その日の夜はうまく眠れなかった。
 目を閉じれば、細い首や薄桃色の唇が、皓斗の瞼の裏や頭の中を占領する。
 抱えたときの体の熱さも、触れた頬のなめらかさもなにもかも、遠野と呼ばれた生徒の感触が、まだ手に残っているようだった。

 『遠野』と保険医が呼んだあの子のフルネームは、なんというのだろう。
 
 寝不足の重い瞼を開いた朝、皓斗は丸まったままの布団の中でハッとして、勢いよく身体を起こした。
 また『遠野』のことを考えてしまったと頭を振り、裾が跳ねた髪を揺らす。

 どうして保健室を出た後からずっと、『遠野』が頭を離れないのか。
 いや、病人に関わってしまったのだ。気になるのは当たり前だ。道端で倒れた人がいたら駆け寄って救急車を呼ぶし、大丈夫だっただろうかと心配をする。それと同じだ。

 皓斗は「俺はおかしくなんかない」と心でつぶやいて、自分を納得させた。



「皓斗、顔がおかしいぞ」

 けれど学校に到着するなり、すぐ後に登校してきた級長の野田にそう声をかけられた。開口一番、容赦のないひと声だ。

「な、なんだよ。おかしいって」
「おはよ。だってさ、さっきから百面相じゃん。なに? 昨日のことでショックでも受けてるわけ?」

 学年一位の秀才である野田の、トレードマークの黒縁眼鏡の奥の目が、珍しいこともあるもんだと笑っている。

「別にそんなんじゃねーよ、病人を気にするのは当たり前じゃん」
「は? 病人? なんの話? ほっぺたをやられた話をしてるんだが」
「あ……」

 一瞬、頭の中が真っ白になる。
 そうだ。保健室でのことなんて、誰も知るわけがないのに。

「いや、そっちはすっかり忘れてたわ……」
「ははっ。ひどい言い草だな。元カノ、お気の毒……って、皓斗にとったらその程度のもんか。で? 病人てなんの話だ?」

 野田は皓斗の隣の座席に腰掛け、さして興味もなさそうに、けれど一応聞いてくる。
 興味のないことでも適度に会話を合わせるのが男子高生のコミュニケーションで、学校という社会でうまくやるには、それなりの空気読みスキルが必要だ。

 ただこれに関しては流してほしかったかもしれない。皓斗自身でさえ、この落ち着かない気持ちの理由がわからないのだから。

「や、まあ別に」
「――なんだよ、皓斗が濁すなんて、そうそうないよな。保健室でなんかあった? 新しい女のコとの出会い?」

 このまま話を流そうとしたのに、後ろから声がして、両肩を掴まれた。

「……いつから聞いてんだよ、涼介」

 声の持ち主の涼介も野田も一年生から同じクラスで、皓斗と行動を共にすることが多い友人だ。

 皓斗より頭ひとつ分以上背が高く、スポーツマン体型の涼介のがっしりとした腕を掴んで、肩から落としつつ続ける。

「人聞き悪いな。どうして保健室で女子と出会いがあるんだよ。昨日保健室で、具合が悪くて倒れた一年を見たから大丈夫だったのかなって思ってるだけ」
「怪しいな。百面相をするくらい気にするなんて、やっぱ女子じゃないのか?」

 野田が片側の口角を上げる。

「ちげーよ。オトコだよ、オトコ! 遠野なんとかって一年のオ・ト・コ。めちゃくちゃ調子悪そうだったんだから、俺じゃなくても気にするって」

 うん、そうだ。やっぱりそれだけだ。野田と肩を小突き合い、じゃれながら話しているうちに、冷静になれてきた。けれど。 

「一年の遠野? それって色素の薄そーな女顔の?」

 出し抜けに涼介が言ってきて、クールダウンしたはずの頭にピン、と電気が走る。

「……知ってるのか?」
「中学んときの同級生。中三の夏に病気で入院して、それから学校に来てなかったんだけど、今年からこの学校に入学してるって聞いたんだよ。なんとなく会いに行くタイミングもないままなんだけど……まだ体、よくないのかな」

「なんの病気」と聞こうとしたところで予鈴が鳴った。
 野田が話に糸目をつけない様子で自分の席へ戻り、皓斗と涼介はなんとはなしに目線を合わせたものの、開きかけた口を閉じて、同じようにそれぞれの席に戻った。

 『本当は同い年で、病気』

 皓斗の頭の中に、涼介からの情報と昨日の遠野の姿が浮かんでくる────熱を帯びた肌、汗が伝うか細い首。薄桃色の唇。『気持ちいい』と漏らした甘い声。

 また心臓が暴れ出す。ドクドクドクドクッ、と頭にまで響く。

 ――どうしてこんなことになるんだ。俺はいったいどうしたんだ。

 皓斗は煩い心臓を服の上からぐっと押さえた。