階段はその手前からやや急な角度で二階に向かっていた。真鍮製の手すりにすでに輝きはなく、幽玄と評して差し支えない。
 二階には部屋が二つだけだ。
「上は元々子供用だったの。手前が私の部屋で、今、物置になってるわ。もう一つが姉さんの部屋で、圭太さんはそちらでお願いします。突き当りはお手洗いですから」
 彼女が手すりと同じ素材のドアノブを引くと、予想に反して音もなく開いた。
 作り付けの棚に木製のベッド、机、それに椅子だけの簡素な内装だ。
 壁際には事前に送ってあった段ボールが積んである。
 一歩足を踏み入れて、思わず足が止まった。
 母の匂いに触れた気がしたからだ。五年前を思い出し、体が硬直する。
 気のせいだ。彼女がこの家を出たのはもう二十年近く前。匂いなんて残っていない。
 叔母はそんな圭太には気づかぬ様子で、出窓に向かい、同じく真鍮製の留め具を外すと窓を開け放った。
「これ、柿の木なのよ。子供の頃はよく上って食べたわ」
「へえ。今もなるんですか?」
「ええ。隔年で。今年は食べられる番よ。圭太さんは三年で二回。大学までいれば……もっとたくさん食べられるにゃ」
 叔母は明るくそう言って、部屋をあとにした。
 階段を下りる気配が遠ざかり、窓の外で木の葉が揺れる音だけになる。
 トートバッグから取り出したノートPCを開き、木製の、年季の入った椅子に腰かけると、目の高さで窓の外が見えた。
 同じ景色を母が見ていたのかと思うと、落ち着かなくなる。
 七年間も、この景色とともに過ごすなどと、想像もできない。
 地図で学校への道程とバスの時間を確認したあと、ニュースサイトを開き、ぼんやりとスクロールしていたが、いつの間にか眠ってしまった。
「ご飯よ」
 階下からの声に目を開けると、体はすっかり冷え切っていた。
 すでに橙色に染まっていた空を遠見して、そっと窓を閉めた。