「だー!俺には無理かもしれん」

 持っていた布と針を机の上に放り出す。細かい作業が苦手な俺にとって裁縫は人生の中でなるべく避けてきたものの一つだった。

「佐倉くん、もう少しの辛抱だよ。頑張ろう」

 見かねた葉月が隣から作業の手を止めてこちらを覗きこむ。近い、近い。

 現在俺たちは手芸部の部室でクロス直しの作業の真っ最中だ。きっかけは放課後雪哉が部室にやってきたことから始まる。

「おっ二人とも来てる」

「雪哉く……いや高瀬先輩お疲れ様です」

「お疲れ様です」

「二人ともお疲れ様。急で悪いんだけど頼まれごとをしてくれないかな」

「頼まれごと?」

「さっき部室に来る前に教頭先生に会ってさ、この中に入っているクロスを直してくれって頼まれたんだ」

 雪哉は両手に大きなダンボールを抱えている。机の上に置いて中身を確認すると、先ほど言っていたようにクロスが入っていた。しかもかなり大きめの。

「これを直すのを俺らがやるんですか?」

「手芸部として直すのは今回が初めてじゃないんだ。今までも保健室の布団とかカーテンとかを直してきてるんだよね。だから今回もお願いって言われたわけ」

 なんだそれ、雑用を押し付けられてないか。

「俺も一緒に直したいのは山々なんだけどこれから部長会議が入っているんだ。水戸くんも今日は来れないって報告されてるし。申し訳ないんだけど二人で直してくれないかな」

「暇だったから別にいいですけど、俺裁縫とか全然できませんよ」

「大丈夫、簡単な作業だし、いざとなったら葉月が教えてくれるだろうしね」

 アイコンタクトをされた葉月は一瞬動揺したものの、すぐに頑張りますと返事をしていた。

 その後本当に急ぎなのか雪哉は小走りで会議に向かってしまった。

 そして現在、俺は完全に行き詰まっている。クロスは案外硬く、それなりの力を入れないと布を通ってくれないし、まっすぐ縫い進めるのがとにかく難しい。気を抜いたらすぐにずれてしまうのだ。

 それに対して葉月はすごい。針を進めていくスピードが速い上に、縫い目は揃っていて正確だ。

「お前はいいよな、裁縫得意で」

「そんなことないよ、何回かやり直してるし」

「全然だろ。俺なんか何度やり直したかわかんねえ。気を抜くとすぐ失敗する」

「何回もやれば簡単にできるようになるよ」

「器用なやつはすぐそういうことを言うんだ……」

 ふふっと隣から笑いを堪える声が聞こえた。

「……何笑ってる」

「いや、ごめん。すごい不貞腐れてるなって思って」

 前髪に隠れてしまってその表情はわからない。でも随分と楽しそうだ。

 そもそも、前髪があってこちらからは表情がわからないのに、本人はちゃんと見えているんだろうか。いや見えているから作業ができるんだろうけど。

「葉月はその前髪、邪魔じゃないのか?」

「え?いや全然考えたこともなかったな」

「そういうもん?」

「俺にとっては、かな」

 どうやら髪形に頓着しないタイプだっただけらしい。

「髪切ろうとか思わないわけ」

「思わないかなあ。美容室苦手なんだよね」

「あーそれは、なんか話さなきゃって気持ちになるからってこと?」

「そう」

「確かに、それはあるかもな」

 葉月は初対面の人と話すのが苦手だと言っていたし、美容室に行きたがらないのも納得だ。

「でも、言われたらなんか気になってきた。今切っちゃおうかな」

「えっ?」

 葉月はその場にあった布用ハサミを取り出し前髪を掴んだ。

 いやいや、それはまずいだろ。

「待てよ!」

 寸前のところで手首を掴む。なんとか動きを静止することができた。

「お前なあ、急に前髪切ろうとするとか。普通はそうならんだろ」

「え、ごめん。俺また変なことしちゃった……」

  俺に言われてしょぼんとしている。主人に怒られた犬みたいだ。

 普段おとなしいかと思えば、今みたいに突拍子のない行動に出たりする。本当に見かけによらず面白いやつだ。

「あのな」

 しゅんとして背を丸めている葉月の頭を撫でる。

「な、何?」

「別に今切ろうとしなくてもいいだろ。ピンとかで止めるって方法もあるし。自分で切って、ぱっつんになってから後悔しても遅いんだからな」

「確かに、そうかも」

「だろ。今日は俺のやつ貸してやるから、それで我慢しろ」

 鞄からヘアピンを取り出す。これは授業中前髪が邪魔になった時につけているものだ。

「目、閉じて」

 前髪を動かした時に、目に入らないように指示する。前髪をかき分けると、思っていた以上に綺麗な顔が出てきた。

 白く整った肌に薄い唇、意外にも整えられた眉毛。同級生とは思えないような大人な雰囲気があった。夕日に照らされている事も相まって余計にそう見える。

「?佐倉くんどうしたの」

「んっ?何でもないっ!」

 男の顔をじっと見つめていることに気がついて慌ててヘアピンをつけた。

「で、できたぞ」

「本当だ、ありがとう。危うく明日クラスの笑い者になるところだった」

そんなことはないと思うが。

 長い前髪が、次の日極端に短くなっていたら視線を集めることは間違いないだろう。

「……よく見えるね」

「?何が」

「佐倉くんの顔」

「俺?」

「うん、今までぼんやりとしか見えていなかったし。……へえこんな綺麗な髪の色してたんだ」

 俺たちが通っている高校は県内ではトップの高校に入るものの、校則が緩い。そのせいか校内には髪が明るい生徒が多い印象だ。

 俺も例に漏れず髪を染めている。ブリーチはせずに、少し明るくする程度だけど。

「そうか?初めて言われた」

「うん。特に夕日と反射してすごく綺麗」

 夕日。俺も同じようなことを思った。

 葉月の手が伸びてきて、髪の毛に触れる。あまりにも近くて息遣いがすぐそこで聞こえた。

「……赤い」

「そりゃ恥ずかしくもなるだろ。こんなに近くに来られたら!」

「ごめん」

「謝んな!」

 こっちが意識しているみたいで余計に恥ずかしい。あれは不可抗力だ。仕方がない。

「ごめん」

「もういい、続きやるぞ」

 椅子に座り直して布と針をとる。

 先ほどから心臓が鳴り止まない。こいつの変な距離感のせいだ。

 手が変に震えて、糸がうまく針穴に入っていかない。

「……ねえ、佐倉くん」

「っなんだ」

「あのさ、俺いいこと思いついた」

「何がだよ」

「高瀬部長が言っていたみたいに手芸部がこういう雑用やるのって珍しくないんだ。今まで疑問に思ったことはなかったんだけど、ちょっとやり返してみたくなった」

 チラリと隣の様子を伺う。すごくワクワクしているようだ。いたずらっ子が最高の罠を思いついた時のような表情。

 葉月は態度に思っていることが出やすい。思っていることが案外伝わってくる。けれどやはり顔が見えた方がいいと思う。そのくらい魅力的な表情だ。

それに俺も面白いことは嫌いじゃない。

「すごい心の変化だな」

「うん、俺もびっくり」

「で、具体的には何をするんだ」

「あのね……」

 直したクロスを見て、部室に戻ってきた雪哉は驚いたように目を見開いていた。すぐにいつもの表情に戻って、いい仕上がりだね、と返してきた。

 早速教頭先生に見せに行こうと提案されたので三人で教頭室へ向かう。

 葉月は部室を出る時にヘアピンを取ってていた。どうしてかと尋ねると、ヘアピンをつけて自分のクラスに入ったら、ひそひそ声で話され、好奇な目を向けられたからだそうだ。

 そんなに変かなヘアピンつけてるの、と言っていたが多分違う。教室にいきなり美青年が現れたら、クラスメイトも動揺するだろう。自分の顔を見慣れていて美形だと気づいていないのか、はたまたただの天然なのか。途中でその考えは捨てた方がいいと気づいた俺はすごいと思う。

 すると雪哉がクロスをまじまじと見ながら言った。

「これ二人でやったの?」

「そうです。とは言ってもむずいところは葉月がやったんですけど」

「ああ、だよね」

「先輩、それどういう意味ですか?」

「佐倉くんも頑張ったねって意味だと思うよ」

「ちょっと黙ってろ天然」

「……ほらほら二人とも教頭室に着いたよ」

 本当だ。クロスは葉月が抱えている。扉をノックし、取手に手をかけた。

「行こう」

完成を見た時に教頭先生がどんな表情をするか楽しみだ。



「いやー教頭先生の顔見ものだったなー」

「な、俺もあんなに渋い顔は初めて見たよ」

「そうなんですね」

「しかも、あのクロス教頭室の来賓用の机のやつだったんだな」

「教頭先生に来賓の方との話のネタを提供できたね」

「高瀬先輩ポジティブ……」

 葉月が考えたちょっとした復讐。それはクロスの直す部分をただ縫い付けるだけでなく、可愛くプチリメイクすることだった。

 縫い合わせた上から部室にあったワッペンをつけていった。アイロンをかけるだけで簡単につけれるから俺でもできた。

 教頭先生もクロスが綺麗に修復されているのでワッペンについては何もいうことができず、納得のいかないような顔で受け取っていた。今でも笑える。

「うまくいってよかったな、葉月」

「うん、ちょっと緊張したけど」

「よかったな。じゃあ二人とも部室に戻って帰ろっか」

 窓の外を見るとすっかり日が落ちていた。雪哉に言われるまで気が付かなかった。

 葉月は俺たちよりも早足で部室に向かってしまう。相変わらずのマイペース。

「高瀬は背も高くて足も長いから、歩くのが早いのかな」

「いや、だたマイペースなだけだと思うんだけど」

「そう?……何はともあれ、真斗が楽しそうでよかったよ」

「うるさい」

「照れんなよ」

「照れてない」

 雪哉との攻防戦は、部室にたどり着くまで続いた。