休み時間のチャイムが鳴ると同時に、芽衣は机に突っ伏していた顔を上げた。
 クラスメートたちは何事もなかったかのように談笑し始める。そんな中、夏帆が友人の紀香と教室の隅で小声で話している姿が目に入った──。

「ねえ、紀香、変だと思わない?」

 夏帆は、湊と芽衣を指差すように視線を送りながら、紀香に小さな声で言った。

「変って、何が?」
「芽衣と湊のこと」

 夏帆がそう言うと、紀香は自分の長い髪を指先でいじりながら、鼻先で笑った。

「え? 誰それ?」

 紀香のその仕草に、夏帆は少し苛立ちを感じながらも、続けた。

「はあ? 何言ってんの、鈴城芽衣と北川湊だよ。ほら、あそこの二人」

 夏帆は、ため息混じりに芽衣と湊を指差した。

 紀香は一瞬、混乱した様子で、湊と芽衣の方を見た。

「え、いや、変って言われても、あの二人、転校生か何かでしょ? なんか見たことないけど?」
「……ってか、まだ”そういうの”、やるの?」

 去年、芽衣と湊をいじめのターゲットにしていたことを、夏帆は思い出さずにはいられなかった。芽衣が泣き崩れ、湊はいつも無表情で耐えていた姿──思い出すだけで、夏帆の胸の奥が、ざわざわとした。
 表面上では和解したものの、「いじめられる方が悪い」という、どこか納得できない部分もあって、思い出したくもない。
 けれど、そのときの記憶は夏帆の中で確かなものだ。彼らは間違いなく、このクラスにいた──。

「何言ってんの?」

 夏帆は声を強くして、過去の思いを振り払うように言い放った。

「芽衣も湊も、ずっとこのクラスにいたじゃん。去年だって……」

 言いかけた瞬間、彼らをいじめていた記憶が一気によみがえり、言葉を飲み込んだ。

「……あの二人のこと、忘れたっていうの?」

 その時、教室の後ろから早高浩平が笑い声を上げながら、二人の会話に割って入った。

「おい、夏帆、何言ってんだよ。あいつら、今日見かけたばかりじゃん? なんでそんな知り合いみたいに言ってんの?」

 夏帆は目を見開いて、浩平を睨み返した。

「だからさ、あんたも忘れたの? あの二人、去年からずっとこのクラスにいるでしょ!」
「は?」

 浩平はさらに笑いながら、頭をかいた。

「いやいや、そんなわけないだろ。おまえ、何言ってんの?」

「浩平、それ、本気で言ってるの?」

 夏帆は、今度は少し怯えたような声を出した。

「どうして……、あたしだけ覚えてるの? あんたたち、本当に鈴城芽衣と北川湊のこと忘れたの?」

「ちょっと怖いよ、夏帆」

 紀香が少し引いたように夏帆にささやいた。

「私たちの知らないこと言われても困るんだけど……」

 夏帆は眉をひそめ、紀香と浩平に不満げな視線を送りながら言った。

「……あたし、おかしくないよね? 何であんたたちだけ忘れてんの? 先生だって知ってるはずだし……」

「うわっ、夏帆。富岡星人みたいになるのかよ? もしそうなら、俺、ちょっと耐えられないんだけど。彼女がエイリアンとかさ」

「あははっ、浩平、じゃあ、私に乗り換える?!」

「ああ、まあ、夏帆がエイリアンならな。でも、今のところは……、夏帆一筋だな」

「ちょっと二人とも、その言い方ひどくない?」

「なんだよ、夏帆、冗談に決まってるだろ。今日のおまえ、冗談にのれないヤツだな」

 その時、芽衣は遠くから聞こえる夏帆たちの声に気づき、何となく自分たちが話題になっていることを察した。胸の奥に不安がじわじわと広がる中、視線を泳がせながら湊をちらりと見た。
 けれど、湊もまた、何かを考え込むように教室の隅で壁にもたれかかり、無言で視線をさまよわせていた。

(なんで……。私たち、何も変わってないはずなのに……)

 その瞬間、クラスメートの一人が芽衣の方を振り返り、冷ややかな目で見つめてきた。その視線にぞっとしながらも、芽衣は何も言えず、ただ席に縮こまるしかできなかった。

 湊は教室の壁にもたれかかりながら、静かに芽衣を見た。その顔色が明らかに悪く、普段の元気な姿とはかけ離れていて、湊は少しだけため息をつくと、芽衣の方にゆっくりと近づいてきて、口を開いた。

「なあ、鈴城……、帰ろうか?」

 芽衣は湊の言葉に驚いて彼を見つめ返した。

「だって、まだ午後の授業……」
「学校、もう無理だろ?」

 湊は淡々と続けたが、どこかその声に温かさが含まれていた。

「先生に言って、早退しよう。少し休んだ方がいい」

(確かに……、今日はもう無理かも)

 芽衣はその言葉に少し戸惑いながらも、小さくうなずいた。
 正直、富岡先生は怖い。熱があるわけでも、病院に行くわけでもなくて、どうしても今この場にいたくない気持ちをどう打ち明ければいいのだろう。それが、芽衣にとっては苦しくて、まるで窒息しそうな気分だった。

 芽衣は、湊と共に教室を出て職員室へ向かった。休み時間の廊下は、いつものように生徒たちの笑い声やおしゃべりでにぎわっていた。グループごとに集まる生徒たちが、楽しそうに次の授業や放課後の計画を立てている。
 けれど、芽衣と湊にとっては、そのにぎやかな雰囲気がどこか遠く感じられた。笑い声が響く中、二人の足音は小さく、ただ静かに進んでいく。

(みんな、普通に笑っているのに……)

 そもそも「普通」が何か、芽衣にはどんどん分からなくなっていた。
 当たり前に朝、起きて、学校へ行く。学校で一日を過ごし、帰宅して、当たり前の日常を、家族に話す。
 一日を過ごす場所も、話す相手も、すべてが少しずつ消えていく。

 芽衣は胸の奥で静かにざわつく感覚を抱えながら、無言で歩き続けた。湊も、何も言わずにその隣を歩いた。

「……富岡先生、今、職員室にいるかな?」

 芽衣はおずおずと湊に尋ねた。

「さっき、教室にいたから、たぶんいると思うよ」

 湊は穏やかに答えたが、その声にも少し緊張が混ざっているように、芽衣は感じた。

 職員室の前に着くと、芽衣は一瞬、ためらった。周りのにぎやかさとは裏腹に、自分たちだけが別の世界にいるような感覚に包まれていたからだ。
 湊はそんな芽衣の様子を察し、そっと扉を開けた。
 富岡先生は、窓際の席にいて、二人はすぐに分かった。

「先生、ちょっと話があって……」

 湊が声をかけると、富岡先生は、書類から目を上げて湊を見た。

「どうした、北川? 鈴城も一緒か」

 湊は少し間をおいてから、静かに続けた。

「実は、鈴城が少し体調が悪くて……。今日、早退させてもらいたいんです」
「ああ、それで……。なるほど、北川も一緒にか」

 先生は、湊と芽衣を交互に見たあと、一瞬考えこんで、穏やかにうなずいた。

「今朝のことは気にするなといっても、なかなか難しいだろうな……。鈴城、大丈夫か? 無理せずに、帰って休んだ方がいいな」

 富岡先生は柔らかい口調で続けた。

「早退の手続きを取るから、保健室で少し横になってから帰るといい。北川、お前も付き添っていけるか?」

 湊は軽くうなずいて、すぐに芽衣に視線を向けた。芽衣がほっとしたように、かすかに笑みを浮かべるのを見ると、湊は富岡先生に頭を下げた。
 湊が頭を下げるなんて、めずらしいことだった。いつも他者を寄せ付けず、無表情な彼がこうして感謝を示す姿に、富岡先生も一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに優しくほほえんだ。

「……ありがとうございます、先生」

 湊の口から、自然と感謝の言葉があふれ出た。富岡先生は書類に目を落としながら、最後にもう一度二人を見ると「気をつけて帰れよ」と声をかけた。

 芽衣は、富岡先生が早退を許可してくれたことに安堵しながらも、意外な気持ちを抱いていた。いつも厳しく、生徒たちに対して厳格な態度をとる先生だと思っていたのに、今日の富岡先生の優しさは、それとは少し違っていたからだ。

(先生、こんなに優しかったっけ……)

 そんなことを考えながら、芽衣は職員室を出て、湊と共に廊下を歩き出した。廊下には、相変わらず生徒たちの笑い声が響いていて──、今はその声が、まるで別世界のもののように感じられた。

 湊がふと芽衣に視線を向け、短く「いい先生だな」と言った。

 芽衣は、驚いたように湊を見上げた。いつも冷静で、感情を表に出さない湊が、富岡先生についてそんなことを言うとは思わなかった。

「なんだよ、鈴城。俺のこと、じっと見て」
「え、なんか今日、湊くん、すなおな気がして……」
「なんだよ、それ。別に俺は、皮肉屋でもなんでもないよ。ただ周囲が……」
「うん?」
「俺をこうさせたのかもな」

 湊は保健室の方を指差すと「寄っていく?」と目で、芽衣に尋ねた。
 芽衣が首を横に振ると、湊は教室の方へと歩いて行った。
 湊が無造作に自分の荷物をまとめて、芽衣もそのあとに続く。
 誰かから「早退?」と声をかけて、気にしてほしいわけじゃない。
 それでも誰からも声をかけられず、教室を出るのは、寂しいものだった。

 正門を出て、長い坂を下りながら、芽衣はふと湊を見た。

「なに?」
 湊はすぐに芽衣の視線に気づき、足を止めて、見つめ返してきた。
「さっき、湊くん、理解してくれないって言ってたけど、少なくとも富岡先生は……、私たちのこと、理解してたよね」
「なんだろうな。”しっかりしてくださいよ”って言われてたときの方が、腹が立ったり、反抗できたよな」
「反抗してたのは、湊くんだけだけどね」
「このタイミングでそれ言う? ……変な気分だな。気遣われたり、優しくされると……、なんでこう戸惑うんだろうな」

 芽衣と湊は、どこへ行こうかとも迷っていた。
 もやもやする気持ちの中、二人の足取りもまた重かった。
 自然と足はいつものあのネコのいる道に向かい、ネコを探すものの、ネコはどこにもいなかった。

「……最近見かけないね」
 芽衣はそう言って、ハイツの前の段差に腰かけると、空を仰いだ。
 青い空に雲が流れて、やけにまぶしく見える。行き場のない自分たちもまたその雲のようで、どこへ流れていくかわからずに、芽衣は長い息を吐いた。
「ネコも俺たちのこと、忘れたのかな」
 湊は切なそうに笑うと、芽衣を見た。
「そんなことないよ。富岡先生、覚えてたし」
「そうだな。影山の態度も、他とは違ったし」
 影山と、夏帆の名前を出されて、芽衣は湊を見つめ返した。
「確かに他とは違ったけど……」
「けど?」

(夏帆のことは、あんまり考えたくないんだけどな……)

「今朝、何か変わったことがあったなら、言えよ」
 湊に言われて、芽衣は仕方なく口を開いた。
「たいしたことじゃないよ。ただ”おはよう”って言われただけ」
「なんだ、それだけ?」
「うん、でも、夏帆から挨拶してくるなんてめずらしくて……」
「また、あいつが……、鈴城を傷つけようとしてるってこと?」

 湊は、「いじめ」という言葉を使わずに、芽衣に優しく尋ねた。

「はっきりはいえないけどさ、違うと思うよ」
「湊くん、なんでそんな無責任なこと……」
「だから、はっきりとは言えないって。けど、今の影山の目、誰かをおとしいれたり、傷つけたり……、そんなこと、喜んでやるような奴の目には見えなかったけどな」
「なによ、そんなふうな目、よく知ってるみたいに」
「だって俺、そんな目、毎日見てるし」
「どこでよ? ほとんど学校に来てないくせに!」
 
 芽衣が思わず声をあげると、湊は肩で息をして、芽衣をじっと見つめた。

「誰も学校とは言ってないだろ? 家だよ、俺の家」
「え」
「……俺の母親」

 芽衣は湊が話し始めた瞬間、思わず息を呑んだ。湊の口から家族の話が出ることは少なかったし、それがいつも辛い話であることは、芽衣にも分かっていた。湊の声のトーンが、普段とは違い、苦しみを帯びているのを感じながら、芽衣はどう応えていいのか分からず、ただじっと聞き入るしかなかった。

「中学生の頃、毎日、弁当作ってくれたんだよ。最初、嬉しくて、学校持って行くじゃん? 昼休みに、開けるわけ」
 湊は苦しそうに目を細めて、ゆっくりと続けた。
「中身が強烈でさ。どんな弁当だったと思う? 白ご飯の真ん中に梅干し一つ。それだけ」
「……きっと忙しかったんだよ」
「ああ、そうだね。毎日、三年間、きっと……、すごく忙しかったんだろうね」

 湊は眉をひそめ、深く息をついて視線を落とした。

「俺、弁当箱開けるの、毎日恥ずかしくてさ。けど、小遣いなんてなかったし、バイトもできなかったし、それを持って行くしかないじゃん?」

 湊は言い終わると、一瞬だけ遠くを見るように目を開けた。

「帰って、毎日、その弁当箱を自分で洗ったよ。時々、母親と目が合うと、あの人、俺見て笑うんだよな。”ちゃんと食べてえらいね”って。その目をよく知ってるから……、影山の目は、それとは違う気がしてさ」

 湊は目を伏せながら、静かに呟いた。

「じゃあ、どうして、夏帆は今朝になって突然、挨拶なんて……」
「さあね。卒業前にすっきりしたかったのかもしれないし、受験前で”いい子”に見せようとしただけかもしれないし。でも、いいじゃん、それで」
「え?」
「怒るとか、悲しいとか……、そんな感情が影山にあるから、鈴城に挨拶したんだろ? 俺はもう、怒ることできないんだよな、なんていうか、何も感じないっていうかさ」
「湊くん……」
「最初は悲しかったし、腹も立ったけど、それすら感じなくなった。最初は母親に対してだけ抱いた感情のはずだったのに……」

 芽衣はその言葉に戸惑いながらも、湊の目を見つめた。

「気づいてるんだよ。みんなが、俺に対して無関心だってこと。でも、どうしようもないんだ。変えられない現実に飲み込まれてるみたいでさ……、それが一番苦しいんだよな」
「富岡先生は、湊くんに、すごく関心持ってるよ!」
「まあね。クラス一の問題児だし」
「私だって……、湊くんのこと……!」

 そこまで言って、芽衣ははっと口をつぐんだ。
 今、このタイミングで言うのは、湊を逆に傷つける気がした。

「それって同情?」──もし、そんなふうに湊から言われたら……。怖くて、芽衣はそれ以上言葉を続けられなかった。