「はい、どうも」

 奥の部屋からやってきた上島獣医は、今日も不機嫌で、体調が悪そうだった。
 なのに、パーカーに描かれたカートゥーン風の犬のキャラクターの背後に大きく『GOOD BODY』とデザインされていた。
 ぜったいにそんなわけはない。

 上島獣医が白衣をまとっておらず、ラフな格好なわけは、今日が動物病院の休診日だから。

 上島動物病院は常に予約が埋まっている、多忙な病院なのだという。
 それでも、子猫の飼い主が見つかったと連絡したら、すぐに時間を作ってくれた。

 上島獣医はソファに腰掛け、膝の前で手を組む。

「じゃあ、子猫を渡す前に簡単に説明します」
「よろしくお願いいたします」

 恵太のとなりで、おしとやかに頭を下げるのは恵太の姉、奏。

 子猫は奏が引き取ることになった。
 
 両親と奏の前で子猫の存在を打ち明けた日。
 恵太はわざとらしく、頭を抱え、机に突っ伏す。

「コマッタ、コネコ、ドウシヨウ……」

 そのとき。
 奏がそうだ、と、さも今思いつきました、という感じで打ち合わせ通りのセリフを口にする。

「じゃあ、私が一人暮らしして、そこで子猫を飼うよ」
「ホントウニ? ヤッター」

 恵太が両手をあげて喜ぶふりをすると、奏に袖をひっぱられ、耳元でぼやく。

「あんた演技下手すぎ」
「うるせぇ」

 二人の迫真の演技を前に、父親は「でも……」と渋っている。
 すると、奏はあーあ、と身体を伸ばし、窓の外を眺めひとりごちる。
 
「小さな命を見て見ぬ振りするなんて、パパのこと嫌いになっちゃうな」
「なっ……」

 あれほど奏の一人暮らしに反対していた父親も、この言葉は効いたらしい。

 そうして、奏は子猫のおかげで念願の一人暮らしができることになった。


 飼い主を探していた子猫も、一人暮らしをしたがっていた奏もウィンウィン。
 ついでに、奏にでていってほしかった恵太もウィン、というわけだ。
 幸いにも、子猫用のエサならうちにたくさんあった。

 そう、子猫のようエサなら……。 

 恵太は先ほどから、上島獣医の説明が耳に入ってこない。
 

 照明がついた待合室は、あの日とかなり印象が違う。
 それでも、匂いが、ソファの質感が、ポスターに書かれた注射器のマスコットキャラクターが。

 恵太に、あの日の夜を思い出させる。

──今からでも、三橋に好きだったって言えばいいじゃん。それでまた、新しい恋すればいいじゃん。

 なんで、あんなこと言っちゃったんだろう……。


 今日、新は保護猫カフェにゃん処に行っている。

 きっと、三橋に好きだったと告白するために。

 三橋は女子が好きなはずで、恵太は三橋のことは好きだが、付き合うつもりはないと言っていた。

 でももし、三橋を前にして、新の気が変わったら……。

 新の告白に、三橋がOKしたら……。

 そのまま二人が、付き合うことになったら……。

 光りの向こうへと、手をつないで歩いていく新と三橋。
 そんな二人を、恵太は跪いて手を伸ばし、縋っている。

 そんな未来線を想像しているうちに、恵太の世界がぐるぐると渦巻いてくる。

「話聞いてる?」
「あ、すみません……」

 上島獣医の呼びかけで我に返ると、隣で張り付いた笑顔のまま、奏が静かにほほえむ。

「うちの弟が申し訳ございません。ですが、飼い主となる私がきちんと聞いていますので、ご安心ください」
「そうですか」

 上島獣医は興味なさげに失礼、と診療室へ戻っていく。
 すると、奏の上がったまま固定されていた口角が、ひゅん、と元の位置にも戻り、いつものだらしない顔に戻った。

「猫被りやがって」
「うっせ。ってかあの人、感じ悪くない?」
「いや、いい先生だよ。あの人は」

 恵太がそういうと、上島獣医がゲージを持って戻ってくる。
 ゲージの中にをのぞくと、奥で不思議そうにこちらを伺う子猫の姿があった。

「かわいぃ……」

 奏は目を輝かせ、絞り出すような声で囁く。

「おいで」

 奏が手を伸ばすと、天使のような子猫の顔が一気に豹変し、眉間にしわを寄せ、小さいながらも鋭い牙をむき出しにくる。

 恵太と奏はぱちくりと目を開き、顔を見あう。
 

 この子はこの先、懐いてくれるのか?


 そんな不安を読み取ったのか、上島獣医はぼそりと呟く。

「捨て猫はみんな、最初はこんなものだから」
「え?」
「これは俺の見立てだが、人間に捨てられた猫は、普通の猫よりなつくのに時間がかかる」
「人間のことを信じられなくなってるからでしょうか?」
「というよりは、自分が愛される存在だって認識するのに時間がかかるって感じだな」

 そのとき。
 恵太の脳裏に、一人で猫にエサをあげていた新の姿がよぎった。

 新も、そうなのかもしれない。

 思い返せば、初めて会った時に攻撃的なところもあった。
 自分のことを気持ちが悪いと自虐するところも。
 好きになった人を不快にさせるなんて思いこんでいるところも。

 新自身が、自分が誰かに愛される存在だと思えていないからなんじゃないか。

 そう思うと、これまでの新の行動の全部が腑に落ちてしまう。

「どうすれば……」

 奏の問いかけを遮るように、上島獣医は立ち上がり、受付カウンターに置かれた冊子を手に取る。

「これにはペットを怖がらせないようにお世話をする方法や、子猫にとってストレスになるものなどが載っている。が」
「が?」
「そんなことよりも、第一にやってほしいことがある」
「うぉっ……」

 上島獣医は冊子を投げ渡す。
 ページが開き、ちょうちょのように羽ばたく冊子を、恵太が両手でキャッチする。

「なにをすれば?」
「きちんと、想いを言葉にして伝えてほしい」

 上島獣医は真剣な眼差しで続ける。

「猫は人間の言葉がわかる。これも俺の見立てだ」
「そうですか……?」

 奏は不思議そうにうなずく。
 たしかに動物に人の言葉が分かるなんて、メルヘンなことを獣医が口にするのは変な感じがするが、恵太も上島獣医と同じ意見だった。

 猫は人の言葉をわかる。確実に。

「だから、この子への想いを、きちんと口に出して伝えてほしい。
 あなたと出会えてよかったよ。愛してるよ。って、言い続けてほしい。
 そうしていればそのうち、愛されることに感謝などしない、愛されることが当たり前って態度の、猫らしい猫になるさ」

 猫らしい猫。
 呼んでもこない、甘えたいときにだけ甘えてくる。だけど、ちゃんと信頼してくれる。
 ちょびや、これまでエサをあげてきた猫たちの姿を思い出すと、自然と口元がほころぶ。

 やっぱり猫は、愛くるしい存在だ。




 病院を出ると、強い西日が目を眩ませる。

 想いを、言葉にして伝えるか。

 恵太は口の中で、上島獣医の言葉を転がしていた。
 すると、恵太が持っていた子猫が入ったゲージを、奏が奪いとる。

「じゃあ、私家帰るから」
「え、俺も帰るけど」
「あんたは、行くところがあるんでしょ」

 奏はやれやれって感じで、ため息をつく。
 この勘の鋭さこそ、全国の姉が持つ能力だと思う。

「いや、でも……」
「今。ナウ。ゴー」

 やけにネイティブな発音で圧をかけてくる奏に、恵太は吹きだす。

 敵わないな、姉ちゃんには。

 恵太は「馬鹿姉」とだけつぶやく。

「あ、ついでに……」
「アイスだろ。わかってるよ」

 頭の中でピストルがパンっと鳴り、恵太は勢いよく走り出す。








 心臓がバクバクと暴れている。
 気をつけなければ、口からどぅるん、と出てきてしまいそうなほど。

 新は今、保護猫カフェ・にゃん処が入っている雑居ビルの前にいる。

 中から、池谷さんが降りてきた。
 池谷さんは新を見つけると、にやりと口角をあげる。

「あら、あなたも猫好きね」
「え」
「ささ、どうぞどうぞ~」

 池谷さんは蛇のように新の背後にするりと回りこみ、雑居ビルへと押し込む。
 狭い階段をなんとか上り、アルミ製の扉が開かれる。

「らっしゃーい」
「ど、どうも……」

 受付カウンターに立つカンちゃんが、のんびりとあいさつをする。

「じゃ、また呼び込み行ってくるから」

 そういうと、池谷さんはごゆっくりと、ゆっくり、というかねっとりと扉を閉める。
 なんだか、スケベな顔をした人だな、と新は思った。
 それに、どこかで会った気がするな……。


──実は池谷さんこそが、新に地域猫活動について教えた張本人である。
 しかし、二人が出ったのは夜で互いの顔をはっきりと認識していなかったし、もう半年以上も前のことで、新が池谷さんの存在に気づくことはなかった。

 池谷さんはそもそも忘れている。池谷さんは猫にしか興味がない。──


 カンちゃんの指示に従い、新は入念に手を洗い、のれんをくぐり、部屋に足を踏み入れる。

「うわぁ……」

 目に入ってきた光景に、新は思わず声を漏らした。

 ちゃぶ台の上に猫、下に猫。
 壁際に置かれた漆色の古びた味わいあるタンスの上に猫。
 開きっぱなしの引き出しの中に猫。
 柱の上にも猫。
 窓際にも猫。
 座布団の上にも猫。
 あっちにも猫。こっちにも猫。

 すごい、猫まみれだ……。

 そこは、自分が思い描いたような夢の空間で、全身から力が抜けるようだった。

「新」

 三橋が子猫とじゃれていた手を止め、新を見つめる。
 輪郭がシュッとし、髪も短くなった三橋は、あのころよりも大人びている。
 なのに、その視線はどこか懐かしさを感じさせ、胸がキュッと締め付けられる。

「……久しぶり」
「うん、久しぶり」

 新は、少し離れた場所に腰掛ける。

「元気だった?」
「うん。三橋くんは?」
「まぁまぁ、かな」

 言葉は交わされるが、その背後に潜むぎこちなさが、空気を重くする。

 すると、カンちゃんが猫用の毛布をもってくる。

「みっちー、これそっちに置いといて」

 みっちーと呼ばれた三橋は、少し口をとがらせる。

「俺、客なんですけど」と口にするが、実際にはその言葉がどこか嬉しさを感じているようにも思えた。

「ほとんど毎日来てるんだから、これくらい手伝ってよ」

 カンちゃんから毛布を投げ渡され、三橋は態度とは裏腹に手際よく置いていく。

 ほとんど毎日来てるって、三橋くんってそんなに猫が好きだったっけ?

「さんきゅー」

 カンちゃんが部屋を出て行くのを見送る三橋の目には、特別な光が宿っていた。
 その目の光には覚えがあった。


 三橋くんはこの人のことが好きなんだ。


 でも、黒い感情が湧いてこない。妬ましさも、悔しさもない。
 
 自分は、あの頃から変わったんだと、新は改めて実感する。

 それはやっぱり、恵太のおかげだと思う。

 だから。

 ぼくも、新しい恋に進むために。

 新はこぶしを握り、覚悟を決める。

「ぼくね、三橋くんのことが……」

 そのとき。
 奥からアルミ製の扉が勢いよく開く音が聞こえ、のれんがひらりと舞いあがる。

「け、恵太?」

 突然あらわれた恵太に、新は心臓が高鳴る。
 膝に手をおき、肩で息をする恵太はよろよろと進み、新の正面に膝をつく。

「ど、どうしたの?」
「新、……俺、新のことが好きだ! 愛してる!」

 飾り気のない、まっすぐな恵太の言葉が新の胸を貫く。
 驚きと混乱が交錯し、何も言えないまま口を開けている自分に気づいた。

「……えっ」

 そのまま、恵太は三橋の方に身体を向ける。

「だから、ごめん!」

 静寂が訪れ、まるで世界が一瞬消えたかのよう。
 心の中で何かが崩れ落ちていくのを感じながら、新はただ彼の言葉を反芻する。

 恵太は我に返った瞬間、顔が真っ赤になり、いたたまれなさそうにその場を逃げ出していく。

「ちょ、ちょっと!」

 新は立ち上がり、彼を追いかける。

 のれんをくぐる前、口を開けたままの三橋を振り返り、力強く頷く。

「頑張ってね、三橋くんっ!」
「え、お、おう……?」

 首をかしげる三橋を置いて、新はにゃん処を飛び出す。

 しかし、すでに恵太の姿はなかった。

 恵太に会いたい。

 恵太を求めて、急ぎ足で進む。

「恵太」

 恵太のことをを思い出すと鼓動が高鳴り、足が自然と動いていく。


 向かう先はもちろん。









 やった。


 完全にやってしまった……。



 恵太は膝を抱え、頭を中に入れ、先ほどの勢い任せの告白を猛省していた。

 どうして、あんなことをしてしまったのだろう。

 数時間前の記憶は遠く、まるで夢の中の出来事のように霞んでいた。

 猫の姿はない。
 いつもより、時間が少し早いからだろうか。


 ここはいつも二人で猫にエサをあげている道だ。


 にゃん処を飛び出した恵太は何も考えず、というより考えられず、足の向くままに走り続けた。

 角を曲がり、歩道橋を渡り、また角を曲がり。

 それでも気がつけば、景色は見慣れたものになっていた。


 あの時の新も同じように、ここにたどり着いたのかもな、と考えた。

 吸い込まれるように、誘われるように。

 ここは、俺たちにとって、特別で、意味がある場所過ぎる。



 
 すると、聞き覚えのある足音が、聞こえてきた。


「やっぱりここにいた」

 新はふぅ、と息を吐く。


 それでも、恵太は膝の間から顔を出さない。
 今、新の顔を見ると、あの瞬間の恥ずかしさと緊張で、死んでしまいそうだから。
 
 新の気配が、恵太のとなりに腰を落とす。

 なにも言わない新に耐え兼ね、恵太はぼそりと声を出す。

「あの、すみませんでした……」
「ほんとだよ」

 緊張で、心臓がきゅっと縮まる。
 恵太が恐る恐る顔をあげると、予想に反し、新はいたずらっぽく笑っていた。
 その笑顔に、恵太は少し安堵した反面、同時に恥ずかしさが込み上げてきた。

「告白しろって言ったり、乱入してきたり、めちゃくちゃじゃない?」
「ごもっともです……」

 反論の余地がなく、恵太はただ黙ってうなだれる。
 しばしの沈黙の末、新は地面を見つめたまま、言葉をこぼす。

「本当なの? ぼくのこと、その……」

 口ごもる新。
 その姿に、恵太は心がざわつく。
 どう答えればいいのか。恵太の心の中では、たくさんの想いが交錯していた。
 でも、これだけは先に伝えたい。いや、もうさっき言っちゃったんだけど。

 恵太は改めて新を見つめて言う。

「うん。好きだよ」
「…………」
「いろいろ考えたんだけど。……まぁ、いろいろ考えたって言っても、俺、新みたいに頭良くないし。男同士の恋愛の大変さ? とかも、男好きになったの初めてだし。っていうか、俺は新が好きなだけだから、正直言うと新の悩みとか気持ちをちゃんとわかってないかもだけど、うーん……」

 途中から、なにが言いたいのか分からなくなってきた。

 新は脳内で思考を振り返るうちに、忘れていた思考を思い出した。

「新に、ほかの誰かに好きって言ってほしくなかった」

 我ながら重いなぁ、と思う。

 付き合いたいと思っていないと言っていたのに。
 好きな人に好きだって言うのが、新の夢だと知っていたのに。

 それでも、新が好きだという相手は、俺であってほしいと願ってしまった。


 それが、恵太の本心だった。


 情けない、みっともない自分に耐え兼ね、恵太は再び三角に足を畳み、亀のように頭を収納する。
 そんな恵太を見て、新はぷっと吹きだす。

「ほんと、恵太って猫みたいだよね」
「え、俺が?」
「うん。最初から思ってたよ」

 新じゃなくて、俺が猫?

 眉根を寄せる恵太に、新はふふっと見つめる。

「猫の自由気ままな感じ。言いたいこととか、やりたいことに遠慮がない感じが。ぼくの頭撫でるのとか」
「え、いやだった?」
「嫌じゃないけど、学校でされるのは恥ずかしいよ」
「ごめん」

 さっきから、いいところないじゃん、俺。

 しゅん、と首をすくめる恵太を見て、新はまた笑った。

 恵太は、新の笑顔が好きだった。



 新は、なにかを葛藤するように、ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせている。

 恵太はただ黙って、次の言葉を待った。

 だが、時間が経てばたつほどに、yesとnoの天秤は徐々にnoの方に傾いていく。

 一瞬とも、永遠とも感じる時間の中で、恵太は覚悟を決める。

 たとえ、付き合えなかったとしても、新と友達でいつづけよう。
 新が誰を好きになったって、俺は友だちとしてその恋を応援しよう。
 
 新は愛される存在だって、俺がそばにいることで、証明し続けよう。



 ……やっぱり俺って、重いかも。


 恵太は、自分でも思っている以上に、新のことが好きなんだと、自覚した。

「恵太」
「なに」
「ぼくも、恵太が好きだよ」

 そういって、恵太はまぶしそうに目を細めた。

「……まじ?」
「まじだよ。気づかなかった?」
「ぜんぜん」
「そっか」

 新は恵太の方へ、身体を向ける。
 その瞬間、恵太の鼓動が一層激しくなる。新の声が、恵太の心を直撃するように響いた。

「恵太」

 新の声で名前を呼ばれるたびに、恵太の鼓動のテンポが一つずつ上がっていくようだった。
 恵太は痛いくらいに暴れる胸を無視して、新をまっすぐに見つめる。

 新は、口をパクパクさせながら、声を振り絞って伝える。

「ぼくと、付き合ってください」

 その瞬間。
 堰を切ったように、新の目から大粒の涙があふれ出す。

「あれ、ごめん。ごめん……」

 新もコントロールできないのか、拭っても拭っても、涙はあふれて止まらない。
 新が流す涙の数だけ、恵太は胸が締め付けられる。

「泣くなよ。まだ俺なにも言ってないだろ」
「ごめん……」

 自分の想いを封じて生きてきた人間が、想いを告げてきた。

 そんな新の勇気が、新の想いが、新のこれまでの過去が。

 新のすべてが愛おしくて、恵太は新を抱きしめた。
 すると、おそるおそるだが、新は恵太の背中に腕を回してきた。

 だから、恵太はより強く、抱きしめ返す。

 安心しろ。

 誰も、新のことを否定しない。
 誰も、新のことを無視しない。

 新は、愛される存在だ。

 心から、そう思えるように。


 新の涙が落ち着いたころに、恵太は耳元で名前を呼ぶ。

「新」
「……」
「新。新、新、新」
「なんだよ」

 恵太の胸の中で、新は吹きだす。

「なんでもない」

 新の名前を呼ぶたびに、身体の内側から幸せがあふれ出す。

 好きな人の名前は、理由がなくても呼びたくなる。

 本当にその通りだと思った。



「もう大丈夫……」

 恵太の身体から離れ、涙をぬぐう新。

 宝石のような新の瞳に引き寄せられるように、恵太はゆっくりと近づく。

 ふわふわな前髪が恵太の鼻に触れ、二人の吐息がぶつかりあう。

 妄想が現実になっているのか、これもまた妄想か。

 恵太には判断がつかないまま、新の薄い唇がにそっと……。

「ん?」

 すると、なにかが背中に当たる感触がした。
 恵太は振り返ると、そこには白黒まだら模様の、猫が一匹。

「ちょび」

 辺りを見わたせば、ほかにも猫がちらほら集まっていた。

 エサよこせ。

 そんな圧をかけられ、新は我に返ったように、そそくさと恵太から離れる。

「ご、ご飯ね、ちょっと待ってね」

 そういって、新は荷物の中からエサと紙皿を取り出す。
 恵太は呼吸を忘れていたことを思い出し、体内の空気を一気に吐き出した。

 お前ってやつは。

「空気読めよ」

 恵太はちょびに向かって文句を言うが、ちょびは知らん顔のまま、新のエサを待っていた。







 師走も佳境となったある朝。


 学校へ到着し、昇降口へ向かっていると轟音とともに真っ赤なスポーツカーが滑り込んできた。
 キュルキュルとタイヤを鳴らし、職員用の駐車場へ停まると、中から白衣姿の荒牧先生が颯爽と降り立つ。

 その姿は、まるで映画のワンシーンのよう。白衣が風に揺れるたびに、心の中で憧れがふくらむ。

 やっぱり、荒牧先生はかっこいい。

 養護教諭か、獣医か、まだ自分の進路は迷っているけど、いつか、荒牧先生のように白衣が似合う人になりたいと思った。


 すると、背後からぬっと影が重なる。
 ふりかえると、すぐ近くに恵太の顔があった。

「相変わらず目立つ人だな」
「うわっ!」

 新は驚きのけぞると、恵太はいたずらっぽく笑い、新の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「おはよう新。今日もいいふわふわ具合で」

 新は顔をくしゃっと潰し、恵太の手から逃げる。

「もう、やめてって言ったでしょ」
「あ、そうそう」

 そういって恵太は自身のカバンにまさぐる。

「話反らしたな」
「これ。三橋から」

 恵太から差し出されたのは、保護猫カフェ・にゃん処のロゴシールが貼られた猫のエサの詰め合わせセット。
 恵太は今でもたまに保護猫カフェに通っている。

「三橋、保護猫カフェでバイトすることになったんだって」
「そっか」

 新は、カンちゃんを見つめる三橋の眼差しを思い出す。

 うまくいけばいいな。

 三橋のことを心の中で応援していると、恵太はのんびりと呟く。

「あいつ、よっぽど猫好きなんだな」
「……鈍感だなぁ。そういえば、ぼくが教室に行く理由もわかってなかったよね」
「え、理由あるの?」

 恵太の目が大きく見開かれ、首をかしげる。
 その無邪気な仕草に新は呆れ、ついため息が漏れる。

 教室に行く理由。

 そんなの。

 恵太に会いたかったから、以外にないのに。

「そういえば浩介遅いね」
「話反らしたな」

 いつも三人が登校する時間は被っていて、自然と昇降口前で集まり、一緒に教室へ向かうのが日常となっていた。
 ここで待たなくても、どうせすぐ後に教室で会うのに。
 変な習慣だが、新はここで誰かを待つのが好きだった。

 すると、目の前を手をつないだカップルが横切っていく。
 互いに、相手以外は視界に入っていないような熱々っぷりに、恵太はひゅぅ、と口笛を吹く。

「俺たちも手つなぐ?」

 新はもう、と恵太の肩を小突く。

「約束したでしょ」
「そうでした」

 本当は分かってるくせに、じとーっと恵太を見ている。

 好きな人と、抱き合えるなんて、そんなの叶わないと思っていた。

「恵太。好きだよ」

 雑踏の中で、恵太にだけ聞こえるように、愛を唱える。
 恵太は、照れくさそうに顔をほころばせる。

「俺も、好き……」

 その瞬間、背後からなにかが迫ってくる気配を感じた。

「ピーリカピリララ、ポポリナペーペルト!」

 謎の呪文を唱えながら両手を広げて突進してくる浩介を、新はしゃがんでよける。
 しかし、反応が遅れた恵太はもろにラリアットを食らっていた。

「いってぇな!?」

 しかし、そのまま浩介は校内へと逃げていく。

「待てこらっ!」

 恵太は浩介を追い、走り出す。

 くだらくて、最高に楽しい友達関係は続けていく。
 そして、ぼくたちは恋人でもある。
 そんな、普通じゃない関係も、悪くない。

「いくぞ、新」

 恵太に呼ばれ、新も走り出す。

 ぼくたちは友だちで、夜の間だけは恋人。

 そう。


 猫にエサをあげる間は。