湊は芽衣を追い、公園の入り口にたどり着いた。
なぜだか分からない。ただ湊は、感覚的に芽衣がそこにいる気がした。
「鈴城!」
小さな公園は、夕暮れの光に包まれていた。その中でぼうぜんと立ち尽くす芽衣を見て、湊は駆け寄り、耳を澄ました。
『なんだ? 何かが違う』
湊は静まり返った公園で、すぐに違和感を感じた。
音がないのだ──。この時間帯なら公園全体に響いているはずの蝉の声が、一切聞こえない。まるで無音の世界に変わってしまったかのようだった。
「ねえ、湊くん……」
芽衣は湊の存在に気づくと、湊を見つめ、震える声で答えた。
「聞こえないね……」
「なにが?」
湊は困惑した表情で、分かっていながらも、問い返した。
「蝉の声……。いつも、あんなに聞こえていたのに……。今、全然聞こえないの……」
湊は目を見開いた。芽衣の言葉が、じわじわと胸に響いてくる。
自分たちの周りの世界から、音が消え始めている──。それはまるで、命そのものが徐々に消えていくかのようだった。
「鈴城……」
湊はどうすればいいのか分からなかった。
それ以上に、どう言葉をかければもう分からなかった。
そのとき、湊の視界に一匹の猫が入った。
『いつもハイツの前で見かけるあのネコだ──』
湊も何度も目にしていた、あのネコが、公園へゆっくりと歩いてきていた。
「めずらしいな。こんなところまで来るなんて……」
ネコは湊たちに近づき、「にゃあ」といつものように鳴いた。
すると芽衣は震える手でネコを抱き上げ、その毛並みを優しく撫でた。
「おまえには私が見えるのにね……」
芽衣は小さなほほえみを浮かべ、ネコをしっかりと抱きしめた。
けれど、次の瞬間、その表情が固まった。
「……あれ?」
芽衣の指がネコのひたいに触れると、そこには見慣れない傷があった。
「こんなところに傷があるなんて……」
芽衣は、不思議そうに、ネコのひたいをのぞき込んだ。そこで初めて、額の中央に深く刻まれた傷跡に気づいた。しかもひたいだけではなく、前足や右足にも無数の傷がある。
「おまえ、どうしたの?」
芽衣は傷だらけのネコを抱きしめている間に、その体の異常に気づき始めた。いつもはあたたかく柔らかいはずのネコの体は、冷たく固まっていて、かすかに震える芽衣の手の中で不自然に横たわっていた。
「なんで……。こんなに冷たいの……?」
芽衣の声は震え、背筋に冷たいものが走った。そのとき、ふとネコの体に触れていた指先が、固くなった傷口に触れた。ざらりとした裂けた皮膚の感触が指に伝わり、そこからかすかに血がにじんでいた。血痕はすでに乾きかけていて、よく見ると、その傷は車のタイヤに引かれた跡のようだった。体を横切る線状の痕は痛々しくて、芽衣は絶句した。
(なに、これ……!?)
ネコの額にくっきりと刻まれた深い傷跡から、血が流れた後のように乾いた痕が見える。
芽衣は驚きと恐怖で一瞬動けなくなった。
次の瞬間、目に飛び込んできたのはネコの体全体に広がる無数の傷だった。前足は皮膚が裂け、奇妙な角度で折れ曲がっている。後ろ足もまるで逆向きにねじれたように、異常な角度で曲がっていた。砕けた骨、裂けた肉──背中には大きなすり傷があり、引きずられた痕跡が生々しく残っていた。
「きゃあああああっ!」
芽衣は驚愕と恐怖で叫び声を上げ、無意識にネコを手から放した。ネコの体は地面に落ちると、まるで忘れられたぬいぐるみのように動かなくなった。その不気味なほどに軽い音に、芽衣はめまいがし、足元が揺らぐように感じた。
ネコはもうぴくりとも動かず、そのまま冷たく硬直した。
「鈴城!」
湊は慌てて芽衣に駆け寄り、大きく崩れ落ちた芽衣の体を抱きしめた。
『しまった……!』
触れた先に、待っているのは──よみがえる記憶と、わき起こる痛み。
湊は、芽衣を抱きしめたまま、現実を受け入れて、静かに目を閉じた。
『ああ、見える……』
湊の脳裏に、ある光景が鮮明によみがえった。
あのネコ──夏休みのある朝、車道でひき殺されてしまったのを知った。血にまみれて、もう動かなくなっていたはずのネコの姿が脳裏に浮かび、湊は胸が苦しくなった。
『鈴城、君にもあの光景が今、見えているんだろうな』
湊は、ずっとネコに会えなかった理由が、今になって分かり始めた。
それでも、湊は一瞬、芽衣を抱きしめながら、頭の中で考えをめぐらせた。
『何かが間違っているのか? いや、違うな。思い返せば、あの日の”事故”がすべてを物語っていて──、自分たちはずっと現実を見ていなかったのかもしれない』
富岡先生から見せられた先ほどの記事が、湊の頭の中でぐるぐる回った。
『あの猫は死んでいたからこ、ハイツの前にいなかったのか。そして、今、自分たちが死んでいると知らされて──……死んだ者同士だからこそ目に映る存在になったんだな』
そう思うと、湊は芽衣を抱きしめながら、その小さな肩に顔をうずめて涙を押し殺した。
「……俺たちも、死んだんだ……」
湊は苦しげに呟いた。彼の言葉に芽衣は何も言えず、ただ湊の手を握り返した。二人は、絶望感に押し潰されそうなほどの重圧を感じながらも、その現実を受け入れるしかなかった。
「俺たちも、こうなった瞬間を見ようか……」
「……」
「あの日も結局……、俺らは一緒にいたんだな」
湊がそう言うと、芽衣は疲れ果てた表情でうなずき、湊の手をしっかり握り返した。
『たとえそれが偶然でも、最後が鈴城、君と一緒で……、俺はよかったよ』
芽衣は泣き出しそうになるのをこらえながら、湊の手の温もりから、そんな湊の気持ちを感じ取っていた。
「でも、最後がここはいや……」
芽衣は小さくつぶやいて、湊を見上げた。
「鈴城は、どこがいい?」
「家がいいな」
「……分かった。鈴城のマンションへ戻ろうな」
湊は、抱きしめていた腕をそっと離して、マンションの方向へと歩みを進めた──何もかもを受け止めるために、そして最後の決別を迎えるために。遠くで風が木々を揺らす音だけが、二人を取り巻く静かな世界に響いて、まるで自分たちだけが取り残されたかのようなその光景を見ながら、二人は歩き続けた。
「鈴城、大丈夫?」
交差点を左折したところで、湊は、青ざめながら歩く芽衣を見て、声をかけた。
記憶のフラッシュバックが終わり、襲ってきた痛みの部位は腹部だった。
腹部の中でなにかが暴れ出すような痛みで、ときおり立ち止まらずにはいられない。
それは湊も同じで、口には出さないものの、あまりの痛みに湊のひたいには汗が流れていた。
「……バスに乗ろうか?」
すぐ先に見えるバス停を湊が指さすと、芽衣は苦しそうな表情のまま、首を横に振った。
「歩こうよ、湊くん」
「でも……」
「歩かせて。歩きたいの」
芽衣は、はっきりとそう力強く訴えた。
「この景色を忘れたくないの。この風を感じたいの。お願い……」
「そうだな。俺もだよ」
風に匂いがあることを二人は今、知った気がした。
空に色があることに、いまさらながらに気づいた。
揺れる木々の音を感じる幸せも、ようやくわかった。
「どうして今まで気づかなかったのかな?」
「なにに?」
「……すべてだよ」
芽衣はそう言うと、自分たちが今来た道を振り返った。
「鈴城?」
「ねえ、何百回と歩いたこの通学路も……、私たちいつか忘れちゃうのかな」
「かもな」
「その”いつか”って……、いつなのかな」
「……俺には分からないよ」
「明日にはこの道も、私たちは……」
「なあ、鈴城」
湊はそこで芽衣の言葉をいったん区切った。
「やめないか、そういう話」
「え?」
「俺らは、絶望するために戻るんじゃないだろ?」
「だって、湊くん……。最後の記憶を取り戻すために……、行くんでしょ? 最後の時間を過ごすためだけに……」
「ああ、そうさ。だからこそだよ」
湊はふうっと大きく息を吐くと、芽衣をじっと見つめた。
「なあ、鈴城。俺たちは意外に幸せかもよ」
「え? 幸せ!?」
芽衣は目を大きく開いた。
(幸せってなに? そんなことあるはずないのに……)
「なんだよ、その顔。疑ったような目で俺を見るなよ。鈴城、人はみんないつか死ぬんだよ。ただそれが人よりちょっと早いか、遅いかだけさ」
『そうさ──……。それだけなんだ』
湊は自分自身も納得させるかのように言葉を続けた。
「普通、人は最後の瞬間を自分では選べないだろ? ”明日で自分の人生が終わる”と思ってる人間なんて、なかなかいない。みんな当たり前のように明日が来ると信じて、学校に行ったり、友達と出かけたり……」
「うん」
「俺たちはその最後の時間をどう過ごすか、自分たちで選べるんだ。最後にそんな時間が持てて……、俺は幸せだよ」
「湊くん」
「少なくとも俺は……、今、こうして鈴城がそばにいてくれる。それだけで、俺はこれまでのどんな瞬間よりも幸せだと思うよ」
「湊くん、そんな……。私たち、特別な日なんてなくて……」
「バカだな。この五日、どれもが特別だったんだよ。鈴城と笑った日、話した夜──その全部が、今の俺を支えてるよ。ありがとう」
湊がそう言うと、芽衣の瞳からぼろぼろと大粒の涙が流れだした。それは湊から初めて聞くお礼の言葉だった。
芽衣は、自分がこの世界から消えようとしているのに、自分の存在をこんなにも大切に思ってくれる湊を思わずにはいられなかった。それが嬉しくて、同時に切なくて、涙が止まらなかった。
「……私、なんの役にも立たなくて」
「どうして? 俺の存在意義を教えてくれただろ?」
「え?」
「鈴城から必要とされることで、俺は”ここにいてもいい”って許される気がした。いてもいいなんて……、もう死んでるんだけどな」
ふっと笑いながら、湊は続けた。
「死ぬとさ……、人は忘れていくじゃん? 俺も昔、じいちゃんの葬式に出たことあったけど……、顔がぼやけてるんだよな。遊んでもらった記憶は、なんとなくあるのに」
「……うん」
「でも、だから生きていけるのかな。悲しみに引きづられていたら、明日が来ることが怖くなって、生きることに憶病になる気がするから」
湊はそこまで言うと、ゆっくりと鈴城を見つめた。
「俺たちのことをみんな忘れていく。強烈な思いがあった影山と富岡先生だけは、覚えていたけどな」
「……じゃあ、私のことを忘れていた両親は、私のこと、好きじゃなかったの?」
「それも違う気がするな。きっとその逆だ」
長い坂をくだり終えて、薬院大通りの交差点に出て右折しようとすると、信号はまだ赤だった。
湊が足を止めて、芽衣もそれに続くと、湊はゆっくりと口を開いた。
「大好きだったと思うよ。大切すぎて、現実を受け止められずに、忘れることでしか正気を保てなかったんじゃないかな」
「なによ。まるでよく知ってるかみたいに」
「だって、鈴城のその目は……、愛されて育った人の目だよ」
「え?」
「人に優しくできる人間は、俺的には2パターンしかいないって思ってる。家族から愛された人間か、心の痛みをよく知る人間……。たまたま鈴城は……、その両方を併せ持っていたんだよ」
信号が赤に変わると、湊は「行こう」と芽衣に合図をし、再び歩き出した。
「きっと君の両親が忘れようとしたのは、事故死したという事実だけで、鈴城の存在じゃないよ。ただ今は悲しすぎて……、記憶がぐちゃぐちゃになって、一時的に忘れてるだけさ」
薬院大通りまで出ると車の動きが一気に多くなり、湊の声は急に聞こえづらくなった。
けれど、芽衣はその方が良かった。
(湊くんが優しいのは……、きっと後者の人間だからなんだね)
芽衣は、湊の言葉に、自分の存在を肯定されたような気がした。
けれど同時に、湧き上がる悲しみが芽衣を包み込んだ。
痛みをよく知り、痛みに敏感な痛みが、人を傷つける方向に走らず、今の湊を作り上げたことに芽衣は胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
これが最後に聞く車道の音かもしれないと思うと、二人とも自然に耳を澄ました。
普段騒がしいと思っている車の音、バス停でバスのドアが開け閉めする音、乗り込む人々の足音──。
(世界はこんなにも、音であふれているんだね)
その一つ、一つが、みんなが生きている証の音で──、今となっては誰も自分たちを振り返らないことを知りながら、芽衣は空を仰いだ。夕暮れのオレンジ色の空が、ゆっくりと夜の静寂へと溶け込んでいく。その空を見上げながら、芽衣は自分の胸の奥に広がる静かな感情を噛みしめた。
「きれいだね、湊くん……」
「ああ、本当に」
柔らかな光が二人を包み、街のざわめきが遠くから聞こえてくる。
湊と芽衣は、ゆっくりとした足取りでマンションの方へ歩き出した。胸の中に広がるのは、悲しみというよりもむしろ、静かな安堵だった。これでようやく、すべてが終わる──と、芽衣はどこかで思っていた。
「……ねえ、湊くん。一つだけ聞いていい?」
芽衣のマンションがもうすぐそこまで見えているところまできて、芽衣は湊に尋ねた。
「何?」
湊に優しく聞き返され、芽衣は一瞬黙った。
芽衣は歩きながら、ずっと考えていた。この最後の瞬間に、湊と何を共有すべきなのかを──。
湊が自分を抱きしめたとき、芽衣はその温もりの中に安らぎを感じた。もちろん、その後に痛みはあったけれど、抱きしめられた喜びの方がずっと大きかった。
けれど、その一方で、何かが胸の奥でひっかかっていた。
(湊くんは、ただ記憶を取り戻したいだけなの? それとも、今の私に触れたいの?)
湊の優しさを信じたくて、その答えを知ることが怖くもあった。ただ、この瞬間が二人にとって最後かもしれないという思いが、芽衣を後押しした。芽衣は、本心を尋ねることが自分にとって、湊との本当のつながりを確かめる唯一の手段だと感じていた。
芽衣は、深呼吸すると、決意を固めた。
「今から私に触れるのは……、死んだ瞬間を知りたいだけ?」
湊は一瞬、何も言えなかった。
答えはすぐに出なかった。確かなのは、今この瞬間、芽衣がそばにいるという事実だけだった。
湊の視線が、芽衣の髪、ほほ、唇へとゆっくりおりていく。
「それとも、そこに……、私がいるから?」
その瞬間、芽衣にとっても湊にとっても、周囲のすべてが静まり返ったかのようだった。
風の音さえも遠のいて、二人の間にあるのはただお互いの存在だけだった。
触れ合うことでよみがえる記憶──。
触れたいのは、過去を思い出したいから?
それとも、想う相手がいるからこそ、触れたくなるのか。
芽衣はその答えを知りたくて、湊をじっと見つめたまま、その答えを待つのだった。
なぜだか分からない。ただ湊は、感覚的に芽衣がそこにいる気がした。
「鈴城!」
小さな公園は、夕暮れの光に包まれていた。その中でぼうぜんと立ち尽くす芽衣を見て、湊は駆け寄り、耳を澄ました。
『なんだ? 何かが違う』
湊は静まり返った公園で、すぐに違和感を感じた。
音がないのだ──。この時間帯なら公園全体に響いているはずの蝉の声が、一切聞こえない。まるで無音の世界に変わってしまったかのようだった。
「ねえ、湊くん……」
芽衣は湊の存在に気づくと、湊を見つめ、震える声で答えた。
「聞こえないね……」
「なにが?」
湊は困惑した表情で、分かっていながらも、問い返した。
「蝉の声……。いつも、あんなに聞こえていたのに……。今、全然聞こえないの……」
湊は目を見開いた。芽衣の言葉が、じわじわと胸に響いてくる。
自分たちの周りの世界から、音が消え始めている──。それはまるで、命そのものが徐々に消えていくかのようだった。
「鈴城……」
湊はどうすればいいのか分からなかった。
それ以上に、どう言葉をかければもう分からなかった。
そのとき、湊の視界に一匹の猫が入った。
『いつもハイツの前で見かけるあのネコだ──』
湊も何度も目にしていた、あのネコが、公園へゆっくりと歩いてきていた。
「めずらしいな。こんなところまで来るなんて……」
ネコは湊たちに近づき、「にゃあ」といつものように鳴いた。
すると芽衣は震える手でネコを抱き上げ、その毛並みを優しく撫でた。
「おまえには私が見えるのにね……」
芽衣は小さなほほえみを浮かべ、ネコをしっかりと抱きしめた。
けれど、次の瞬間、その表情が固まった。
「……あれ?」
芽衣の指がネコのひたいに触れると、そこには見慣れない傷があった。
「こんなところに傷があるなんて……」
芽衣は、不思議そうに、ネコのひたいをのぞき込んだ。そこで初めて、額の中央に深く刻まれた傷跡に気づいた。しかもひたいだけではなく、前足や右足にも無数の傷がある。
「おまえ、どうしたの?」
芽衣は傷だらけのネコを抱きしめている間に、その体の異常に気づき始めた。いつもはあたたかく柔らかいはずのネコの体は、冷たく固まっていて、かすかに震える芽衣の手の中で不自然に横たわっていた。
「なんで……。こんなに冷たいの……?」
芽衣の声は震え、背筋に冷たいものが走った。そのとき、ふとネコの体に触れていた指先が、固くなった傷口に触れた。ざらりとした裂けた皮膚の感触が指に伝わり、そこからかすかに血がにじんでいた。血痕はすでに乾きかけていて、よく見ると、その傷は車のタイヤに引かれた跡のようだった。体を横切る線状の痕は痛々しくて、芽衣は絶句した。
(なに、これ……!?)
ネコの額にくっきりと刻まれた深い傷跡から、血が流れた後のように乾いた痕が見える。
芽衣は驚きと恐怖で一瞬動けなくなった。
次の瞬間、目に飛び込んできたのはネコの体全体に広がる無数の傷だった。前足は皮膚が裂け、奇妙な角度で折れ曲がっている。後ろ足もまるで逆向きにねじれたように、異常な角度で曲がっていた。砕けた骨、裂けた肉──背中には大きなすり傷があり、引きずられた痕跡が生々しく残っていた。
「きゃあああああっ!」
芽衣は驚愕と恐怖で叫び声を上げ、無意識にネコを手から放した。ネコの体は地面に落ちると、まるで忘れられたぬいぐるみのように動かなくなった。その不気味なほどに軽い音に、芽衣はめまいがし、足元が揺らぐように感じた。
ネコはもうぴくりとも動かず、そのまま冷たく硬直した。
「鈴城!」
湊は慌てて芽衣に駆け寄り、大きく崩れ落ちた芽衣の体を抱きしめた。
『しまった……!』
触れた先に、待っているのは──よみがえる記憶と、わき起こる痛み。
湊は、芽衣を抱きしめたまま、現実を受け入れて、静かに目を閉じた。
『ああ、見える……』
湊の脳裏に、ある光景が鮮明によみがえった。
あのネコ──夏休みのある朝、車道でひき殺されてしまったのを知った。血にまみれて、もう動かなくなっていたはずのネコの姿が脳裏に浮かび、湊は胸が苦しくなった。
『鈴城、君にもあの光景が今、見えているんだろうな』
湊は、ずっとネコに会えなかった理由が、今になって分かり始めた。
それでも、湊は一瞬、芽衣を抱きしめながら、頭の中で考えをめぐらせた。
『何かが間違っているのか? いや、違うな。思い返せば、あの日の”事故”がすべてを物語っていて──、自分たちはずっと現実を見ていなかったのかもしれない』
富岡先生から見せられた先ほどの記事が、湊の頭の中でぐるぐる回った。
『あの猫は死んでいたからこ、ハイツの前にいなかったのか。そして、今、自分たちが死んでいると知らされて──……死んだ者同士だからこそ目に映る存在になったんだな』
そう思うと、湊は芽衣を抱きしめながら、その小さな肩に顔をうずめて涙を押し殺した。
「……俺たちも、死んだんだ……」
湊は苦しげに呟いた。彼の言葉に芽衣は何も言えず、ただ湊の手を握り返した。二人は、絶望感に押し潰されそうなほどの重圧を感じながらも、その現実を受け入れるしかなかった。
「俺たちも、こうなった瞬間を見ようか……」
「……」
「あの日も結局……、俺らは一緒にいたんだな」
湊がそう言うと、芽衣は疲れ果てた表情でうなずき、湊の手をしっかり握り返した。
『たとえそれが偶然でも、最後が鈴城、君と一緒で……、俺はよかったよ』
芽衣は泣き出しそうになるのをこらえながら、湊の手の温もりから、そんな湊の気持ちを感じ取っていた。
「でも、最後がここはいや……」
芽衣は小さくつぶやいて、湊を見上げた。
「鈴城は、どこがいい?」
「家がいいな」
「……分かった。鈴城のマンションへ戻ろうな」
湊は、抱きしめていた腕をそっと離して、マンションの方向へと歩みを進めた──何もかもを受け止めるために、そして最後の決別を迎えるために。遠くで風が木々を揺らす音だけが、二人を取り巻く静かな世界に響いて、まるで自分たちだけが取り残されたかのようなその光景を見ながら、二人は歩き続けた。
「鈴城、大丈夫?」
交差点を左折したところで、湊は、青ざめながら歩く芽衣を見て、声をかけた。
記憶のフラッシュバックが終わり、襲ってきた痛みの部位は腹部だった。
腹部の中でなにかが暴れ出すような痛みで、ときおり立ち止まらずにはいられない。
それは湊も同じで、口には出さないものの、あまりの痛みに湊のひたいには汗が流れていた。
「……バスに乗ろうか?」
すぐ先に見えるバス停を湊が指さすと、芽衣は苦しそうな表情のまま、首を横に振った。
「歩こうよ、湊くん」
「でも……」
「歩かせて。歩きたいの」
芽衣は、はっきりとそう力強く訴えた。
「この景色を忘れたくないの。この風を感じたいの。お願い……」
「そうだな。俺もだよ」
風に匂いがあることを二人は今、知った気がした。
空に色があることに、いまさらながらに気づいた。
揺れる木々の音を感じる幸せも、ようやくわかった。
「どうして今まで気づかなかったのかな?」
「なにに?」
「……すべてだよ」
芽衣はそう言うと、自分たちが今来た道を振り返った。
「鈴城?」
「ねえ、何百回と歩いたこの通学路も……、私たちいつか忘れちゃうのかな」
「かもな」
「その”いつか”って……、いつなのかな」
「……俺には分からないよ」
「明日にはこの道も、私たちは……」
「なあ、鈴城」
湊はそこで芽衣の言葉をいったん区切った。
「やめないか、そういう話」
「え?」
「俺らは、絶望するために戻るんじゃないだろ?」
「だって、湊くん……。最後の記憶を取り戻すために……、行くんでしょ? 最後の時間を過ごすためだけに……」
「ああ、そうさ。だからこそだよ」
湊はふうっと大きく息を吐くと、芽衣をじっと見つめた。
「なあ、鈴城。俺たちは意外に幸せかもよ」
「え? 幸せ!?」
芽衣は目を大きく開いた。
(幸せってなに? そんなことあるはずないのに……)
「なんだよ、その顔。疑ったような目で俺を見るなよ。鈴城、人はみんないつか死ぬんだよ。ただそれが人よりちょっと早いか、遅いかだけさ」
『そうさ──……。それだけなんだ』
湊は自分自身も納得させるかのように言葉を続けた。
「普通、人は最後の瞬間を自分では選べないだろ? ”明日で自分の人生が終わる”と思ってる人間なんて、なかなかいない。みんな当たり前のように明日が来ると信じて、学校に行ったり、友達と出かけたり……」
「うん」
「俺たちはその最後の時間をどう過ごすか、自分たちで選べるんだ。最後にそんな時間が持てて……、俺は幸せだよ」
「湊くん」
「少なくとも俺は……、今、こうして鈴城がそばにいてくれる。それだけで、俺はこれまでのどんな瞬間よりも幸せだと思うよ」
「湊くん、そんな……。私たち、特別な日なんてなくて……」
「バカだな。この五日、どれもが特別だったんだよ。鈴城と笑った日、話した夜──その全部が、今の俺を支えてるよ。ありがとう」
湊がそう言うと、芽衣の瞳からぼろぼろと大粒の涙が流れだした。それは湊から初めて聞くお礼の言葉だった。
芽衣は、自分がこの世界から消えようとしているのに、自分の存在をこんなにも大切に思ってくれる湊を思わずにはいられなかった。それが嬉しくて、同時に切なくて、涙が止まらなかった。
「……私、なんの役にも立たなくて」
「どうして? 俺の存在意義を教えてくれただろ?」
「え?」
「鈴城から必要とされることで、俺は”ここにいてもいい”って許される気がした。いてもいいなんて……、もう死んでるんだけどな」
ふっと笑いながら、湊は続けた。
「死ぬとさ……、人は忘れていくじゃん? 俺も昔、じいちゃんの葬式に出たことあったけど……、顔がぼやけてるんだよな。遊んでもらった記憶は、なんとなくあるのに」
「……うん」
「でも、だから生きていけるのかな。悲しみに引きづられていたら、明日が来ることが怖くなって、生きることに憶病になる気がするから」
湊はそこまで言うと、ゆっくりと鈴城を見つめた。
「俺たちのことをみんな忘れていく。強烈な思いがあった影山と富岡先生だけは、覚えていたけどな」
「……じゃあ、私のことを忘れていた両親は、私のこと、好きじゃなかったの?」
「それも違う気がするな。きっとその逆だ」
長い坂をくだり終えて、薬院大通りの交差点に出て右折しようとすると、信号はまだ赤だった。
湊が足を止めて、芽衣もそれに続くと、湊はゆっくりと口を開いた。
「大好きだったと思うよ。大切すぎて、現実を受け止められずに、忘れることでしか正気を保てなかったんじゃないかな」
「なによ。まるでよく知ってるかみたいに」
「だって、鈴城のその目は……、愛されて育った人の目だよ」
「え?」
「人に優しくできる人間は、俺的には2パターンしかいないって思ってる。家族から愛された人間か、心の痛みをよく知る人間……。たまたま鈴城は……、その両方を併せ持っていたんだよ」
信号が赤に変わると、湊は「行こう」と芽衣に合図をし、再び歩き出した。
「きっと君の両親が忘れようとしたのは、事故死したという事実だけで、鈴城の存在じゃないよ。ただ今は悲しすぎて……、記憶がぐちゃぐちゃになって、一時的に忘れてるだけさ」
薬院大通りまで出ると車の動きが一気に多くなり、湊の声は急に聞こえづらくなった。
けれど、芽衣はその方が良かった。
(湊くんが優しいのは……、きっと後者の人間だからなんだね)
芽衣は、湊の言葉に、自分の存在を肯定されたような気がした。
けれど同時に、湧き上がる悲しみが芽衣を包み込んだ。
痛みをよく知り、痛みに敏感な痛みが、人を傷つける方向に走らず、今の湊を作り上げたことに芽衣は胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。
これが最後に聞く車道の音かもしれないと思うと、二人とも自然に耳を澄ました。
普段騒がしいと思っている車の音、バス停でバスのドアが開け閉めする音、乗り込む人々の足音──。
(世界はこんなにも、音であふれているんだね)
その一つ、一つが、みんなが生きている証の音で──、今となっては誰も自分たちを振り返らないことを知りながら、芽衣は空を仰いだ。夕暮れのオレンジ色の空が、ゆっくりと夜の静寂へと溶け込んでいく。その空を見上げながら、芽衣は自分の胸の奥に広がる静かな感情を噛みしめた。
「きれいだね、湊くん……」
「ああ、本当に」
柔らかな光が二人を包み、街のざわめきが遠くから聞こえてくる。
湊と芽衣は、ゆっくりとした足取りでマンションの方へ歩き出した。胸の中に広がるのは、悲しみというよりもむしろ、静かな安堵だった。これでようやく、すべてが終わる──と、芽衣はどこかで思っていた。
「……ねえ、湊くん。一つだけ聞いていい?」
芽衣のマンションがもうすぐそこまで見えているところまできて、芽衣は湊に尋ねた。
「何?」
湊に優しく聞き返され、芽衣は一瞬黙った。
芽衣は歩きながら、ずっと考えていた。この最後の瞬間に、湊と何を共有すべきなのかを──。
湊が自分を抱きしめたとき、芽衣はその温もりの中に安らぎを感じた。もちろん、その後に痛みはあったけれど、抱きしめられた喜びの方がずっと大きかった。
けれど、その一方で、何かが胸の奥でひっかかっていた。
(湊くんは、ただ記憶を取り戻したいだけなの? それとも、今の私に触れたいの?)
湊の優しさを信じたくて、その答えを知ることが怖くもあった。ただ、この瞬間が二人にとって最後かもしれないという思いが、芽衣を後押しした。芽衣は、本心を尋ねることが自分にとって、湊との本当のつながりを確かめる唯一の手段だと感じていた。
芽衣は、深呼吸すると、決意を固めた。
「今から私に触れるのは……、死んだ瞬間を知りたいだけ?」
湊は一瞬、何も言えなかった。
答えはすぐに出なかった。確かなのは、今この瞬間、芽衣がそばにいるという事実だけだった。
湊の視線が、芽衣の髪、ほほ、唇へとゆっくりおりていく。
「それとも、そこに……、私がいるから?」
その瞬間、芽衣にとっても湊にとっても、周囲のすべてが静まり返ったかのようだった。
風の音さえも遠のいて、二人の間にあるのはただお互いの存在だけだった。
触れ合うことでよみがえる記憶──。
触れたいのは、過去を思い出したいから?
それとも、想う相手がいるからこそ、触れたくなるのか。
芽衣はその答えを知りたくて、湊をじっと見つめたまま、その答えを待つのだった。