次の朝、詩乃は普段通りに見えた。
「おはよう。昨日はごめんなさいね」
「いえ、僕は何も。それより――」
「今日は珍しく和風な朝食よ。さ、どうぞ」
 質問を変えてみたが、どうやら、前夜の話題に触れるつもりはないようだ。
 バスの時間に遅れるわけにはいかず、仕方なく学校に向かった。
 治療費以外に、あんなに高いホテル代を払える人間だ。ある程度の社会的地位はあるだろう。無茶はしていないはずだと、どうにか不安を払拭しようとしたが、何を想像しても、結局のところ、時間はうしろには戻らず、過ぎた事実は本人に確認するしかないのだ。
 悩みを抱えたまま、その日の午後、ロングホームルームの時間。
 九月の、文化祭の出し物をどうするかが、議題になった。
 カフェというところまではすんなり決まったが、その形態で男女の意見が真っ二つに割れた。
「メイドカフェしかあり得ないだろ、普通さ」
「男子がその格好するんなら賛成」
 物怖じをまったく知らない女子のグループから冷淡な声が飛ぶ。
「じゃあ何カフェにするんだよ」
「執事でいいんじゃない?」
「ふざけんな。そんなんで儲かるかよ」
「そっちこそふざけんなだよ」
 十島は、圭太たちといるときには気が強いように振る舞っているが、クラスメートたちの前では、なぜかただのおとなしい眼鏡っ子だ。いや、むしろそちらが基本形かもしれない。
 教壇に立ち、男女の言い争いを不安そうに見つめているだけで、打開できそうな気配がない。
 その状況を前に、背中に汗がにじむ。
 本来、あの場所に立ち、周章狼狽していたのは圭太のはずで、つまりはその役目を彼女に押し付けているということにほかならない。
 助け舟を出したかったが、両軍が納得する解決策をまるで思いつかない。
 クラスの雰囲気がどんどん険悪になる。
 何度か十島と目が合った気がした。居心地の悪さで携帯が充電できそうだ。
 しばらくして、落居が立ち上がった。
「間を取って、大正レトロ喫茶とかでいいんじゃないか。最近流行りのアニメもその時代だっただろ」
 どこが間だよ、と誰かの声が飛んだが、このままでは、永遠に平行線であることは、全員が理解していた。
 熱苦しさという点で男子から一目おかれ、クラス委員ということで、女子からもそれなりの扱いだった彼の意見で、論争はどうにか一段落したが、その後、十島は圭太とも落居とも言葉を交わすことなく姿を消してしまった。
 気の利いた男子なら、あとを追う場面かもしれないが、そんな度胸も技量も持ち合わせていなかった。
 帰り道、朝よりも状況が悪化していることに、気が滅入る。
「ただいま」
 勝手口を入り、靴を脱いだあたりで返事があるのがいつもだった。
 しかし、階段を三段、四段と上っても声が聞こえない。
 キッチンの窓は開いていたはずだ。
 一度部屋に荷物を置き、もう一度階下に下りた。
 ダイニングは無人だった。
 居間の扉は開いていて、中を覗くと詩乃がソファに座り、ぼんやりと天井を見上げていた。
 気のせいでなければ、顔も青白い。
「あの、今帰りました」
 声をかけると、驚いたように振り返った。
「あ……。おかえりなさい。ご飯の準備、するわね」
 慌てて立ち上がり、圭太の横を通り過ぎて行った。
 まだ四時だ。
 夕食には少し早い。
 どう聞けば、何かを教えてくれるだろうか。
 叔母とはいえ他人。深く関わる必要がないというのが正解かもしれない。
 あとを追って、隣室を窺うと、彼女は冷蔵庫の取っ手を掴んだまま停止していた。
「何か困ってるんだったら――三人寄れば文殊の知恵って言いますし。今は二人ですけど。一人よりは、何かいいアイデアが出るかもしれません」
 そう言うと、ゆっくり振り返り、小さく笑って目を伏せた。
 それからテーブルのそばにきて、音を立てて椅子を引く。
 力なく座ると、聞き取れるかどうかの声を出した。
「大切な物を……お客さんのところに忘れてきてしまって」
「お客って。例のホテルウエスタンのですか?大事な物ってなんですか?」
「……ボールペン」
 その落胆振りからは、汎用の品でないことが想像された。
「高価な物ですか?限定品とか、今はもう売ってないとか?」
 詩乃は自嘲気味に笑って首を振った。
「昔からあるすごく平凡な物よ。百円くらいでキャップ付きの。でも……それがないと、お仕事ができないの」
「猫に薬をやるのにボールペンが必要なんですか?」
「ええ……そうよ」
 給薬の答えを圭太が出したというのに、それに気づけないほど、悩んでいるらしい。
「もしよければ僕が取りに行きましょうか?」
「そんなこと、高校生の圭太さんにさせるわけにはいかないわ」
 そんな反応が返ってくると予想しながら問いかけた。
 しかし、相手は目を伏せると、思いのほか熟考した。
「お願い……してもいい?」
 しばらくしてそう答えると、口元に手を当て、不安そうに顔を上げた。
「ええ、もちろん。それと、可能でしたら、簡単でいいので忘れた経緯を教えてもらえますか?その、先方と話す必要があるかもしれませんので」
 慎重に言葉を選ぶと、彼女はぎゅっと唇を噛んだ。
 沈黙が部屋に充満し始める。
 窓から差し込む光は白ではなく、暖色に変化していた。
 バス通りから一本入ったこのあたりは、夕暮れになると虫か鳥の声しかしない。
 ここに来た当初、周りを歩いて回ったが、ほとんど人を見なかった。すれ違った数人も、比較的年配の人たち。
 古い洋風の家の中で、圭太自身がセピア色の絵の一部になるのではないかと思うくらいの静寂に包まれる。
「そうね、圭太さんも高校生だし……」
 それから詩乃は、前日の出来事を静かに語った。
 最初に向かったのは先方の自宅だったそうだ。事前に処置費は振り込み済みで、一回目の給薬を行うためだ。
 武蔵小杉からすぐのマンション。依頼主は眼鏡をかけた三十代くらいの、神経質そうな男だったと言う。
 猫は、見た目元気そうだったが、塩崎のときの失敗もあり、医者から処方された薬を指示通り与えた。
 一回目の処置が滞りなく終わり、ホテルに向かおうとしたときだ。
「そのとき変だって思うべきだったわ……」
 すでにチェックインは終わっていて、男からルームキーを手渡されたらしい。
 その場面が容易に想像できた。
 どこかおかしいと思いながらも、疑うことをしない叔母の性格。
 ホテルの上階で夕食を終え、上機嫌に寝支度をしようとしていたとき、いつの間にか部屋に目出し帽をかぶった人間がいたそうだ。
 驚いて逃げようと、リュックだけを手に、ドアに走る。
 腕を掴まれたが、もみ合っているうちに、運良く膝蹴りが決まり、相手がうずくまったところで、廊下に逃げ出したということだった。
「ボールペンはそのとき落としてしまったみたいなの。今日の昼間、ホテルに電話してみたんだけど、予約した本人じゃないと対応できませんって言われて」
 最初にメールを見せられたときの違和感は、間違いではなかった。だが、まさかここまでとは想像できなかった。
「どうして、その人は、叔母さんの仕事のことを知っていたんでしょう。宿泊が必要とか」
「前にお仕事をした方の紹介だって。その人のことはよく覚えていたの。気さくないい方よ。その紹介だったからつい……」
 相手の男は知人から話を聞き、今回の蛮行を企てたということか。
「こういう危険があるって警戒してなかったんですか?他人の家に上がり込むわけですから――」
「ごめんなさい。昼間だったし、家政婦さんとかでも、自宅に上がることは普通にあるし――あまり深く考えてなかったの。馬鹿だったわ……」
 男への怒りと同時に、無防備な彼女への苛立ちも同時にわき起こる。
「依頼のメール、転送しておいて下さい」
 部屋で一人になったあとも、不快感が収まらない。
 気を落ち着けようと腕を組み、部屋の中をぐるぐる歩き回った。
 詩乃の話している通りなら、ボールペンの替わりそれ自体は簡単に入手できるだろう。
 ただ――気が動転して、冷静な判断ができなくなっているとしても、塩崎との折衝をたしなめた人間が、それよりはずっと危険な対応を頼ってきたのだ。
 よほどの想い出の品ということに違いない。
 ようやく、給薬の謎が解けたと思ったら、それをはるかに上回る災難に巻き込まれてしまった。