湊がゆっくり目を開けると、あたりはすっかり夕暮れに染まっていた。まだ眠っている芽衣の寝顔を見つめながら、湊はベンチに座ったまま、ぼんやりと耳を澄ませていた。
 せわしく鳴く虫の声が、聞こえてくる。

『あれは……、セミの鳴き声か?』

 聞こえくる音に、湊は眉をひそめた。確かにセミの声がするけれど、よく耳を澄ませば、それだけじゃない。他の虫たちの声も入り交じっているようで、コオロギや鈴虫……、そんな鳴き声が、夕方の空気の中で混ざり合い、静かに響いていた。

 その音を聞いているうちに、湊はふと、芽衣が言っていた言葉を思い出した。

「……もう九月だから、朝の時間帯にはセミの鳴き声もあんまり聞こえなくなってるし。あ、夕方からは結構鳴くよね」

 芽衣が言ったその言葉が、今こうして夕暮れの中で、現実のものとして耳によみがえってきて、湊はふっと笑った。

『ああ、鈴城が言ってた通りだな……』

 湊は小さく息をつきながら、周囲の音をもう一度聞いた。
 夕方になって活動を始める虫たちの声が、セミの鳴き声に混じっている。それでも、セミの声は、どこか主張強く響いていた。

『昔は、虫の名前や鳴き声なんて全部わかっていたはずなのに……。今は、もうすっかり忘れちまったな』

 湊は昔、虫取り網を持って追いかけた記憶をぼんやりと思い出した。幼い頃の夏の終わりは、虫の鳴き声とともに過ぎ去っていくものだった。特に、小学生の夏休み、湊の父親が再婚して間もない頃には、虫取りも父親との唯一の楽しい時間だった。
 けれど、その時間もいつしか途切れ、公園に出かけることも少なくなった。

 そんなある夏、まだ父親と遊んでいたころ、湊はクマゼミを見つけた。クマゼミはその大きさと迫力で、湊の心をすぐにつかんだ。
 湊は、どうにかしてそれを家に持ち帰りたくて、公園に落ちていたペットボトルにクマゼミを入れ、"母親"に見せようとしたのだ。
 ただ親の反応は予想とは違った。

『なんであんな顔してたんだっけ……』

 母親の顔は冷たく、どこか無関心だった。"つまらないこと"を持ち帰ったかのような、無言の拒絶。それに気づいた湊は、急いでクマゼミを逃がそうとしたものの、ペットボトルの口が狭くて、クマゼミをうまく出せなかった。焦って無理やり引っ張り出そうとしたその瞬間、クマゼミの片方の羽が、ぷつりとちぎれたのだ。
 慌てて木の枝にそっと戻したクマゼミは、もう動かなかった。羽がちぎれたせいで、飛び立つことができなくなったのだ。
 そのときの湊は、それがただ悲しいだけで、何も考えられなかった。

「俺は、もうあの頃の俺じゃないんだな……」

 その後、虫取り網を握ることはなくなり、大人になってしまった自分には、あの頃の音の一つ一つを感じ取る感性も薄れてしまったのかな、と湊はふと思った。

「大人になるにつれて、忘れていくんだろうな、こういうのって……」

 湊は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 いつから、好きなものを好きと言えなくなったんだろう。
 いつから、この世界が、色を失って見えるようになったんだろう。
 いつから、自分を大切に思えなくなってしまったんだろう──。

 湊が深く息を吐いたとき、芽衣が軽く身じろぎした。まだ目を閉じたまま眠っているようだが、ふと芽衣が起きそうな気配に、湊はそっと息をつめた。そのままベンチの背もたれに寄りかかると、湊はちょうど下校し始めた生徒たちを見つめた。

『誰もまだ、俺たちに気づいてないみたいだな……』

 公園の前を自分たちと同じ制服を着た生徒たちが通り過ぎていく。
 
『このまま、誰にも気づかれないままでいたい気もするな……』

 不思議な安堵感に包まれながら、湊は、隣で眠っている芽衣に視線を戻した。
 虫たちの鳴き声はさらに激しくなり、日が沈む頃にはピークを迎えた。午後六時半近くになると、湊の周囲は虫たちの声でいっぱいになり、その音に飲み込まれるような感覚に包まれた。

 芽衣がゆっくりと目を覚ましたのは、その頃だった。
 芽衣はまどろみの中で一瞬、ここがどこなのか混乱したような顔を見せ、その直後、すぐに隣にいる湊の存在を感じ取り、安心したように小さく笑みを浮かべた。

「……ごめん、寝ちゃったね……」

「大丈夫だよ、鈴城。少しは休めた?」

 湊は優しい声で問いかけた。芽衣はうなずきながら、周囲を見回した。

「みんな、……もう下校してるんだね……。誰も私たちに気づかないみたい」

 その言葉に、湊は静かにうなずいた。お互いにしばらく何も言わず、虫の声や下校する生徒たちの笑い声、時折通り過ぎる車の音だけが公園を包んでいた。

 ふと、湊の視線が空に向かい、思わず声を漏らした。

「見ろよ、鈴城。空、すごくきれいだな」

 芽衣は驚いたように湊の視線を追い、空を見上げた。
 そこには、夕焼けのオレンジ色が濃く広がり、雲が朱色に染まっていた。空の端にわずかにが青が残り、消えゆく夕日が作り出すその光景は、まるで誰かが空に優しく色を重ね塗りしたようで、芽衣の心に響いた。

「本当だ……。すごくきれい……」

 芽衣は、ぽつりとつぶやいた。

「なんだろうな、こういうの見てるとさ……。不安とか、どうでもよくなる気がしないか?」

 湊はそう言いながら、少し笑みを浮かべて芽衣を見た。

「……うん。そうだね……」

 芽衣は同意し、肩の力が抜けたようにリラックスしている自分に気づいた。

(もしかして、湊くん……。私のこと、元気づけようとしてるの)

「空は変わるのに、俺たちは……」

 湊がそう言いかけた瞬間、芽衣は驚いたように「あ」と声を上げた。芽衣の視線は一瞬で湊から離れ、何かを発見したようだった。思わず湊の袖を軽く引っ張り、その指先は少し震えていた。

「ねえ、あそこ……。見て、あれ……!」

 芽衣が指さす方向を湊も見た。下校中の生徒たちの中に、夏帆と浩平の姿があった。
 二人は激しく言い争っており、その様子に他の生徒たちは避けるようにして通り過ぎていた。

「なんでわからないの!?  芽衣と湊がいるのに……!」
 
 夏帆は声を震わせながら、必死に浩平に訴えていた。

「何度も言わせんなよ! 俺はあいつらなんか知らねえって言ってるだろ!」

 浩平は、苛立ちを隠そうともせずに叫び返した。その口調はどこか冷たく、容赦がなかった。

「今日初めて見たんだよ、あの二人を。転入生かなんかだろ? なんでおまえがそんなに必死になってんだ?」

「違う! あの二人は……、昔からあたしたちのクラスメイトだったじゃない!」

 夏帆の声はますます感情的になっていた。

「なんで、浩平まで覚えてないの!? あたしが……、芽衣をいじめてたことだって……、全部覚えてるのに!」

「は? いじめ? おまえ、何バカなこと言ってんだ?」

 浩平は嘲笑うように鼻で笑った。

「おまえが誰かをいじめるとか、どんな冗談だよ」

「違うの! あたし、本当にあの二人のこと、ちゃんと覚えてるの……!」

 夏帆の声は涙混じりになり、やり取りを見守っていた湊と芽衣の視線に気づいた。ふと顔を上げた夏帆は、公園のベンチに座る二人を見つけ、驚いたように目を開いた。
 それを横目に見た浩平が、面倒くさそうに言葉を続けた。

「話の途中だろ、こっち向けよ」

 夏帆が慌てて浩平に視線を戻すと、浩平は「はあ」と大きくため息をついた。
 夏帆の喉が一瞬で乾き、言葉が出そうになるも、声にできなかった。

「おまえ、あの二人のことがそんなに大事か?」

 浩平は、完全にうんざりした様子で言葉を続けた。

「正直、どうでもいいだろ? なんでおまえがそんなにこだわってんだ?」

「どうでもいい!?  どうしてそんなこと言えるの!? あたしたち、一緒にいたんだよ! あたし……、ひどいことをしたのに……」

 夏帆の声は、まるで自分を責めるかのように震えた。
 夏帆の手が、無意識に拳を握りしめていた。反論したい気持ちがあふれそうになるのに、嫌われるのが怖くて、言葉が喉の奥で凍りついたまま、それ以上出てこなかった。

「もういいだろ!」

 浩平は声を荒げ、勢いよく言葉を放った。

「全部おまえの妄想だって言ってんだろ!」

 浩平の声が響いた瞬間、夏帆は思わず一歩後ずさり、その肩が小さく震えた。
 今にも泣きそうな顔で夏帆が浩平を見ると、突然、浩平のトーンが冷たく変わった。

「結局、夏帆には何もできねぇんだよな。泣いて逃げるしかないんだろ?」

 夏帆の手は、小刻みに震え始めた。何か言い返したくても、すぐに言葉が喉に詰まって出てこない。

「俺にはあいつら、転入生にしか見えねえんだよ。おまえが何言おうと、俺には全然わかんねえよ。そんなのどうだっていいだろ?」

「どうだっていい……?」

 夏帆は、まるで自分の胸を刃物で刺されたかのように顔を強張らせた。

「……浩平、ねえ、そう言ったの? あたしが芽衣にしたことが、どうだっていいって……」

「ただの勘違いだろ」

「あたし、ずっと、ゲームみたいにいじめて……!」

「おい、もうそれで終わりにしろよ」

 浩平は苛立ちを隠そうともせず、強い口調で夏帆の言葉をさえぎった。

「いじめだって? 笑わせるなよ。ただの勘違いだろ? それに今さら何を望んでるんだ? 急にいい子ぶって、おまえが許されるとでも思ってんのか?」

「……浩平、ひどいよ……」

 夏帆の表情が一瞬で青ざめ、一筋の涙が頬をつたった。夏帆はかすれた声で呟いた。

「そんなふうに……、言わないで……」
 
 夏帆は唇を噛みしめると、悲しそうに浩平から視線をそらした。

「バカじゃねぇの。誰も知らないこと、いちいち気にしてんの、ほんとウザいんだよ」

 浩平はもう完全に夏帆に対する感情を遮断したかのようだった。浩平にとって、夏帆の言っていることはすべて意味不明で、理解する価値もないと感じていた。

 夏帆は何か言い返そうと口を開いたが、言葉が出なかった。夏帆は必死に涙をこらえながら、その場に立ち尽くすしかなかった。

「もういいだろ? こんな意味不明な話に、これ以上付き合う気はねえよ。それにさ、夏帆、おまえ、見た目は強そうだけど、中身は全然だよな。おまえには、がっかりだよ」

 夏帆は一瞬、その言葉に反応しようとしたが、声にならない叫びが喉に詰まったようだった。何も言えず、ついに涙をこらえきれずに、夏帆の瞳から大粒の涙があふれ出した。

「おまえ、いつも面倒くせえことにこだわって、自分で勝手に壊れてんじゃねえよ。ほんと、そういう女って最悪だわ」

 その言葉がトドメだった。心臓を鋭い刃物で一刺しされたような鋭い痛みに、夏帆は一瞬立ち尽くした。胸の奥で何かが壊れる音が聞こえた気がして、次の瞬間、涙を拭うことも忘れ、夏帆は震える足でその場を駆け出した。
 足音が小さく遠ざかり、湊と芽衣の前に再び静けさが戻ると、浩平は納得がいかないように、湊と芽衣の方にいらだちを向けた。

「おまえらのせいで、あいつ、すっかりおかしくなっちまった。誰もお前らなんか知らねえってのに、夏帆も富岡先生も、なんでお前らにこだわってんだよ?」

 その言葉に、芽衣は一瞬、浩平の鋭い視線に怯えたように体がこわばった。浩平の苛立ちが、まるで自分に向けられているようで、視線を逸らそうとしたが、それもできなかった。

 芽衣が身を縮めるその瞬間、湊は芽衣の小さな震えに気づき、無意識に彼女の前に立った。
 芽衣を守るため、そして、これ以上の争いを避けるために──、湊はそのまま冷静に浩平を見返し、静かに言った。

「……富岡先生も、俺たちを覚えているのか?」

「ああ、覚えてるどころか、今日一日中ずっとおまえらのこと気にしてたよ。他の先生たちは『誰それ?』って感じだったのに、富岡先生だけ『北川、鈴城』だって。みんなあきれてたぜ! 他の先生はみんな知らねえってのにさ!」

 浩平は苛立ちを吐き出すように、さらに言葉を続けた。

「おまえらのせいで、あの先生もすっかりおかしくなったんだよ。俺らは迷惑してんだ! どうしてくれるんだよ?」

 浩平の苛立ちが頂点に達していることが、湊にも伝わってきた。芽衣も、ただ黙ってその場に立っていた。

「なんだよ、なんか言えよ!」

 浩平がさらに苛立ち、二人に食ってかかるような態度を見せた。

 湊は冷静に浩平を見つめ、静かに言った。

「……富岡先生も困ってたのか?」

「ああ、他の先生からも突っ込まれてんのに、全然聞きやしねえ。もういい加減、あいつもまともに戻れよって感じだよ!」

 浩平は手を振り払うような仕草をし、吐き捨てるように言葉を続けた。

「おまえら、明日学校くんなよ! これ以上、学校の空気を変な方向に持っていかれるのはまじでごめんだ!」

「影山とケンカしたからって、俺たちにあたるなよ」

「はあ? 全然関係ねえし! 誰もおまえらを待ってるやつなんかいねえから!」

 そう言い残すと、浩平は苛立ちを隠せないまま、背を向けて去っていった。足音が遠ざかるにつれて、再び公園に静けさが戻った。 
 夕暮れはすっかり夜の闇に変わり、虫たちの声は、いつの間にか遠くで静かに聞こえるだけになっていた。