その週の土曜日。
 授業が午前で終わり、中央線で新宿に向かう。
 有料で会員登録している投資講座に参加するためだ。
 セミナーは夕方には終わり、その後、詩乃との約束を果たすため、大崎へ移動した。
 もっとも、今回は、事前の約束をしていない。会えないことを覚悟していたが、インターフォンを押すと、意外にもすぐに返事があった。
「はいっ」
「先週こちらにお伺いした市ノ瀬です。キュウヤクの――」
 前回とは違い、声調が一段高かったが、圭太が名乗ると、あからさまに落胆した口調になった。
「え……。ああ、何の用なの?」
「先日の処置の請求書をお届けに参りました」
 回線の向こうで舌打ちをしたのが聞こえた。
「郵便受けに入れといて。1215号室」
 当然の反応だ。
 だが、せっかく得た幸運を、簡単に逃すつもりはなかった。
「それと、大変お手数なのですが、前回の対応でご不満な点があれば、今後の改善に生かすべく、是非ご指摘願えればと」
 アンケートを装って、キュウヤクの核心に迫るのだ。
 断られれば、納品書に捺印がほしいのだと、食い下がるつもりだったが、数秒の間をおいて、彼女は早口でこう言った。
「面倒くさいわね。今、現金で払うから上がってきてっ」
 どうやら支払いを急かしたと思われたらしい。
 例によって最後の音節が終わるより早く回線は切れ、すぐに自動ドアが開いた。
 エレベータに乗り込んだとき、ここ何年かでもっとも高揚していることに気づいた。おそらく、保有していた米国株の一つが、五十倍になったときよりもずっとだ。
 ようやく、謎が解ける。
 ドアフォンを押してまもなく、姿を見せた塩崎は、前回とは違い、トレーニングウエア姿だった。
 最初に請求書を手渡した。書いたのは圭太ではなかったが、手作り感満載の書類で、さすがにきまりが悪い。
 用紙の最下部にある合計金額に目をやり、彼女が不満そうな表情に変わったのを見て、慌てて鞄からペンとノートを取り出した。
「それでは、いくつかご質問させていただいていいですか?」
「何?本当にそんなこと聞くんだ。今日の交通費は自腹なの?」
「ええ、もちろんです。では、処置全般についてからお聞かせ下さい」
「ああ、それは特に問題ない。麦丸(むぎまる)も全然嫌がらなかったしね」
 思わず耳を疑った。
 麦丸だって?
 だが、あの日、部屋には誰もいなかったはずだ。
 嫌がる、ということは法律的な対応ではないことになる。
 もはや、すぐ手の届くところに解答があった。
 これまで何度も思考と推察を重ねてきたことへの採点が出されることへの期待とともに、良書を読み終えるときのような軽い喪失感もあった。
「では、不満点を教えて下さい」
 その質問を待っていたかのように、彼女は手に持っていた請求書を突き出した。
「これに決まってるでしょ。高すぎじゃない、どう考えても。猫に薬を一回やるだけで三千円ってさ。十五分どころか五分もかかってなかったじゃないのっ」
 まったく想定していなかった単語が続けざまに放たれた。
 猫に……薬をやる、だって?!
 キュウヤクは、すなわち、給薬、というわけか!
 謎が解けたことで、脳内に快楽成分が大量に放出され、一瞬意識を失いそうになった。
 快感で膝が震え、立っていることが困難になる。
 だが、すぐに次の疑問が頭の中に広がった。
 猫に薬を飲ませる仕事?そんな職業が成立するのか?
 いや、現に目の前の女はそれを依頼した。高いと不平を口にしているが、必要性はあったということだ。
 今はペットブームだ。
 動物病院は、歯科よりは少ないが、眼科よりはよく目にする。薬を飲ませるなどと、獣医の仕事ではないのか?
 身内を悪く言いたくはなかったが、初対面の、あんなえたいの知れない人間に、大切なペットを委ねるなんて。
 興奮を隠すため、下を向いて、ペンを走らせる。
 値段が高すぎると、見られても問題ないよう、言われた通りのことを記した。
「おいくらくらいであれば、妥当だとお考えですか?」
「一回千円ってとこじゃないの」
 驚きで心臓が止まりそうになった。
 千円なら支払うというのか。かかる時間は五分と言っていたのに。それに加えて、交通費と宿泊費までなら妥当だと考えていることになる。これだけ怒りをあらわにしているにもかかわらず、だ。
 その妥当性は何なのだ。
「では、三千円は支払っていただけないということですよね」
 相手への確認というよりは、圭太自身を落ち着かせるためにそう言うと、彼女は、気まずそうに目線をそらせた。
「別に値切ろうとか、そういうつもりじゃないわよ。私、お金には困ってないんだから……。だけど、今回は勝手に薬の寮を減らしたりしたじゃない。そういうの、契約不履行って言うんだっけ、その分くらいはサービスしてくれていいでしょ」
 金持ちほど支出には厳格になるというのは定説だ。
 いかにも、とってつけたような口ぶりではあったが、詩乃に何らかの負い目があるらしい。
 ひとまず、最大の目的は達成した。
 さらなる交渉の必要性について、ひそかに吟味していたとき、遠くで柔らかいメロディーが聞こえ、同時に塩崎の表情がぱっと晴れる。
「悪いけどちょっと待ってて。頼んでた荷物が届くんだ」
 彼女は小走りに廊下の先へと駆け、何ごとかを話したあと戻ってきた。
「そこ、荷物通るから道を開けてちょうだい」
 しばらくして宅配便業者が二人現れた。
 大きな段ボールには、ルームランナーの文字が見える。
 廊下に出て、詩乃に電話した。
 状況を説明し、薬のことを問いただすと、彼女は返答に詰まった。
「飲ませなかったのは抗生剤なの。猫ちゃんの症状は下痢だったんだけど、私の経験からは不要だと思って。大抵の獣医さんは予防とかの目的で簡単に処方しちゃうんだけど、飲ませることで逆に胃腸を悪くする子もいるから。そのときは、事前にお話して、納得してもらったと思っていたんだけど――」
 しばらく悩んだあと、相手の言い値で構わないと告げ、彼女は電話を切った。
 配達員がいなくなったあと、再び塩崎と対峙した。
「えーと。どこまで喋ったんだっけ」
「薬を規定量飲ませなかったというところです」
「ああ、そうだったわ。最初の契約通りじゃなかったんだから、そっちの言い値を払う必要はないわよね」
 好戦的な態度は、いくぶん和らいでいた。早くトレーニングを始めたいらしい。
 すでに本人からの指示もある。ここで帰れば、すべてが丸く収まることは理解していた。
「再度の確認ですが、途中の経過は別にして、成果についてはいかがでしたか?つまり――」
「麦丸の具合が良くなったかどうかってこと?それは、まあそうね」
「簡単ではない給薬を、当方は完遂したということでよろしいのですよね?」
「そうだけど何よ。回りくどいわね。お金は千円しか払う気ないわよ。元々が暴利だったんだから」
 引き下がらない圭太に、相手は段々と苛立ち始めた。
 そんな行動を選んだ理由は、よくわからない。
 詩乃に義理立てしたのか、若さゆえの正義感なのか。
 これを最後にしようと決めていた交渉材料があった。これまで見聞した情報を総合的に勘案した結果だ。
「ここだけの話ですが、実際、僕もそう思います」
「何よ、急に。作戦変えたってダメだよ」
 圭太の応答が、予想外だったのか、相手は声を低くして、腕を組む。
「これは本心です。こんな職業、生まれて初めて知りましたし。ちなみに、他に同じ仕事をしている人っているんでしょうか。僕自身は動物を飼ったことがないので調べたことがないんですけど」
 じっと相手の目を見た。怒りが残っていたのは確かだが、わずかに不安の色を見せた気がした。
「脅すつもり?」
「ということは、他にいないんですよね」
「知らないわよ。彼女だって知り合いから教えてもらったんだから」
「気を悪くしないでほしいんですけど、もし、この先、また猫ちゃんの具合が悪くなったら――」
 そして、彼女は強めの口調で圭太の言葉をさえぎった。
「いくらよっ。とにかく三千円は高すぎると思うわ」
「先ほどご指摘された通り、指示通り任務を遂行できなかったことは間違いないようですので。間を取って二千円でいかがです?市ノ瀬にはその金額で塩崎さんが快く応じて下さった、と伝えますから」
 わずかに間をおき、彼女は小さく息をはいた。
「それでいいわ。君の言う通り、また頼むことになるかもしれないしね。あとごめん、今、持ち合わせがなかったんだ。どうすればいい?」
「先ほどの紙に、振込先が記載されていますから。それと念のため連絡先を教えていただけますか?」
 相手は一度奥に消え、名刺を手に戻ってきた。
 フォトアーティスト、と肩書きにあった。
 意外すぎて目がくらむ。
 圭太が名刺を財布に収めていたとき、廊下の先に猫が姿を見せ、二人に向かって歩いてきた。
 あの日、ぬいぐるみだと思っていた柄だ。
 目線を落としたことで、それまで気づかなかった、プラスチック製の四角い箱が目に入る。中には砂が入っていて、猫はそこに向かっているらしい。
「猫ちゃんはなんていう種類なんですか?」
「雑種に決まってるじゃない」
 塩崎は圭太の視線に気づいてうしろに振り返る。
「麦丸、待って。前のウンチまだ取ってないから」
 彼女は背を向けると、慣れた手つきで猫を抱き上げ、スコップを手にした。
「お金は明日振り込んどくから。出たらすぐ玄関閉めてちょうだい」
「では、失礼します」
 マンションの前の通りに出たところで、知らずに大きく息をはいていた。
 こんなに感情が上下することは、平凡な日常生活では、あまりないだろう。
 給薬の謎が解明されたところから始まり、その業務内容に驚愕し、最後は依頼者の職業だ。
 平静を取り戻したと思えたのは、山手線から中央線に乗り換えてしばらくした頃だ。
 携帯を取り出し、ランニングマシンの相場を調べながら、祖母の言葉を思い出していた。確か写真家の肩書きを持つ人が、テレビに出演していたときのことだ。
「フォトグラファーなんて偉そうに。撮るのはカメラなんだから。絵描きならまだ価値はわかるけど。今どきのカメラなんて、きっとすごい性能なんだよ」
 部屋はジョーイとシェアしているにしても、外に出て走れば一円もかからないことに、十万以上払える程度には、彼女も稼いでいるらしい。
 猫に薬をやるだけで、ぎりぎりとはいえ詩乃が生活できる程度に市場があることを含め、圭太の中での仕事に対するこれまでの価値観が、大きく書き換わった一日だった。