芽衣のその言葉を聞いた湊は、少し視線を落としながら、しばらく無言で考え込んだ。

「……そうだな」

 湊の答えは、ごく短いものだったが、その言葉には深い思いが込められているようで、目の端にかすかに温かさが浮かんでいた。
 湊は、少しだけ表情をゆるめ、テーブルの上に置いてあったブレザーを手に取ると、椅子からゆっくりと立ち上がった。

『まだ温かいんだな……』

 自分のブレザーにかすかに残る芽衣の体温を感じて、湊はふと顔を上げ、芽衣を一瞬だけじっと見つめた。

「湊くん……?」

 二人の視線が交わり、芽衣の心臓が一瞬、跳ねた。
 湊がじっと見つめている間、芽衣は胸がどきどきし、思わず体を硬くした。

「じゃあ、とりあえず一緒に、朝飯でも食おうか?」
「え」 

(なんだ、そんなこと……)

 芽衣はとっさに、肩の力が抜けた。
 何かを期待したわけじゃない。
 けれど、あんなふうにじっと見つめられると……、湊を意識する──と芽衣は思った。
 湊は優しいほほえみを浮かべながら、芽衣を見つめ続けた。

「一緒に悩んでくれるんだろ? それとも朝飯は別がいい?」

 口調は普段と変わらないが、湊のその仕草にはどこか緊張が解けたような、穏やかさが漂っていた。

『ごめんな、鈴城。こんなとき、ありがとうって言えなくて』

 湊は芽衣の視線を感じつつ、心の中でそうつぶやいた。
 湊にとって、感謝を言葉で伝えるのは難しく、それよりも自分らしい接し方が、芽衣への想いを伝える唯一の方法だった。

「鈴城、洗面台、借りてもいい?」

 いつもより少しだけ柔らかい声で聞かれて、芽衣も優しくほほえみ返した。

「好きに使って。私もこっちで用意するから」

 芽衣は、湊が洗面台で身支度をしている音を聞きながら、胸の奥にあたたかさが広がるのを感じた。

(あ、私も行く準備しなきゃ……)

 芽衣は、慌てて姿見の前に立ち、いつもより少し長めに髪をとかしながら、湊のことを思い浮かべた。
 鏡に映る自分を見つめながら、湊の目の奥にはまだ見えない壁があるように感じる。湊が口に出さない感謝の気持ちも、その行動から自然に伝わってくる気がした。

(急がないと……)

 芽衣は、ハンガーにかかっていた制服を手に取り、素早く着替えを始めた。ブラウスのボタンを一つ一つ留めながら、スカートのすそを軽く整える。リボンを手早く結び、最後にもう一度姿見に映る自分をチェックした。

(湊くんが、少しでも心を開いてくれてる気がする。それで、私はもう……)

「鈴城、準備できたら、コンビニ行こうか?」

 芽衣の準備が整ったのを確認した湊は、一瞬ためらった後、控えめに声をかけた。

「あ、うん、今行く」
「もしかして、まだだった?」

 湊は少しバツが悪そうに、頭をかいた。

「急かすつもりないから、ゆっくりでいいよ」
「ゆっくりしすぎると遅刻しちゃうよ」
「別に大丈夫。俺、いつも遅刻してるし、気にすんなよ」

(湊くんってば……。優しいのは嬉しいけど、肝心なところでずれてるんだよね)

 芽衣は苦笑しながら、通学バッグを手に取った。

(でも、こういうところも全部ひっくるめて、やっぱり湊くんなんだよね)

 芽衣は無意識に「湊らしさ」を感じながら、湊を見つめた。

「湊くん、どこのコンビニがいい?」
「ん? 昨日と同じでいいよ。バス停の前にあって、便利そうだったし」

 相変わらず、湊はよく見てるな、と芽衣は思った。

「じゃあ、あそこで買って、中で食べて……。そのままバスに乗ろう。行こ、湊くん」
「え? もう行く? 少し早すぎないか?」
「……湊くん、普通はこれくらいの時間に、みんな学校行くんだよ」

 芽衣がそう言うと、「ふうん」と湊は言いながら、芽衣を見てにっこりとほほえんだ。

「じゃ、そういうことで」

 そのほほえみに、芽衣は一瞬、世界が止まったかのように感じた。
 風の音も、外から聞こえてくる車の音も、なにもかもが消えて、湊と二人きりになる感覚。
 芽衣の胸が高鳴り、湊の顔を思わず直視した。

(もう……、その笑顔、ずるいよ……)

 そんな幸せな時間が長く続いたら、どんなによかっただろう。
 穏やかな時間が過ぎ去り、二人が目にしたのは、消えてしまったコンビニだった。

「湊くん、どうしよう……」

 芽衣は震えながら、ぼんやりとその光景を見ていた。
 確かにそこに、昨日まであったコンビニが、跡形もなく消えている──。
 行きかう人々は、コンビニがなくなっていることになんの疑問も抱かない様子で、その前を通り過ぎていった。
 
「コンビニがなくなってるなんて……、ありえないよね?」
「ああ、普通な」

 嫌な予感ばかり的中して、肝心な手掛かりがまるで見つからない。
 立ち尽くす芽衣を見て、湊は、無言でポケットからスマホを取り出した。

「少し待ってろ……」

 湊の指が画面に触れるたびに、かすかに震えていた。
 わずかな希望を託して、湊の指先がブログの画面を開く──その瞬間、湊の動きが止まった。

 ──もしかして、明日また何かが消えるかもしれない。

 昨日そう書いたブログの後に、誰かが何か書いているかもしれないという期待がよぎる。
 けれど、数秒後、その期待は静かに消え去った。
 湊のブログはそのままで、誰からの返答もなかった。いつも通りの沈黙がそこにあった。

「ダメだ……。誰も見てない」
 湊は、眉間にしわを寄せて、スマホをそっと下ろした。
 苛立ちをにじませながら、口に出さず、ぎゅっとこぶしを握り締める湊を見て、芽衣は胸が痛くなった。

「誰も見てなくても、続けていけばきっと誰かが読むよ」

 芽衣はそう言いながら、なおも落ち込んでいる湊に向かって、ほほえんだ。

「湊くんが書くなら、いつかきっと届くよ。それに……」
 芽衣がいったんそこで言葉を区切ると、湊は顔を上げて、芽衣を見た。
「それに?」
 湊が自分を見たのを確認すると、芽衣は続けた。
「私はずっと湊くんのこと見てるから」
 湊はその言葉に一瞬驚いたように芽衣を見たあと、ゆっくりと表情をゆるめた。
「……鈴城が見ててくれるなら、それでいいかもな」

 お互いの気持ちが重なりあう瞬間があるはずなのに、まるで当てはまらないパズルのピースのように、鈴城と芽衣は、ほんの少しだけ距離をとった。それ以上見つめ合えば、湊は思わず芽衣の髪に手を伸ばしてしまいそうで──、芽衣もまた、湊の腕に手を伸ばし、その腕をつかんでしまいそうで……。お互いに、それが怖かった。

「仕方ない。このまま行くか? 学校」

 少し沈黙が続いた後、湊は短く息を吐き、静かに芽衣を見つめた。
 芽衣がこくんとうなずくのを確認すると、湊はバス停に向かってゆっくりと歩き出した。

「どこまで消えていくんだろうな……」

 並んで歩きながら、湊がそうつぶやくのを聞き、芽衣はきゅっと唇を噛みしめた。

 自分たちの周りから、次々にいろいろなものが消えていく。
 明日何が消えるか分からないという不安と恐怖が、芽衣の心を締めつける──。

 気づけば、芽衣の足は歩道の端で止まり、そこから一歩も動けなくなっていた。

「鈴城、心配するなよ」
「え?」
 
 芽衣が驚いたように湊を見上げると、湊は照れくさそうに目をそらして、少し硬い声で続けた。

「……俺がいるから、なんとかなるだろ。とりあえず、今は学校行こうぜ」

 湊は自分でも驚くほど、自然に芽衣を励まそうとしていることに気づき、少し戸惑った。
『普段なら他人のことなんて、こんなに気にしないはずなのに……。なんでだろう、鈴城のことばっかり気になる……』と心の中で問いかけるが、すぐに答えは見つからなかった。

(湊くんの口から”学校行こう”だなんて……)

 芽衣は、思わずおかしそうに笑い、少し安心したようにほほえんだ。
 湊の不器用な優しさは、今朝の日差しのように、芽衣の心の氷を溶かしていっていた。

 照れ隠しなのか、湊が少しだけ芽衣の前を歩きだす。
 芽衣は、湊の背中を見つめた。まっすぐに伸びた背は高く、朝の日差しを受けて、湊の影が長く伸びている。その背中には余裕があるように見えるものの、ほんの少しだけ緊張が感じられた。
 けれど、そのしっかりとした後ろ姿に、芽衣は安心感を覚え、自然とその背中を追いかけたくなった。
 芽衣が小走りでちょっと走り出すと、湊はすぐにそれに気づいた。

「おい、走るなよ。危ないだろ」
「だって、湊くん、先行っちゃうから」
「仕方ないだろ。バス行っちゃうかもしれないし」

 さっきまで、バスの「バ」の字も言わなかったのに、湊が急にバスのことを言い出して、芽衣はくすっと笑った。
(湊くん、嘘つくの下手だね)
 湊の顔が少し赤くなったのを、芽衣は気づかないふりをしながら、やっぱり少し小走りで、湊のとなりに並んだ。

「……無理すんなって、待ってるから」
「待たせてごめんね、行こ?」

 芽衣がそう言うと、湊は一瞬ためらいながらも、頭をかきながら短く答えた。

「……ああ、行こう」

 言葉は短いが、その言い方にはどこか照れくささが含まれていて、芽衣は少しほほえんだ。

 二人が再び並んで歩きだすと、ちょうど学校へ向かうバスがバス停に到着するのが見えた。
 バスの行先の番号を見て、芽衣はバスを指さして、叫んだ。

「あ、湊くん。あれだ、あのバス!」
「え? あれに乗るのか? 鈴城、走れ!!」
「結局走るんじゃん!!」

 二人がバス停に駆け寄ると、バスのドアがちょうど開くところだった。湊が先にバスに乗り込み、芽衣がそのあとに続いた。

「間に合ったな」と湊が息を整えながら言うと、芽衣もほっとしたようにほほえんだ。

 車内はすでに通勤や通学でにぎわっていて、座席はすべて埋まっていた。

「……やっぱり満員だね」

 芽衣がつぶやくと、湊はドアの近くのつり革に手を伸ばしながら、少しぶっきらぼうに言った。

「まぁ、立ってても問題ないだろ。すぐ着くし」

 そう言いながらも、湊はつり革を握った手で芽衣を気遣うように、そっと隣に立つ彼女のためにスペースを確保する。
 バスが揺れ始め、芽衣が少しよろけると、湊は芽衣を見て優しくほほえんだ。

「どこかつかまれよ、また揺れたら危ないし」

 芽衣は、頭上にあるつり革に手を伸ばしかけたものの、近くの車内の柱にそっと手を伸ばし、しっかりと握った。隣に立つ湊をちらっと見上げると、湊は余裕そうにつり革を握っている。

(湊くんって、やっぱり大きいなあ……)

 湊の背が高いため、何事もないかのように見える姿が、芽衣には少し頼もしく映った。
 けれど、それはただ身長が高いから見える湊の頼もしさではない気がして──。

「……鈴城、なんか考えてる?」

 絶妙なタイミングで湊から声をかけられて、芽衣はどきっとした。

「え? いや、別に……。ただ、湊くんって、なんか……」
「俺が何?」

(何って聞かれると、返答に困るんだけど……。ただ……)

「頼もしいなって、ちょっと思っただけ」
「え? 何?」

 芽衣が言った瞬間、バスの前に歩行者が飛び出したらしく、バスは急ブレーキをかけて、車内が揺れた。
 一瞬、大きな音が響いて、バスは安全を確認すると、再びゆっくりと走り出した。

「鈴城、大丈夫か?」
「あ、うん、湊くんは?」
「俺は平気。ごめん、さっきの何? よく聞こえなかった」

(聞こえなくて、よかったかもしれない……)

 芽衣は一瞬、言葉に詰まり、すぐに顔をそらして窓の外を見つめた。
 トクントクンと自分の胸の鼓動が、芽衣には聞こえる気がした。

「ふうん? 言いたいことあるなら、いつでも言えよ?」
「うん、湊くんもね?」

 気持ちを伝え合うために、声も言葉もあるのに──、その伝え方が難しくて、芽衣はただ唇を噛みしめた。

 バスが学校の最寄りのバス停に着いて、芽衣は湊と並んで歩くのを少しためらった。

「どうした、鈴城? やけに距離置くな」

 無意識に肩幅二つ分ほど、湊と距離を置いて歩く芽衣を見て、湊は首を傾げた。

「えっと……、クラスメートに見つかったら、いろいろまずいかなって」
「ああ、いやか?」
「いやとかじゃなくって……」

(んもう、どうしてこういうときだけ、湊くん鈍感なのよ……)

「鈴城?」

 芽衣が立ち止まると、湊もふと足を止めて彼女を振り返った。

「湊くん、困るんじゃないかなって。みんなに……、からかれたりしたりしたら」
「なんだ、そんなこと」
「そんなことって、どうしてそんなに軽く言えるの!?」

 思わずかっと芽衣がむきになると、湊はふっとほほえんだ。

「俺は気にしないからさ。鈴城は気になる?」
「え……」
「離れて歩こうか?」

 湊から優しい瞳を向けられて、芽衣は涙が出そうになった。

「なんだよ、なんで泣くんだよ?」

 芽衣が唇を噛みしめて、泣きそうな顔をしたのを見て、湊は驚いたように声を上げた。

「鈴城が望むようにしようって、俺、言ったろ?」
「湊くん、そんなの……、反則だよ……」

 芽衣が涙をぬぐうように指先で目元をこすり、湊を見上げると、湊は少し困ったような顔をして、視線をそらした。

『鈴城の泣き顔なんて……、反則すぎるだろ……』

 湊は、困ったように頭をかくと、ふっと息を吐いた。

「……俺に鈴城を泣かせるような力なんて、ないと思うけどな。ほら、もう泣くなって」

 その言葉は湊らしい不器用さを感じさせる一方で、優しさもにじみ出ていた。
 芽衣は、涙を拭いながら、湊を見つめた。

「もう平気? 行けそう?」

 向けられた湊のあたたかい笑顔に、芽衣の胸はとくんと鳴った。
 涙でぼやけた視界の中、湊の笑顔がいつも以上に柔らかく映り──、芽衣は、心の中で湧き上がる感情を抑えながら、小さくほほえんで、湊をじっと見つめた。