──いつもの場所に、またあの捨て猫がいた。俺を見ると、寄ってきた。ネコなら、寄ってきてくれるのに。
──感情を出すのは、得意じゃない。出したところで、誰かが気づいてくれるとは限らないからね。
──グラウンドから歓声が聞こえてくる。俺とは180度違う生き方。高校生活って、こんなものかも。
あの日のブログ、最後に更新されたのは八月九日。それから、湊のブログは動かなくなった。
それでも、ブログはネットの海に漂い続けた。
「ねえ、知ってる? 検索しちゃダメなブログがあるって話……」
秋の風が冷たくなり、冬が静かに近づいていた。季節が変わっても、教室の片隅では紀香が話の中心となり、女子たちのひそひそ話が続いていた。その輪から外れた少し離れた場所では、夏帆が男子たちと笑いあいながら、楽しそうに話をしていた。夏帆の明るい声が教室に響き、かつての派手さを失わずに、違う場所で新しい居場所を見つけていた。
「何それ? 怖い話?」
浩平が少し興味を持ち、女子たちの話に近づくと、横目で紀香を見ながら尋ねた。
「うん、ネットでうわさになってるんだ。なんかね、そのブログ読んだ人、事故とか急に倒れたりして死んじゃうんだって……」
「いまどきブログ? 配信とかの方がおもしろくね?」
浩平が笑って肩をすくめると、紀香は少しむっとした表情で口をとがらせた。
「去年、そのブログ読んだ子が、突然死したっていう記事、出てたんだよ! 読むと誰かに呼ばれるって……」
「呼ばれる? 誰に?」
「わかんない……。でも、その子の友達が言うには、“あの世から”って……」
紀香は顔をしかめ、ちょっとした興味と不安の混ざった表情を浮かべた。
「はあ? またそういう作り話でしょ?」
「いや、ほんとだって!」
「で? ……そのブログ、今も見れるわけ?」
「見れるよ。でも……、絶対に開いちゃいけないらしいから……」
その場の空気が一瞬、冷たくなって、紀香は困ったように浩平を見つめた。
「じゃあ、開いてみろよ、紀香」
浩平がからかうように笑うと、紀香は体を固くした。
「えっ、あたし?」
「おい、そんなに怖がるなよ。ただのブログだろ?」
「……無責任だなあ。もし何かあったら、浩平が助けてくれるとは思えないよ」
「わかってるじゃん?」
楽しそうに笑う浩平の隣で、紀香は動揺しながらも、その視線に押されて、しぶしぶスマホを取り出した。
それでも紀香がためらっていると、浩平は紀香の手から彼女のスマホをひょいと取り上げると、スマホを操作しだした。
「ほんとびびりだよな。絶対に開くなって言われると、なんか開きたくなるよな」
浩平がブログを検索しだした瞬間、教室の外から聞こえていた雑踏や遠くのグラウンドの歓声が、急に静まり返ったように感じた。紀香は思わず耳を澄ましたが、何も聞こえない。まるで教室だけが切り離されたかのように、不気味な静けさが広がっていた。
「ちょっと、やめとこうよ……なんか嫌な感じするし……」
紀香は小さく声を上げるが、浩平はスマホを操作し続けた。
「これか……“八月九日”ってタイトルだな……。」
スマホの画面に表示されたブログのページ──。
最後の投稿の日付が、浩平の目に入り、「開くぜ?」と浩平が紀香に向かって言ったその瞬間、画面が一瞬、暗転した。
うっすらと低い音が響き始めて、紀香は震えながら、耳をふさごうとした。
「ちょっと、もういいって! もうやめよ……」
「ただのバグだろ? 何びびってんだよ……」
浩平は、そんな紀香の腕を笑いながら振りほどいた。次の瞬間、再びブログのページが現れ始めた。ぼんやりと画面が映ったり消えたりし、そのたびに文字が揺れ、まるでページが息をしているかのようだった。
「おい……。何だよ、これ……」
突然、揺れる画面に白い指先がゆっくりと浮かび上がった。指先が画面をなぞり、スクロールしていく。薬指に巻かれた赤いリボンが揺れて、スマホの電源を切ろうとする浩平の手を止めた。浩平は背筋が凍りつくのを感じながら、自分の手をつかむ指先のリボンを見つめた。
その瞬間、スマホのスピーカーから、かすかな声が漏れ出した。
「見てるよ……」
二人とも、その声がどこから聞こえたのか分からず、顔を見合わせた。
「な、何だ、今の……?」
浩平がスマホを睨みつけ、紀香は震える手で浩平の袖を掴んだ。
「ねえ、もう本当にやめよ……」
けれど、ブログを見た者を自分たちの世界へいざなうかのように、芽衣の指先とともに、赤いリボンで薬指がつながった腕が画面から出てきて、浩平の手を握りしめたまま離さなかった。その手は冷たく、ゆっくりと浩平の体温を奪っていった。指先が徐々に感覚を失い、その冷たさは、まるで長い間誰かが抱え続けた孤独や悲しみがにじみ出るようだった。目の前にいるのは誰なのか、なぜこの感覚がこんなにも胸を締め付けるのか──その理由が、浩平にはまだわからなかった。そのまま一気に全身の体温までをも奪われそうで、浩平は悲鳴を上げた。が、その悲鳴は、一瞬でかき消された。
もう片方の腕が、浩平の口元まで伸びて、そこに氷の砂利を詰め込んだ。
「……?!」
浩平が混乱していると、どこか遠くから低いささやき声が、浩平の耳元で「見て」とささやいた。
驚きながら浩平は、画面に目をやった。その画面には、ただ一言だけ……。
『やっと、君に届いたよ……』
その瞬間、浩平はふと、画面の向こうに誰かの強い思いがこもっていることに気づいた。
──どこか聞き覚えがある声。
けれど、その正体をつかみきれずにいると、氷のように冷たい爪が、空気を裂いて伸びてきた。
薬指に巻かれた赤いリボンがかすかに揺れ、その氷の爪がゆっくりと、しかし確実に浩平の腕へと向かって突き刺さる。爪が腕を深く刺した瞬間、冷たさとともに鋭い痛みが浩平の全身を走り抜け、血がにじみ出た。
浩平は絶望感に凍りついたまま、腕を見下ろした。腕に刻まれるアルファベット──M、I、N、A、T……。
最後の「O」を刻む前に、浩平は頭上を仰いだ。
「ああ……」
声が出ない。湊だ。湊がここにいる。
「……おまえなのか、湊……」
ようやく心に浮かんだその言葉は、氷の砂利にふさがれて声にすることはできなかった。
湊は、いつも誰かに見つけてもらいたくて、寂しさを無関心さを装うことで隠しながら、静かに周囲を見つめていた。その思いが叶った瞬間、冷たかった氷は少しだけ溶けたが、もう手遅れだった。口の中であふれる砂利が唾液と混じり、浩平に鋭い苦みを与えていく。それはまるで、湊がずっと感じていた孤独──心の奥に閉じ込め、誰にも気づかれないまま積もり続けた悲しみの味だった。
砂利は、ゆっくりと浩平の中に入り込み、喉にはりつき、浩平の呼吸を奪っていった。浩平の顔がみるみる青ざめ、全身から力が抜け落ちていく。その瞬間、浩平は画面の向こう、湊の瞳と視線が交わった。
『俺のこと、やっと見てくれたんだね……。ずっと、こうなるのを待ってたんだ……。これからはずっと友達だね……』
湊は、静かにほほえみかけた。
それは、単なる恐怖ではなく、誰かに理解してほしいという、湊の最後の叫びだった。
湊の願いは叶った。けれど、その思いは「恐怖」という違う形で──。
氷の砂利も、心から愛する人がいれば、愛してくれる人がいれば──。冷たい氷は砂糖菓子のように甘く溶けて、消えてしまうのだろう。胸の中に積もった孤独や痛みは浄化され、氷の腕も溶けて消えるはずだった。
湊と芽衣は、向こう側の世界から、氷のような微笑を浮かべて紀香と夏帆を見つめていた。紀香は一瞬、ふと窓の外に目をやり、冷たい風が肌をなでる感覚を感じた。それはまるで、誰かが自分を見つめているような気がした。しかし、その感覚はすぐに消え、紀香は首を振った。夏帆もまた、ふと一瞬だけ湊たちの方を見つめ、かすかな違和感を感じたものの、何もなかったかのように目を伏せて、男子たちの輪で笑い続けた。彼女たちの無視が、氷の砂利を冷たい刃に変えて浩平の喉元を深く切り裂いた。
「ねえ、どうして紀香は……、浩平を助けないの?」
肉体を持たない芽衣が、向こう側の世界から、湊に尋ねた。
「見て見ぬふりなんだろう?」
「じゃあ、どうして夏帆は……、浩平を助けないの?」
「もう彼女の視界に、彼がいないだからだろう?」
「ふうん……。じゃあ、どうして湊は……、浩平を助けないの?」
芽衣が聞くと、湊は優しくほほえんだ。
「助けようよ。こっち側の──俺たちの世界で」
湊のその言葉に、浩平はかっと目を開き、唇を震わせた。心の奥に潜む不安と温もりが交錯する。浩平のほほに一筋、涙が流れ落ちた。その涙を見て、湊と芽衣の孤独が、ほんの少しだけ溶けて消えたような気がした。
「ねえ、誰か先生、呼んできて!」
「ダメ、間に合わない!」
遠い昔、いつか聞いたことのあるセリフが、教室中に響いた。
ただあのときと一つだけ違うのは、緊迫感あふれた教室で、誰も浩平の元に駆け寄り、彼の手をぐっと引き寄せる人がいないということだった。
ざわめく教室の窓の外から、小さく「にゃあ」という鳴き声が響いた。今日からもう一人、”新しい友達”が加わった──ネコはしっぽを高く上げて嬉しそうに、浩平のそばに寄り添ってきた。その瞬間、ネコの透き通る体が、まるで光に溶け込むように、浩平の心に温かな優しさを届けた。
「なんだ、かわいいやつだな……。おまえも一緒なのか」
浩平は心の中でつぶやき、自分のほほを舐めるネコの舌先を感じながら、最後にほほえんだ。浩平の胸にも知らず知らずのうちに積もっていた孤独や痛みが、少しずつ解きほぐされ、穏やかな静けさが広がっていく。浩平は、かつて過ごした無邪気な日々の思い出がよみがえり、涙がこみ上げてきた。その中には、湊と過ごした思い出もあって──、浩平の記憶の中で再び息を吹き返すかのようだった。
「浩平、覚えてる? あの夏、臨海学校で海に行ったとき」
「おまえ、波に飲まれて大騒ぎになったよな。すごい距離行ってたし!」
「あのときは助けてくれてありがとう。浩平がいなかったら、どうなってたか……」
「おまえ、無茶しすぎだよ。鈴城のときも、一番早かったし。でも、その向こう見ずなところ、俺は結構好きなんだよな。それにあのときは、見てられなかったからな」
「浩平、本当は優しいんだね。俺、わかってるよ」
「はあ? 俺は優しいんだよ! 周りから理解されないだけで」
「俺が理解者第一号になろうか? 浩平、これからも、ずっと友達でいてよ」
「当たり前だろ! おまえのこと、もっと好きになるかもしれないからな!」
「俺もだよ、浩平」
「──私もよ……」
降り注ぐ日差しの中、湊と芽衣の温かい声が心に響き、浩平は静かに眠りに落ちた。
同じ時間と同じ気持ちを共有していれば、いつの間にか気持ちはつながりあって、無意識に友達になっている。
氷の砂利も、氷の爪もゆっくりと消えて、ただただ無の静けさだけが残った。
世界のどこかで、必ず自分のことを理解してくれる誰かがいる。
その誰かは、自分の心をそっと受け止め、きっと包み込んでくれる。
それがたとえ向こう側の世界でも、心が触れ合う瞬間、つながる。
だから、もう誰も、ひとりぼっちじゃない……。
──八月九日のブログは、今もネットの片隅に、誰も知らない場所で静かに残り続けている。
そこへ一度でもクリックすれば、もう元には戻れない。
クリック一つで扉が開く。知らずに開いたその瞬間、静かに、不気味な笑顔で、君の背後にも──誰かが……。
最後に更新された湊のブログを知る人は、誰もいない。
『ねえ、そこの君。これからも友だちでいてくれる? 俺のブログ、見つけてみてよ。君の心の中に、俺がいる限り、俺たちは決して離れないから……』
──感情を出すのは、得意じゃない。出したところで、誰かが気づいてくれるとは限らないからね。
──グラウンドから歓声が聞こえてくる。俺とは180度違う生き方。高校生活って、こんなものかも。
あの日のブログ、最後に更新されたのは八月九日。それから、湊のブログは動かなくなった。
それでも、ブログはネットの海に漂い続けた。
「ねえ、知ってる? 検索しちゃダメなブログがあるって話……」
秋の風が冷たくなり、冬が静かに近づいていた。季節が変わっても、教室の片隅では紀香が話の中心となり、女子たちのひそひそ話が続いていた。その輪から外れた少し離れた場所では、夏帆が男子たちと笑いあいながら、楽しそうに話をしていた。夏帆の明るい声が教室に響き、かつての派手さを失わずに、違う場所で新しい居場所を見つけていた。
「何それ? 怖い話?」
浩平が少し興味を持ち、女子たちの話に近づくと、横目で紀香を見ながら尋ねた。
「うん、ネットでうわさになってるんだ。なんかね、そのブログ読んだ人、事故とか急に倒れたりして死んじゃうんだって……」
「いまどきブログ? 配信とかの方がおもしろくね?」
浩平が笑って肩をすくめると、紀香は少しむっとした表情で口をとがらせた。
「去年、そのブログ読んだ子が、突然死したっていう記事、出てたんだよ! 読むと誰かに呼ばれるって……」
「呼ばれる? 誰に?」
「わかんない……。でも、その子の友達が言うには、“あの世から”って……」
紀香は顔をしかめ、ちょっとした興味と不安の混ざった表情を浮かべた。
「はあ? またそういう作り話でしょ?」
「いや、ほんとだって!」
「で? ……そのブログ、今も見れるわけ?」
「見れるよ。でも……、絶対に開いちゃいけないらしいから……」
その場の空気が一瞬、冷たくなって、紀香は困ったように浩平を見つめた。
「じゃあ、開いてみろよ、紀香」
浩平がからかうように笑うと、紀香は体を固くした。
「えっ、あたし?」
「おい、そんなに怖がるなよ。ただのブログだろ?」
「……無責任だなあ。もし何かあったら、浩平が助けてくれるとは思えないよ」
「わかってるじゃん?」
楽しそうに笑う浩平の隣で、紀香は動揺しながらも、その視線に押されて、しぶしぶスマホを取り出した。
それでも紀香がためらっていると、浩平は紀香の手から彼女のスマホをひょいと取り上げると、スマホを操作しだした。
「ほんとびびりだよな。絶対に開くなって言われると、なんか開きたくなるよな」
浩平がブログを検索しだした瞬間、教室の外から聞こえていた雑踏や遠くのグラウンドの歓声が、急に静まり返ったように感じた。紀香は思わず耳を澄ましたが、何も聞こえない。まるで教室だけが切り離されたかのように、不気味な静けさが広がっていた。
「ちょっと、やめとこうよ……なんか嫌な感じするし……」
紀香は小さく声を上げるが、浩平はスマホを操作し続けた。
「これか……“八月九日”ってタイトルだな……。」
スマホの画面に表示されたブログのページ──。
最後の投稿の日付が、浩平の目に入り、「開くぜ?」と浩平が紀香に向かって言ったその瞬間、画面が一瞬、暗転した。
うっすらと低い音が響き始めて、紀香は震えながら、耳をふさごうとした。
「ちょっと、もういいって! もうやめよ……」
「ただのバグだろ? 何びびってんだよ……」
浩平は、そんな紀香の腕を笑いながら振りほどいた。次の瞬間、再びブログのページが現れ始めた。ぼんやりと画面が映ったり消えたりし、そのたびに文字が揺れ、まるでページが息をしているかのようだった。
「おい……。何だよ、これ……」
突然、揺れる画面に白い指先がゆっくりと浮かび上がった。指先が画面をなぞり、スクロールしていく。薬指に巻かれた赤いリボンが揺れて、スマホの電源を切ろうとする浩平の手を止めた。浩平は背筋が凍りつくのを感じながら、自分の手をつかむ指先のリボンを見つめた。
その瞬間、スマホのスピーカーから、かすかな声が漏れ出した。
「見てるよ……」
二人とも、その声がどこから聞こえたのか分からず、顔を見合わせた。
「な、何だ、今の……?」
浩平がスマホを睨みつけ、紀香は震える手で浩平の袖を掴んだ。
「ねえ、もう本当にやめよ……」
けれど、ブログを見た者を自分たちの世界へいざなうかのように、芽衣の指先とともに、赤いリボンで薬指がつながった腕が画面から出てきて、浩平の手を握りしめたまま離さなかった。その手は冷たく、ゆっくりと浩平の体温を奪っていった。指先が徐々に感覚を失い、その冷たさは、まるで長い間誰かが抱え続けた孤独や悲しみがにじみ出るようだった。目の前にいるのは誰なのか、なぜこの感覚がこんなにも胸を締め付けるのか──その理由が、浩平にはまだわからなかった。そのまま一気に全身の体温までをも奪われそうで、浩平は悲鳴を上げた。が、その悲鳴は、一瞬でかき消された。
もう片方の腕が、浩平の口元まで伸びて、そこに氷の砂利を詰め込んだ。
「……?!」
浩平が混乱していると、どこか遠くから低いささやき声が、浩平の耳元で「見て」とささやいた。
驚きながら浩平は、画面に目をやった。その画面には、ただ一言だけ……。
『やっと、君に届いたよ……』
その瞬間、浩平はふと、画面の向こうに誰かの強い思いがこもっていることに気づいた。
──どこか聞き覚えがある声。
けれど、その正体をつかみきれずにいると、氷のように冷たい爪が、空気を裂いて伸びてきた。
薬指に巻かれた赤いリボンがかすかに揺れ、その氷の爪がゆっくりと、しかし確実に浩平の腕へと向かって突き刺さる。爪が腕を深く刺した瞬間、冷たさとともに鋭い痛みが浩平の全身を走り抜け、血がにじみ出た。
浩平は絶望感に凍りついたまま、腕を見下ろした。腕に刻まれるアルファベット──M、I、N、A、T……。
最後の「O」を刻む前に、浩平は頭上を仰いだ。
「ああ……」
声が出ない。湊だ。湊がここにいる。
「……おまえなのか、湊……」
ようやく心に浮かんだその言葉は、氷の砂利にふさがれて声にすることはできなかった。
湊は、いつも誰かに見つけてもらいたくて、寂しさを無関心さを装うことで隠しながら、静かに周囲を見つめていた。その思いが叶った瞬間、冷たかった氷は少しだけ溶けたが、もう手遅れだった。口の中であふれる砂利が唾液と混じり、浩平に鋭い苦みを与えていく。それはまるで、湊がずっと感じていた孤独──心の奥に閉じ込め、誰にも気づかれないまま積もり続けた悲しみの味だった。
砂利は、ゆっくりと浩平の中に入り込み、喉にはりつき、浩平の呼吸を奪っていった。浩平の顔がみるみる青ざめ、全身から力が抜け落ちていく。その瞬間、浩平は画面の向こう、湊の瞳と視線が交わった。
『俺のこと、やっと見てくれたんだね……。ずっと、こうなるのを待ってたんだ……。これからはずっと友達だね……』
湊は、静かにほほえみかけた。
それは、単なる恐怖ではなく、誰かに理解してほしいという、湊の最後の叫びだった。
湊の願いは叶った。けれど、その思いは「恐怖」という違う形で──。
氷の砂利も、心から愛する人がいれば、愛してくれる人がいれば──。冷たい氷は砂糖菓子のように甘く溶けて、消えてしまうのだろう。胸の中に積もった孤独や痛みは浄化され、氷の腕も溶けて消えるはずだった。
湊と芽衣は、向こう側の世界から、氷のような微笑を浮かべて紀香と夏帆を見つめていた。紀香は一瞬、ふと窓の外に目をやり、冷たい風が肌をなでる感覚を感じた。それはまるで、誰かが自分を見つめているような気がした。しかし、その感覚はすぐに消え、紀香は首を振った。夏帆もまた、ふと一瞬だけ湊たちの方を見つめ、かすかな違和感を感じたものの、何もなかったかのように目を伏せて、男子たちの輪で笑い続けた。彼女たちの無視が、氷の砂利を冷たい刃に変えて浩平の喉元を深く切り裂いた。
「ねえ、どうして紀香は……、浩平を助けないの?」
肉体を持たない芽衣が、向こう側の世界から、湊に尋ねた。
「見て見ぬふりなんだろう?」
「じゃあ、どうして夏帆は……、浩平を助けないの?」
「もう彼女の視界に、彼がいないだからだろう?」
「ふうん……。じゃあ、どうして湊は……、浩平を助けないの?」
芽衣が聞くと、湊は優しくほほえんだ。
「助けようよ。こっち側の──俺たちの世界で」
湊のその言葉に、浩平はかっと目を開き、唇を震わせた。心の奥に潜む不安と温もりが交錯する。浩平のほほに一筋、涙が流れ落ちた。その涙を見て、湊と芽衣の孤独が、ほんの少しだけ溶けて消えたような気がした。
「ねえ、誰か先生、呼んできて!」
「ダメ、間に合わない!」
遠い昔、いつか聞いたことのあるセリフが、教室中に響いた。
ただあのときと一つだけ違うのは、緊迫感あふれた教室で、誰も浩平の元に駆け寄り、彼の手をぐっと引き寄せる人がいないということだった。
ざわめく教室の窓の外から、小さく「にゃあ」という鳴き声が響いた。今日からもう一人、”新しい友達”が加わった──ネコはしっぽを高く上げて嬉しそうに、浩平のそばに寄り添ってきた。その瞬間、ネコの透き通る体が、まるで光に溶け込むように、浩平の心に温かな優しさを届けた。
「なんだ、かわいいやつだな……。おまえも一緒なのか」
浩平は心の中でつぶやき、自分のほほを舐めるネコの舌先を感じながら、最後にほほえんだ。浩平の胸にも知らず知らずのうちに積もっていた孤独や痛みが、少しずつ解きほぐされ、穏やかな静けさが広がっていく。浩平は、かつて過ごした無邪気な日々の思い出がよみがえり、涙がこみ上げてきた。その中には、湊と過ごした思い出もあって──、浩平の記憶の中で再び息を吹き返すかのようだった。
「浩平、覚えてる? あの夏、臨海学校で海に行ったとき」
「おまえ、波に飲まれて大騒ぎになったよな。すごい距離行ってたし!」
「あのときは助けてくれてありがとう。浩平がいなかったら、どうなってたか……」
「おまえ、無茶しすぎだよ。鈴城のときも、一番早かったし。でも、その向こう見ずなところ、俺は結構好きなんだよな。それにあのときは、見てられなかったからな」
「浩平、本当は優しいんだね。俺、わかってるよ」
「はあ? 俺は優しいんだよ! 周りから理解されないだけで」
「俺が理解者第一号になろうか? 浩平、これからも、ずっと友達でいてよ」
「当たり前だろ! おまえのこと、もっと好きになるかもしれないからな!」
「俺もだよ、浩平」
「──私もよ……」
降り注ぐ日差しの中、湊と芽衣の温かい声が心に響き、浩平は静かに眠りに落ちた。
同じ時間と同じ気持ちを共有していれば、いつの間にか気持ちはつながりあって、無意識に友達になっている。
氷の砂利も、氷の爪もゆっくりと消えて、ただただ無の静けさだけが残った。
世界のどこかで、必ず自分のことを理解してくれる誰かがいる。
その誰かは、自分の心をそっと受け止め、きっと包み込んでくれる。
それがたとえ向こう側の世界でも、心が触れ合う瞬間、つながる。
だから、もう誰も、ひとりぼっちじゃない……。
──八月九日のブログは、今もネットの片隅に、誰も知らない場所で静かに残り続けている。
そこへ一度でもクリックすれば、もう元には戻れない。
クリック一つで扉が開く。知らずに開いたその瞬間、静かに、不気味な笑顔で、君の背後にも──誰かが……。
最後に更新された湊のブログを知る人は、誰もいない。
『ねえ、そこの君。これからも友だちでいてくれる? 俺のブログ、見つけてみてよ。君の心の中に、俺がいる限り、俺たちは決して離れないから……』