その沈黙を埋めるように、湊が話題を変えた。
「それより、これからどうしようか」
湊が、話題を変えてきて、芽衣はどこかホッとした。
(今はまだ……、自分の気持ち、伝えるべきじゃないよね)
そう思う一方で、いつなら、自分の気持ちを伝えられるの? という疑問にぶつかる。
こんなに近くにいるのに、心の距離がどこか遠い気がして、芽衣は唇を噛みしめた。
「またいっしょに帰るか?」
湊から言われて、芽衣は静かに首を横に振った。
「家に帰っても、誰もいないし」
「まあ、まだこの時間だしな」
そう言われて、芽衣は、湊の優しさを感じていた。バッグの中からスマホを取り出して、両親から着信もメールもない。それでも、「夜に帰ってもどうせ帰ってこないしな」なんて言われると、不安で涙があふれ出しそうになる。
「なあ、鈴城……。確かめないか?」
「え?」
「少し戻って、学校近くの公園に行こう。あそこなら、うちの生徒が通るだろうし、もし誰かが俺たちを覚えてるなら、何か言ってくるかもしれない」
芽衣が不安そうに湊を見つめると、湊は少しだけ笑みを浮かべた。
「”早退したのに、なんでここにいるの?”って、声かけられたら、それで答えがわかるかもしれない」
湊は、あくまで軽い調子でそう言ったが、その目には確かに真剣さがあった。
芽衣は静かに目を閉じ、湊の提案を受け入れるように息を吐いた。
どこにも居場所がなく、行くあてもない。
自分たちの周りから少しずついろいろなものが消えていく現象の正体を、芽衣は知りたかった。
「もし帰り道で、影山があの公園を通ったら、彼女に話を聞いてみよう」
「うん……」
「なんで彼女だけ、俺たちのこと、覚えているのか、俺は知りたいよ」
湊はまぶしそうに空を仰いで目を細めた後、ふと芽衣に目を向けた。
その視線を感じて、芽衣はそっと目を開け、湊を見つめ返した。
「鈴城、そんな顔するなよ」
胸に抱く不安を見抜かれて、芽衣はドキッとした。
「俺がついてるから、大丈夫だろ?」
湊がどういう気持ちで言っているか、わからない。
それでも芽衣は、湊を見上げ、その瞳に引き寄せられるように目を合わせた。
「一緒に悩むって、約束したじゃん? 鈴城を一人にしないから」
(湊くん……)
本当はこんなとき「ありがとう」とか「頼りにしてるね」とか……。
そんな言葉をかけて、湊の手をぎゅっと握り締められたら、どんなに心強いんだろう、と芽衣は思った。
触れることでまたあの痛みがあるかもしれないと思うと、芽衣は怖くて湊の手を握ることさえできなかった。
それでも、湊の言葉に少しだけ肩の力が抜けて、芽衣はふっと笑った。
(湊くんに、今の気持ちをすべて伝えられたら……、もっと楽になれるのに……)
芽衣は喉の奥まで思いが出かかっているのに、どうしてもその言葉を口に出すことができない自分がもどかしくて仕方なかった。何かを言えば、湊が自分の気持ちにどう反応するのか、考えるだけで足がすくんでしまう。
「……でも、今はまだ言わないでおこう」──そう自分に言い聞かせ、目の前のパンに意識を戻す芽衣は、いつかこの想いを、ちゃんと言葉にできる日が来るのかな、と小さくため息をついた。
「……じゃあ、湊くん、せっかくだし、あの角のパン屋に寄って行かない?」
「パン屋?」
湊は一瞬きょとんとしたが、すぐに芽衣の気持ちを理解して、表情をゆるめた。
「ああ、あそこね。鈴城、甘いパン好きだっけ?」
「うん、特にあそこのクリームパンがおいしいの。食べたら、少し元気出るかもって思って……」
(私、元気出るっていうより……、本当は、湊くんと一緒にいるだけで、安心できるんだよ。でも……)
芽衣はそう心の中でつぶやきながらも、やはりその言葉を口にすることはできなかった。
(今、湊くんに「ありがとう」とか「頼りにしてる」って言ったら、湊はどう思うんだろう?)
心のどこかで、「それって同情?」と言われるかもしれないという不安が、再び芽衣の脳裏によぎった。
(違うのに……。湊くんと一緒にいると、安心するのに……)
自分の思いがうまく伝わらず、誤解されるのではないかという恐れを抱いて、芽衣はやはり踏み出せないままでいた。
「行こうか、俺も腹減ったし」
湊が軽く笑って答えるその姿に、芽衣は少しだけ救われた気持ちになった。
(湊くんはいつもこうやって、私を助けてくれる。私も、ちゃんと感謝を伝えたいよ。いつか、少しでもいいから、ちゃんと伝えたい)
芽衣は心の中でそう思いながら、何度も言葉を飲み込んでしまう自分が歯がゆかった。
(いつかっていつ? いつなら言えるの?)
芽衣がパン屋のことを持ち出したことで、二人の間にあった緊張感が少しずつ解けていき、芽衣も湊も、少しずつ気持ちが軽くなっていった。
湊と一緒に歩き出しながら、芽衣はどこか安心感を覚えた。
「じゃあ、パン買って、公園で食べようか?」
「いいね。少し休憩しよう」
二人は角のパン屋に入り、芽衣はクリームパン、湊はクロワッサンを手に取った。それぞれのパンを袋に詰めて、店を出ると、秋らしい柔らかな風が二人を包んだ。
(なんだか、この瞬間だけでも、日常に戻れた気がする……。湊くんと一緒に、こうしてのんびり過ごすのが、こんなに心地いいなんて)
芽衣は、湊と一緒に過ごすこのひとときが、ゆっくりと不安を和らげていくのを感じていた。
公園に着くと、芽衣と湊はベンチに腰を下ろした。木々の葉が風に揺れる音が心地よくて、芽衣は目を閉じて、しばらく風の音を心地よさそうに聞いた。
「鈴城、パン、手に持ったまま、食べないの?」
湊の声に、芽衣はゆっくり目を開けると、手に持ったクリームパンを見つめ、ふと湊のクロワッサンに目をやった。
「ねえ、湊くん、少し交換しない? そのクロワッサン、一口ちょうだい」
「ん? いいよ。でも、俺のクロワッサンはクリームパンより普通だぞ」
湊が軽く笑いながらクロワッサンを差し出すと、芽衣はそれを一口かじった。
さくさくとした食感に、ほんのりバターの香りが広がって、芽衣は幸せそうに笑った。
「うん、やっぱりおいしい! クロワッサンも好きだけど、私はやっぱりクリームパンが一番かな」
そう言って、芽衣は自分のクリームパンを湊に差し出した。
それは、芽衣の勇気が、ほんの少しつまったクリームパンで──湊はそれを受け取ると、少しだけためらったあと、大きく一口かじった。
「……あ、これ、想像以上にうまいな。クリームが甘すぎない」
「でしょ? だから、ここはよく来るんだよ。でも、湊くん、食べすぎ」
「うまそうだから、仕方ないだろ? それに、鈴城が勧めてくれたんだし」
湊はちょっと照れくさそうに笑って、クリームパンをもう一口かじった。
「まあ、ちゃんと半分残すから、安心しろよ」
湊がかじったクリームパンを見て、芽衣の胸がとくんと鳴る。
(ありがとう、湊くん。湊くんの前でなら、私、すなおになれる気がする)
芽衣は、にっこりほほえむと、自分の中にたくさんの勇気をつめこんで、湊を見た。
そんなふうに芽衣が笑うのを見て、湊は嬉しそうに目を細めた。
『なんだろうな。鈴城が笑うと、こんなに安心するんだな……』
湊は芽衣の笑顔を見つめながら、心の中で静かにそう感じた。
『……鈴城を守るのは、俺の役目なのかな。ひょっとしたら、俺がただ、そばにいたいだけなのかもしれないな……』
芽衣に笑ってもらうことで、自分もどこか救われているような感覚が、湊の胸に広がった。
(湊くん、なんだか優しい顔をしてる……)
芽衣は、湊の表情にふと不思議さを覚えたものの、その感覚を深く追いかけることなく、ただ穏やかな時間が流れていくのを感じていた。
他愛のないやりとりをしながら、パンを食べておしゃべりを続けるのは、今までに感じことのないくらい幸せな時間だった。
学校のこと、友達のこと、そして今感じている不安まで、少しずつ心を開いて話すうち、時間がゆっくりと流れていく。
(全部伝えなくていい。少しでいいから、ちゃんと伝えたい……)
芽衣は深呼吸すると、はじめて自分の思いを口にした。
「湊くんってさ、なんだかんだで頼れるよね。いつも冷静だし、安心するっていうか……」
それ以上は、言えなかった。どこかたどたどしくて、うまく言葉にできなかったけれど──、芽衣がそうつぶやくと、湊は少し驚いたように、そして、照れくさそうに笑った。
「いや、そんなことないよ。俺だって不安なときはある。けど、まあ、顔に出すのは苦手かもな」
芽衣は小さく何度も首を縦に振りながら、湊を見上げた。
(そうだよね。もう、知ってるよ)
二人の会話は途切れることなく続き、気づけば午前の柔らかな陽ざしがだんだんと強くなり、昼過ぎの暖かさへと変わっていた。
公園の前を、ぽつぽつと車が通り過ぎる音が聞こえた。二車線の小さな道だから、時折車が通るたびに、その音が静かな公園の中に低く響く。昼過ぎの日差しが降り注ぐベンチで、二人はその音をぼんやりと聞きながら、静かに時間を過ごしていた。
「こうしてると、不安なことも少し忘れられる気がする」
芽衣は湊にほほえみかけ、空を見上げた。湊も同じように空を見つめながら、芽衣の横顔をちらっと見た。
「……そうだな。なんだか、俺も久しぶりにこんなにリラックスしてるかも」
ふと湊が芽衣の顔を見ると、芽衣のまぶたが重たそうに見えた。
「鈴城、眠いんじゃないか?」
芽衣は驚いたように湊を見て、照れたように笑った。
「うん、ちょっとだけ……。でも、湊くんと話してると安心しちゃって……」
「そうか。じゃあ少し休んでいいよ。無理しないで」
ようやく湊に気持ちを伝えられて、芽衣はほっとしながらも、どっと疲れを感じた。
「大丈夫だよ、平気……」
芽衣はそう言いながらも、眠気に逆らえず、体が自然と湊に寄りかかりそうになった。
肩と肩が触れ合いそうになり、ふいに、二人の頭の中に霧にかかったような光景がぼんやり浮かんだ。視界にぼんやりと浮かんだのは、雨に打たれる交差点。でも、その記憶がはっきりとしない。まるでしっかり見ようとすればするほど消えてしまう、つかみどころのない砂のように、二人はその光景を手繰り寄せようとするが、うまくいかなかった。滝のような雨音が鼓膜を打って、その耳障りな音に芽衣が眉をしかめると、湊はさりげなく自分の体を少し引いて、そっと芽衣との距離を保った。
「寄りかかると、またつらいことを思い出すだろ? もう痛い思いをさせたくないんだ……」
湊は優しい声でそう言いながら、芽衣を気遣うように、芽衣が寄りかかりすぎないよう、空間を作った。
「……あ、うん……」
「せめて今くらい、いやな夢、見るなよ」
芽衣は眠気にまどろんだ目で湊を見つめ、ふっと息をついた。自分で体勢を整えながらも、湊の優しさに包まれるようにして、まぶたがゆっくりと閉じていく。
「大丈夫だって。眠いんだろ?」
(湊くんの”大丈夫”って、まるで魔法の言葉みたい……)
湊はほほえみを浮かべながら、芽衣が無意識のうちに寝息を立て始めるのを感じた。静かに上着を脱ぎ、そっと芽衣の肩にかける。
「話してるうちに、眠っちゃったか……」
そう呟くと、湊は自分のベンチの位置を少しだけずらして、芽衣の体に触れないように、気を使いながら座り直した。
風がそっと二人の間を吹き抜け、葉の揺れる音が静かに聞こえてくる。風が吹くたびに、湊もまたほんの少し心の中の不安が和らいでいくのを感じた。車の音が遠くで響くものの、今はただ、この静かな瞬間が永遠に続けばいいのに、と思うばかりだった。
湊はしばらくの間、眠りに落ちた芽衣の穏やかな顔を見つめていた。
『これって、ただの友情じゃないのかもしれないな。でも、それを認めるのは、まだ少し怖い』
芽衣の寝顔を見ているうちに、心地よさが湊の体にも染みわたっていった。葉の音や風の感触が、まるで優しく包み込むように湊の周りを流れていき、そのたびに、眠気がじわじわと湧き上がっていった。
「……少しだけなら、俺もいいかな……」
湊はそう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと目を閉じた。
風が湊の頬をなでるたびに、体から力が抜けて、まぶたが重くなっていく。ベンチの背もたれに寄りかかる湊も、次第に眠りに落ちていった。
木々の間を抜ける風の音が、まるで子守唄のように昼の公園に響き渡り、二人は静かに眠り続けるのだった。
「それより、これからどうしようか」
湊が、話題を変えてきて、芽衣はどこかホッとした。
(今はまだ……、自分の気持ち、伝えるべきじゃないよね)
そう思う一方で、いつなら、自分の気持ちを伝えられるの? という疑問にぶつかる。
こんなに近くにいるのに、心の距離がどこか遠い気がして、芽衣は唇を噛みしめた。
「またいっしょに帰るか?」
湊から言われて、芽衣は静かに首を横に振った。
「家に帰っても、誰もいないし」
「まあ、まだこの時間だしな」
そう言われて、芽衣は、湊の優しさを感じていた。バッグの中からスマホを取り出して、両親から着信もメールもない。それでも、「夜に帰ってもどうせ帰ってこないしな」なんて言われると、不安で涙があふれ出しそうになる。
「なあ、鈴城……。確かめないか?」
「え?」
「少し戻って、学校近くの公園に行こう。あそこなら、うちの生徒が通るだろうし、もし誰かが俺たちを覚えてるなら、何か言ってくるかもしれない」
芽衣が不安そうに湊を見つめると、湊は少しだけ笑みを浮かべた。
「”早退したのに、なんでここにいるの?”って、声かけられたら、それで答えがわかるかもしれない」
湊は、あくまで軽い調子でそう言ったが、その目には確かに真剣さがあった。
芽衣は静かに目を閉じ、湊の提案を受け入れるように息を吐いた。
どこにも居場所がなく、行くあてもない。
自分たちの周りから少しずついろいろなものが消えていく現象の正体を、芽衣は知りたかった。
「もし帰り道で、影山があの公園を通ったら、彼女に話を聞いてみよう」
「うん……」
「なんで彼女だけ、俺たちのこと、覚えているのか、俺は知りたいよ」
湊はまぶしそうに空を仰いで目を細めた後、ふと芽衣に目を向けた。
その視線を感じて、芽衣はそっと目を開け、湊を見つめ返した。
「鈴城、そんな顔するなよ」
胸に抱く不安を見抜かれて、芽衣はドキッとした。
「俺がついてるから、大丈夫だろ?」
湊がどういう気持ちで言っているか、わからない。
それでも芽衣は、湊を見上げ、その瞳に引き寄せられるように目を合わせた。
「一緒に悩むって、約束したじゃん? 鈴城を一人にしないから」
(湊くん……)
本当はこんなとき「ありがとう」とか「頼りにしてるね」とか……。
そんな言葉をかけて、湊の手をぎゅっと握り締められたら、どんなに心強いんだろう、と芽衣は思った。
触れることでまたあの痛みがあるかもしれないと思うと、芽衣は怖くて湊の手を握ることさえできなかった。
それでも、湊の言葉に少しだけ肩の力が抜けて、芽衣はふっと笑った。
(湊くんに、今の気持ちをすべて伝えられたら……、もっと楽になれるのに……)
芽衣は喉の奥まで思いが出かかっているのに、どうしてもその言葉を口に出すことができない自分がもどかしくて仕方なかった。何かを言えば、湊が自分の気持ちにどう反応するのか、考えるだけで足がすくんでしまう。
「……でも、今はまだ言わないでおこう」──そう自分に言い聞かせ、目の前のパンに意識を戻す芽衣は、いつかこの想いを、ちゃんと言葉にできる日が来るのかな、と小さくため息をついた。
「……じゃあ、湊くん、せっかくだし、あの角のパン屋に寄って行かない?」
「パン屋?」
湊は一瞬きょとんとしたが、すぐに芽衣の気持ちを理解して、表情をゆるめた。
「ああ、あそこね。鈴城、甘いパン好きだっけ?」
「うん、特にあそこのクリームパンがおいしいの。食べたら、少し元気出るかもって思って……」
(私、元気出るっていうより……、本当は、湊くんと一緒にいるだけで、安心できるんだよ。でも……)
芽衣はそう心の中でつぶやきながらも、やはりその言葉を口にすることはできなかった。
(今、湊くんに「ありがとう」とか「頼りにしてる」って言ったら、湊はどう思うんだろう?)
心のどこかで、「それって同情?」と言われるかもしれないという不安が、再び芽衣の脳裏によぎった。
(違うのに……。湊くんと一緒にいると、安心するのに……)
自分の思いがうまく伝わらず、誤解されるのではないかという恐れを抱いて、芽衣はやはり踏み出せないままでいた。
「行こうか、俺も腹減ったし」
湊が軽く笑って答えるその姿に、芽衣は少しだけ救われた気持ちになった。
(湊くんはいつもこうやって、私を助けてくれる。私も、ちゃんと感謝を伝えたいよ。いつか、少しでもいいから、ちゃんと伝えたい)
芽衣は心の中でそう思いながら、何度も言葉を飲み込んでしまう自分が歯がゆかった。
(いつかっていつ? いつなら言えるの?)
芽衣がパン屋のことを持ち出したことで、二人の間にあった緊張感が少しずつ解けていき、芽衣も湊も、少しずつ気持ちが軽くなっていった。
湊と一緒に歩き出しながら、芽衣はどこか安心感を覚えた。
「じゃあ、パン買って、公園で食べようか?」
「いいね。少し休憩しよう」
二人は角のパン屋に入り、芽衣はクリームパン、湊はクロワッサンを手に取った。それぞれのパンを袋に詰めて、店を出ると、秋らしい柔らかな風が二人を包んだ。
(なんだか、この瞬間だけでも、日常に戻れた気がする……。湊くんと一緒に、こうしてのんびり過ごすのが、こんなに心地いいなんて)
芽衣は、湊と一緒に過ごすこのひとときが、ゆっくりと不安を和らげていくのを感じていた。
公園に着くと、芽衣と湊はベンチに腰を下ろした。木々の葉が風に揺れる音が心地よくて、芽衣は目を閉じて、しばらく風の音を心地よさそうに聞いた。
「鈴城、パン、手に持ったまま、食べないの?」
湊の声に、芽衣はゆっくり目を開けると、手に持ったクリームパンを見つめ、ふと湊のクロワッサンに目をやった。
「ねえ、湊くん、少し交換しない? そのクロワッサン、一口ちょうだい」
「ん? いいよ。でも、俺のクロワッサンはクリームパンより普通だぞ」
湊が軽く笑いながらクロワッサンを差し出すと、芽衣はそれを一口かじった。
さくさくとした食感に、ほんのりバターの香りが広がって、芽衣は幸せそうに笑った。
「うん、やっぱりおいしい! クロワッサンも好きだけど、私はやっぱりクリームパンが一番かな」
そう言って、芽衣は自分のクリームパンを湊に差し出した。
それは、芽衣の勇気が、ほんの少しつまったクリームパンで──湊はそれを受け取ると、少しだけためらったあと、大きく一口かじった。
「……あ、これ、想像以上にうまいな。クリームが甘すぎない」
「でしょ? だから、ここはよく来るんだよ。でも、湊くん、食べすぎ」
「うまそうだから、仕方ないだろ? それに、鈴城が勧めてくれたんだし」
湊はちょっと照れくさそうに笑って、クリームパンをもう一口かじった。
「まあ、ちゃんと半分残すから、安心しろよ」
湊がかじったクリームパンを見て、芽衣の胸がとくんと鳴る。
(ありがとう、湊くん。湊くんの前でなら、私、すなおになれる気がする)
芽衣は、にっこりほほえむと、自分の中にたくさんの勇気をつめこんで、湊を見た。
そんなふうに芽衣が笑うのを見て、湊は嬉しそうに目を細めた。
『なんだろうな。鈴城が笑うと、こんなに安心するんだな……』
湊は芽衣の笑顔を見つめながら、心の中で静かにそう感じた。
『……鈴城を守るのは、俺の役目なのかな。ひょっとしたら、俺がただ、そばにいたいだけなのかもしれないな……』
芽衣に笑ってもらうことで、自分もどこか救われているような感覚が、湊の胸に広がった。
(湊くん、なんだか優しい顔をしてる……)
芽衣は、湊の表情にふと不思議さを覚えたものの、その感覚を深く追いかけることなく、ただ穏やかな時間が流れていくのを感じていた。
他愛のないやりとりをしながら、パンを食べておしゃべりを続けるのは、今までに感じことのないくらい幸せな時間だった。
学校のこと、友達のこと、そして今感じている不安まで、少しずつ心を開いて話すうち、時間がゆっくりと流れていく。
(全部伝えなくていい。少しでいいから、ちゃんと伝えたい……)
芽衣は深呼吸すると、はじめて自分の思いを口にした。
「湊くんってさ、なんだかんだで頼れるよね。いつも冷静だし、安心するっていうか……」
それ以上は、言えなかった。どこかたどたどしくて、うまく言葉にできなかったけれど──、芽衣がそうつぶやくと、湊は少し驚いたように、そして、照れくさそうに笑った。
「いや、そんなことないよ。俺だって不安なときはある。けど、まあ、顔に出すのは苦手かもな」
芽衣は小さく何度も首を縦に振りながら、湊を見上げた。
(そうだよね。もう、知ってるよ)
二人の会話は途切れることなく続き、気づけば午前の柔らかな陽ざしがだんだんと強くなり、昼過ぎの暖かさへと変わっていた。
公園の前を、ぽつぽつと車が通り過ぎる音が聞こえた。二車線の小さな道だから、時折車が通るたびに、その音が静かな公園の中に低く響く。昼過ぎの日差しが降り注ぐベンチで、二人はその音をぼんやりと聞きながら、静かに時間を過ごしていた。
「こうしてると、不安なことも少し忘れられる気がする」
芽衣は湊にほほえみかけ、空を見上げた。湊も同じように空を見つめながら、芽衣の横顔をちらっと見た。
「……そうだな。なんだか、俺も久しぶりにこんなにリラックスしてるかも」
ふと湊が芽衣の顔を見ると、芽衣のまぶたが重たそうに見えた。
「鈴城、眠いんじゃないか?」
芽衣は驚いたように湊を見て、照れたように笑った。
「うん、ちょっとだけ……。でも、湊くんと話してると安心しちゃって……」
「そうか。じゃあ少し休んでいいよ。無理しないで」
ようやく湊に気持ちを伝えられて、芽衣はほっとしながらも、どっと疲れを感じた。
「大丈夫だよ、平気……」
芽衣はそう言いながらも、眠気に逆らえず、体が自然と湊に寄りかかりそうになった。
肩と肩が触れ合いそうになり、ふいに、二人の頭の中に霧にかかったような光景がぼんやり浮かんだ。視界にぼんやりと浮かんだのは、雨に打たれる交差点。でも、その記憶がはっきりとしない。まるでしっかり見ようとすればするほど消えてしまう、つかみどころのない砂のように、二人はその光景を手繰り寄せようとするが、うまくいかなかった。滝のような雨音が鼓膜を打って、その耳障りな音に芽衣が眉をしかめると、湊はさりげなく自分の体を少し引いて、そっと芽衣との距離を保った。
「寄りかかると、またつらいことを思い出すだろ? もう痛い思いをさせたくないんだ……」
湊は優しい声でそう言いながら、芽衣を気遣うように、芽衣が寄りかかりすぎないよう、空間を作った。
「……あ、うん……」
「せめて今くらい、いやな夢、見るなよ」
芽衣は眠気にまどろんだ目で湊を見つめ、ふっと息をついた。自分で体勢を整えながらも、湊の優しさに包まれるようにして、まぶたがゆっくりと閉じていく。
「大丈夫だって。眠いんだろ?」
(湊くんの”大丈夫”って、まるで魔法の言葉みたい……)
湊はほほえみを浮かべながら、芽衣が無意識のうちに寝息を立て始めるのを感じた。静かに上着を脱ぎ、そっと芽衣の肩にかける。
「話してるうちに、眠っちゃったか……」
そう呟くと、湊は自分のベンチの位置を少しだけずらして、芽衣の体に触れないように、気を使いながら座り直した。
風がそっと二人の間を吹き抜け、葉の揺れる音が静かに聞こえてくる。風が吹くたびに、湊もまたほんの少し心の中の不安が和らいでいくのを感じた。車の音が遠くで響くものの、今はただ、この静かな瞬間が永遠に続けばいいのに、と思うばかりだった。
湊はしばらくの間、眠りに落ちた芽衣の穏やかな顔を見つめていた。
『これって、ただの友情じゃないのかもしれないな。でも、それを認めるのは、まだ少し怖い』
芽衣の寝顔を見ているうちに、心地よさが湊の体にも染みわたっていった。葉の音や風の感触が、まるで優しく包み込むように湊の周りを流れていき、そのたびに、眠気がじわじわと湧き上がっていった。
「……少しだけなら、俺もいいかな……」
湊はそう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと目を閉じた。
風が湊の頬をなでるたびに、体から力が抜けて、まぶたが重くなっていく。ベンチの背もたれに寄りかかる湊も、次第に眠りに落ちていった。
木々の間を抜ける風の音が、まるで子守唄のように昼の公園に響き渡り、二人は静かに眠り続けるのだった。