芽衣は、さっと血の気が引いた思いだった。
三か月前、転居するとき、確かにお母さんが転居届を出すのを見た。
お父さんが「株主優待券が届くからな。届出は頼むよ」と言っていたのを覚えている。
そういうなら「お父さんが自分でやればいいのに」とも思ったけれど、それは言わなかった。
そこまで詳細に覚えているし、そのあと、株主優待券が届いたことをお母さんが、お父さんに話していた。
転居届は、きちんと出されていた。
なのに自分宛てに郵便物が届いていたことを知って、芽衣は激しく動揺した。
夏期講習の案内は、芽衣が今住む、新しいマンションの住所に届いていた。
なのに、その次の案内が、また元のマンションに届いているのはどう考えても変だ。
どうせ自分宛てに届いた郵便物だ、開封しても構わない、そんな気持ちで、芽衣はびりっと封筒の上部を破いた。
中を開封すると、「2学期 後期入学 受付中」と書かれた案内が入っていた。
二学期となると、ちょうど今だ。
まさに今、タイムリーな話題で、おかしなことはない。
(でも、どうして、ここに……)
芽衣は、もう一度、じっと見た。
すると、見ていた文字が、どことなくぼやけて見えてきた。
後期入学の「入」という字が、カタカナの「ノ」に変わって、学という字は、「子」という字に見えてくる。
ぼやけていった文字を見ようと、目を細めても、なぜか文字が読めなくて、芽衣はひたいから汗が噴き出すような感覚に襲われた。
(なに、なんなの、この手紙!?)
気持ち悪い! そう思って、手紙を放り投げたときだった。
「ダメじゃない。ちゃんとゴミ箱に入れないと」
そこに帰宅したばかりのお母さんが立っていた。
仕事帰りだというのに、相変わらず、髪をきっちりと後ろで結び直して、動きやすいカジュアルな服装に身を包んでいるものの、その姿に乱れは見当たらない。
お母さんは落ちていた手紙を拾い上げると、しばらくそれを見つめたあと、芽衣に視線を向けた。
「それに、これ、ただのチラシじゃないわよ。あなた宛てに届いた手紙でしょ?」
「お母さん、さわっちゃダメ! その手紙、変なのよ!」
「変って、なにが?」
お母さんは、ロックされたダイヤルのカギの数字をあわせ、解除をすると、中から残りの郵便物を取り出した。
「あなたねえ、自分の分だけ取り出さないで、ほかのもちゃんとお願いよ」
「だから、お母さん、その手紙!」
「もう、なに?」
ややあきれ顔で言われて、芽衣はむっとした。
こんなに自分が熱心に話をしているのに、またお母さんは話を聞いてくれない。
「なに?」と面倒くさそうに言われると、それ以上、なにも言えなくなってしまう。
お母さんは一度外に出て、エントランスへ回り、オートロックの玄関を解除した。
「さあ、ほら、早く、芽衣もいらっしゃい」
足早に中へ入っていくお母さんの背中を見ながら、芽衣もあとに続いた。
「なにが変なのよ? ただの塾の案内でしょ?」
エレベーターが来るのを待っている間、お母さんは、娘から奇妙だと言われた手紙をしげしげと見ていた。
「だって、さっき、文字が消えたのよ!」
「そんなことあるわけないでしょ?」
「本当よ!」
「目の疲れよ」
お母さんに軽く受け流されて、芽衣は唇をぎゅっと噛んだ。
エレベーターが一階に到着すると、芽衣は「もういい!」とお母さんに背中を向けて、背中側のドアを開けた。
「私、階段で行く」
「じゃあ、またあとで。3階でね」
お母さんは、芽衣がなにを怒っているのか、まるでわからないといった様子でため息をついた。
その光景が、ますます芽衣をいらだたせた。
なにかが違う。なにか変だ。
けれど、その微妙なずれを認識できるのは芽衣だけで、ほかに相談できる人はいなかった。
急いで階段を駆け上ったものの、結局、芽衣とお母さんが3階に到着したのはほぼ同時だった。
お母さんは、なにごともなかったかのように、部屋の前まで行き、ドアを開けた。
引っ越す前の風景が、芽衣の前に広がっていた。
開けてすぐ白い壁が飛び込んできて、そのすぐ左側に狭いキッチンが見える。
家族三人、54平米の2LDKの部屋は、決して狭くはなかったけれど、広くもなかった。
部屋の間取りは、そのままだった。
荷物も以前のままだった。
引っ越し用の段ボールは、部屋中どこを見ても、一つもない。
「ねえ、お母さん、いつ引っ越すの?」
「引っ越すって、どこに?」
芽衣は、リビングにいるお母さんに声をかけると、お母さんは冷蔵庫から作り置きしたおかずを出しながら、不思議そうに答えた。
「浄水通りだよ。お母さんが、ずっと住みたいって言ってた場所」
「ああ、あのあたりね。いつか住んでみたいわね。新しいマンションが建ったら、検討しましょうってお父さんとも話しているのよ。あのあたりは学校も多いから、投資用物件でもいいわよねって」
「いつかじゃなくて、今の話よ」
「引っ越すの? 今?」
お母さんは、鼻先で笑った。
「まだあのあたりは、新築マンション、建ってないわよ。建ったときに、考えましょう」
さっきの女性と同じ反応に、芽衣は困惑した。
かつてのマンションのことを知るのは、芽衣だけで、誰も芽衣が住んでいたマンションを知らない。
まるで初めからそんなものはなかったかのように、人々の記憶からそれは消えていた。
芽衣は、内覧会でマンションを見に行ったとき、写真を撮らなかったことをひどく後悔した。
「どうせ住むんだから」と冷めた目で両親を見て、写真を撮ろうとするお母さんの手を止めたのだ。
なにか証拠があれば、それを見せられたのに、家には何もなかった。
お母さんが大切にしまっていた分譲マンションの広告も、見積書も、請求書も、契約書も……、何も残っていなかった。
せめてインターネット上になにか手がかりがないかと思って、芽衣はバッグからスマホを取り出した。
『ヴェルデクラウン浄水通り』と消えたマンションの名前を検索ボックスに入力して、画面を凝視するものの、何の手掛かりも見つからなかった。
「食べないの? 冷えるわよ」
電子レンジでチンしたパックご飯と、温められた作り置きのカレーが、ダイニングテーブルの上に並んでいた。
「お皿に盛りたかったら、自分で盛って、洗ってね」
お母さんは、お皿を洗うのが面倒といわんばかりに、自分の分はパックご飯の上にそのままカレーをかけていた。
お母さんはいつもこんな感じだな、と芽衣は思った。
いつも疲れ切った様子だから、本心では話せなかった。
なにかを聞いて、面倒くさそうそうに返されるのがいやだったし、あからさまな拒絶が怖かった。
「なに? またスマホ?」
「あ、うん。ちょっと調べたいことがあって」
芽衣は、自分もパックご飯の上に、カレーをかけた。
カレーを食べながら、スマホで今度は「消えたマンション」を検索すると、お母さんはとたんにいやな顔をした。
「芽衣、お行儀わるいわよ」
見ていないようで、こういうところは細かく見ているらしい。
それでも芽衣は、検索をやめる気にはなれなかった。
マンション名で該当するものがなくても、自分と同じような経験をしている人がいないかどうか、気になったからだ。
ふと芽衣は、手を止めた。
「芽衣、カレー、冷めるわよ」
「ごめんなさい、あとで!」
芽衣は、席を立った。
気になるつぶやきを見つけたのだ。
──家がないなんて、笑える。場所は、ここにあるのに。
(なに、この意味深なつぶやき?!)
それは、なんの変哲もない誰かのブログだった。
しかも、その投稿日時を見ると、つい一時間ほど前に書かれたことがわかった。
芽衣は、誰ともわからないそのブログを初めから読み返した。
ブログを始めたのは、どうやら一年前らしい。
それでも記事は少なく、ぽつぽつと、つぶやきのような書き込みがいくつかあるだけだった。
──いつもの場所に、またあの捨て猫がいた。俺を見ると、寄ってきた。ネコなら、寄ってきてくれるのに。
──感情を出すのは、得意じゃない。出したところで、誰かが気づいてくれるとは限らないからね。
──グラウンドから歓声が聞こえてくる。俺とは180度違う生き方。高校生活って、こんなものかも。
どこか孤独なそのつぶやきは、芽衣の心をぎゅっと締め付けた。
その共感できるつぶやきは、誰にも言えない胸の内を吐き出しているように感じた。
そのブログは、夏休みの途中で一度、更新が途切れていた。先ほど読んだ”意味深なつぶやき”の一つ前は、八月九日とちょうど一か月前だったが、芽衣はそのブログを見て、芽衣は息を呑んだ。
──今日も、あの場所に、まだいる。誰か気づいてくれるといいんだけど。
そう書き込みがあったあと、ネコの写真がアップされていたのだ。
ネコが、白いコンクリートの階段の下で、丸くなって寝ている。
茶色と白のまだら模様の少し痩せた猫だけど、耳の先が少し丸まっていて、どこか愛嬌がある特徴のあるネコだ。
(このネコ、知ってる……)
それは、芽衣が学校の帰り道によく見かけていた捨てネコだった。
新しいマンションに引っ越す前、芽衣は薬院駅までバスで四つ目の区間を通って帰っていた。
けれど、バスを使わずに歩ける距離でもあり、余裕のある日は、わざと裏道を通って帰るのが芽衣のお気に入りだった。
その裏道の一角、古びたハイツの前に、いつもそのネコがいた。捨てネコが多い地域で、「ネコ飛び出し注意」のステッカーもいくつか見かけたが、そのネコだけは特別だった。
まるでその場所のボスかのように堂々としていながらも、人懐っこく、芽衣が通り過ぎるたびに「にゃー」と小さく鳴くその姿が、芽衣にとって忘れられない存在だった。
引っ越してからも、そのネコに会いたくて、わざと迂回して帰ったこともある。
知らない人が見たら、ただの捨てネコの写真かもしれないけれど、芽衣にはそれがどこで撮られたもので、どのネコなのかすぐにわかった。
芽衣は、今にも家を飛び出してその場所にへ向かいそうになる自分をぐっと抑えた。心臓が激しく鼓動するのを感じながら、息を整える。
今、その場所に行っても、このブログを書いた本人と会えるわけではない。
それに、このブログがどこで書かれたかも分からない。
けれど、芽衣は感じていた。何か手がかりがあるなら、あの場所しかないかもしれないと。
(あの道をよく通る、それも通学路として利用しているなら……、同じ学校の可能性は高いよね!?)
近隣にもういくつか学校はあるけれど、あの道を通るのは、芽衣たちの学校の生徒がほとんどだった。
しかも、あの道は、バス停の前を通らない道だ。
(となると、移動手段は、徒歩か、自転車しかない……)
芽衣は推理小説を読み解くかのように、情報をひとつ、ひとつ、整理していった。
(このブログの主は、そう遠くないところに住んでいる!)
ちょうどそのとき、ブログが更新された。
今まで一日に二つ、つぶやきが投稿されたことはなかったのに、今日に限って更新される。
──今日はどこにも帰らなくていい気がする。あのネコに、会いに行くか。
芽衣はそのつぶやきを見て、いてもたってもいられなくなり、急いで立ち上がった。
「お母さん、私、ちょっと行ってくる!」
「行ってくるって、どこに?」
「ちょっと学校まで」
「ダメよ、もう遅いでしょ! 学校も、もう閉まってるわよ」
お母さんは、語尾を強めると、険しい顔つきで芽衣を見た。
「受験生で不安な気持ちはわかるけど、少しは落ち着いてちょうだい。周りのお友達は、みんな塾に行って、ちゃんとやってるんでしょう? あなただけ、どうしてそうなの」
その顔は怒っているようにも、困っているようにも、なんとも複雑な表情だった。
芽衣は、困った。ここで無理に出て行ったら、帰りづらくなる気がする。
「でも、お母さん、今、家がなくて困ってる友達がいて……」
「家がないって? お友達って誰?」
「たぶん同じ学校の子……」
「たぶん? 名前は?」
「まだわからない」
お母さんは眉をひそめ、芽衣をじっと見つめると、静かに「芽衣」と名前を呼んだ。
「お願いだから、ちゃんとしてよ。ねえ、芽衣」
決して嘘をついているつもりはないのに、うまく伝わらない。
そのもどかしさと現実のはざまで、芽衣は胸がぎゅっと苦しくなった。
「ごめんなさい」
別に悪くはないのに、芽衣はそう口にした。
そう言うしかなかったのだ。
「宿題あるんじゃないの? 早く済ませて、お風呂入って、寝てちょうだい」
「うん」
「お母さん、明日のご飯、また作り置きしておくからね」
「うん」
ごめんの言葉はすぐ出てくるのに、ありがとうの言葉はなかなか出てこない。
芽衣は食べ残したカレーを一気に平らげると、空になったパックご飯の容器をゴミ箱に捨てた。
(また”明日”が来るのか……)
明日のご飯の仕込みをしようと台所に向かうお母さんの背中を見て、芽衣は唇を噛んだ。
今日は偶然、お母さんがいたから中に入れたものの、もしマンションが消えたままだったら、ここへ帰るしかない。
「じつはさ、お母さん、私、マンションのカギなくしちゃって……」
芽衣はできるだけ自然にそう言ってみたものの、お母さんは芽衣の前で大きくため息をついて、引き出しを開けた。
お母さんは、いつもスペアを持っている。
スペアキーや予備のバッテリー、予備の電池など……。
生真面目すぎるその性格を窮屈に思うものの、今日ばかりは、その性格に救われた気がした。
芽衣はお母さんからカギを受け取ると、もう一度、今度は小さく「ごめん」と言った。
「今日は宿題ないんだ。シャワー浴びて、寝るね」
宿題がない日なんて、体育祭の日くらいだと、お母さんはもう知っているはずなのに、それ以上はもうなにも言わなかった。
(なんか疲れた……)
とにかく芽衣は、今夜はもう眠りたかった。
早く眠って、明日朝、いつもより早く登校して、あのネコに会いに行きたいという思いでいっぱいだったのだ。
そうすれば、このブログを書いた”彼”に会える気がした。
シャワーを浴びて、最後にブログをチェックすると、先ほどのつぶやきは消えていた。
彼もまた、どこかに帰る場所が見つかったのか。
そうだったらいい、と芽衣は布団の中で願った。
明日になれば、なにかが変わるかもしれない。
ひょっとして、目が覚めたら、住んでいた新しいマンションの寝室で……。
あれこれ考えていると、まぶたがだんだん重くなってきた。
吐息を立てながら、芽衣は眠りに落ちた。
三か月前、転居するとき、確かにお母さんが転居届を出すのを見た。
お父さんが「株主優待券が届くからな。届出は頼むよ」と言っていたのを覚えている。
そういうなら「お父さんが自分でやればいいのに」とも思ったけれど、それは言わなかった。
そこまで詳細に覚えているし、そのあと、株主優待券が届いたことをお母さんが、お父さんに話していた。
転居届は、きちんと出されていた。
なのに自分宛てに郵便物が届いていたことを知って、芽衣は激しく動揺した。
夏期講習の案内は、芽衣が今住む、新しいマンションの住所に届いていた。
なのに、その次の案内が、また元のマンションに届いているのはどう考えても変だ。
どうせ自分宛てに届いた郵便物だ、開封しても構わない、そんな気持ちで、芽衣はびりっと封筒の上部を破いた。
中を開封すると、「2学期 後期入学 受付中」と書かれた案内が入っていた。
二学期となると、ちょうど今だ。
まさに今、タイムリーな話題で、おかしなことはない。
(でも、どうして、ここに……)
芽衣は、もう一度、じっと見た。
すると、見ていた文字が、どことなくぼやけて見えてきた。
後期入学の「入」という字が、カタカナの「ノ」に変わって、学という字は、「子」という字に見えてくる。
ぼやけていった文字を見ようと、目を細めても、なぜか文字が読めなくて、芽衣はひたいから汗が噴き出すような感覚に襲われた。
(なに、なんなの、この手紙!?)
気持ち悪い! そう思って、手紙を放り投げたときだった。
「ダメじゃない。ちゃんとゴミ箱に入れないと」
そこに帰宅したばかりのお母さんが立っていた。
仕事帰りだというのに、相変わらず、髪をきっちりと後ろで結び直して、動きやすいカジュアルな服装に身を包んでいるものの、その姿に乱れは見当たらない。
お母さんは落ちていた手紙を拾い上げると、しばらくそれを見つめたあと、芽衣に視線を向けた。
「それに、これ、ただのチラシじゃないわよ。あなた宛てに届いた手紙でしょ?」
「お母さん、さわっちゃダメ! その手紙、変なのよ!」
「変って、なにが?」
お母さんは、ロックされたダイヤルのカギの数字をあわせ、解除をすると、中から残りの郵便物を取り出した。
「あなたねえ、自分の分だけ取り出さないで、ほかのもちゃんとお願いよ」
「だから、お母さん、その手紙!」
「もう、なに?」
ややあきれ顔で言われて、芽衣はむっとした。
こんなに自分が熱心に話をしているのに、またお母さんは話を聞いてくれない。
「なに?」と面倒くさそうに言われると、それ以上、なにも言えなくなってしまう。
お母さんは一度外に出て、エントランスへ回り、オートロックの玄関を解除した。
「さあ、ほら、早く、芽衣もいらっしゃい」
足早に中へ入っていくお母さんの背中を見ながら、芽衣もあとに続いた。
「なにが変なのよ? ただの塾の案内でしょ?」
エレベーターが来るのを待っている間、お母さんは、娘から奇妙だと言われた手紙をしげしげと見ていた。
「だって、さっき、文字が消えたのよ!」
「そんなことあるわけないでしょ?」
「本当よ!」
「目の疲れよ」
お母さんに軽く受け流されて、芽衣は唇をぎゅっと噛んだ。
エレベーターが一階に到着すると、芽衣は「もういい!」とお母さんに背中を向けて、背中側のドアを開けた。
「私、階段で行く」
「じゃあ、またあとで。3階でね」
お母さんは、芽衣がなにを怒っているのか、まるでわからないといった様子でため息をついた。
その光景が、ますます芽衣をいらだたせた。
なにかが違う。なにか変だ。
けれど、その微妙なずれを認識できるのは芽衣だけで、ほかに相談できる人はいなかった。
急いで階段を駆け上ったものの、結局、芽衣とお母さんが3階に到着したのはほぼ同時だった。
お母さんは、なにごともなかったかのように、部屋の前まで行き、ドアを開けた。
引っ越す前の風景が、芽衣の前に広がっていた。
開けてすぐ白い壁が飛び込んできて、そのすぐ左側に狭いキッチンが見える。
家族三人、54平米の2LDKの部屋は、決して狭くはなかったけれど、広くもなかった。
部屋の間取りは、そのままだった。
荷物も以前のままだった。
引っ越し用の段ボールは、部屋中どこを見ても、一つもない。
「ねえ、お母さん、いつ引っ越すの?」
「引っ越すって、どこに?」
芽衣は、リビングにいるお母さんに声をかけると、お母さんは冷蔵庫から作り置きしたおかずを出しながら、不思議そうに答えた。
「浄水通りだよ。お母さんが、ずっと住みたいって言ってた場所」
「ああ、あのあたりね。いつか住んでみたいわね。新しいマンションが建ったら、検討しましょうってお父さんとも話しているのよ。あのあたりは学校も多いから、投資用物件でもいいわよねって」
「いつかじゃなくて、今の話よ」
「引っ越すの? 今?」
お母さんは、鼻先で笑った。
「まだあのあたりは、新築マンション、建ってないわよ。建ったときに、考えましょう」
さっきの女性と同じ反応に、芽衣は困惑した。
かつてのマンションのことを知るのは、芽衣だけで、誰も芽衣が住んでいたマンションを知らない。
まるで初めからそんなものはなかったかのように、人々の記憶からそれは消えていた。
芽衣は、内覧会でマンションを見に行ったとき、写真を撮らなかったことをひどく後悔した。
「どうせ住むんだから」と冷めた目で両親を見て、写真を撮ろうとするお母さんの手を止めたのだ。
なにか証拠があれば、それを見せられたのに、家には何もなかった。
お母さんが大切にしまっていた分譲マンションの広告も、見積書も、請求書も、契約書も……、何も残っていなかった。
せめてインターネット上になにか手がかりがないかと思って、芽衣はバッグからスマホを取り出した。
『ヴェルデクラウン浄水通り』と消えたマンションの名前を検索ボックスに入力して、画面を凝視するものの、何の手掛かりも見つからなかった。
「食べないの? 冷えるわよ」
電子レンジでチンしたパックご飯と、温められた作り置きのカレーが、ダイニングテーブルの上に並んでいた。
「お皿に盛りたかったら、自分で盛って、洗ってね」
お母さんは、お皿を洗うのが面倒といわんばかりに、自分の分はパックご飯の上にそのままカレーをかけていた。
お母さんはいつもこんな感じだな、と芽衣は思った。
いつも疲れ切った様子だから、本心では話せなかった。
なにかを聞いて、面倒くさそうそうに返されるのがいやだったし、あからさまな拒絶が怖かった。
「なに? またスマホ?」
「あ、うん。ちょっと調べたいことがあって」
芽衣は、自分もパックご飯の上に、カレーをかけた。
カレーを食べながら、スマホで今度は「消えたマンション」を検索すると、お母さんはとたんにいやな顔をした。
「芽衣、お行儀わるいわよ」
見ていないようで、こういうところは細かく見ているらしい。
それでも芽衣は、検索をやめる気にはなれなかった。
マンション名で該当するものがなくても、自分と同じような経験をしている人がいないかどうか、気になったからだ。
ふと芽衣は、手を止めた。
「芽衣、カレー、冷めるわよ」
「ごめんなさい、あとで!」
芽衣は、席を立った。
気になるつぶやきを見つけたのだ。
──家がないなんて、笑える。場所は、ここにあるのに。
(なに、この意味深なつぶやき?!)
それは、なんの変哲もない誰かのブログだった。
しかも、その投稿日時を見ると、つい一時間ほど前に書かれたことがわかった。
芽衣は、誰ともわからないそのブログを初めから読み返した。
ブログを始めたのは、どうやら一年前らしい。
それでも記事は少なく、ぽつぽつと、つぶやきのような書き込みがいくつかあるだけだった。
──いつもの場所に、またあの捨て猫がいた。俺を見ると、寄ってきた。ネコなら、寄ってきてくれるのに。
──感情を出すのは、得意じゃない。出したところで、誰かが気づいてくれるとは限らないからね。
──グラウンドから歓声が聞こえてくる。俺とは180度違う生き方。高校生活って、こんなものかも。
どこか孤独なそのつぶやきは、芽衣の心をぎゅっと締め付けた。
その共感できるつぶやきは、誰にも言えない胸の内を吐き出しているように感じた。
そのブログは、夏休みの途中で一度、更新が途切れていた。先ほど読んだ”意味深なつぶやき”の一つ前は、八月九日とちょうど一か月前だったが、芽衣はそのブログを見て、芽衣は息を呑んだ。
──今日も、あの場所に、まだいる。誰か気づいてくれるといいんだけど。
そう書き込みがあったあと、ネコの写真がアップされていたのだ。
ネコが、白いコンクリートの階段の下で、丸くなって寝ている。
茶色と白のまだら模様の少し痩せた猫だけど、耳の先が少し丸まっていて、どこか愛嬌がある特徴のあるネコだ。
(このネコ、知ってる……)
それは、芽衣が学校の帰り道によく見かけていた捨てネコだった。
新しいマンションに引っ越す前、芽衣は薬院駅までバスで四つ目の区間を通って帰っていた。
けれど、バスを使わずに歩ける距離でもあり、余裕のある日は、わざと裏道を通って帰るのが芽衣のお気に入りだった。
その裏道の一角、古びたハイツの前に、いつもそのネコがいた。捨てネコが多い地域で、「ネコ飛び出し注意」のステッカーもいくつか見かけたが、そのネコだけは特別だった。
まるでその場所のボスかのように堂々としていながらも、人懐っこく、芽衣が通り過ぎるたびに「にゃー」と小さく鳴くその姿が、芽衣にとって忘れられない存在だった。
引っ越してからも、そのネコに会いたくて、わざと迂回して帰ったこともある。
知らない人が見たら、ただの捨てネコの写真かもしれないけれど、芽衣にはそれがどこで撮られたもので、どのネコなのかすぐにわかった。
芽衣は、今にも家を飛び出してその場所にへ向かいそうになる自分をぐっと抑えた。心臓が激しく鼓動するのを感じながら、息を整える。
今、その場所に行っても、このブログを書いた本人と会えるわけではない。
それに、このブログがどこで書かれたかも分からない。
けれど、芽衣は感じていた。何か手がかりがあるなら、あの場所しかないかもしれないと。
(あの道をよく通る、それも通学路として利用しているなら……、同じ学校の可能性は高いよね!?)
近隣にもういくつか学校はあるけれど、あの道を通るのは、芽衣たちの学校の生徒がほとんどだった。
しかも、あの道は、バス停の前を通らない道だ。
(となると、移動手段は、徒歩か、自転車しかない……)
芽衣は推理小説を読み解くかのように、情報をひとつ、ひとつ、整理していった。
(このブログの主は、そう遠くないところに住んでいる!)
ちょうどそのとき、ブログが更新された。
今まで一日に二つ、つぶやきが投稿されたことはなかったのに、今日に限って更新される。
──今日はどこにも帰らなくていい気がする。あのネコに、会いに行くか。
芽衣はそのつぶやきを見て、いてもたってもいられなくなり、急いで立ち上がった。
「お母さん、私、ちょっと行ってくる!」
「行ってくるって、どこに?」
「ちょっと学校まで」
「ダメよ、もう遅いでしょ! 学校も、もう閉まってるわよ」
お母さんは、語尾を強めると、険しい顔つきで芽衣を見た。
「受験生で不安な気持ちはわかるけど、少しは落ち着いてちょうだい。周りのお友達は、みんな塾に行って、ちゃんとやってるんでしょう? あなただけ、どうしてそうなの」
その顔は怒っているようにも、困っているようにも、なんとも複雑な表情だった。
芽衣は、困った。ここで無理に出て行ったら、帰りづらくなる気がする。
「でも、お母さん、今、家がなくて困ってる友達がいて……」
「家がないって? お友達って誰?」
「たぶん同じ学校の子……」
「たぶん? 名前は?」
「まだわからない」
お母さんは眉をひそめ、芽衣をじっと見つめると、静かに「芽衣」と名前を呼んだ。
「お願いだから、ちゃんとしてよ。ねえ、芽衣」
決して嘘をついているつもりはないのに、うまく伝わらない。
そのもどかしさと現実のはざまで、芽衣は胸がぎゅっと苦しくなった。
「ごめんなさい」
別に悪くはないのに、芽衣はそう口にした。
そう言うしかなかったのだ。
「宿題あるんじゃないの? 早く済ませて、お風呂入って、寝てちょうだい」
「うん」
「お母さん、明日のご飯、また作り置きしておくからね」
「うん」
ごめんの言葉はすぐ出てくるのに、ありがとうの言葉はなかなか出てこない。
芽衣は食べ残したカレーを一気に平らげると、空になったパックご飯の容器をゴミ箱に捨てた。
(また”明日”が来るのか……)
明日のご飯の仕込みをしようと台所に向かうお母さんの背中を見て、芽衣は唇を噛んだ。
今日は偶然、お母さんがいたから中に入れたものの、もしマンションが消えたままだったら、ここへ帰るしかない。
「じつはさ、お母さん、私、マンションのカギなくしちゃって……」
芽衣はできるだけ自然にそう言ってみたものの、お母さんは芽衣の前で大きくため息をついて、引き出しを開けた。
お母さんは、いつもスペアを持っている。
スペアキーや予備のバッテリー、予備の電池など……。
生真面目すぎるその性格を窮屈に思うものの、今日ばかりは、その性格に救われた気がした。
芽衣はお母さんからカギを受け取ると、もう一度、今度は小さく「ごめん」と言った。
「今日は宿題ないんだ。シャワー浴びて、寝るね」
宿題がない日なんて、体育祭の日くらいだと、お母さんはもう知っているはずなのに、それ以上はもうなにも言わなかった。
(なんか疲れた……)
とにかく芽衣は、今夜はもう眠りたかった。
早く眠って、明日朝、いつもより早く登校して、あのネコに会いに行きたいという思いでいっぱいだったのだ。
そうすれば、このブログを書いた”彼”に会える気がした。
シャワーを浴びて、最後にブログをチェックすると、先ほどのつぶやきは消えていた。
彼もまた、どこかに帰る場所が見つかったのか。
そうだったらいい、と芽衣は布団の中で願った。
明日になれば、なにかが変わるかもしれない。
ひょっとして、目が覚めたら、住んでいた新しいマンションの寝室で……。
あれこれ考えていると、まぶたがだんだん重くなってきた。
吐息を立てながら、芽衣は眠りに落ちた。