株式会社RESTARTからメールが来たのは、七月二十日のことだった。
 冷房の効いた下宿先の部屋の洗面所で、善樹(よしき)は【弊社宿泊型インターンについてのご案内】という件名のついたメールの文面をゆっくりと目で追った。

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『この度は、株式会社RESTARTの宿泊型インターンシップへご応募いただき、誠にありがとうございます。参加者の皆さまに、有意義な三日間をお送りいただくよう、事前にご案内申し上げます。以下の内容を熟読の上、インターンシップにご参加ください。

〈株式会社RESTART宿泊型インターンシップ概要〉
 
 日時:二〇三〇年八月二十日(火)〜二十二日(木)
 場所:『温泉旅館はまや』静岡県熱海市××町 
 集合時刻:八月二十日(火)十三時、現地集合
 費用:宿泊中に食事時以外で飲み食いをするための費用
 服装:特に指定はなし。動きやすい格好で問題ございません。
 事前課題:グループディスカッションで使用する『自分史』をA4一枚にまとめてきてください。形式は問いません。

 ※交通費は現住所から公共交通機関を使用した際に発生する往復の費用を弊社より支給します。必ず領収書をお持ちください。
 ※宿泊費(朝昼晩食事代含む)は弊社負担です。その他必要な費用はご自身でご負担ください。
 
 その他ご不明点等ございましたら、人事部長岩崎優希(03−1934−××××)まで、ご連絡ください。
 それでは、当日皆さまにお会いできるのを楽しみにしております。』
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 メールは実にシンプルで、引っかかりを覚えるようなことは何もない。インターンの内容については当日知らされるのだろう。善樹は一通りの内容を頭に入れて、メールフォルダを閉じた。

「兄貴、何読んでたんだ?」

 傍で善樹を見守っていた弟の風磨(ふうま)の声がして、善樹ははっとスマホから顔を上げる。洗面所の鏡に映る顔をじっと見つめながら、「インターンシップの案内メール」と答える。

「風磨も行くだろ」

「そりゃあ、ね」

 双子の弟である風磨は大学には行かず、職を転々としている。ちょうど今は仕事を辞めて、職を探している時期だ。舞い込んできたインターンシップの話を風磨にしてみると、「俺も行ってみたい」と言い出したのだ。
 大学生じゃなくても参加できるのか——ダメ元で企業に問い合わせてみると、「一条(いちじょう)君の紹介なら特別に」と許可してもらえた。特例中の特例なので、誰にも言わないでほしいとも。善樹はその言いつけ通り、風磨とインターンに参加することは誰にも口外せずに、当日を迎えるつもりだ。

「兄貴は賢いから、すぐに認めてもらえるさ」

「はは、そんなことないって」

 鏡に向かって風磨と話していると、玄関のインターホンが鳴った。

「あ、ごめん。母さんからの仕送りが届いたみたいだ」

 風磨との会話を打ち切り、善樹は玄関へと向かう。予想通り、差出人欄には「一条美奈子(みなこ)」と母親の名前が記されていた。

「母さん、ここぞとばかりにいつも送ってくるね」

 低い声で呟く風磨に思うところはあるが、善樹はあえて何も答えなかった。

「これ、一緒に食べよう」

 ダンボールの中にある地域限定ポテトチップスを指さして善樹は言った。

「いや、いいよ」

 そっけなく答えた風磨はいつのまにか善樹のそばからいなくなっていた。
 風磨は昔から、両親と折り合いが悪かった。こうして母親から物資が送られてきても素直に受け取らない。先月二十一歳になったというのに、ずっと反抗期のままのようだ。

「まあ、母さんたちも悪いんだけどな」

 勉強もスポーツもできて、どちらかといえば人の話を素直に聞く善樹と、不良たちに囲まれて学校から厳重注意を受けることが多々あった風磨に、両親が同じ扱いをすることはなかった。彼らは分かりやすく善樹の方を可愛がり、問題を起こす風磨のことをだんだん見放すようになった。
 風磨には何を言っても無駄なの。
 夜、疲れた顔で父親に愚痴をこぼす母親を見てしまったあとは、善樹の方も、両親の風磨への態度に対して期待しないようにしてきた。それ以降、善樹は自分が両親の代わりになり、風磨のことを見守ってきたつもりだ。高校を卒業した後は二人とも実家を出て別々に生活をしていたが、一年前ほど前から善樹は風磨のそばで暮らしている。

「善樹って、つくづく善人(・・)って感じだよな」

 風磨はよく、善樹に対してそんなことを言ってくる。風磨が勤務先で失敗した時や道端で他所様に迷惑をかけてしまった時、決まって善樹は風磨のピンチを助けてきた。
 わざわざ自分の職場まで駆けつけてくれる善樹のことを、風磨は内心どう思っているのだろうか。「善人」という評価も、皮肉めいた言い回しに聞こえる。風磨が善樹に対して抱いている気持ちは、なかなか推しはかるのが難しい。
 善樹はRESTARTからのメールをもう一度熟読した後、今度は大学の試験の勉強を始めた。試験はすでに始まっていて、七月末まで続く。大抵の学生は一、二年生の間に一般教養など必要な単位は大方取得するのだが、善樹の場合は三年生になっても二十五コマ中二十コマも授業を入れていた。一、二年生の間にさぼっていたからではない。自分の興味にしたがって、卒業には必要ない授業の単位まで取得しようとしているからだ。善樹はそれくらい、大学生活において勉強にかける意欲が強かった。

 東帝大学法学部主席合格——善樹の肩にのしかかるプレッシャーともとれる過去の実績が、彼をここまで真面目にする。学生の中には長く苦しかった受験勉強から解放された途端、ろくに授業に出席もせずに大学からフェードアウトする者もいる。だが善樹は、日本で最も難関と言われている国立大学に主席で合格してから、いや合格する前から、勉強こそ自分の将来の道を拓くと信じて疑わなかった。
 周囲の人間はそんな善樹のことを、真面目すぎて面白くないやつ、と評することもある。でも、善樹の頑張りを認めてくれる人の方が圧倒的に多い。大学では同級生たちからテスト前に、「報酬を払うからノートを貸してほしい」なんて依頼が殺到する。「善樹についていけば絶対に大丈夫」——そんなふうに、自分に絶大な信頼を寄せてくれる友の言葉を聞くたびに、善樹の胸は充足感に包まれた。
 さて、明日からのテストも満点目指して頑張ろう。この調子なら十分満点も狙える。どんな問題でも自分に解けないものはない——。
 専門科目である民事法の勉強をしながら、善樹は明日からのテストに胸を高鳴らせていた。


 無事にテスト期間が終わり、八月。ほとんどの学部の学生が夏休みに突入した。善樹はアルバイト先であるカフェに連日出勤している。一年生から働いているから、社員がいない日でも堂々と仕事に取り組むことができる。後輩からも頼りにされていて、今日も後輩が間違えて受けた注文を訂正するのに、お客さんに謝りに行った。善樹の誠実な態度が響いたのか、お客さんが「間違いは誰にでもあることですから。気にしないでください」とすぐに許してくれた。
 カフェでの仕事は午前中で切り上げて、午後からはもう一つ、春先に新しく始めた仕事先に向かった。こちらはまだ慣れないことが多い。夏休みの間にできるだけ多く出勤することで、仕事に早く慣れようと躍起になっていた。

「働きすぎて過労死すんじゃねえか」

 そんな善樹を見かねてか、風磨は時々ぶっきらぼうな口調で善樹にそう囁いた。善樹が仕事に出ている間、風磨は家で職探しをしている。と、思ってはいるが、実際はどうなのか分からない。外をほっつき歩いて遊んでいる可能性もある。とにかく風磨とはそばで暮らしているとはいえ、行動は大きく異なっていた。

「大丈夫、これくらい。将来はもっと働きたいし」

「チッ、まったく真面目なやつ」

 仕事なんてサボってなんぼ、という善樹とは正反対の考えを持つ風磨は面白くなさそうに吐き捨てる。善樹は、「まあまあ」と弟を宥めた。これもいつものパターン。善樹の考えが他者に理解されないのは今に始まったことではない。特に風磨みたいな、全然違う道を歩んできた人間からすれば、善樹がいかに変人であるかは火を見るより明らかだろう。
 こうして善樹は夏休みもほとんど休むことなく仕事に出かけ、時に前期に習った法律の復習なんかをして、優等生らしく過ごしていた。

 そして、来たる八月二十日の朝、善樹は普段よりも早い朝六時に目を覚ました。株式会社RESTARTの宿泊型インターンの初日である。まだまだ夏真っ盛りな最中、東京から熱海まで移動するのにはかなり気合が必要だ。集合時間はお昼の一時だから、昼前に出れば悠に間に合う。でも、身だしなみや心の準備を念入りにしたかった善樹は、早朝からコンディションを整えるのに必死だ。

「そんなに気張らなくても良いんじゃね?」

 朝ごはんを食べた後、部屋の中でストレッチをしながら会社案内のパンフレットを熟読する善樹に、風磨はのんびりと話しかけてき
た。そういう彼も善樹と同じ時間に目を覚ましているのだから、気合十分じゃないかと思う。

「こういうのは事前の準備が必要なんだって。今回のインターンで採用が決まるかもっていう噂もあるみたいだし」

「へえ。それって合法?」

「法律で決まりはないけど、ルール違反ではあるかな」

「ふうん。じゃあ、その会社ダメじゃん」

「いや、まだ採用が決まるとか会社から聞いたわけじゃないし。単なる噂なんだ」

 善樹は、就活生の間で流れる噂を思い浮かべながら言った。

「まあ採用とか俺は目指してないから、テキトーにいくよ」

 今回特別に参加が許された風磨は良いご身分のようで、鼻歌なんか歌い出しそうな勢いでリラックスしている。一応インターンには事前選考があったので、そこで落ちてしまった人が今の風磨の台詞を聞いたらブチギレるどころじゃ済まないだろう。どうか風磨がインターン中に暴走しませんようにと、善樹は心の中で祈っていた。