6月15日 土曜日
私は2週間後に迎える結婚3年目の記念品として陶器のティーカップを買い求める事にした。然し乍ら通信販売で購入するのも愛想がなく近所の雑貨屋は可愛らしいデザインばかりで気に入った品が見つからなかった。
「あっ、これ面白そう!」
直也さんが読んでいる新聞紙を取り上げた私は小さな広告に釘付けになった。骨董市場と銘打ったマルシェ。普段ならば気にも留めない広告だが記念品探しに躍起になっていた私は俄然興味が湧いた。
「直也さん、土曜日《《ここ》》に行って来る!」
「骨董市、怪しげなところじゃないの?」
「今時そんなの流行らないって、フェスタよ祭りよ!」
久しぶりの外出に浮き足だった私はお気に入りのワンピースを着て髪も丁寧に結えた。
「行って来るね」
「俺も行かなくて良いのか」
「素敵なティーカップを見つけて来るから」
「気を付けて」
「うん」
私は素っ気なく出掛けた振りをして玄関の扉を開けた。案の定、寂しそうにしている直也さんの姿がありその背中に飛びついて口付けた。
「行ってきます」
「ゆっくりしておいで」
「夕ご飯はレンジで温めてね」
「分かったよ」
おひとり様を体験してみたいと言ったら「イタリアンでもなんでも食べておいで」と小遣いまで持たせてくれた。ちょっとした日帰り旅行、私の心は弾んだ。
プシュー
バスに揺られて15分で大きな椎木が2本並んだ芝生広場に到着した。そこには色彩豊かなフラッグが風にはためき幾つものテントが並んでいた。
(へぇ〜、アンティークドールも扱っているんだ)
その値札を見て仰天した私は両手でそっと元の場所に戻した。子どもたちがシャボン玉を吹きながら走り回り、子犬を連れた老夫婦がオルゴールの箱を品定めしていた。
(あ、この曲懐かしいな・・・)
それは高等学校の合唱コンクールの課題曲だった。
(放課後残って練習したよね)
ふと見遣るといかにもアンティークと表現すべきティーカップやティーポットを並べているテントがあった。やや色褪せた陶磁器に鈍い金の縁取り、渋さを感じさせる茶系の薔薇が私の手を引き寄せた。
(やっぱり、高いんだろうなぁ)
直也さんが持たせてくれた小遣いもあった。財布の中身と相談しながら思い切ってテントの中に座る男性に声を掛けた。
「このセットおいくらでしょうか?」
「3,500円になります」
「そんなに安くて良いんですか」
「もう店じまいですから」
2客セットで3,500円と聞き即決だった。
「ください!」
長い前髪を後ろに撫で付けた青年は好みのタイプだった。直也さんとは友人の紹介でお見合い結婚に近く顔は・・・いや、それは言うまい。
「ビニール袋か紙袋、要りますか」
「あ、じゃあ紙袋で」
「はい、3,500円、500円のお釣りですね」
私を見上げ500円硬貨を手渡そうとした男性は私の初恋の人、雨月 蔵之介だった。私は思わず薬指の結婚指輪を隠した。蔵之介は私の薬指に指輪を嵌めてくれた最愛の恋人だった。東京の大学に入学した私と蔵之介は遠距離恋愛を続けたが距離と時間が2人を隔て長続きはしなかった。
(・・・蔵之介、気付かないのかな)
気付くもなにも私は結婚している、今更どうなるというんだろう。
会ってはいけない
私は蔵之介に声を掛ける事なく踵を返した。振り向きたい衝動に駆られた時、足元にヒラリとなにかが落ちた。見ると英字新聞で折られた紙飛行機だった。
(蔵之介、気付いてくれたんだ)
胸が熱くなった。振り返ると蔵之介が深々とお辞儀をしていた。どんな意味があるのか分からなかったが私も会釈した。バスの停留所の列に並んでも蔵之介の視線を感じた。
プシュー
バスの椅子に腰掛け芝生広場には色彩豊かなフラッグがはためき白いテントの傍に蔵之介が立って私を見ていた。頬が火照った。
(蔵之介)
手元の紙飛行機を見ると赤い文字が見えた。
(携帯電話番号)
10年の時を経て私は雨月蔵之介と再会してしまった。
私はまるで後ろめたい事をして来たような気分で玄関の扉を開けた。直也さんはビールを飲みながら録画したサッカーの試合をテレビで観ていた。蔵之介もサッカーの選手だった。
「あれ、早かったね」
「1人で出掛けてもやっぱり面白くないから帰って来ちゃった」
「おひとり様計画は失敗だね」
「だね〜」
「骨董市はどうだった?」
「やだなぁマルシェ!市場だよ!色んなお店が並んでいて賑やかだったよ」
「へぇ、今度俺も行ってみたいな」
どきっとした。
「うん、今度一緒に行こう」
「それでどんなティーカップを買ったの?」
「そうだ、見てみてすごくシックで素敵なの!」
クラフト紙の袋から英字新聞に包まれたアンティークローズのティーカップを取り出して直也さんに見せた。
(蔵之介が包んでくれた)
そう思うといつもより丁寧にセロハンテープを剥がした。
「良い買い物をしたね」
直也さんの声で我に帰った。確かにティーカップやソーサーに欠けやひび割れも無く状態は良かった。シーイングライトの明かりの下で見た茶褐色の薔薇は花弁一枚、葉脈の一本まで繊細に描かれた素晴らしい逸品だった。
「素敵だね」
「うん、すごく素敵」
「これは良いね、莉子は見る目がある!」
直也さんはソーサーを裏返して目を凝らした。
「コ、ウルドン」
「コウルドンね、調べてみる」
コウルドンと検索してみたところイギリスから北アメリカに輸出されたアンティーク品で現在値段が高騰しているメーカー製品だという事が分かった。
「にっ、20,000円!」
「これ、いくらだったの!そんなに奮発しちゃったの!」
「ううん、3,500円」
「じゃあこれはレプリカかな」
「そうなのかな」
複製品と聞き私が落胆していると「これも記念の品だよ」と直也さんは私の肩を引き寄せた。
「そうだね」
「そうだよ、記念のティーカップだよ」
(記念のティーカップ)
直也さんに肩を抱かれた私の瞼の裏には深々とお辞儀をした蔵之介の姿が焼き付き身体中から切なさがとめどなく溢れていた。
(蔵之介)
私は嬉しそうな直也さんの横顔を凝視した。
(直也さんは私の夫、私は結婚している、もうあの時の私じゃない)
けれど蔵之介は私にとって特別な存在だった。
手を繋いで歩いた図書館へと続くレンガの小径
蝉時雨
打ち上げ花火の河川敷で交わした初めてのキス
午前0時の紙飛行機
深夜に部屋を抜け出した背徳感と胸のときめき
坂の上から見下ろした黒い街と街灯のウミホタル
自転車のキャリアで数えた電柱の数
(もう2度と会えないと思っていた)
「なに、どうかした?」
「ううんなんでもない」
私は10年前に引き戻されてしまった。それ以来、出勤する直也さんの唇に「いってらっしゃい」の口付けをすればその温もりの向こう側に蔵之介を感じた。「おかえりさない」と雨の匂いがする直也さんを抱きしめれば蔵之介が漕ぐ自転車のキャリアに跨ってしがみついた夏の湿り気を思い出した。
「莉子!お鍋!」
「あっ!」
ガスレンジの上で鍋蓋が音を立て、煮汁が周囲に吹きこぼれていた。キッチンに充満する醤油の焦げたにおい。
「どうしたの、最近ぼんやりしてるよ」
「あ、ごめん寝不足かな」
「かもしれないね。昨夜もうなされていたよ」
「えっ、ごめん煩かった!?」
「それは良いんだけれど、莉子、なにか悩み事でもあるのか?」
心臓が掴まれた。何気なく普段通りに振る舞っていたつもりだった。
「ないよ、あるわけないよ」
「そうだよな、莉子は1日中家の中だもんな」
「酷っ!」
「嘘ウソ、買い物くらいは行くよな」
「それ褒め言葉じゃないよ!」
「ごめんごめん」
私は英字新聞の紙飛行機を手にしたあの日から直也さんの笑顔を真正面から見られなくなっていた。
(なにもしていないのに)
2階のクローゼットに隠したクッキー缶いっぱいの蔵之介からの紙飛行機。気がつくと私は英字新聞の紙飛行機を開いていた。
(なにをする訳でもないのに)
私は携帯電話の電話帳に蔵之介の電話番号をKという名前で登録してしまった。
私は2週間後に迎える結婚3年目の記念品として陶器のティーカップを買い求める事にした。然し乍ら通信販売で購入するのも愛想がなく近所の雑貨屋は可愛らしいデザインばかりで気に入った品が見つからなかった。
「あっ、これ面白そう!」
直也さんが読んでいる新聞紙を取り上げた私は小さな広告に釘付けになった。骨董市場と銘打ったマルシェ。普段ならば気にも留めない広告だが記念品探しに躍起になっていた私は俄然興味が湧いた。
「直也さん、土曜日《《ここ》》に行って来る!」
「骨董市、怪しげなところじゃないの?」
「今時そんなの流行らないって、フェスタよ祭りよ!」
久しぶりの外出に浮き足だった私はお気に入りのワンピースを着て髪も丁寧に結えた。
「行って来るね」
「俺も行かなくて良いのか」
「素敵なティーカップを見つけて来るから」
「気を付けて」
「うん」
私は素っ気なく出掛けた振りをして玄関の扉を開けた。案の定、寂しそうにしている直也さんの姿がありその背中に飛びついて口付けた。
「行ってきます」
「ゆっくりしておいで」
「夕ご飯はレンジで温めてね」
「分かったよ」
おひとり様を体験してみたいと言ったら「イタリアンでもなんでも食べておいで」と小遣いまで持たせてくれた。ちょっとした日帰り旅行、私の心は弾んだ。
プシュー
バスに揺られて15分で大きな椎木が2本並んだ芝生広場に到着した。そこには色彩豊かなフラッグが風にはためき幾つものテントが並んでいた。
(へぇ〜、アンティークドールも扱っているんだ)
その値札を見て仰天した私は両手でそっと元の場所に戻した。子どもたちがシャボン玉を吹きながら走り回り、子犬を連れた老夫婦がオルゴールの箱を品定めしていた。
(あ、この曲懐かしいな・・・)
それは高等学校の合唱コンクールの課題曲だった。
(放課後残って練習したよね)
ふと見遣るといかにもアンティークと表現すべきティーカップやティーポットを並べているテントがあった。やや色褪せた陶磁器に鈍い金の縁取り、渋さを感じさせる茶系の薔薇が私の手を引き寄せた。
(やっぱり、高いんだろうなぁ)
直也さんが持たせてくれた小遣いもあった。財布の中身と相談しながら思い切ってテントの中に座る男性に声を掛けた。
「このセットおいくらでしょうか?」
「3,500円になります」
「そんなに安くて良いんですか」
「もう店じまいですから」
2客セットで3,500円と聞き即決だった。
「ください!」
長い前髪を後ろに撫で付けた青年は好みのタイプだった。直也さんとは友人の紹介でお見合い結婚に近く顔は・・・いや、それは言うまい。
「ビニール袋か紙袋、要りますか」
「あ、じゃあ紙袋で」
「はい、3,500円、500円のお釣りですね」
私を見上げ500円硬貨を手渡そうとした男性は私の初恋の人、雨月 蔵之介だった。私は思わず薬指の結婚指輪を隠した。蔵之介は私の薬指に指輪を嵌めてくれた最愛の恋人だった。東京の大学に入学した私と蔵之介は遠距離恋愛を続けたが距離と時間が2人を隔て長続きはしなかった。
(・・・蔵之介、気付かないのかな)
気付くもなにも私は結婚している、今更どうなるというんだろう。
会ってはいけない
私は蔵之介に声を掛ける事なく踵を返した。振り向きたい衝動に駆られた時、足元にヒラリとなにかが落ちた。見ると英字新聞で折られた紙飛行機だった。
(蔵之介、気付いてくれたんだ)
胸が熱くなった。振り返ると蔵之介が深々とお辞儀をしていた。どんな意味があるのか分からなかったが私も会釈した。バスの停留所の列に並んでも蔵之介の視線を感じた。
プシュー
バスの椅子に腰掛け芝生広場には色彩豊かなフラッグがはためき白いテントの傍に蔵之介が立って私を見ていた。頬が火照った。
(蔵之介)
手元の紙飛行機を見ると赤い文字が見えた。
(携帯電話番号)
10年の時を経て私は雨月蔵之介と再会してしまった。
私はまるで後ろめたい事をして来たような気分で玄関の扉を開けた。直也さんはビールを飲みながら録画したサッカーの試合をテレビで観ていた。蔵之介もサッカーの選手だった。
「あれ、早かったね」
「1人で出掛けてもやっぱり面白くないから帰って来ちゃった」
「おひとり様計画は失敗だね」
「だね〜」
「骨董市はどうだった?」
「やだなぁマルシェ!市場だよ!色んなお店が並んでいて賑やかだったよ」
「へぇ、今度俺も行ってみたいな」
どきっとした。
「うん、今度一緒に行こう」
「それでどんなティーカップを買ったの?」
「そうだ、見てみてすごくシックで素敵なの!」
クラフト紙の袋から英字新聞に包まれたアンティークローズのティーカップを取り出して直也さんに見せた。
(蔵之介が包んでくれた)
そう思うといつもより丁寧にセロハンテープを剥がした。
「良い買い物をしたね」
直也さんの声で我に帰った。確かにティーカップやソーサーに欠けやひび割れも無く状態は良かった。シーイングライトの明かりの下で見た茶褐色の薔薇は花弁一枚、葉脈の一本まで繊細に描かれた素晴らしい逸品だった。
「素敵だね」
「うん、すごく素敵」
「これは良いね、莉子は見る目がある!」
直也さんはソーサーを裏返して目を凝らした。
「コ、ウルドン」
「コウルドンね、調べてみる」
コウルドンと検索してみたところイギリスから北アメリカに輸出されたアンティーク品で現在値段が高騰しているメーカー製品だという事が分かった。
「にっ、20,000円!」
「これ、いくらだったの!そんなに奮発しちゃったの!」
「ううん、3,500円」
「じゃあこれはレプリカかな」
「そうなのかな」
複製品と聞き私が落胆していると「これも記念の品だよ」と直也さんは私の肩を引き寄せた。
「そうだね」
「そうだよ、記念のティーカップだよ」
(記念のティーカップ)
直也さんに肩を抱かれた私の瞼の裏には深々とお辞儀をした蔵之介の姿が焼き付き身体中から切なさがとめどなく溢れていた。
(蔵之介)
私は嬉しそうな直也さんの横顔を凝視した。
(直也さんは私の夫、私は結婚している、もうあの時の私じゃない)
けれど蔵之介は私にとって特別な存在だった。
手を繋いで歩いた図書館へと続くレンガの小径
蝉時雨
打ち上げ花火の河川敷で交わした初めてのキス
午前0時の紙飛行機
深夜に部屋を抜け出した背徳感と胸のときめき
坂の上から見下ろした黒い街と街灯のウミホタル
自転車のキャリアで数えた電柱の数
(もう2度と会えないと思っていた)
「なに、どうかした?」
「ううんなんでもない」
私は10年前に引き戻されてしまった。それ以来、出勤する直也さんの唇に「いってらっしゃい」の口付けをすればその温もりの向こう側に蔵之介を感じた。「おかえりさない」と雨の匂いがする直也さんを抱きしめれば蔵之介が漕ぐ自転車のキャリアに跨ってしがみついた夏の湿り気を思い出した。
「莉子!お鍋!」
「あっ!」
ガスレンジの上で鍋蓋が音を立て、煮汁が周囲に吹きこぼれていた。キッチンに充満する醤油の焦げたにおい。
「どうしたの、最近ぼんやりしてるよ」
「あ、ごめん寝不足かな」
「かもしれないね。昨夜もうなされていたよ」
「えっ、ごめん煩かった!?」
「それは良いんだけれど、莉子、なにか悩み事でもあるのか?」
心臓が掴まれた。何気なく普段通りに振る舞っていたつもりだった。
「ないよ、あるわけないよ」
「そうだよな、莉子は1日中家の中だもんな」
「酷っ!」
「嘘ウソ、買い物くらいは行くよな」
「それ褒め言葉じゃないよ!」
「ごめんごめん」
私は英字新聞の紙飛行機を手にしたあの日から直也さんの笑顔を真正面から見られなくなっていた。
(なにもしていないのに)
2階のクローゼットに隠したクッキー缶いっぱいの蔵之介からの紙飛行機。気がつくと私は英字新聞の紙飛行機を開いていた。
(なにをする訳でもないのに)
私は携帯電話の電話帳に蔵之介の電話番号をKという名前で登録してしまった。