結局、俺が店に居たのは一時間どころではなかった。5時半くらいだったのが8時になってしまっている。

 広いとは言えない厨房の奥でひたすら皿洗いだ。疲れたなんてもんじゃないけど、皿を洗うだけでこんなに褒められるんだってくらい褒められた。

「飲み込みが早いな!」
「普段お家でやってるのかしら? 手際がいいわね!」

 多分、今日一日だけで一生分褒めてもらった。
 これはちょっと、気分が良いな。
 店が落ち着いた頃に大和が、

「乾燥代と服貸し出し代にしては働かせすぎ」

 と、爺さんたちに声をかけてくれたから終了したけど。
 忙しすぎてあっという間に時間が過ぎたから、時計を見た俺は本気でギョッとした。
 すぐ帰ろうと思ったけど、大和が今から飯を食うからついでに食ってけって婆さんに言われてしまって今に至る。

 働いて腹が減っているときに唐揚げ出されたらさ。無理だろ。
 一応帰りたい気持ちと唐揚げを天秤に掛けたけど、結果は一瞬で決まってしまった。
 褒めちぎられて気分が良かったのもあると思う。俺は自分で思う以上に単純だったらしい。

 まだ客がいる店内のカウンターの端っこで、大和と並んで飯を食わせてもらう。
 白っぽくなってる表面はカリカリで、噛むとジュワッと熱い肉汁が溢れてくる。それに、熱々のご飯と豆腐とわかめの味噌汁。
 美味過ぎて、感想を言わないといけないなんて考えないでがっついた。

 そんな俺を柔和な笑みを浮かべて見ていた婆さんが、デザートのわらび餅まで出してくれながらある提案をしてくる。

「バイト?」

 わらび餅のきな粉に咽せそうになりながら、俺は婆さんの言葉を繰り返した。婆さんは楽しそうに目をキラキラさせている。

「そうなの! やってみない?」
「でも俺、接客は」
「だーいじょうぶ!」

 なんも大丈夫じゃないぞ。今日みたいに皿洗いだけさせてくれるならともかく。

「大和でも出来るんだから!」

 あ、ちょっと説得力がある。
 俺は大和が今日も今日とて、無表情で店内を動き回っていたのを思い出した。
 それでも、それは大和が店長である爺さんの孫だということを常連客が知ってるから許されてるんじゃないだろうか。常連客は子供の頃から知ってる口ぶりだし。

「今日は本当に助かっちゃったんだもの!」
「まかないも出すしな!」

 誉め殺しの婆さんに続いて、調理中の爺さんまで畳み掛けるように笑顔を向けてくる。

「まかない……」

 と、いうことは、だ。バイトをした日にはさっき食べたのと同じくらい美味い飯が食べられるってことか。
 蕩けるわらび餅で幸せな口の時に言うのは狡くないだろうか。
 俺の心の天秤は、振り子のようにグラグラと揺れる。
 更に、テーブル席でくつろいでいた常連客たちも話に加わってきた。

「おー、ついにバイト雇うのか?」
「年取ったな大将!」
「やかましい! 人のこと言えないだろお前たち!」
「兄ちゃん料理できるかー? 大和は全くダメらしいぞー」
「こらこら、後継ぎ探しじゃないわよ!」

 なんだこの断りにくい空気は。
 和気藹々と話している大人たちを前に、俺は本格的に悩んだ。
 初めて会った時に爺さんが米袋を倒していた姿を思い出す。爺さんも婆さんも、仕事中何度も腰を叩いていた。
 大和は勉強が忙しくて手伝えない時もあるらしいし、大変なのは本当なんだろう。

(でも、この賑やかな空間で頻繁に過ごすとなったら……疲れるよなぁ)

 大和みたいにずっと自分のペースで動ける気がしない。
 そう思いながらチラリと顔を向けると、湯呑みに口をつけている大和と目が合った。
 レンズの奥の目がふらふらと泳ぐ。
 俺が話を振ったと思ったのだろうか。湯呑みを両手で持ち直し、ボソボソと話に参加してきた。

「帰り遅くなりますけど、家の人の許可は下りるんですか?」

 もしかすると、これは断りやすいように大和がくれた助け舟だったのかもしれない。
 でも俺は気がつかないで正直に答えてしまった。

「うちの両親どっちもほとんど家にいないから気にしないんじゃ……ない、か……」

 発言している最中に、店内の空気が変わってしまって俺は口を止める。
 大人たちが意味深に顔を見合わせていた。
 表情筋が死んでるはずの大和の顔が、気まずそうになったのが分かるほど動いた。

 マズイ。言い方が悪かった。間違えた。
 なんか誤解を生んだ気がする。
 家庭環境を心配されてる気がする。
 だからこいつグレてんのかって思われてる気がする。

 言葉って本当に難しい。だから会話って嫌いなんだ。
 俺は慌てて空気を打破するために口を動かした。

「最近、母さんも残業解禁したんで。土日は二人とも家にいるけど」

 俺が高校受験終わってからの話だから最近って言っていいのか分からないけど、「最近」というのを強調する。嘘は付いてないはずだ。
 大人にとっては一年以内は最近だってこないだ担任がボヤいてた。

 どうやらさっきの説明は正解だったらしい。
 凍りついた店内はあからさまにホッとした空気が流れ出した。

「そうなの! 大変ねぇ。ご飯はいつもどうしてるの?」
「各々適当に買って帰って……」
「……お母さんとお父さんはまだ仕事?」
「連絡ないからそう、かな」
「これ、持って帰ってあげなさいな」

 すっかり笑顔を取り戻した婆さんは「今日のバイト代よ」とか言って、プラスチックの容器に食べ物を詰め始めた。俺や大和に出してくれたのより野菜が多めな気がする。
 婆さんの後ろ姿や、常連客と喋ってる爺さんを見て、俺は真面目に考えた。

 人と話すのは難しいけれど。
 スーパーやコンビニの惣菜より美味い飯。
 学校から近いけど、うちの高校の生徒と鉢合わせることはなさそうな店の雰囲気。

「うちのメニュー、少ないから覚えやすいよ」

 迷っている俺に、こっちを見ないまま大和が独り言みたいに囁いてくる。
 あれ、こいつ、後押ししてきてる?
 鼻筋が通った横顔を見てもやっぱり視線は合わないけど、どうやらこのエリート眼鏡に嫌われてはいないらしいことを初めて知った。
 クリアファイル効果だろうか。

「親に相談してみる」

 いつかは働いて人と関わらないといけないんだし、一度バイトを経験しとくのもいいんじゃないか。なんて気分になってしまった。

 帰ってから弁当を見せたら両親は大喜びしてたし、この店でバイトするって言ったら、

「蓮が人と関わろうとするなんて!」
「奇跡だ!」

 と、鬱陶しいテンションで感激された。
 そういうわけで、俺は晴れて定食屋で働くことになったのだった。