「忘れ物はない?」

「だいじょーぶです」

 雪哉が部室の鍵を閉める。廊下には俺たちの他に誰もいない。夕日が廊下全体を赤く染め上げている。いつもならここには葉月もいるはずなのに。そう思ったら何故か心臓当たりがぎゅっと苦しくなった。

するとその場に響き渡るように携帯が振動する音がした。

 雪哉がポケットから携帯を取り出す。鳴っていたのは雪哉のものだった。応答ボタンを押し、耳に当てる。

 いくつか言葉を交わした後にわかった、と返答して電話を切った。少し焦っているような様子だ。いつもは余裕がある雪哉の表情が硬い。少し胸騒ぎがする。

「水戸の妹がいなくなったらしい」

「は?」

「今は水戸と葉月の二人で探しているみたいだ」

「いや、どういうことだよ」

「詳しいことは歩きながら話そう」

 雪哉はポケットに携帯を入れ足早に歩き出す。俺もそれに続いた。

「水戸の妹の名前は水戸夏葉。二人は幼稚園に迎えに行った帰り、ショッピングモールに寄ったんだ。最近のルーティーンだったらしい。途中までは一緒にいたんだけど、気づいたらいなくなってたみたいで。サービスカウンターで放送をかけてもらってるみたいだけど応答がない」

「妹がいなくなるような心当たりはないのか。喧嘩したとか」

「いなくなる直前に、夏葉ちゃんが好きなキャラクターがショッピングモールに来ていて、それにつられたのかもしれないとは言っていた」

 しかしそれがいなくなった直接的な原因かはわからない。

 葉月とはショッピングモールで妹を探している時に出会った。現在は二人で水戸の妹を探している最中だそうだ。電話越しでも、焦っている様子が伝わってきたという。

「何もないといいな……」

「そうだね。でも水戸も相当焦ってるみたいだから、早く俺たちも行こう」

 校舎を出発して雪哉と急ぎながらショッピングモールへ向かう。道中で帰り際、水戸が妹の話をしていた時の花が綻ぶような笑みを思い出した。

 きっと今は心配で仕方ないだろう。大切な妹なのだから当然だ。

大事なものを失う怖さは誰よりもわかっているつもりだ、

 ショッピングモールに到着すると入口には水戸と葉月が立っていた。水戸の顔は青ざめている。寄りかかっていた壁から背中を離し、こちらに向かってくる。

「高瀬先輩、佐倉先輩」

 足取りがおぼつかない。葉月は後ろから心配そうに見守っていた。

 俺たちを待つ間、水戸と別行動をして探した方が効率はいい。でもあえてそうしなかったのは、こいつの優しさなのだろう。

「妹さんは見つかった?」

 雪哉の問いに、力無く首を横にふる。

「葉月先輩と館内をくまなく見回ったんですけど、居なくて。放送への返事もないまま……」

「わかった」

 水戸を見ると明らかに憔悴していることが俺でもわかった。ショッピングモール内を探し回った上に妹が危険な目にあっているかもしれないという緊張感でずっと気を張っていたのだろう。

 すると雪哉は水戸の頭を撫でた。弟をいたわるように優しく。

「水戸が心配する気持ちもわかる。あまり気負うなとは言わない。でも妹さんが見つかった時君がそんな様子じゃ、逆に心配されちゃうだろ。人手が増えたんだ、きっとすぐ見つかるよ」

 うつむきながら水戸が、はいと返事をする。その声が震えているのは聞かなかったことにした。

 その後の話し合いで雪哉と水戸はもう一度ショッピングモールを探すことになった。対して俺と葉月はショッピングモール周辺を探している。

「見つからないな」

 日が落ちかけている、暗い中で人を探すことは難しい。ましてや小さい子供ならなおさらだ。

駐車場や施設周辺も見てまわったが水戸の妹らしき影は見つけることができなかった。

 葉月が地面に座って汗を拭っている。小走りで長い時間探しているから疲れたようだ。

「……俺、もう一度敷地の周辺見てくる。もしかしたら植え込みのところに隠れているかもしれないから」

「待ってよ、それなら俺も一緒に」

「お前は疲れてるだろ、ここで少し休め」

「でも、それは佐倉くんも同じでしょ」

「お前よりは、体力あるから大丈夫。そこに座って俺の荷物ちゃんと見とけよ」

 葉月はまだ何か言いたそうにしていたけれど、そのままにして走り出す。

 幼稚園児は俺たちが思っているよりも、体が小さい。人が入れないような隙間にも入れてしまうと、別れ際に水戸が言っていた。

 さっき見た時よりも、腰を落としながら植木と植木の間を確認していく。

 バスケをしていた経験がここで役立つとは思わなかった。足を曲げて腰を落とす体制は何百回、何千回と繰り返した動きだ。

「夏葉ちゃーん、いるー?」

 通りすがっていく人の視線が少し痛いが、今は気にしている余裕はない。水戸の妹を見つけ出すことが最優先だ。空が完全に暗くなってしまうまで、あまり時間がない。

「……お兄ちゃん?」

 耳に飛び込んできたのは、普段の生活の中では決して聞くことがない高い声。振り返った先にいたのは、幼稚園の制服を着た小さな女の子だった。道路を挟んだ向こう側にいる。

 ベレー帽にツインテールをした幼稚園児。水戸の妹だ。見せてもらった写真を思い出しても姿が一致している。

 そしてもう一人目に飛び込んできたのは、水戸の妹の手を握る一人の男だった。

 不審者だろうか、このままでは連れ去られてしまうかもしれない。

「ちょっと待てよ!」

 今までの俺だったらこんなに必死になっていただろうか。手芸部に入っていたければ、今頃ベッドの上で漫画でも読んでいる時間だ。

 別にそれが変わったわけではないけれど、自然と足が出ていた。本気で走ったのはいつぶりだろう。

 だって、だって今動かなきゃ寝覚が悪い。

俺には兄弟がいなけれど、何かを大切にする気持ちを、失う怖さを、他の人より少しは知っているから。

「佐倉くん危ない!」

 名前を呼ばれて走るスピードが緩む。その瞬間パッパーと車のクラクションの音がして、俺はヘッドライトに照らされた。

 まずい、轢かれる。

 そう思った時にはもう遅くて、反射的に目を瞑った。

 けれど衝撃は来なかった。左手をぐっと掴まれて、地面の方に引き込まれる。両腕で抱きかかえられてそのまま尻餅をついた。背中側を庇われてるようで痛みはない。

中学三年生の時、バルコニーから身を投げ出そうとした日。雪哉に引き戻されたことを思い出す。

俺はいつでも、誰かに救われている。

「大丈夫か!」

 水戸の妹を連れていた人の声で我にかえる。俺を抱きかかえていたのは、葉月だった。

「葉月!なんでここに……」

 地面に頭をぶつけたのか、頭をさすりながら表情を歪めている。

「佐倉くん、怪我は、ない?」

 こんな時でも、お前は他人を気遣う言葉を選ぶのか。

 俺に向けられた、心配そうな表情。ヘアピンはまだつけっぱなしできちんと目があう。なんだろう、久しぶりにこの顔を見たような気がする。

 思い返せば今日は葉月と一度も目が合っていなかった。部室で、葉月が俺には言えないことを話していた時から、自然と目を合わせないようにしていたのかもしれない。

「怪我はない。大丈夫」

 お前はと聞くと、

「俺も大丈夫。持ってきた鞄を下敷きにしちゃったから中身ぐちゃぐちゃになってるかもしれないけどね」

 頬を掻きながら照れ笑いをする。今はそんなことどうだっていいだろ。危うくお前も車に轢かれかけたんだぞ。もう少し俺に言うことはないのかよ。

 感情が溢れては消えていく。どんな言葉を尽くしても、この気持ちは表せそうにない。

 ならせめて、

「助けてくれてありがとう」

 これはあの日雪哉に言うことができなかった言葉だ。

それを聞いた葉月は、どういたしましてと優しく返してきた。

 また視線があって、心臓が跳ねる。なんだよこれ。まだ車に轢かれそうになった時の体感が残っているのだろう。頬がやけに熱いのもきっとそのせいだ。

「ったく、お前ら大丈夫かって聞いてんだけど」

 反対の歩道からこちらに渡ってきていた。髪が少し伸びているせいか、雰囲気がチャラい。

男と手を繋ぎながら水戸の妹もやってきていた。

「あれ、その顔どこかで……」

「?」

「俺です、葉月景。お久しぶりですね、的場先輩」

「え、ええ?」

 雪哉が言っていたもう一人の手芸部所属の三年生。まさかこんなところで初対面になるとは思わなかった。的場は対して驚くこともなく答える。

「ああ、葉月か。確かそんな顔してたっけ。ところで怪我はないのか?どっかぶつけたとかは?」

「ちょっと頭をぶつけましたが、大丈夫です」

「大丈夫ってお前ねえ。そっちの突っ立ってる君は大丈夫?葉月の友達?」

 的場は俺に視線を向けた。

「俺は大丈夫です。それと新しく手芸部に入りました、佐倉です。それと葉月の友達です」

「おー後輩か、よろしく」

 すると的場の横から水戸の妹が顔を出した。不安そうに瞳が揺れている。

「君が、水戸の妹の夏葉ちゃん?」

 緊張しているのか、俺の問いに黙って首を縦に振るだけだ。すると何かを見つけたのか俺の後ろを指差した。

「あれ……」

「あれ?」

 指がさした方向を見ると道に何かが転がっていた。なんかふわふわした、ぬいぐるみみたいなやつだ。あんなのさっき通った時転がっていたっけ。

「これかな」

 葉月が転がっていたふわふわを手に取って、夏葉に見せる。

 すると途端に目を輝かせた。緊張した硬い表情は無くなっていた。

「うんそれ!わたし、きゅんくまが好きなの」

 なるほど、このふわふわはきゅんくまというらしい。小さい子に人気のマスコットなのだろうか。

「おにいちゃんも、きゅんくまが好きなの?」

 純粋な眼差しを向けられ、葉月は俺の方を気まずそうに見てきた。なんだ、その目は。

「うん、俺も好きだよ」

 照れているのか頬が赤い。どうしてだ。今どきキャラクターが好きなやつなんて、たくさんいるだろうに。

「いっしょだね!ほかにもリボンとかお花とかついてるやつも好き」

「これと、これかな」

「うんそれ!あ、このきゅんくま新しいやつだ!」

 たくさんのくまのマスコットを見て、一層目を輝かせる。

 それにしてもいつまで出てくるんだ。葉月の鞄の中から途切れることなく、きゅんくまのグッズが出てくる。

「葉月、これずっと好きだよな。よく飽きねーもんだ」

 いつの間にか隣でしゃがんでいる的場がぼやいた。

「ずっとって」

「ああ、こいつ手芸部入りたての時に、このくまの画像見ててさ。俺がうっかり話しちゃって、部内で周知の事実になっていたわけ」

「周知の事実……」

「本人は恥ずかしかったみたいだけどな」

 そういうことか。葉月が俺に隠したがっていた理由がわかった。きゅんくまを取り出す時に気まずそうにしていた理由も。

 隣の様子を伺うと水戸の妹と葉月はきゅんくまを手に取りながら、楽しそうに話をしていた。

 俺はこんな風に柔らかく微笑むこいつの表情が好きだ。だから好きなものも隠くして固くなるんじゃなくて、楽しそうに話してほしい。

「葉月、お前こういうのが好きだったんだな」

 話しかけると、また表情が固まった。

「男なのにおかしいって思う?」

 声は緊張を帯びている。

「いいや。それより俺は葉月の好きなものを知れたことが嬉しい」

「隠しててごめん」

 自分が大切にしているものを否定されるのは怖い。時代が変化してきたとはいえ、男が堂々とかわいいものが好きだと言うのは抵抗があるだろう。葉月の気持ちも当然だ。

 隠さずに言って欲しかったという気持ちもある。でもそれは俺のエゴ。

「謝んなよ。俺も強く言ったしお互いさまだ」

 葉月はまだ何か言いたそうにしていたが、タイミングよく俺のポケットの中で携帯が振動した。

「高瀬先輩からだ」

 携帯の画面には雪哉と表示されている。メッセージもいくつか届いていた。葉月の方にもきていたらしい。

 俺たち二人と連絡がつかず、ヤキモキして電話をしてきたのだろう。電話に出ると、せめて携帯は見ろと心配そうな声が聞こえてきた。

「早く戻って合流するか」

「おーそうしろ。俺は帰る」

「ダメです。高瀬先輩に的場先輩も一社だと言ったら引きずってでも連れてこいと言われたんで」

「佐倉、告げ口とはいい度胸だな」

 的場は面倒だと言うように髪をかきあげた。

 夏葉は葉月の手をぎゅっと握っている。すごいなきゅんくま効果。もう心を掴んだのか。

 日がすっかり落ちて、街灯の暖かい光が道を照らす。きっと二人は首を長くして待っているはずだ。

 ショッピングモールへ戻った後の出来事はまた別の話である。