湊は、明らかに困っていた。
今まで誰からもそんなふうな反応をされたことがないし、芽衣に対してどういう態度をとっていいか、わからなかったのだ。
「泣かれるの、正直面倒なんだよ。俺がいじめてるみたいじゃんか」
今にも芽衣に背を向けて歩き出しそうな湊を見て、芽衣は必死に泣き止もうとした。
「ごめん」
「いや、別に謝ってほしいわけじゃないし」
湊もまた、言葉を探しているようで、うまく言い表せない自分にひどくもどかしさを感じていた。
「とにかく、あのブログに反応したの、鈴城だけなんだよな。ほかに誰からも、書き込みもメッセージもなかった」
湊は、少し目を細めて、じっとなにかを考えているようだった。
「家が消えたのは、俺と鈴城だけ……。なんでだ?」
芽衣もまた首をひねった。
その理由が、まったくわからない。
「なあ、鈴城。ほかに何か変わったことなかった?」
「私は別に、なにも……。鈴城くんは?」
「俺も、ほかは今まで通りなんだよな。学校に来れば何かわかるかもと思って、今日は朝から来てみたんだけど」
朝から学校に来るのは当たり前なのに、誇らしげに言う湊がおかしくて、芽衣は少し笑った。
「なに? なんか思い出した?」
「ううん、湊くんって、意外と話しやすいなと思って」
「そうか? まあ、いいよ。今朝なんて、敬語だったし」
「えっと、今朝?」
「ほら、今朝、俺がペンケース、落としたとき。拾ってくれただろ?」
そう言われて、芽衣は湊が落としたペンケースを拾って手渡したとき、「これ、ペンケースです」と言ったことを思い出した。
芽衣は、やっぱりおかしかった。
(なんだ、ちゃんと人の話、聞いてるじゃん)
ぶっきらぼうな顔をして、ちゃんと人の話に耳を傾けて、しかも話したことまで覚えている。
なにを話したのか覚えてもいない、ただ輪からはみ出さないように、相手の話に合わせて笑う女子特有の友情より、芽衣は湊の方がずっと話しやすい気がした。
「……手掛かりなしか」
湊はそう言うと、頭上を仰いだ。
「仕方ない。今日学校終わったら、とりあえず、鈴城、君は家に帰るんだ。俺もなにか分かったら、またブログ書くから」
「でも、湊くん、帰るってどこへ? 家、ないんでしょ?」
「まあ、どこか適当に探すよ」
明らかにあてがなさそうな物言いに、芽衣は力強く言い放った。
「ねえ、うちにおいでよ!」
「はあ? 鈴城んち?」
無理、無理、と言いたげに、湊は首を横に振った。
「両親とかいるだろ。俺のこと、なんて言う気だよ」
「困ってるクラスメート」
「あのな、夜中とかに追い出されてみろよ? 警察沙汰になったら、また面倒だろ?」
「大丈夫。ちゃんと説明するから」
「鈴城」
「ブログに書かれたって、わかんないよ! 私はここにいるんだから、ちゃんと私に向かって話してよ!」
湊は少し驚いた様子で芽衣を見つめて、まいったと言わんばかりに首を横に振った。
「……まあ、行かないわけにはいかないか」
湊は、自分を納得させるかのようにそう言うと、芽衣を見た。
「……助かったよ。でも、あんまり深入りすんな」
「え?」
「この件が終われば、俺は鈴城に話しかけないし、鈴城も俺に話しかけるなよ」
「ごめん、私……、湊くん、なにか怒らせるようなことした?」
「はあ? どうしてそうなるんだよ? そうじゃなくて」
めんどくさそうな湊のその物言いに、芽衣はぎゅっと唇を噛みしめた。
湊の次の言葉を聞くのが、芽衣は怖かった。
「俺たち、高3だろ。鈴城が、進学するにしても、就職するにしても、内申書とか大事だろ? 大事にしろよ、残りの高校生活」
そんなふうに言われたら、せっかく止まった涙が、またあふれ出しそうだ、と芽衣は思った。
湊は学校を休みがちだから、知らないかもしれないけれど、芽衣の学校生活は順調とは言えなかった。
湊の言う通り、高3のこの時期、内申書が大事で、登校はしているものの……、芽衣は、一時期、不登校だった。
ちょうど一年前のこの時期、二学期が始まって、芽衣は一変した世界に戸惑った。
クラスメートの誰もが、芽衣を無視し始めたのだ。
あとからそれは、「いじめゲーム」という”ただの”ゲームだと発覚したが、そのときの芽衣の扱いはひどいものだった。
芽衣が話しかけても、誰も返事をしない。
まるでそこにいないかのように、
「え? 今、誰かなにか言った?」
「なに? 聞こえません」
「きゃははは」
そんなふうな会話が日常でなされて、芽衣が三か月間学校へ行かなくなってはじめて、当時の担任が動いてくれた。
それからその『ゲーム』は終わって、日常が戻った。
今は、芽衣にも友達がいる。
ただ芽衣は、その友達がなんなのか、ときどきわからなくなっていた。
一緒にお弁当を食べる、一緒に体操着に着替える、一緒に同じ話題を共有する。
すべて友達に思えるその行為が、芽衣にとってはどれも表面的で、形だけの友情のように感じていた。
けれど、今、この状況で、そんなことを言っても仕方ない、と芽衣は思った。
「わかった、大事にする。でも、私の高校生活だから。好きにする」
芽衣がそう言うと、湊は軽くそっぽを向いて、つぶやいた。
「……勝手にしろ」
言葉こそ冷たいものの、どこか温かみのあるその声に、芽衣は「うん」とすなおにうなずいた。
「とりあえず、戻るか、教室」
「そうだね。あ、今日、午後まで受けるんだよね、授業」
「単位の問題もあるしな」
「そうだよ。湊くん、本当はすごく頭いいんだから。大学だって、きっとどこか受かるよ」
「……どこも受からないとは思ってないよ。鈴城はどうなんだ?」
「私……、私は勉強、ちょっと苦手かな」
成績優秀な湊に、自分の成績のことを言うのは、正直芽衣は気が引けた。
芽衣はちらっと湊の顔色をうかがうと、湊は静かに笑った。
「いいんじゃないの? 好きなことやれよ」
「へえ、湊くんは、うるさくいろいろ言わないんだ?」
「なに、言ってほしいの?」
湊は冗談交じりにそう言うと、教室の方へ戻りながら、ちらっと校舎を見た。
「うちの学校は進学校だもんな。先生も熱くなるさ。まあ、でも、俺たちの人生は、俺たちのものだし」
そう言われると、芽衣は少しだけ心が楽になる気がした。
「けど、いいよ」
「え?」
「ん、今日、世話になるお礼に、鈴城の勉強みても」
湊からそう言われて、芽衣は心臓がどきんと鳴った。
家に招待しただけでもハードルが高いのに、一緒に勉強となると、芽衣の心臓が持ちそうになかった。
「いいよ、いい。今度でいい」
「今度っていつだよ?」
「だから、今度よ!」
芽衣がそう言うと、湊は少し笑って肩をすくめた。
「じゃあ、今度ってのがいつ来るか、楽しみにしとくよ」
(えっ……、楽しみにされちゃうの? そんなこと言われたら、心臓がもたないよ……。どうしよう、次に会うときまでに準備とか……。いや、そんなに考えすぎかな。いやでも、楽しみにしてるって言われたし……。それより、今日、この後のことよ! ああ、もう、落ち着かない!)
午後の授業を受けても、芽衣は、すべて上の空だった。
湊に勢いで「うちにおいでよ!」と言ったものの、いまさらながらにその大胆な言い方に、恥ずかしくなっていた。
それでもマンションが消えたのは事実で、同じ事実を体験している湊が今夜一緒にいてくれることは、とても心強い。
心強さと恥ずかしさが入り混じり、芽衣は椅子に座りながら、四六時中そわそわしていた。
「鈴城、帰ろう」
五時間目が終わると、湊がバッグを持って、芽衣のもとにやってきた。
「帰るって、湊くん、六時間目は?」
「今日、公開授業の日だろ? 俺らのクラスは、公開授業ないから」
「え、ああ、そうだったね」
「だからさっき、掃除と終礼があったじゃないか」
学校にあまり顔を出さないくせに、湊はよく時間割のことを把握していた。
芽衣は心のうちの動揺を湊に悟られたくなくて、視線を腕時計に向けた。
(まだ午後二時二十分か……)
けれど、帰らないわけにはいかない。
芽衣は湊の方に向きなおると、覚悟を決めて「帰ろう!」と言った。
長い坂をくだって、二人でバス停へ向かう帰り道、芽衣は湊から少しだけ離れて歩いた。
妙に距離を置くのも変で、だからといって、寄り添うように歩くのも違う気がした。
帰り道をこうして誰かと歩くのは、久しぶりだった。
バス停で、ほかの誰かと一緒になりたくなくて、帰り道に通る公園にわざとよって、そこに腰かけてよく本を読んだものだ。
学校が終わって、放課後まで、作り笑いするのがいやだった。
芽衣は、いつも通る公園の前を通りかかると、そっと耳を澄ました。
いつも夕方くらいに通るからか、セミがせわしく鳴いている。
今日はまだ昼過ぎとあって、風に揺れる木々が、さわさわと音を立てていた。
静かだった。
湊となにかを話すわけではなく、ただ、時間がゆっくりと流れるのを、芽衣は感じていた。
交差点に差し掛かり、左に折れたところにあるバス停まで歩くと、湊が尋ねた。
「どの路線?」
芽衣は、ちょうど向こうから自分たちに近づいてくるバスを指さした。
「博多駅行のバスよ。あ、ほら、来た」
一本授業が早く終わった今日は、いつもより車内が空いていた。
二人席のシートが空いていて、湊と横並びに座ることを芽衣が躊躇していると、湊が笑った。
「座ったら? 俺、立ってる方が好きだし」
「いいよ、すぐ薬院駅で降りるから」
芽衣は、できるだけ自然にそう言えたことに、ほっとした。
「なあ、鈴城」
湊に呼びかけられて、芽衣が湊を見上げると、湊は少し肩をすくめながらほほえんだ。
「そんなに緊張するなよ。俺、あやしいやつじゃないんだからさ」
そう言われて、芽衣は少し赤くなった。
湊には何も言わなくても、心の内がすべて伝わってしまうようで、心の奥がくすぐられるようだった。
けれど、それが不思議と嫌な感じではなく、むしろ、湊が自分を見てくれていることに少し安心しているような気がして、芽衣はこくんとうなずいた。
バスが発車すると、湊は目を凝らして、外の景色を見た。
「いつもと一緒だな。鈴城、どう? いつもとなにか違う?」
「ううん、いつもと一緒……」
建ち並んだ高層マンション、カフェ、小さな公園……。
停車するバス停も、いつもと変わらない。
湊は困った顔で、遠くの景色を見つめた。
「なるほどね。消えたのは結局、俺たちの家だけか」
バスが薬院駅に着いて、芽衣は湊を見て言った。
「ねえ、コンビニ寄っていかない? うち、何もないし」
「ああ、そうだな。ついでに夕食の弁当も買ってく?」
芽衣は、横断歩道を渡って、湊とコンビニに向かった。
いつもと変わらない景色に、どこかほっとする。
コンビニに着いて、かごにお菓子を入れる芽衣を見て、湊は思わずほほえんだ。
一方、芽衣は、二つのお弁当を持っている湊を見てくすりと笑った。
張りつめていた緊張がふっと解け、二人は顔を見合わせ、軽く笑い合った。
コンビニから、昔住んでいた芽衣のマンションはすぐそこだった。
「ほら、あそこ」
芽衣は、コンビニを出て、角を左に曲がると、真正面に見えるクリーム色の建物を指さした。
エントランスに入り、オートロックのカギを解除しようとしたとき、芽衣は懐かしそうにほほえんだ。
ちょうどどこかから帰宅した明菜さんが、芽衣たちの方に向かって歩いてくるのが見えたのだ。
明菜さんの格好は、いつも違う。
今日はずいぶんとスポーティな格好で、ジムかなにかの帰りのようだった。
芽衣は、すぐにエントランスのカギを開けず、明菜さんがこちらへ来るのを待って、カギを開けた。
「こんにちは」
芽衣が満面の笑みで明菜さんに話しかけると、明菜さんは「こんにちは」と愛想よく答えた。
けれど、ただそれだけで、それ以外になんの反応もなかった。
(あれ……?)
いつもと違う反応に、芽衣は戸惑った。
明菜さんだったら、
「あらー、芽衣ちゃん。今日はお友達と一緒?」
と好奇心いっぱいの目で、どこかからかうように、芽衣を見るはずだ。
それなのに、まるで同じマンションの人にするただの挨拶かのような受け答えに、芽衣はひどく驚いた。
(明菜さん、変に気を遣ったのかな……)
芽衣は複雑な思いでエレベーターへ向かった。
エレベーターのボタンを押して、明菜さんを先に乗せると、湊に先に乗るように目配せした。
「何階?」
芽衣が乗り終わるのを確認したあと、明菜さんはちらっと芽衣を見た。
「え? あ、7階をお願いします」
「あら、同じ階なのね」
明菜さんからにこっとほほえみかけられて、芽衣は背筋がぞっとした。
(私のこと、忘れてる……?!)
明菜さんは、冗談を言っているように見えなかった。
「じゃあ、お先に」
7階に着いて、エレベーターのすぐ前にある部屋の前で止まると、明菜さんは芽衣に軽く会釈した。
「鈴城、おい、どうした?」
「あの人、知ってるの……」
703号室のカギが開いて、明菜さんが中に入るのを確認すると、芽衣は湊に向かって叫んだ。
「あの人、明菜さん! 私、よく知ってるの!」
芽衣は、わなわなと震えながら、起きている現象に、不気味さを感じた。
消えたのは、マンションだけじゃない。
自分のことを忘れられているという事実に、芽衣は胸が締めつけられるような恐怖を感じた。
今まで誰からもそんなふうな反応をされたことがないし、芽衣に対してどういう態度をとっていいか、わからなかったのだ。
「泣かれるの、正直面倒なんだよ。俺がいじめてるみたいじゃんか」
今にも芽衣に背を向けて歩き出しそうな湊を見て、芽衣は必死に泣き止もうとした。
「ごめん」
「いや、別に謝ってほしいわけじゃないし」
湊もまた、言葉を探しているようで、うまく言い表せない自分にひどくもどかしさを感じていた。
「とにかく、あのブログに反応したの、鈴城だけなんだよな。ほかに誰からも、書き込みもメッセージもなかった」
湊は、少し目を細めて、じっとなにかを考えているようだった。
「家が消えたのは、俺と鈴城だけ……。なんでだ?」
芽衣もまた首をひねった。
その理由が、まったくわからない。
「なあ、鈴城。ほかに何か変わったことなかった?」
「私は別に、なにも……。鈴城くんは?」
「俺も、ほかは今まで通りなんだよな。学校に来れば何かわかるかもと思って、今日は朝から来てみたんだけど」
朝から学校に来るのは当たり前なのに、誇らしげに言う湊がおかしくて、芽衣は少し笑った。
「なに? なんか思い出した?」
「ううん、湊くんって、意外と話しやすいなと思って」
「そうか? まあ、いいよ。今朝なんて、敬語だったし」
「えっと、今朝?」
「ほら、今朝、俺がペンケース、落としたとき。拾ってくれただろ?」
そう言われて、芽衣は湊が落としたペンケースを拾って手渡したとき、「これ、ペンケースです」と言ったことを思い出した。
芽衣は、やっぱりおかしかった。
(なんだ、ちゃんと人の話、聞いてるじゃん)
ぶっきらぼうな顔をして、ちゃんと人の話に耳を傾けて、しかも話したことまで覚えている。
なにを話したのか覚えてもいない、ただ輪からはみ出さないように、相手の話に合わせて笑う女子特有の友情より、芽衣は湊の方がずっと話しやすい気がした。
「……手掛かりなしか」
湊はそう言うと、頭上を仰いだ。
「仕方ない。今日学校終わったら、とりあえず、鈴城、君は家に帰るんだ。俺もなにか分かったら、またブログ書くから」
「でも、湊くん、帰るってどこへ? 家、ないんでしょ?」
「まあ、どこか適当に探すよ」
明らかにあてがなさそうな物言いに、芽衣は力強く言い放った。
「ねえ、うちにおいでよ!」
「はあ? 鈴城んち?」
無理、無理、と言いたげに、湊は首を横に振った。
「両親とかいるだろ。俺のこと、なんて言う気だよ」
「困ってるクラスメート」
「あのな、夜中とかに追い出されてみろよ? 警察沙汰になったら、また面倒だろ?」
「大丈夫。ちゃんと説明するから」
「鈴城」
「ブログに書かれたって、わかんないよ! 私はここにいるんだから、ちゃんと私に向かって話してよ!」
湊は少し驚いた様子で芽衣を見つめて、まいったと言わんばかりに首を横に振った。
「……まあ、行かないわけにはいかないか」
湊は、自分を納得させるかのようにそう言うと、芽衣を見た。
「……助かったよ。でも、あんまり深入りすんな」
「え?」
「この件が終われば、俺は鈴城に話しかけないし、鈴城も俺に話しかけるなよ」
「ごめん、私……、湊くん、なにか怒らせるようなことした?」
「はあ? どうしてそうなるんだよ? そうじゃなくて」
めんどくさそうな湊のその物言いに、芽衣はぎゅっと唇を噛みしめた。
湊の次の言葉を聞くのが、芽衣は怖かった。
「俺たち、高3だろ。鈴城が、進学するにしても、就職するにしても、内申書とか大事だろ? 大事にしろよ、残りの高校生活」
そんなふうに言われたら、せっかく止まった涙が、またあふれ出しそうだ、と芽衣は思った。
湊は学校を休みがちだから、知らないかもしれないけれど、芽衣の学校生活は順調とは言えなかった。
湊の言う通り、高3のこの時期、内申書が大事で、登校はしているものの……、芽衣は、一時期、不登校だった。
ちょうど一年前のこの時期、二学期が始まって、芽衣は一変した世界に戸惑った。
クラスメートの誰もが、芽衣を無視し始めたのだ。
あとからそれは、「いじめゲーム」という”ただの”ゲームだと発覚したが、そのときの芽衣の扱いはひどいものだった。
芽衣が話しかけても、誰も返事をしない。
まるでそこにいないかのように、
「え? 今、誰かなにか言った?」
「なに? 聞こえません」
「きゃははは」
そんなふうな会話が日常でなされて、芽衣が三か月間学校へ行かなくなってはじめて、当時の担任が動いてくれた。
それからその『ゲーム』は終わって、日常が戻った。
今は、芽衣にも友達がいる。
ただ芽衣は、その友達がなんなのか、ときどきわからなくなっていた。
一緒にお弁当を食べる、一緒に体操着に着替える、一緒に同じ話題を共有する。
すべて友達に思えるその行為が、芽衣にとってはどれも表面的で、形だけの友情のように感じていた。
けれど、今、この状況で、そんなことを言っても仕方ない、と芽衣は思った。
「わかった、大事にする。でも、私の高校生活だから。好きにする」
芽衣がそう言うと、湊は軽くそっぽを向いて、つぶやいた。
「……勝手にしろ」
言葉こそ冷たいものの、どこか温かみのあるその声に、芽衣は「うん」とすなおにうなずいた。
「とりあえず、戻るか、教室」
「そうだね。あ、今日、午後まで受けるんだよね、授業」
「単位の問題もあるしな」
「そうだよ。湊くん、本当はすごく頭いいんだから。大学だって、きっとどこか受かるよ」
「……どこも受からないとは思ってないよ。鈴城はどうなんだ?」
「私……、私は勉強、ちょっと苦手かな」
成績優秀な湊に、自分の成績のことを言うのは、正直芽衣は気が引けた。
芽衣はちらっと湊の顔色をうかがうと、湊は静かに笑った。
「いいんじゃないの? 好きなことやれよ」
「へえ、湊くんは、うるさくいろいろ言わないんだ?」
「なに、言ってほしいの?」
湊は冗談交じりにそう言うと、教室の方へ戻りながら、ちらっと校舎を見た。
「うちの学校は進学校だもんな。先生も熱くなるさ。まあ、でも、俺たちの人生は、俺たちのものだし」
そう言われると、芽衣は少しだけ心が楽になる気がした。
「けど、いいよ」
「え?」
「ん、今日、世話になるお礼に、鈴城の勉強みても」
湊からそう言われて、芽衣は心臓がどきんと鳴った。
家に招待しただけでもハードルが高いのに、一緒に勉強となると、芽衣の心臓が持ちそうになかった。
「いいよ、いい。今度でいい」
「今度っていつだよ?」
「だから、今度よ!」
芽衣がそう言うと、湊は少し笑って肩をすくめた。
「じゃあ、今度ってのがいつ来るか、楽しみにしとくよ」
(えっ……、楽しみにされちゃうの? そんなこと言われたら、心臓がもたないよ……。どうしよう、次に会うときまでに準備とか……。いや、そんなに考えすぎかな。いやでも、楽しみにしてるって言われたし……。それより、今日、この後のことよ! ああ、もう、落ち着かない!)
午後の授業を受けても、芽衣は、すべて上の空だった。
湊に勢いで「うちにおいでよ!」と言ったものの、いまさらながらにその大胆な言い方に、恥ずかしくなっていた。
それでもマンションが消えたのは事実で、同じ事実を体験している湊が今夜一緒にいてくれることは、とても心強い。
心強さと恥ずかしさが入り混じり、芽衣は椅子に座りながら、四六時中そわそわしていた。
「鈴城、帰ろう」
五時間目が終わると、湊がバッグを持って、芽衣のもとにやってきた。
「帰るって、湊くん、六時間目は?」
「今日、公開授業の日だろ? 俺らのクラスは、公開授業ないから」
「え、ああ、そうだったね」
「だからさっき、掃除と終礼があったじゃないか」
学校にあまり顔を出さないくせに、湊はよく時間割のことを把握していた。
芽衣は心のうちの動揺を湊に悟られたくなくて、視線を腕時計に向けた。
(まだ午後二時二十分か……)
けれど、帰らないわけにはいかない。
芽衣は湊の方に向きなおると、覚悟を決めて「帰ろう!」と言った。
長い坂をくだって、二人でバス停へ向かう帰り道、芽衣は湊から少しだけ離れて歩いた。
妙に距離を置くのも変で、だからといって、寄り添うように歩くのも違う気がした。
帰り道をこうして誰かと歩くのは、久しぶりだった。
バス停で、ほかの誰かと一緒になりたくなくて、帰り道に通る公園にわざとよって、そこに腰かけてよく本を読んだものだ。
学校が終わって、放課後まで、作り笑いするのがいやだった。
芽衣は、いつも通る公園の前を通りかかると、そっと耳を澄ました。
いつも夕方くらいに通るからか、セミがせわしく鳴いている。
今日はまだ昼過ぎとあって、風に揺れる木々が、さわさわと音を立てていた。
静かだった。
湊となにかを話すわけではなく、ただ、時間がゆっくりと流れるのを、芽衣は感じていた。
交差点に差し掛かり、左に折れたところにあるバス停まで歩くと、湊が尋ねた。
「どの路線?」
芽衣は、ちょうど向こうから自分たちに近づいてくるバスを指さした。
「博多駅行のバスよ。あ、ほら、来た」
一本授業が早く終わった今日は、いつもより車内が空いていた。
二人席のシートが空いていて、湊と横並びに座ることを芽衣が躊躇していると、湊が笑った。
「座ったら? 俺、立ってる方が好きだし」
「いいよ、すぐ薬院駅で降りるから」
芽衣は、できるだけ自然にそう言えたことに、ほっとした。
「なあ、鈴城」
湊に呼びかけられて、芽衣が湊を見上げると、湊は少し肩をすくめながらほほえんだ。
「そんなに緊張するなよ。俺、あやしいやつじゃないんだからさ」
そう言われて、芽衣は少し赤くなった。
湊には何も言わなくても、心の内がすべて伝わってしまうようで、心の奥がくすぐられるようだった。
けれど、それが不思議と嫌な感じではなく、むしろ、湊が自分を見てくれていることに少し安心しているような気がして、芽衣はこくんとうなずいた。
バスが発車すると、湊は目を凝らして、外の景色を見た。
「いつもと一緒だな。鈴城、どう? いつもとなにか違う?」
「ううん、いつもと一緒……」
建ち並んだ高層マンション、カフェ、小さな公園……。
停車するバス停も、いつもと変わらない。
湊は困った顔で、遠くの景色を見つめた。
「なるほどね。消えたのは結局、俺たちの家だけか」
バスが薬院駅に着いて、芽衣は湊を見て言った。
「ねえ、コンビニ寄っていかない? うち、何もないし」
「ああ、そうだな。ついでに夕食の弁当も買ってく?」
芽衣は、横断歩道を渡って、湊とコンビニに向かった。
いつもと変わらない景色に、どこかほっとする。
コンビニに着いて、かごにお菓子を入れる芽衣を見て、湊は思わずほほえんだ。
一方、芽衣は、二つのお弁当を持っている湊を見てくすりと笑った。
張りつめていた緊張がふっと解け、二人は顔を見合わせ、軽く笑い合った。
コンビニから、昔住んでいた芽衣のマンションはすぐそこだった。
「ほら、あそこ」
芽衣は、コンビニを出て、角を左に曲がると、真正面に見えるクリーム色の建物を指さした。
エントランスに入り、オートロックのカギを解除しようとしたとき、芽衣は懐かしそうにほほえんだ。
ちょうどどこかから帰宅した明菜さんが、芽衣たちの方に向かって歩いてくるのが見えたのだ。
明菜さんの格好は、いつも違う。
今日はずいぶんとスポーティな格好で、ジムかなにかの帰りのようだった。
芽衣は、すぐにエントランスのカギを開けず、明菜さんがこちらへ来るのを待って、カギを開けた。
「こんにちは」
芽衣が満面の笑みで明菜さんに話しかけると、明菜さんは「こんにちは」と愛想よく答えた。
けれど、ただそれだけで、それ以外になんの反応もなかった。
(あれ……?)
いつもと違う反応に、芽衣は戸惑った。
明菜さんだったら、
「あらー、芽衣ちゃん。今日はお友達と一緒?」
と好奇心いっぱいの目で、どこかからかうように、芽衣を見るはずだ。
それなのに、まるで同じマンションの人にするただの挨拶かのような受け答えに、芽衣はひどく驚いた。
(明菜さん、変に気を遣ったのかな……)
芽衣は複雑な思いでエレベーターへ向かった。
エレベーターのボタンを押して、明菜さんを先に乗せると、湊に先に乗るように目配せした。
「何階?」
芽衣が乗り終わるのを確認したあと、明菜さんはちらっと芽衣を見た。
「え? あ、7階をお願いします」
「あら、同じ階なのね」
明菜さんからにこっとほほえみかけられて、芽衣は背筋がぞっとした。
(私のこと、忘れてる……?!)
明菜さんは、冗談を言っているように見えなかった。
「じゃあ、お先に」
7階に着いて、エレベーターのすぐ前にある部屋の前で止まると、明菜さんは芽衣に軽く会釈した。
「鈴城、おい、どうした?」
「あの人、知ってるの……」
703号室のカギが開いて、明菜さんが中に入るのを確認すると、芽衣は湊に向かって叫んだ。
「あの人、明菜さん! 私、よく知ってるの!」
芽衣は、わなわなと震えながら、起きている現象に、不気味さを感じた。
消えたのは、マンションだけじゃない。
自分のことを忘れられているという事実に、芽衣は胸が締めつけられるような恐怖を感じた。