(いつもと同じ登下校の道なのに、湊くんといるだけですべてが違った気がする……)

 ゆっくりと公園の前の道を通りながら、芽衣はふと視線を落とし、再び湊を見上げた。
 湊はまぶしそうに目を細めると、「ん?」と芽衣を見つめた。

「この時間って、いつもこうなのか?」
 公園の木々が風に揺れるのを見ながら、湊は耳を澄ました。
 
 軽やかな葉の音が、二人の耳に心地よく響いてくる。
 芽衣もその音を聞きながら、湊を見つめ返した。

「この時間だと、少し静かかな。もう少し早い時間だと、小学生とかもいるし、結構にぎやかだけど」
「へえ」
「もう九月だから、朝の時間帯にセミの鳴き声も、あんまり聞こえなくなってるし。あ、夕方から結構鳴くよ」
「ふうん?」

 湊は興味があるようなないような、ぼんやりとした返事をした。

「不思議だよな。いつも通ってる道なのに、意外と知らないもんだよな」
「それは、湊くんがいつも、朝来ないだけだから」
「じゃあ、鈴城。試しに今、目、閉じて見ろよ」
「え?」
「そこで止まって。今、自分の周りにある景色って覚えてる?」

 芽衣は湊の言葉に、心臓がドキンと鳴った。
 湊の言葉が、やけに心に響いてしまった。

「えっと……。左手に見えるのが公園でしょ。それから……、まっすぐ行って……、その先を左に折れて、坂をのぼったところに私たちの学校があって……」
「鈴城、目、開いてる。ちゃんと閉じて?」
「あ、えっと……」
「ほら、俺と一緒じゃん?」

 そう言って湊は少し口元をゆるめたが、その言葉の裏にある自分の本心に気づいていないようだった。芽衣が目を閉じたまま一生懸命に景色を思い浮かべている姿を横目で見ながら、湊は無意識に、その仕草の一つ、一つを目で追っていた。
 くしゃっと笑ったときにゆるむ芽衣の目元、少し赤く染まったほほ、柔らかそうな唇……。

「……湊くん? ねえってば」
「え? あ、悪い。なに?」

 ようやく芽衣から呼びかけられていることに気づいて、湊ははっとしたように、芽衣を見た。

「ちょっと、やばいかも。誰もいなくなってるし」
「あれ? さっきまでわりと人いたけどなあ」
「もう! 湊くんが、のんきに朝からクイズなんて出すから」
「俺のせいか? じゃあ責任とって、一緒に怒られてやるよ」
「遅刻確定なわけ!? バカなこと言わないで、ほら、湊くん、走るよ!」
「また走るのかよ。まあ、鈴城がそう言うなら、全力で走るか。……ただし、俺が先に行くかもな?」

 そう言いながら、湊はその長い足を生かして、一気にいきなり走り出した。
 あっという間に、湊の姿が小さくなって、芽衣はそのあとを追いかけるように必死で走った。
 先に行けばいいのに、芽衣の姿が見えなくなりそうなぎりぎりのところで立ち止まり、芽衣に向かって「早く来いよ」と言わんばかりに、大きく手を振っている。

「すーずーしーろ」

(そんな大きな声で呼ばなくても、聞こえてるってば!)

 芽衣は真っ赤になりながら、全力で湊のもとに走った。

 湊は、自分の方へ向かって走ってくる芽衣を、じっと目で追っていた。
 風になびく肩までの髪が汗で額に貼りつき、少し乱れた息を整えようとするたびに、華奢な首元が上下している。小柄な体で懸命に足を動かし、少しずつ湊との距離を縮めるその姿が、妙に愛らしかった。

 息を切らせて走るがむしゃらさに、髪が顔にかかるたびに無造作に払うその仕草──すべてが自然体で、無意識に「かわいく」思った。それでも自分がそんな感情を抱いているとも気づかずに、湊はただ芽衣を見つめ続けた。

「もう、湊くん……、突然、走り出すんだから……」
「ぎりぎり間に合いそうだな」

 湊は、自分の元へ走ってきた芽衣を見て、ふいに視線をそらした。少し汗ばんだ芽衣の頬と、息を切らした瞳が熱を帯びて、普段より魅力的に見えて、心の中がざわついた。
 湊は芽衣に目を合わせるのが恥ずかしくなり、無意識に足を一歩前へ進めた。

「ちょっ、待ってよ、湊くん!」
「急ごう、鈴城。遅刻はいやだろ?」

 湊は自分の照れた顔を隠すように、軽く振り返りながら言った。

(あれ、湊くん……。顔、赤い……?)

「ほら、鈴城……!」

 一瞬の間を置いて、湊は照れ隠しのように急かした。

「早くしろよ」

(まさか、そんな。まさか……ね)

 芽衣は一瞬見せた湊の表情に、なぜか戸惑いを覚えながらも、湊の背中を追いかけた。
 正門をくぐり、靴箱で急いで上履きに履き替えて、小走りで教室へと向かう。
 芽衣は、湊と一緒に、まるで風になったような気分だった。

 ここ数日、マンションが消えたり、自分のことを知るはずの明菜さんから初対面のような挨拶をされたり、両親が帰ってこなかったり──、芽衣の日常とかけ離れたことばかりだった。
 そんな生活の中、湊がいてくれたことがどれほど心強かったか、その気持ちを伝えたくて伝えきれないもどかしさに、芽衣は唇を噛みしめた。

(こんな状況で、どうして胸がときめくの?)

 それでも湊の背中を見て、ふと思う。

(湊くん……、こんなときにそばにいてくれて、ありがとう)

 先に湊が教室に入り、芽衣もそれに続いた。
 湊と芽衣がそれぞれ自分の席につくと、クラスメートが近づいてくるのがけはいで分かった。
「おはよう」
 いつものように後ろを振り向き、芽衣は声をかけた。

(あれ、夏帆……!?)

 そこにいたのは、クラスメートの影山夏帆で、芽衣は一瞬、驚いて体が固まった。
 夏帆は、違うグループの女子だった。少し派手目の夏帆は、地味目の女子と一緒にいることを嫌い、性格もどちらかと言えばきつめで、いじめゲームを考案したのも彼女だった。
 強気な目つきに、ほんのり化粧を施した顔は、ばれない程度に仕上げられ、染めた茶髪も目立たないくらいの自然な色合いにしている。髪は校則違反だが、結ばずに肩までおろしていた。
 それでも去年、不登校になったあの事件以来──、表面上”和解”し、目が合えば、挨拶し合う関係にまではなっていた。

(わざわざ夏帆から挨拶してくるなんて、なに!?)

 芽衣が夏帆に対して不安を抱えつつも、何も言わずに席についた時、不意に隣の席に座っていた別のクラスメート、遠山紀香が芽衣を怪訝そうに見つめた。
 紀香は夏帆の友達で、派手な化粧と明るい髪色が特徴の、どちらかというとぶりっ子系の女子だった。見た目は可愛らしいが、その裏には鋭い目つきが隠れており、時折その毒のある視線で、クラスを陰から支配しているようだった。

「あれ? 誰?」
 紀香の問いに、芽衣は一瞬凍りついた。
 よりによって、夏帆といつも一緒にいる紀香から声をかけられたことで、芽衣の心臓はどくどくと音を立てて鳴った。

(また、無視……?)

 芽衣は驚きながら周囲を見渡したが、誰も助け船を出す様子はなかった。むしろ、他のクラスメートたちも紀香に続くように、不安そうに芽衣を見ていた。

「あなた、瀬戸さんの席に座ってるんだけど……、転校生? それとも……」

 紀香はさらに続け、何かを探るような目つきで芽衣を見た。

「え? 瀬戸さんって……」

 芽衣は反射的に席を立ったものの、前から三番目の席は、やはり自分の席だった。

(さいとう、ささき、すずしろ、せと……、うん、間違いない)

 ゆっくりとクラスメートの名前を順番に胸の中で復唱しながら、芽衣は紀香を見上げた。
 夏帆と和解して以来、表立ったいじめのようなものはなくなっていた。
 それから、「内申書の大事な時期に、いじめなんてやるの、バカだから」と夏帆が話しているのをよく耳にした。

(だとしたら、なんで? 紀香の勘違いなの!?)

「席替えってあったっけ?」
「……ないけど」

 紀香は、いぶかしげに眉間にしわを寄せた。

「っていうか、ここ、3-4だけど……」

(そんなこと、わかってる)

 芽衣が困惑しているその時、教室の奥から早高浩平がクスクス笑いながら言った。
「なぁ、紀香。それ転入生かなんかじゃない? どっから来たんだよ?」

 ”それ”をきっかけに、教室の後ろの方で何人かが笑い始めた。

 浩平は手に負えない不良系だが、表向きはうまく隠している。いつもは教師の前では良い子を装っているが、裏ではクラスメートたちを小馬鹿にしたような態度をいつも見せていた。

(まさか、これってまた”いじめ”──!?)

 芽衣が強張った瞬間、教室のドアがガラッと開いた。
 ぴしっと背筋を正した富岡先生が、出席簿を持って、教室の中に入ってきて空気が一変した。
 富岡先生は、教室にただよう異様な雰囲気を察して、少し目を細めた。

「そこ、どうした? 遠山、鈴城、二人とも早く席について。北川、おまえもだ」
「先生、でも……」

 紀香は、芽衣と湊を交互に見た。

「この人たち、誰ですか?」

 紀香がそう言うと、富岡先生はあきれたように目を細め、重く、短い息を吐いた。

「……”そういうの”はもうやめろと、去年、学年全体に注意しただろう?」
「え?」

 紀香が驚くと、富岡先生はぐるっと教室を見渡した。

「おまえたちも……、同じか?」

 その視線は、真っ先に、去年”主犯格”だった夏帆に真っ先に向けられた。

「勘弁してよ。あたし、そういうの、もう卒業したし」

 夏帆が不服そうに口をとがらせると、富岡先生はクラス内をもう一度見渡し、一括した。

「いいか? いじめゲームは、ゲームなんかじゃない。クラスの仲間がそこにいるのに、知らないフリをするなんて、どういうつもりだ? しっかりしてくださいよ」
「でも、先生……!」

 紀香が言いかけると、富岡先生は、その言葉を制して続けた。

「いいから、早く座れ、遠山。なんだ、北川と鈴城の席がないじゃないか……。誰だ? どこにやった?!」
「先生……!」
「……遠山。もうそういうのは、やめようじゃないか。見ていて、悲しくなるよ」

 富岡先生が眉間にしわを寄せ、静かにため息をつくと、紀香はもう何も言わずに、しぶしぶ自分の席についた。

「……誰か、北川と鈴城の机と椅子を、準備室から持ってきてくれないか」

 富岡先生がそう言うと、教室内はざわざわと騒がしくなった。

「……なんだ、誰も取りに行かないのか? 委員長、松永」
「はい」
「悪いが取りに行ってくれるか?」
「……はい」
「副委員長、清水」
「はい」
「松永と一緒に、準備室まで頼む」
「……分かりました」

 一通り指示すると、富岡先生は、芽衣と湊を見た。

「北川、今日は朝から来たんだな。やればできるじゃないか。鈴城、そんな不安そうな顔するんじゃない。遠山とは後でしっかり話しておくから、心配しなくていい」

 芽衣のもとに、机が運ばれた。
 芽衣はぎこちなく礼を言ってから、ゆっくりと自分の席に腰を下ろしたが、心の中はざわざわと落ち着かない。いつもならすっと馴染むはずの席が、まるで見知らぬ場所のように感じた。視線を感じながら、ぎこちなく体を動かすし、ふと湊の方を見ると、湊もまた、どこかぎこちなく、机に手を置いたまま、何も言わずに周囲を見渡していた。
 湊の表情からも、普段の余裕は感じられなかった。

(湊くん、いつもはあんなに堂々としているのに。私まで不安になっちゃうよ……)

 富岡先生は教室全体をぐるりと見渡し、少し眉をひそめたが、すぐに穏やかな声で続けた。

「さて、それでは朝のホームルームを始めようか。何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれると先生も嬉しいよ。じゃあ、今日はまず……」

 富岡先生は、そのままいつも通りの流れでホームルームを進め始めたが、ちらりと芽衣と湊の方を見て、少しだけ安心させるようにほほえんだ。
 
 その気遣いが嬉しい一方で、芽衣の不安は増すばかりだった。
 朝のホームルームも、午前中の授業も、まるで周りの音が遠くなったかのように感じられ、どんな内容を話しているかが頭に入ってこない。ただ、時計の針が静かに進む音だけが、芽衣の耳に響いていた。
 授業が進むにつれて、芽衣はさらに追い詰められたような気分になり、手元のノートに視線を落とすも、何も書けなかった。
 黒板に描かれた円グラフが、なぜか明菜さんの顔に見えて、その隣の棒グラフが消えたマンションのように見えてくる。

(やだ、ペンを握る指先まで震えてる……)

 芽衣はシャープペンをそっと置き、必死に呼吸を整えようとした。
 乱れる呼吸が誰にも聞こえないように、芽衣はそっと歯を食いしばった。
 そんなことを繰り返しているうちに、午前中の授業が終わる頃には、不安に押し潰されそうになり、芽衣の顔色は真っ青になっていた。