その週末、再び中央線の上りに乗り込んだ。
移動中、どういう犯罪になるのか調べてみた。幸い、弁護士にツテもあるのだ。
だが、目出し帽をかぶった男を、依頼主と特定することが、意外にも難しいことに気づく。ホテルの部屋を予約したのが向こうである以上、指紋が出ても不自然ではない。
となれば、正攻法では難しいかもしれない。
メールにあった住所は、駅からすぐの、真新しい高層マンションだった。首都圏の不動産価格は高騰している。こんなところに住む人間は経済的に成功しているはずだが、人間性はまるで比例しないということか。
途中で買った作業用の白い帽子を目深にかぶり、インターフォンを押した。
幸い、敵は在宅していた。書留だと言って、オートロックを抜ける。
年上の叔母をどうにか助けたいという気負いもあったのだろう、不思議と緊張はなかった。
目的の部屋で男と対面した。三十半ばの、金属フレームの眼鏡をかけた痩せた男だ。顔の左側に、青あざがうっすらと見える。
彼は圭太を見て、怪訝そうな声を出した。
「郵便局の……バイトか?」
「いえ、違います。給薬の代理人です」
「は?何だ、それ。呼んでねえよっ」
そう言って、扉を閉めようとした。慌てて片方の靴を、隙間に滑り込ませる。
「用が済めばすぐ帰りますから。少しだけ話をさせて下さい」
あくまで丁寧に応対しようと決めていた。あそこまで用意周到な人間だ。どうせ何を言ってものらりくらり否定するに違いない。
「だから何の用なんだよっ。こっちには話すことなんてないんだよっ」
「落ち着いて下さい。今度の件を大ごとにするつもりはないんです」
「はあ?こ、今度の件って何だよ。こっちは色々言いたいことがあるんだぞっ」
話すことはないと言ったばかりじゃないか。
「色々って、例えばどういうことですか?」
前金で払ったのに仕事を完遂していない、というクレームであれば、証明はできないはずだ。それは事前に予測していた。
だが、相手はまるで違うことを口にした。
「時計とかだよっ。あの女が壊したんだぞっ」
「時計?証拠あるんですか?」
「ふん。警察が調べたら、指紋が出るはずだ」
ホテルでもみ合ったと言っていた。そのとき、指が触れていてもおかしくはない。
自分が優位に立ったと思ったのか、相手は歪んだ笑顔を圭太に向けた。
「どこで壊れたんです?」
「関係ねえだろっ、そんなこと。とにかく壊れたんだ。弁償してもらうぞ。本当なら、折れた歯の治療費も出してほしいくらいだっ」
詩乃は、中高とずっとバレー部だったと以前話していた。きっと、真面目に取り組んでいたのだろう、一矢は報いていたのだと思うと、少しだけ溜飲が下がった。
同時に、そのときになって初めて、玄関のすぐ先の部屋にいるらしい、猫の存在に意識が向く。泣きながら壁をかりかりと引っかいているようだ。
男は一歩下がるとその扉をどんと叩き、「うるせえっ」と、声を張り上げた。
鳴き声は一瞬止み、そしてすぐに再開する。
「ああ、うるさいっ。防音がずさんなんだよっ」
吐き捨てるようにそう言った。
なるほど。猫さえも今度の計画の小道具だったということか。
犬や猫を飼うメリットが、圭太にはまったく理解できない。
今のペットは長寿だと聞く。
一日、三回の食事。犬なら散歩もある。十年生きるとして、その世話が毎日続くのだ。それぞれ五分と三十分と仮定すると――概算で、人的工数だけで、百人日以上。単価を仮に一万としても百万円以上だ。しかも、エサ代などの諸経費は別。
「おい、お前。弁償するのか、しないのかっ」
圭太が無言だったことで、勝利を確信したようだ。男は語気を荒げて一歩を詰め寄った。
落ち着け。目的はボールペンだ。
「でしたら、こちらにも、一つお願いがあるんです。時計を弁償したら、それ、聞いてもらえます?」
そう言うと、相手は声を落とした。
「お前、金額聞いてないだろ。六十万するんだぞ」
何だって?!
圭太の時計は、フリマで三百円ほどだったが、今まで、間違った時間を示したことがない。
「領収書とか――あるんですか?」
怯んだことが声に出てしまったのか、彼はにやりと笑い、部屋の奥へ消えた。
待っている間も猫は弱い泣き声を発している。
猫のいるマンションの玄関か――。
ああ、なるほど、動物の扱いだけを考えれば、写真家の彼女のほうが、はるかにましだったということだ。
しばらくして、男は時計と領収書を手に戻ってきた。
「ほら。ロレックスだ。シリアルナンバーが同じだろうが。アンティークだから同じ物は手に入らないんだぞ」
言っていることは、どうやら本当のようだ。時計は、ガラスの部分にひびが入り、秒針は止まっていた。
時間は午後十時三十分過ぎ。それを見て、再び頭に血が上りそうになり、必死に耐える。
「で?どうするんだよ」
「六十万円は買い値ですよね。二年近くが経過してますからその分を差し引くのが普通なんじゃないですか?」
「アンティークはそんな値付けじゃないんだよ。もしかしたら価値が上がってるかもしれないんだぞ」
くっ。
それなら、この交渉を長くするのは不利になる。
「ちなみに、こちらの要望は、聞いてもらえますか?」
ホテルに忘れ物をしたのだと言うと、彼は怪訝そうにしたが、現金ですぐに払うなら、この場で電話してやると尊大な態度を見せた。
金を下ろすため、一度マンションを離れる。
近くの銀行に向かいながら、今の行動の妥当性を再考した。
百円のボールペンを返してもらうために、あんな社会のくずのような人間に六十万も払うなんて、どう考えても馬鹿げている。
本人の振りをして、ホテルに電話することはできないだろうか。だが、わかっているのは、名字と住所だけ。名前は偽名かもしれない。
結局、他の解決策を導けず、金と紙袋を準備して、男の部屋へと戻った。
「六十万円です。そちらも約束守って下さい」
札束を見せると、男は携帯を取り出し、ホテルに電話した。
忘れ物を知人が取りに行くからと伝えたのを確認し、金を渡した。
「言っとくけど、俺はこれでも大損なんだからな。時計以外にも、ホテル代やら猫やら――」
子供から大金を巻き上げたことに多少は罪悪感を覚えたのか、言い訳を始めた。
そして、圭太が動く気配を見せなかったからだろう、不安そうな表情に変わる。
「まだ何かあるのかよ」
「もしよろしければ、なんですけど――」
その申し出がよほど想定外だったのか、彼はしばらくぽかんとしていた。
「お前さ、売れば数万にはなるはずだぞ。買い値が八万もしたんだからな」
「どうやって売るんです?オークションは生き物の出品禁止のはずですけど」
こんな人間に、猫を引き受けてくれる知り合いがいるはずない。
予想通り、相手はわずかの時間、思案するそぶりを見せたが、最後はその提案を受け入れた。
移動中、どういう犯罪になるのか調べてみた。幸い、弁護士にツテもあるのだ。
だが、目出し帽をかぶった男を、依頼主と特定することが、意外にも難しいことに気づく。ホテルの部屋を予約したのが向こうである以上、指紋が出ても不自然ではない。
となれば、正攻法では難しいかもしれない。
メールにあった住所は、駅からすぐの、真新しい高層マンションだった。首都圏の不動産価格は高騰している。こんなところに住む人間は経済的に成功しているはずだが、人間性はまるで比例しないということか。
途中で買った作業用の白い帽子を目深にかぶり、インターフォンを押した。
幸い、敵は在宅していた。書留だと言って、オートロックを抜ける。
年上の叔母をどうにか助けたいという気負いもあったのだろう、不思議と緊張はなかった。
目的の部屋で男と対面した。三十半ばの、金属フレームの眼鏡をかけた痩せた男だ。顔の左側に、青あざがうっすらと見える。
彼は圭太を見て、怪訝そうな声を出した。
「郵便局の……バイトか?」
「いえ、違います。給薬の代理人です」
「は?何だ、それ。呼んでねえよっ」
そう言って、扉を閉めようとした。慌てて片方の靴を、隙間に滑り込ませる。
「用が済めばすぐ帰りますから。少しだけ話をさせて下さい」
あくまで丁寧に応対しようと決めていた。あそこまで用意周到な人間だ。どうせ何を言ってものらりくらり否定するに違いない。
「だから何の用なんだよっ。こっちには話すことなんてないんだよっ」
「落ち着いて下さい。今度の件を大ごとにするつもりはないんです」
「はあ?こ、今度の件って何だよ。こっちは色々言いたいことがあるんだぞっ」
話すことはないと言ったばかりじゃないか。
「色々って、例えばどういうことですか?」
前金で払ったのに仕事を完遂していない、というクレームであれば、証明はできないはずだ。それは事前に予測していた。
だが、相手はまるで違うことを口にした。
「時計とかだよっ。あの女が壊したんだぞっ」
「時計?証拠あるんですか?」
「ふん。警察が調べたら、指紋が出るはずだ」
ホテルでもみ合ったと言っていた。そのとき、指が触れていてもおかしくはない。
自分が優位に立ったと思ったのか、相手は歪んだ笑顔を圭太に向けた。
「どこで壊れたんです?」
「関係ねえだろっ、そんなこと。とにかく壊れたんだ。弁償してもらうぞ。本当なら、折れた歯の治療費も出してほしいくらいだっ」
詩乃は、中高とずっとバレー部だったと以前話していた。きっと、真面目に取り組んでいたのだろう、一矢は報いていたのだと思うと、少しだけ溜飲が下がった。
同時に、そのときになって初めて、玄関のすぐ先の部屋にいるらしい、猫の存在に意識が向く。泣きながら壁をかりかりと引っかいているようだ。
男は一歩下がるとその扉をどんと叩き、「うるせえっ」と、声を張り上げた。
鳴き声は一瞬止み、そしてすぐに再開する。
「ああ、うるさいっ。防音がずさんなんだよっ」
吐き捨てるようにそう言った。
なるほど。猫さえも今度の計画の小道具だったということか。
犬や猫を飼うメリットが、圭太にはまったく理解できない。
今のペットは長寿だと聞く。
一日、三回の食事。犬なら散歩もある。十年生きるとして、その世話が毎日続くのだ。それぞれ五分と三十分と仮定すると――概算で、人的工数だけで、百人日以上。単価を仮に一万としても百万円以上だ。しかも、エサ代などの諸経費は別。
「おい、お前。弁償するのか、しないのかっ」
圭太が無言だったことで、勝利を確信したようだ。男は語気を荒げて一歩を詰め寄った。
落ち着け。目的はボールペンだ。
「でしたら、こちらにも、一つお願いがあるんです。時計を弁償したら、それ、聞いてもらえます?」
そう言うと、相手は声を落とした。
「お前、金額聞いてないだろ。六十万するんだぞ」
何だって?!
圭太の時計は、フリマで三百円ほどだったが、今まで、間違った時間を示したことがない。
「領収書とか――あるんですか?」
怯んだことが声に出てしまったのか、彼はにやりと笑い、部屋の奥へ消えた。
待っている間も猫は弱い泣き声を発している。
猫のいるマンションの玄関か――。
ああ、なるほど、動物の扱いだけを考えれば、写真家の彼女のほうが、はるかにましだったということだ。
しばらくして、男は時計と領収書を手に戻ってきた。
「ほら。ロレックスだ。シリアルナンバーが同じだろうが。アンティークだから同じ物は手に入らないんだぞ」
言っていることは、どうやら本当のようだ。時計は、ガラスの部分にひびが入り、秒針は止まっていた。
時間は午後十時三十分過ぎ。それを見て、再び頭に血が上りそうになり、必死に耐える。
「で?どうするんだよ」
「六十万円は買い値ですよね。二年近くが経過してますからその分を差し引くのが普通なんじゃないですか?」
「アンティークはそんな値付けじゃないんだよ。もしかしたら価値が上がってるかもしれないんだぞ」
くっ。
それなら、この交渉を長くするのは不利になる。
「ちなみに、こちらの要望は、聞いてもらえますか?」
ホテルに忘れ物をしたのだと言うと、彼は怪訝そうにしたが、現金ですぐに払うなら、この場で電話してやると尊大な態度を見せた。
金を下ろすため、一度マンションを離れる。
近くの銀行に向かいながら、今の行動の妥当性を再考した。
百円のボールペンを返してもらうために、あんな社会のくずのような人間に六十万も払うなんて、どう考えても馬鹿げている。
本人の振りをして、ホテルに電話することはできないだろうか。だが、わかっているのは、名字と住所だけ。名前は偽名かもしれない。
結局、他の解決策を導けず、金と紙袋を準備して、男の部屋へと戻った。
「六十万円です。そちらも約束守って下さい」
札束を見せると、男は携帯を取り出し、ホテルに電話した。
忘れ物を知人が取りに行くからと伝えたのを確認し、金を渡した。
「言っとくけど、俺はこれでも大損なんだからな。時計以外にも、ホテル代やら猫やら――」
子供から大金を巻き上げたことに多少は罪悪感を覚えたのか、言い訳を始めた。
そして、圭太が動く気配を見せなかったからだろう、不安そうな表情に変わる。
「まだ何かあるのかよ」
「もしよろしければ、なんですけど――」
その申し出がよほど想定外だったのか、彼はしばらくぽかんとしていた。
「お前さ、売れば数万にはなるはずだぞ。買い値が八万もしたんだからな」
「どうやって売るんです?オークションは生き物の出品禁止のはずですけど」
こんな人間に、猫を引き受けてくれる知り合いがいるはずない。
予想通り、相手はわずかの時間、思案するそぶりを見せたが、最後はその提案を受け入れた。