公園の街灯は白色の光を放ち、無言の二人の周りを淡々と照らしていた。
 湊はベンチに座ったまま、疲れきった顔でぼんやりと夜空を見上げた。
 空には、薄い雲がかかっており、星はほとんど見えない。風はほとんどなく、湿り気を帯びた静かな夜だった。
 湊は、ゆっくりと芽衣を見た。隣では、芽衣が両手を膝の上に置き、指先で無意識に自分のスカートの生地をいじっている。

「……もう少し、ここにいようか?」
 湊はそう言うのが精一杯だった。
「帰ろう」と言える場所はなく、「行こう」と言えるあてもない。
 黙ってうなずく芽衣を見て、湊は胸の奥が締めつけられるような痛みを感じた。それでも何も言えず、反対車線側に見える自動販売機でペットボトルを買い、芽衣に差し出した。

「……寒くないか?」

 それがようやく言えた湊の言葉だった。
 本当はこんなとき、あたたかいポタージュでもあればいい、と湊は思った。
 自動販売機にあるのは、ミネラルウォーターやコーヒーやジュースやお茶といったコールドドリンクばかりで、とりあえずミネラルウォーターを買って渡したものの、芽衣は、隣で静かに座ったまま、ペットボトルを両手で持っていた。フタを開けることもなく、ただその透明な容器をじっと見つめている。時折、街灯の光がボトルに反射して小さくまたたいた。

「……家に帰りたくないな」

 芽衣が、ほとんど聞き取れないような声で言った。

「家に帰っても、誰もいない。たぶん、今日も両親は帰ってこない。帰ってこないのをわかってて待ち続けるのって……、つらいよね」

 芽衣が静かにうなずくのを見て、湊の胸には複雑な感情が渦巻いていた。もし自分の家があれば、そこへ彼女を呼べるのに──いや、そもそも自分の家に呼んでいいのか?
 さまざまな感情が湊の頭の中を駆けめぐり、どう言葉をかけたらいいのか、まったくわからなかった。それでも、目の前で今にも消えてしまいそうな芽衣を見て、湊は声をかけずにはいられなかった。

「じゃあ、ここで夜を明かそうか」

 それが湊に言える精一杯の優しさで──、湊はそう言うと、横に並ぶ芽衣の顔をちらっと見た。
 芽衣は一瞬驚いたように湊を見つめ、すぐにふっと笑った。

「そうだね、ここなら大丈夫かもね」

 芽衣が笑ったのを見て、湊は安心して、ほほえんだ。

「もし補導されたとしても、今の俺たちならむしろラッキーかもな。行くあてもないしさ」

 ──むしろ誰かの目に留まって、俺たちがここにいるって証明してほしい。

 湊は芽衣に語りかけたあと、短く自分の気持ちをブログにつづった。

「湊くん、まだブログ書いてるの?」

 芽衣は、湊の方に少し体を寄せて、その画面を見た。

「なんとなくね。いつか誰かの目に届く気がしてさ」

「うん、いつかきっと届くよ」

「いつどんな形で読まれるかわからないけど……、この言葉は、確かに俺たちが今、ここにいた証明みたいなものだから」

 それより、と湊は思った。

『鈴城、近いよ……。そんなに寄ってくるなよ』

 手を伸ばせばすぐ触れ合える距離に彼女がいる──、そう思うと、湊の心臓は早鐘のように鳴っていた。
 内心焦る気持ちを抑えながらも、湊の手はわずかに震えていた。
 今にも芽衣の髪に触れてしまいそうな自分を制しながら、湊は芽衣から視線をそらした。

 二人は互いに目を合わせることもなく、ただ静かな時間が過ぎていくのを感じていた。街灯が灯るだけの公園は、昼間の活気を失い、どこか二人だけの異世界に迷い込んだかのような不思議な世界だった。

「……街灯って、いつまでついてるんだろう?」

 芽衣がふと呟いた。

「さあ、わからないな。でも、22時46分だし、もうしばらくはついてるんじゃないか?」

 湊がスマホで時間を確認しながら答えると、芽衣はどこか遠くを見つめるように視線を漂わせた。

「湊くん……、明日どうする?」

 芽衣がぽつりと問いかけた。
 湊くん、と名前を呼んでいるのに、芽衣は湊を見ている様子はまるでなかった。

「さぼっちゃおうか、学校」

 湊は軽い口調で言ったが、その目は真剣だった。
 けれど、芽衣は湊のその視線にも気づかずに、悲しそうにうつむいた。

「……そうだね。行きたくないし、ちょっと遠くへ行きたいな」

「じゃあ、芽衣のお母さんの職場にでも行ってみるか?」

 湊がそう言うと、わずかに芽衣の体が震えて、芽衣は顔を上げて湊を見た。

「……え」

「俺たち、そろそろはっきりさせよう」

「……湊くん」

 芽衣の声は、少し震えていた。

「俺たちのことを忘れている人間と、覚えている人間がいる。その理由を俺は知りたいよ。鈴城のお母さんに会えば、なにか分かるかもしれない」

「わかった……」

 芽衣はしばらく湊を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。その瞳には、先の見えない不安と迷いが宿っていたが、それでも決意を固めたように、息を吐き出した。

「何があっても、俺がそばにいるから」

 湊の言葉に、芽衣は一瞬戸惑いながらも、その温かさに包まれるように感じた。

「大丈夫だよ、鈴城。だから明日、俺と一緒に行こう」

 芽衣は、目頭が熱くなるのを感じながら、声を出す代わりに、震えるようにうなずいた。心の中では湧き上がる感情が押し寄せ、泣きそうになるのを必死で抑えた。
 
(もし今、このまま湊くんの胸の中に飛び込んでしまったら……、泣いちゃいそうだよ)

「……それよりさ」

 芽衣は話題を変えようと無理にほほえもうとしたが、うまく笑えなかった。

「……あの子、どうなってるかな」

「誰? 影山?」

 湊が尋ねると、芽衣はそっと首を縦に振った。

「夏帆だけだよね、クラスメートで私たちのことを覚えてるの……」

 芽衣は遠くを見つめながら、言葉を続けた。

「他のみんなは、まるで最初から私たちがいなかったみたいに……」

 公園の街灯が、何事もなかったかのように二人を淡々と照らしていた。その光がいつ消えるのか、わからない。ただ、今この瞬間がどこかもろく、限りあるものであることだけは感じ取っていた。

「人間って、なんなんだろうね。あんなことがあって、すごく傷つけられたのに……、夏帆を見て”ざまあみろ”なんて思えないんだよね」

 芽衣がぽつりと呟いた。

「鈴城は、そういうやつなんだよ。あいつにいじめられたのに、恨むどころか心配して……」

 湊は芽衣の言葉を受け止めながら、口調を少し硬くした。

「うん……。でも、夏帆、すごく傷ついてたよね。たとえ他の誰に何を言われても平気かもしれないけど、好きな人に言われる言葉って……、心にまっすぐ響いちゃうから、どうしても守れないんだと思う」

「守るって、なにを?」

「自分の心だよ……」

 湊は芽衣を見つめ、しばらく無言でいた。
 芽衣の柔らかい表情、そして彼女の強さと優しさが、湊を激しく揺さぶった。

「それが鈴城なんだよ。そんなんだから、俺は……」

 言葉を続けようとした瞬間、湊は胸が締めつけられるような感覚に襲われた。

『これ以上は言えない』

 自分の心の中に押し込めた想いが、喉元まで込み上げているのに、言葉にできない。
 口に出してしまったら、今の関係が崩れてしまうかもしれない──そんな不安が湊の心を支配していた。
 幼き日、母親を喜ばせようと思って持ち帰ったクマゼミが、結果的に自分を絶望させる結果になったときのことが、まざまざとよみがえってくる。自分の気持ちをストレートに表して、再び傷つくことが、湊は怖かった。

『俺は……、鈴城のことが、こんなにも……』

 心臓が早鐘のように鳴り、耳まで響いてくる。それは、湊自身、自分でも気づかなかった初めての感情だった。
 彼女の顔がこんなに近い。触れたいと思ってしまう自分が怖い。この距離感で、何かが変わってしまう気がして、湊はあえて視線を外し、言葉を飲み込んだ。

『今はまだ、言うべきじゃないんだ……』
 
「……湊くん?」

 芽衣は湊が言いかけた言葉を、どうしても聞きたくて、湊の顔をじっと見つめた。
 
(何かを言いかけてやめるなんて……)

 その言葉の続きを知りたいのに、湊は再び口を閉ざしてしまった。

(ねぇ、どうして続きが言えないの?)

 芽衣が何度心の中で問いかけても、湊は答えてくれない。

(湊くんの顔が近い……。ほんの少しだけ距離をつめれば、触れ合えるのに……)

 けれど、自分からその一歩を踏み出す勇気は芽衣にはなかった。胸の奥が締めつけられ、湊に聞きたかった言葉が、喉の奥で絡まるような感覚があった。

(もう、これ以上聞いたら、私……、自分の気持ちが抑えられなくなっちゃうかも……)

 芽衣は心の中でそう思いながらも、湊への視線を離すことができなかった。
 湊が何を言おうとしたのか、それを知るまで、この静かな夜が終わってほしくないとさえ思った。

「……いや、なんでもない」

 そうつぶやいた湊は、顔を上げて、芽衣の顔があまりに近いことに気づいた。
 手を伸ばせば、すぐに触れられそうな距離。二人の距離はキスできるほど近く、どちらもその場から動けなかった。

 どちらがというわけではなく、お互いが手を伸ばそうとするたびに、二人は記憶の中で何かをつかもうとしているような感覚に襲われた。それはかつて自分たちが知っていたもののはずなのに、はっきりしない。触れたい理由が、その記憶をたぐりよせたいからなのか、それともそこに彼が、彼女がいるからなのか──痛みに縛られて、触れてしまったら、今、自分たちが見ている世界が壊れてしまうのではないかという恐怖が、二人の体を硬直させていた。

「湊くん?」

「ああ、悪い。なんでもない」

 二人の間には、街灯の白い光だけが静かに灯っていた。周囲の音も、時間の流れも、すべてが二人だけの世界になっていく。

 芽衣は、湊が何を言おうとしたのか気になりながらも、言葉にできない何かが胸を締めつけていた。湊もまた、芽衣を見つめながら、次にどうすればいいのかがわからないままだった。

「……このまま、何も変わらなければいいのに」

 湊がぽつりと呟いた。芽衣も同じ気持ちだった。

(世界は変わらずこのままで……。私たちだけが変われたらいい)

 街灯が静かに二人を照らしている。
 時間は静かに過ぎているはずなのに、まるで二人だけがその場に取り残されたような気がしていた。
 虫の声も、遠くの車の音も、すべてが遠のいていく。芽衣も湊も、お互いに言葉を失ったまま、ただお互いを感じていた。