チャリを漕ぎ、店に向かう。いつもよりも、ペダルが軽い気がする。でも緊張する。何言われるかわからないし、どう思われるかわからないし。自転車を止めて、お客様用の入り口からお店に入った。佐藤さんが、品出しをしている。佐藤さんにも、俺がうつ病だってこと、精神科に通ってるってこと、暴かれちゃったな……。
「佐藤さん……」
「立花くん……無理、しないでね。……実は、私もね、精神科、通ってるんだ。でも、後ろめたくて誰にも言えなくてね……でも、立花くんも通ってるってなったら、安心できた」
 フフッ、と笑った。
「なんか、ありがとね。私、本当に、立花くんがいてくれてよかった」
「……うん。ごめんね、俺がいなくなると、1人欠けると、忙しくなるよね……」
「……私も、やめるかもしれないもん。大丈夫だよ」
「じゃあ、店長のところに行ってくる」
「うん」
 佐藤さんは、両手を振ってくれた。
 俺は、事務所に入り、奥にいた店長に挨拶をした。
「店長……こちらが、診断書です」
「……そうかぁ、うつ病にかかっちまったか」
 店長は、俺の目を見る。
 事務所には、店長と、もう1人30代の男性の先輩の高野さんがいる。
「まあ、深く考えてしまうのは仕方ないよな」
「そう、ですよね……」
「この業界は結構厳しいからな。でも、回復して、なんか、仕事がしたいとか、雑用とか任せることできるから。大丈夫だよ」
「あ、ありがとうございます」
 店長は、少しだけ身を乗り出して、俺に聞いた。
「立花くんって、彼女とかいるの?」
「いや、いないです。でも、セフレがいます」
「え? まじ? 立花くんセフレいるの!? すごくない?」
「すごい、ですかね」
「いやいや、すごいよ! どうやって作ったの?」
「マッチングアプリで……クラブで作ったこともありますけど」
「マジか!」
 高野さんもこっちにきた。
「立花くんセフレいるの!? すご!」
 店長が俺の目を見た。
「すごい、今度会ったらさ女遊び俺にも教えてよ」
「いいですよ」
 こんな話になったの、初めてな気がする。
 多分、俺は、俺自身を、本当の俺自身を、隠し続けてきたんだろうな。
 真面目で、営業成績が良くて、学歴も高いから頭も良くて、入ってすぐなのに仕事ができて、優しくて。
 でも、本当は、繊細で、心が弱くて、すごく、悩んでしまって。
 そんな、隠し続けた自分について知ったから、隠し続けた自分を店長に教えたから、俺が、心を開いたから、店長は、初めて、俺に、心を開いてくれたのかもしれない。でも、店長に女遊びを教えるつもりはないし、別に俺の死にたい気持ちが消えるわけじゃない。
 店を出て、チャリ置き場に行く。
 自転車にまたがり、漕ぎ始めた。これで、今日から1ヶ月間休みだ。何をすればいいかって、何にもすることなんてないけど。ていうか、とにかく、家に帰って横になりたい。今の気持ちは、ただそれだけ。
 ふと。空を見た。瞬間。どうしようもなく自殺したい気持ちが、心の中に沸いた。怖くなって、力いっぱい自転車を漕いだ。ポケットの中のスマホが鳴った。見ると、佐藤さんからの連絡だった。
「何かあったら連絡してね」
 ありがとう、と送っておいた。俺には、味方がいる。それも、俺がうつ病ってことを暴露してから、知ることができた事実なのかもしれない。
 家に着き、ドアノブを開くと、散らかった部屋が目に入る。その中にある布団にダイブする。その瞬間、すごく強い悲しみの感情が、俺の心を襲った。部活の試合で負けた時のような、悲しい感情。別に、何か悲しいことがあったわけではないのに、悲しい感情が俺の心を襲う。何でだろうか。悲しくないのに、とても、とても悲しい。
 気づいたら、ネットで死にたいって調べてた。たくさんの、相談室の電話番号が出てくる。そこに、電話をかけてみた。
「申し訳ございません、ただいま、繋がりにくくなっております」
 そっか。
 心の相談ダイヤルって、こんな感じなんだ。
 目を瞑ると、クレーマーの顔が思い浮かぶ。
 そして、たくさんの声が降ってくる。値引きしろ、接客業に向いていない、営業向いてない。その後に、強い心の痛みが襲ってくる。
 最近、思う。生きてる意味って、あるのかな。確かに、生きてる意味はあると思うんだよ。楽しい時だってあるし。でも、そんなん一時の快楽で、ほとんどの時間はすごく悲しい。そんな中で無理して生きることもないんじゃないか、なんて思ってしまう。死んだほうがマシなんじゃないか、楽なんじゃないか、って思ってしまう。
 動画サイトで、うつ病 つらい って検索してみた。
 すると、たくさんの人の、生きてたらいいことあるよ、とか、精神科の先生があげている動画とかが出てきた。
 それをみてると、少しずつ、心の痛みが消えていくような気がする。それでも、また、心の痛みは襲ってくるから、精神安定剤を飲む。その後に、自販機に向かい、モンエナを買う。やっぱり、モンエナを飲むとキマる。嫌なことしか考えられない。この世界が、明日で終わるなら、いいのに。この世界は、悲しみに満ち溢れている。幸せなんて、ないのかもしれない。
 天井を、見つめる。こうして、ただ、生きているだけでも、悲しかったりするのなら、生きない方がいいのではないか。
 奈々ちゃんから連絡が来た。
「ねえー、つらいー」
 奈々ちゃんに聞いてみようかな。
「奈々ちゃん、生きてる意味、あるのかな」
 返信を待つ、か。
 つらい。つらすぎる。
 明日、また、精神科を予約しようか。
 どうしよう。時間だけ余ってるな。パソコン持って、スタバ行って、今書いている小説「内申ゲーム」を書こうかな。今書いている小説は、内申を取るためにたくさんの要素を攻略していく小説。例えば、音楽は鑑賞テストを稼げば5が貰えるから、鑑賞テストを頑張る、とか、そうやってやっていって、内申を攻略していく小説。淑徳社の「そのミステリーがすごい! 大賞」に応募しようと思っている。要項で言うと、広義のミステリー。受賞すると書店にたくさん並ぶ。だから、俺の憧れの小説賞。趣味で書いているけれど、やっぱり、小説を書いてる時だけは、いろんなことを忘れられて、主人公に没入できる。
 家を出て、自転車に乗り、少しサイクリングする。半田には、最近新しいスタバができた。そこが近いから、そこを目的地に、自転車を走らせる。
 スタバに入る。裏メニューの、甘々な味のホワイトホットチョコレートを頼み、長机の中の一つの席に座る。それで、パソコンを開く。「内申ゲーム」の場面としては、今は、3年生の2学期の半ばらへん。3年生の1年間を描くストーリーだから、2学期の半ばら辺ってことは、中間くらいっていうこと。これからどう物語を進めようか。心情の変化を書くのがなかなか難しい。でも、最近書き進めても、なんか暗い物語になってしまう。俺の心が暗いからかな。わからないけれど。でも。今日は、何となく。筆が進まない。まだ締め切りまでは全然余裕があるから、別にいいんだけど。
 じゃあ、違う小説を書き始めようかな。なんか、全然モチベが上がらない。
 ……ネットに上げて、誰かに見てもらおうかな。
「小説家になろーよ」っていう小説投稿サイト、読んでるって人、高校の頃にいたな。使ったことないけど、「なろー系」とかで流行ってるし、面白そうだな、とは思っていたんだよな。アニメ化もされたりするし。
 「小説家になろーよ」で、検索をしてみた。たくさんの小説が出てくる。人気の小説のタイトルはなんか長いものが多い。新着小説や、ランキング、短編も載っている。その中に、ログイン、という箇所がある。そこをクリックすると、新規会員登録のボタンがある。そこをクリックし、必要事項を記入していった。ユーザー名は……立花だし、フラワーとかでいいか。そして、一本の小説を書いてみた。「精神科に通ったらどうなるのか」。何となく、エッセイ的な感じで書けそうなテーマだから、それで書くことにした。200文字以上書けば、連載できるみたいだ。俺は、それで投稿してみた。
 ……それで、これに投稿してどうなるんだ?別に、いいねがつくわけでもないし……。
 そう思っていると、星5の評価が一つ、ついた。
 俺の小説を、誰かが読んで、評価してくれたんだ。
 少し、嬉しかった。
 夢中で、精神科に通ったらどうなるのか、を書き続け、気がつけばスタバの閉店時間の10時になっていた。
 コンビニで弁当を買い、家に帰った。
 コンビニ弁当を食べる。でも、コンビニ弁当なんて、一瞬でなくなってしまう。そして、お風呂に入りたくない。すごく、お風呂に入りたくない。おれは、薬を飲み、ベッドに横になった。たくさん、日本電機の思い出が蘇る。クレームとか、嫌味とか、上司からの圧とか。全然、眠れない。本当に、眠れない。睡眠薬、飲んだはずなのに。
 時計を見ると、朝の10時を指していた。眠れたのか。今日は12時から栄の精神科で予約が入っている。でも、動けない。いつもの金縛りが起こっている。つらい。まあでも、いつものことだし。何となく、高校の頃のことを思い出す。1年の頃、追試を取った。それで、先生に怒られた。追試課題を出さないといけないんだけど、全然終わらなくて、夜の2時まで毎日勉強していた。それで、朝は6:56の電車に乗って高校へ行き、図書館で勉強していた。それで、帰ってくるノートには、「追試を受ける気あるのか」と、毎日書いてあった。数学で追試だったんだけど、数学の時間は毎回10問くらい当てられ、答えられないと問い詰められた。本当に、辛かった。その時に怒られた思い出が、めちゃくちゃ蘇ってくる。辛かったな。本当に、辛かったな。なんで、こんなこと思い出すんだろう。
 立ち上がって、精神科に行く準備をする。少し早めに準備ができたから、スマホのメモ帳機能を開く。今悩んでることをそこにザーッと書き出す。
 生きている意味がわからない
 なんで生きているのかわからない
 朝起きて金縛りに合う
 うつ病がとてもつらい
 死んだほうがマシなんじゃないかなんて思う
 そんなことを書いていたら電車の時間が迫ってきたから、駅まで歩いていく。
 名鉄電車に座る。平日の昼間だからほとんど人はいない。それだけでも罪悪感が湧いてくる。おれは、1ヶ月もただただ休んでいいのだろうか。そんなふうに、思えてくる。
 精神科に着いた。番号札を渡され、椅子に座る。やることがない。マイナス思考が俺を襲う。胸が痛い。今日はカウンセリングはなく、診察のみ。
 順番が呼ばれた。さっきのメモの通りに先生に悩みを打ち明けた。
「そうなんですね、まだまだうつ症状がひどいので、極力無理はなさらず、自殺はしないようにしましょう。お薬を少し、増やしておきますね」
「あの、精神安定剤はこれ以上増やしちゃダメですか?」
「そうですねー、あれをこれ以上増やすことは危険なので、それはできませんねー、申し訳ございません」
「そうですか……」
 心が、急に痛くなる。
 やばい。
 どくどくと心臓がなっているのがわかる。
 涙が出てくる。
「先生、なんか、急につらいです」
「大丈夫ですか!?」
 すぐに、落ち着いた。
「それは、パニック発作ですね。パニック障害も併発しているのかもしれません」
 パニック障害……聞いたことがある。突然、パニック発作が起きる病気。それも、併発している……?
 俺の精神疾患って、そんなに重大な状態に直面しているの……?
「あの、結構急に悲しくなったりとかするんですよ、悲しいことも別にないのに」
 急に、悲しくなったり、昔の辛い思い出を思い出したり。何の前触れもなく、急に悲しくなる現象。不思議で仕方がない。
「そうですねー、そうやって脳が誤作動を起こしているっていうのもあります、それも症状の一つですね」
 脳の誤作動、か。なるほどね。それなら、仕組みがわかる。
「とりあえず、薬を出しておきます。パニック症状に関しては、ぬいぐるみなどを常に持っておいて、それが起こったらぬいぐるみを抱きしめるとかですね、そんなふうにするといいと思います」
「……わかりました」
 精神科を出ると、青い空とたくさんのビル群がおれを迎えた。
 とりあえず、おもちゃ屋さんに向かった。おもちゃ屋さんで、一つぬいぐるみを買った。それで、急に苦しくなったから、ぬいぐるみをぎゅーってした。確かに、辛い気持ちが、ぬいぐるみに逃げていっている気がする。
 スマホを見た。奈々ちゃんから、メッセージが届いている。
「今日と明日休みー、透くんはー?」
 奈々ちゃんに。今日くらい、甘えてもいいよね。
「今日と明日、休み」
「じゃあ、栄で会おー!」
「うん」
 1時間、カフェで時間を潰して、栄駅の前で待っていると、奈々ちゃんがやってきた。
「透くーん! ……あれ、なんか元気なくない? まあ、いつものことかあ。ご飯いこー」
「そうだねー」
 ラーメンを食べて、そのままホテルに向かう道中。
「ねえ、奈々ちゃん」
「んー?」
 やっぱり、奈々ちゃんにも。正直に、言ってしまおう。奈々ちゃんには、元々精神科に行ってたこと、多分バレてたしな。
「俺ね、1ヶ月休職になった」
「そう、なんだ……大変だったね」
「うん」
「でもね、私も休職してたことあるよ」
「そうなの?」
「うん。半年くらいね、休職してた。でもね、その後治って今は普通に生活できてるよ」
 誰かに伝えることで、その人も心を開いてくれる。みんな、何かを抱えて生きているんだな。
「やっぱり半年くらいかかるのかな……」
 そうこうしてるうちに、ホテルに着いた。

「今日はありがとー」
 ホテルから出ると、夜も更けていた。
 栄の繁華街は、キラキラしていて、俺はそういう景色も意外と好きだったりする。
「うん、俺こそありがとー……奈々ちゃん、明日休みなんだよね」
「うん、休みだよ」
「だったら……俺と一緒に、泊まってかない?」
「うーん、明日はアプリの人と会うんだ。イケメンでね、彼氏にしたらどんだけ幸せなんだろー、なんて」
「……そっか」
 彼氏……。彼氏が奈々ちゃんにできたら、拾われた俺は、捨てられるのかな。
 奈々ちゃんって、ただの体の関係じゃなかった。
 俺が辛い時、いつも寄り添ってくれて、味方をしてくれた。奈々ちゃんは、そんなつもりはないのかもしれないけど、でも。やっぱり、奈々ちゃんにいて欲しいという気持ちが強くなるのは仕方のないことなのかもしれないし、奈々ちゃんに彼氏ができたら多分捨てられるから悲しくて、泣きそうになっているし、死にたいし、めっちゃ辛いし、嫌だし、奈々ちゃんが俺の元からいなくなったら、そしたら、俺の心の支えは、何になるんだろう、探さなきゃ、俺が依存できる何かを。
「じゃあ、またね、透くん」
「うん、またね」
 奈々ちゃんは、栄のキラキラしたホスト街へと消えていった。よく考えたら、俺、奈々ちゃんの秘密も何も知らない。みんな、どんな秘密を抱えているのだろうか。辛いな。苦しいな。
 家に帰っても何も物がない。ご飯を作る気力も、コンビニに行く気力もない。スマホでデリバリーを頼んだ。置き配のそれを玄関まで取りに行く元気もない。でも、何とか元気を振り絞って、玄関まで取りに行った。
 それで、それを食べた。お風呂も入らずに、そのまま眠りについた。
 起きた。10:00。何もやることがない。とりあえず、スマホで動画を見る。でも、30分で飽きる。小説を手に取る。あんまり、内容が入ってこない。ぼーっとする。ぼーっとすると、俺の心は過去のトラウマに支配されてしまう。小学校の頃、よく殴られていた。その時の思い出が、頭をたくさん過る。鞄の中にパソコンを突っ込んで、家を出た。自転車を走らせ、スタバに着いた。スタバで、内申ゲームを書く。全然筆が進まないから、小説家になろーよを開いて、「精神科に通ったらどうなるのか」を書いていく。そこに、たくさんの嫌な思いをぶつける。裏メニューのホワイトホットチョコレートが美味しい。でも、もう、小説を書くことも、飽きてしまった。近くにある本屋さんに行き、漫画を少し買って、またスタバに戻る。で、それを読む。でも、自分の中で、もう働いていないからそんなにお金がないことも知っている。そんな中でマンガなんて買ってもいいのか、っていう疑問が生じる。本当にいいのかって。小説家になろーよのPV数を見た。今日だけで100を超えている。結構たくさんの人が見てくれたんだな。それだけでも心が満たされる。
 漫画、全て読んでしまった。今からやることなんて何もない。かと言って、帰ってベッドの上で横になって、って言っても、何か脳が勝手に考え事をして、落ち込むだけ。だから、小説を書こうと思うんだけど、全然ネタが思い浮かばない。耐えられず、俺はパソコンを閉じて、ホワイトホットチョコレートを飲み干し、それをゴミ箱に捨て、家に帰る道を歩く。その、歩いている間にも、何回か死にたくなる。
 っていうか、ただ生きてるだけでつらいって言うのなら、生きている意味なんて、あるのかな。
 これまではこんなに休みが欲しかったのに、休みがあってもつまんないなら、生きている意味なんて、あんのかな。
 休みがあっても、結局その休みもつらいだけじゃん。仕事をしていたほうがつらいのは確かだけどさ。
 そんなことを思いながら、家に着いた。歯磨きをして、布団に横になる。目を閉じる。たくさんのクレーマーたちの映像が、目の前に浮かび上がる。声が、頭の中で響く。そして、つらいーってなって、布団をぎゅーってする。それで、ネトフリを開いてアニメを見るんだけど、全然集中できない。そのまま、夜が来た。コンビニに行って弁当を買って、お風呂に今日は頑張って入って、布団の中で目を瞑った。でも、眠れない。全然、眠りにつかない。夜だからかな。たくさんのマイナス思考が襲ってくる。ぼーっとする。
 次は四限。でも、四限があるかどうか、思い出せない。
 あ。達也がいる。
「おーい、達也」
「ああ、透」
「なあ、達也。おれ、次の四限があるかどうか、思い出せないんだ」
「そんなのスマホを見ればいいだろ」
「そのスマホがなくなっちゃって……」
「そっか、部室とかにあるかもよ」
 俺たちは、サッカーサークルの部室に行った。
「ほら、スマホあるやん」
 そのスマホに触れた。
 そこは、白い天井だった。横にあるスマートフォン。時計を見ると7:00。さっきのは大学生の頃の夢? 眠れたっぽい。今日は早く起きれたな。早く起きれたところで、何かあるわけでもない。
 マイナス思考が、頭の中を襲う。俺って、生きてる意味あるのかな、死んだ方がいいんじゃないか、って思う。
 一通、連絡が来てる。
 お母さんからだ。
「元気ですか?」
 何を思ったのだろうか。何も考えず、通話ボタンを押していた。
「あ、もしもし透くん?」
「お母さん、俺、うつ病で今休職してるんだ」
「え、そうなの!? じゃあもしよかったらさ、私たちと一緒に住まない?」
 実家は、愛知県長久手市にある。
 名古屋に近く、交通の便もいい。
 おれはスケボーが好きなんだけど、長久手は、栄のど真ん中にある「若宮スケートパーク」にも近い。
「……わかった、考えとく」
 電話を切った。急に、寂しさが込み上げてくる。何とも言えない寂しさ。俺は、布団にくるまる。たくさんのクレーマーの声が降ってくる。心を刺す。耐えられなくなって、今日も、スタバに向かう。その途中、ふと、思い出す。そう言えばおれ、大学生の頃、黎明社の「小説すいせい新人賞」っていうのに応募したよな。それって今でも募集しているのかな。それと同時に、新しい小説の案を思いつく。大学生の夢を見ている社会人っていうテーマで小説を書くのはどうだろうか。タイトルは、「次の四限があるかどうか、思い出せない」。自転車で漕ぐたびに景色が移り変わる。なんかとても心地よい。こういうのを見ていると心が回復していく気がする。
 スタバに着いた。ホワイトホットチョコレートを頼み、カウンター席に座った。小説を書き始めてみた。結構、筆が進む。こういう日は、割と面白いな、なんて思う。
 なんか、1時間もしたら飽きてきた。どんどん、マイナス思考が襲ってくる。耐えられず、片付けてスタバを出た。
 何となく寂しくなって、おれは、奈々ちゃんに連絡した。「今日休みー?」
 家に帰り、布団に寝転がったところで、奈々ちゃんから返信が来た。「休みだよー」
「電話しない?」
「いいよー」
 通話ボタンを押した。
 
 ……
 
 0:00
 
「奈々ちゃん」
「透くーん」
「奈々ちゃん、なんか幸せそうだね、彼氏でもできたー?」
 軽い気持ちで、冗談のつもりで、そう聞いただけだったんだけど。
 
「うん、出来たよ」

「そっ……か。彼氏はどう? かっこいい?」
「可愛い系!」
「そっか……。今日、会いたいなーって、思ったんだけど」
「ちょっと、それはだめかなーって思ってる」
「そっか……」
「でも、生きているならまた、会えるよ。会えるから、大丈夫」
 ……確かに。
 色んな感情が込み上げてくる。
 心に、グサっと刺さった何かは、形を変えて、俺の中に入っていく。
 でも。
 奈々ちゃんの言うことは、確かにそうなんだ。
 生きているなら、会える。
 死にたいけど。
 死んだら、もう、会うことは絶対にない。
 絶対に、ないんだ……。
「何年後になるのかわからないけれど、もし会うことがあったら、その時はまた……やっぱ、何でもない」
「……ありがとう」
 トゥルルン

 通話が終了しました

 それだけでも、生きる理由になるのかな。
 その夜、高校生の頃の友達の飛田から連絡が来た。
「立花ー? 年末会わねー?」
「いいねー、飛田、おれ、死にたいって思うことが多くてさ……」
「そんな……そんなの、嫌だよ……死んだら、会えないじゃん。生きてたら、俺と、年末会えるよ」
「……そうだな」
 誰かに会うため。
 そのために、生きている。
 死んだら、もう、会えなくなるから。
 自分にとっても、友達にとっても。会えなくなるのは、ショックで。昔、彼女と急に連絡が途絶えて会えなくなった時、ショックで。その時のことを思えば、自分は、会える状態にしておかなくちゃ。
 生きる理由。誰かに会うため。それだけで、生きていけばいい。つらいけど。でも。生きていかなければ、会うことはできない。だから、生きていかなければならない。
 それからは、寝て、起きて、16時間過ごして、寝て、起きて、16時間過ごして、の繰り返し。
 俺は、昨日、実家に帰ってきた。
 今、電車に乗っている。スケボーを持ちながら。
 このまま、栄の若宮スケートパークに行く。

 着くとそこは、上手なスケーターばっかりだ。
 朝だというのに、たくさんの人が練習している。
 俺も、オーリーという、ただジャンプする技を練習するのだけれど、これがなかなか出来ない。
 でも、俺以外のスケートパークにいる人たちは全員、楽々にこなしていく。
 おれは、スケートボードがこの中で一番下手だ。
 それだけで、少しだけ、嫌になる。
「……ねえ、お兄さん」
 見ると、高校生くらいの女の子が、俺をみている。
「やっぱり! お兄さん、前もここいたよね!」
「うん、結構前だけど」
「私、話しかけようと思ってたんだ! お兄さん、今何歳?」
「24歳だけど」
「そうなんだ! 私ね、18歳で高校生なの」
「高校生?」
「うん」
「よく来るの?」
「うん、毎日くる」
「毎日!? そうなんだ」
「私ね、スケボーをするために、生きてるから」
 スケボーをするために生きてる。
「ねえ、君。名前は?」
「沙也加。お兄さんは?」
「透。沙也加ちゃんはいつからスケボー始めたの?」
「うーん……5年前くらい!」
「俺も、上手くなれるかな……」
「なれるよ、続けてたら、必ず」
「そっか……」
「また、一緒にすべろ!」
「うん!」
 生きる理由って、たくさん、あるのかな。
 沙也加ちゃんは、スケボーをやるために生きてるって、言ったな。
 俺は、何のために生きてるんだろう。誰かに会うため? スケボーをやるため?
「ねえ、透くん。私ね、スケボーを始めてから、たくさんの友達ができたんだ。それが本当に嬉しいの。透くんが今日友達になってくれたのも、本当に嬉しくてね……」
 ニコッと笑った。
「透くんは、私に必要な存在なんだな、って、思った」
 そう言って、スケボーを滑らせ、オーリーをして、また戻ってきた。
「俺、行くね」
「もう行くの?」
「うん。今から、病院に行かないといけないから」
「何の病院?」
「精神科だよ」
「精神科!? なんで、精神科に通っているの?」
「……死にたいから」
「へ?死にたい……?……嫌だよ、せっかく会えたじゃん、透くん。私、透くんがいなかったら……」
「たくさん友達いるから、いいんじゃない?」
「嫌だよ! 透くんも大切な友達だもん! 大切な友達がいなくなるなんて、嫌だよ!」
「……そっ、か。わかった。死なない。死なないようにするよ」
 俺は、スケボーを持って、手を上げた。
「じゃあね」
「うん! また、会おうね!」
 スケボーを片手に、フェンスを出る。そのまま信号を渡り、少し工事をしている現場を横目に、ビル街をまっすぐ進む。左に曲がると、でかいデパートがいっぱいある通りに出る。そこをどんどん進んでいく。人が多い。街中を歩く時って、少しだけワクワクする。街灯に着いているスピーカーから音楽が聞こえてくる。少し楽しくなってきたから、スケボーを置いて、それに乗った。
 風を切る。ビルや専門店が立ち並ぶ繁華街を滑る。
 その途中で信号があるから、そこを渡り、狭い路地に入る。
 そうすると見えてくる、俺が通っている心療内科。

 受付で番号札を貰う。190番と書いてある。この番号は適当なのかな。いつも規則性のない数字が選ばれている気がする。
 人の多い、広い待合室へと向かう。そこで待っている。どんどんと、死にたい気持ちが強まっていく。
「受付番号190番の方、カウンセリング室へとどうぞ」
「はい」
「今日はスケボーを持っているんですか?」
 カウンセラーの谷口さんがスライド式の扉を閉める。
「そうですね、さっきスケボーをやってきました」
「いいじゃないですか」
「いいですよね」
「はい」
 フフッ、と谷口さんは笑う。
 少し静寂が走る。
「最近の調子はどうですか?」
「……死にたい気持ちが、結構強いです」
「……そうですか。……実行に移そうとかは、したりしましたか?」
「それは、ないです」
「一度死を意識した人は、それから抜け出せなくなることが多いんです。でも、何か壁にぶつかった時に、死ぬ以外の解決策を考えるって、それしか、ないんですよね……」
「そう、ですか……」
「はい……。うーん、難しいですよね……」
「難しい、ですよね……」
 ここから会話が特に進むわけでもなく、30分が経過した。
 次は、診察室に呼ばれる。
「死にたい気持ちが強いので、大きい病院に移ったほうが良さそうですね。大きい病院との繋がりを持っていると、急に自殺したくなった時などにも緊急対応してくれますし。あと、入院の相談もできますしね」
「はい……わかりました」
「休職は、結構、長い時間続けることになると思います。少しずつでいいので、治していきましょう」
「僕って、いつからうつ病にかかっていたんですかね」
「学生時代の就活や、高校時代の経験も相まって、重なって、そうなったのかもしれませんね。いつからかっていうのは、はっきりとはわかりません」
「そうですか」

 中学の友達の雄也と、しゃぶしゃぶを食べに行くことになった。
「雄也」
「おお、透。久しぶり」
「久しぶり。店入ろうぜ」

 しゃぶしゃぶは、久しぶりに食べる。結構、美味しい。
「雄也は今何やってるの?」
「期間工。透は? 日本電機の販売員だっけ」
「だったんだけど……うつ病で、休職してる」
「まじか!」
 雄也がしゃぶしゃぶを茹でる。
「俺のところの会社もそういう人いるわ、うつ病になったとか」
「そうなんだ」
「なんか、辛かったとか?」
「あー、まあクレームとかがね……」
「そっか……」
「毎日死にたいなー、なんて思うようになっちゃって」
「へー、それはやばいな……やめてよ、急に死んだとか」
「わかったよ」
 しゃぶしゃぶはゴマだれにつけると結構美味しい。
「俺さ、小説書いてて」
「小説!? すご!」
「賞とか応募してるんだよね。金は傷病手当をもらって給料の3分の2もらってるけどさ、なんか、一発当てられねーかなーみたいな感じで? ネオニート? みたいな?」
「俺小説めっちゃ好きだよ! うわー透の小説かー、読んでみたいわー、てかしゃぶしゃぶうめー」
「俺最近実家戻ってさー」
「あ、透長久手戻ったの? じゃあ俺とたくさん遊べるじゃん」
「ふっ、そうだね」
 その後も、会話は1時間くらいつきなかった。
「じゃあな、透。楽しかったよ」
「ああ、じゃあな、雄也」
 俺は、家に向かおうとした。
 後ろから、雄也の声が聞こえた。
「透ー!」
「なにー?」
「転職しろよー!」
 涙が、ブワッと込み上げてきそうになった。必死に堪えて、返事した。
「わかったよー!」
 雄也は、俺の病気が簡単に治るって思ってくれているんだろうな。
 連絡が来てる。
「飲みいかね?この年末、明日とか」
 俊太だ。
「明日? うーん、いいよ」
 雄也から連絡が来てる。
「久々に会えてよかった! ネオニート? 満喫しろよ! 元気になったらまた遊ぼーな!」

 4番出口の前で俊太を待つ。栄の街は相変わらず綺麗だ。
「おっす」
「おー! 透! 行こうぜー」
 居酒屋に入って、机に座り、注文をした。
「レモンサワーとビールになります」
 ドン、と置かれた。
「お疲れ」
「うん、お疲れ様」
 乾杯をした。
「透は、今」
「俺は、休職してる。うつ病で」
「マジで?」
 そしたら、俊太がカラカラと笑う。
「まあ、お前死んでたからな。そうかなって、何となく思ってたよ」
「俊太ー。ていうか俺最近さ、生きてる意味あるのかなーとか、死にたいなーとか思ったりするんだよな」
「思い詰めすぎ! 普通の人が思わないこと思ってるよ、お前。仕事頑張りすぎ。どうせお前、学歴高いからさ、プライドも高くて、仕事頑張りすぎたんだろ」
「まあ、確かにそれはあるかも」
「そんなん、ゆるゆるでいいんだよ、ゆるゆるで。死ぬなんて怖いじゃん。嫌じゃん。だから死なない。そんだけ。生きる意味? そんなん見つけていけばいいじゃん、これから。そんだけだよ」
「なるほどね」
 この店はなんかビールがうまい。
「俊太、今日もクラブ行くの?」
 クラブ行くと、たくさんフラれるからメンタルくるんだよな。今日は、呑んだら直帰しようと思ったんだけど……。
「風俗にしようぜ! サクッと抜いてさ」
「風俗かー、ありだな」
「ええやろ! 風俗行こうぜ」

 栄の繁華街の夜道。ネオンライトでたくさんの風俗の看板が光っている。
「いらっしゃいませー、ご予約はされてらっしゃいますか?」
「いや、してないです」
「じゃあ、パネルから好きな子をお選びください」
「じゃあ、僕はこの子で。俊太は?」
「俺はー、この子」
「かしこまりました、お待ちください」
 小さな待合室に案内された。
 テレビと爪切りが置いてある。異様に、ドキドキしてくる。
 少し、俊太の顔が赤い。
「緊張するな」
「そうだな」
 まずは、俊太が呼ばれた。
 俺は、一人ぼっちになった。
 この時の、この感覚。
 1人にされて、寂しい感覚。
 いつも、あるよな。
「お待たせいたしました」
 俺も、呼ばれた。
 ドアを開けると、そこには。
 黒髪ボブで、目がぱっちりしてる、胸の少し大きめな女の子が、高めの声で話しかけてくれた。
「呼んでくれてありがとー、私なつみっていうの、よろしくねー」
 部屋に案内される。
 服を脱いで、シャワーを浴びる。
「何の仕事してるのー?」
「今は、うつ病で休職してる」
「うつ病で休職!? まあ、そっか。お仕事って、合う合わないあるからね。私も、今のこのお仕事は、いろんな人と話せるから楽しいって思えてやってるけど、前の仕事すごい大変だったし」
「前の仕事なんだったの?」
「OL。朝5時まで残らされてたの」
「そっか……」

 1時間くらい経ったのだろうか、俺の腕に、なつみさんが頭を乗せて、2人で寝ている。
「透くんって、可愛いよね」
「そう、かな」
「うん。結構可愛いよ。優しいし、一緒にいて落ち着く」
 そう言えば、奈々ちゃんもおんなじようなこと言ってたな……。
「私、今日このまま上がりたいな。電話が鳴ったらお客さん対応しないといけないんだけどさ。普段だったら、新しいお客さんに会えるってドキドキするんだけど、今日は、今のこの幸せな気持ちで、帰りたいな」
 なつみさんは、フフッ、と笑う。
「透くんは、幸せ?」
 なつみさんの目が、キラキラと輝く。
 
「……うん、幸せ」

「また来てね」
「うん。また、来るね」
「じゃあね、透くん」
「バイバイ、なつみさん」
 
「透ー、どうだった!? 俺の嬢、めっっちゃかわいかった! 超最高だった! 透は? 透は?」
「来て良かったよ」
「そっか! でも、俺、透がいなかったらここ来れなかったし。透、お前がいてくれて良かった」
「……そっか」
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」

 新しい先生は、ボブヘアで茶髪の、少し色っぽい女性の方になった。小田先生という方だ。
「入院のメリットとしてはー、家事をしなくていい、掃除は自分のスペースだけでいい、あとはー、外からの刺激が少ないから落ち着いて生活できる……どう?」
「うーん、確かにいいと思います」
「今週だったらー、木曜日とか? かな?」
「あのー、先生、この病気って、いつになったら治るのでしょうか……?」
「わかりません! そういう病気です」
「そうですか……じゃあ、木曜日からでお願いします」
「はーい、わかりましたー、ここにいるものとか書いてあるから」
 先生にプリントを渡された。

 入院当日、隣のベッドのやつが話しかけてきた。
「なあ、一緒に喋ろーぜ」
「ああ、いいよ」
 俺たちはカーテンを開けた。
「名前なんていうの?」
「透。君は?」
「俺は和希。閉鎖病棟にずっといて、最近開放にきた」
「そうなんだ」
「透は開放から?」
「うん」
「そうなんだ、珍しいね」
 俺を案内してくれる。
 病室を出ると、ホールがあり、真ん中にナースセンターがある。そして、奥へ行くと女性の病棟があり!食堂がある。
 ホールには、大きなテレビと、オセロ、将棋がある。
「ナースセンターに行って、エレベーターカードをもらうんだよ、透の分ももらってあげる」
「そうなんだ、ありがと」
「毎朝9時になるともらえるから、これで貰えばいい」
 ナースセンターの窓の前がカウンターになっていて、そこに2冊のノートが置いてある。
「このノート、片方は男子用で、もう片方は女子用」
 和希がノートを開くと、日付と名前、時間、そして、散歩、と書くところが出てくる。
「ここに日付と名前と時間を書いて、散歩、って書けば、外に出られる」
「マジで?」
「うん。外行こうぜ」
 廊下に出て、エレベーターの方へと向かった。読み取り部分のようなものがある。
「ここにカードをかざすと、エレベーターが来てくれるようになってる」
 エレベーターカードをかざすと、エレベーターが来る。2人で乗って、一階まで降りると、そこはいつもの待合室だった。
「裏口から出れるから」
 外は、都市の裏路地のようなところだった。
「透、タバコ吸うの?」
「いや、吸わんけど」
「そっか」
 和希はライターを取り出し、タバコに火をつけた。
「おれさー、年少入ってたんだよね」
「年少ってなに?」
「少年院。マジできつかった。でも、ここの方が正直きつい。トイレめっちゃ臭いし、ベットクソ狭いし、暇でやることないしね。年少の時はいっつもみんなで麻雀やったり筋トレやったりしとった」
「少年院行ってたんだ」
「まあ、家庭もあんまりだったしな」
「和希は何で精神科で入院することになったの?うつ病とか?」
「それもある」
「俺、うつ病が酷くて入院することになったんだよね」
「うつ病か……これ食って元気だしな」
 和希がクッキーをくれた。
「少し歩くとコンビニあるから。そこで買えばいいよ。彼女さんとかいんの?」
「いないよ」
「いないんかー。なあ、最近ね新しい理学療法士の人が入ってね、その子がデカいんだよマジで」
「まじ?」
「おう、またラジオ体操の時会えるからみや」
「マジか!」
「なあなあ、透は何カップが好きなん?」
「えー、それは言うの恥ずかしいわ」
「いえって、ねえ、何カップが好きなん」
「……おれは、デカければデカいほどいい人だから。Iとか、Jとか?」
「うわー、そっち系かー!俺デカすぎるのも好きじゃないんよねー。Cぐらいかなー」
「おま、さっき巨乳の話してたやん」
「それはそれよ」
「なんそれ!」
 ハハハ、と2人で笑い合った。
 タバコが小さくなる。
「和希何歳?」
「20」
「今年から吸えるのか。透は?」
「24」
「めっちゃ年上やん」
「そうだぞ」
「マジか」
 ホールへと戻った。
「透、将棋できるの?」
「一応できるよ」
「やろうぜ。おれ年少でマジで強かったから」
「マジか! それは燃えるな」
 ホールのど真ん中で、和希は将棋盤を広げた。
 たくさんのお年寄りの人たちが、俺たちの将棋をチラチラと見る。
 俺は、必殺、王手飛車取りを仕掛けた。
「マジかー、でも、俺は」
 和希は王手を交わしながら俺の飛車を取ってきた。
「マジか!」
 戦況は和希が有利になる。
「なあ、透。お前、IとかJの人が裸で来たら、ヤる?」
「ヤる」
「うわ、変態がおる」
「変態じゃねーよ」
 そのまま、和希は詰ませる攻めに移行する。
「よっしゃ、王手ー!」
「うわー、マジか!」
「透、俺さ、今日退院なんだよね」
「……え?」
「もうすぐ迎え来るからさ、それで退院するの」
「そう、なんだ」
「最後の日に透と会えて良かったよ。めっちゃ楽しかった。あー、もう少しいれたらなー、もっと楽しかったのに」
「……そうだな」
「俺木曜日の午前診察だからさ、木曜日に診察室に来てくれたらまた会えるから」
「そっか、また行くよ」
 ナースセンターの窓が開いた。
 男性の眼鏡をかけた看護師さんが顔を出す。
「おーい、和希くん、迎え来たみたいだよ」
「はーい」
 和希は俺の方を向いて、手をグーにして俺に突きつけた。
「じゃあな。最後に、俺は、お前を必要としていた。入院中、マジで暇だったんだぞー」
「へへ、そっか。ありがとな」
 俺たちは、グータッチをした。

 ベッドで横になっていると、女性の声が聞こえてきた。
「立花さーん、立花透さーん」
 カーテンを開けると、そこには小田先生が立っていた。
「あれ、小田先生少し髪切りました?」
「切ってなーい」
「あ、そうですか」
「診察いくよ、ナースセンターきて」
「わかりました」
 ホールに出て、ナースセンターに入った。
「入院始まったけど、どう?」
「なんか、ずーっとベッドにいるから考え事をしてしまいます」
「まあ、そりゃそうなるよね。考え事をするのは当たり前だから、大丈夫だよ」
「そっか、そうですよね」
「入院してるといろんなことがあると思うけど、ストレス下でも行動できるっていう自信につながればいいかな、って、私は思ってるよ」
「入院生活耐えられたから、大丈夫、みたいな、ですか?」
「そうそう」
「でも、たまに死にたいなーとか考えちゃいます」
「ふん、そっか。うーん、死んだら契約とか色々めんどくさいよ? お金とかさ、住んでる場所も事故物件になるし。電車で飛べばいっぱい損害だし。誰にも迷惑かけずに死ぬってなかなかめんどくさいんだよね。死ぬのってね、結構めんどくさいんだよ。死ぬのめんどくさいなー、何で考えたら、死ぬのがめんどくさくなるよ」
「おんなじこと2回言いました?」
「フッ、いちいち突っ込まないでよわかるでしょ言いたいこと。だからねえ、死ぬのがめんどくさいなーって思えばいいのよ」
「なるほど、その考えはなかったですね、あんまり。でも、これから治ったらまた働くことになりますけど、大丈夫ですかね」
「大丈夫だよ。生きてるついでに仕事してるだけだから」
「生きてるついでに……」
「仕事なんてそんなもんだよ」
「そうですよね、でも辛いって思うこともありますよね」
「ある。私もある。まあ、お金もらえるからいいやって思えれば」
「そっか。先生って結構軽く考えてますよね」
「そうかな。まあ、考える必要のないことがほとんどな気がするからねー」
 そういえば、俊太もおんなじような考え方だよな。
「透くんは、結構考えなくてもいいことも、何でもふかーくしっかりと考えるんだよね。意外と、考えなくてもいいってこと多いよ」
「そうなんですか……でも、考えちゃうんですよね」
「あー、自分の意思と関係なく気づいたら考えてるみたいな? そういう時はさ、自分の意思と関係なく考えてるなら、自分じゃない誰かが勝手に考えてるってか思えばいいんじゃない? あ、なんか考えてるなー、俺じゃない人が。なんて考えれば」
「考え事をしてるのは俺じゃない誰か。面白いですね」
「いろんな思考法があるけど、まあ、自分でこの考え方面白いな、って思ったらそれ続けてけばいいと思うよ」
「そうですね」
「じゃあ、元気そうだから診察終わりねー。部屋に戻ってくださーい」
「わかりましたー」
 それからの数日間は、正直地獄だった。ご飯もなかなかだし、トイレにはほぼ確実にう○こがこびりついてるし、お風呂は週2回だし、うめき声とか独り言がずーっと聞こえてくるし。
 退院の3日前。作業療法の時間、塗り絵カレンダー作りの時間に、たまたま隣になった女の子の青木さんが俺に話しかけてくれた。
「いつ退院なんですかー?」
「えーっと、あと3日です」
「あと3日? いいですね! 私はあと1週間です! 今日は、退院までのカレンダーを作るためにこのカレンダー作りに参加したんです」
「そうなんですね」
「立花さんはなんか趣味とかあるんですか?」
「僕は小説書いたりしてます」
「え、そうなんですか!? 私、書店で働いてました! 本めっちゃ好きです! え、何で投稿してるんですか?」
「えっと、小説家になろーよです」
「なろーに投稿してるんですね! あれ結構いいねもらうのとか難しくないですか?」
「はい、なかなか難しくて……」
「私、『ノベマ!』っていうサイトに投稿した小説が短編大賞取ったことありますよ!」
「え! そうなんですか!?」
「はい! 恋愛小説なんですけど、『ノベマ!』すごいおすすめですよ! 面白い小説たくさん投稿されていますし!」
「そうなんですね!」
「後で私の本棚の写真見せてあげますね!」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
 作業療法士の方が前に出てきた。
「はい、これでカレンダー作りは終了となります」

 部屋に戻った。
 さっき、本棚の写真見せてくれるって言ったよな。
 一部屋に三、四人が暮らしてる相部屋。
 女性の病棟は少し行ったところにある。
 青木さんに話しかけようかな……。
 おれは、部屋を出た。
「おー! 立花くんじゃん、元気?」
 通りすがりの看護師さんに話しかけられる。
「は、はい! そうですね」
「元気なら良かったー! じゃあね」
 看護師さんが見回りしてるのか……。
 女性の病棟に回った。
 青木さん、青木さん……あ、あった。
 名前、ある。
 4人部屋だ。
 カーテンが閉まっている。
 廊下を確認する。
 よし、看護師さんいない。
 うわ、待って大丈夫かな。本当に大丈夫かな。
 よし。
「……青木さー……ん」
「は、はい!? 誰、ですか? もしかして立花くん!? はい、はい! 今行きます!」
 カーテンが開いた。
「立花くん! 来てくれてありがとうございます! でもあんまり女性の部屋来ない方がいいですよ、ナース見張ってるんで」
「そうですよね」
「あ、私本いっぱい持ってきたんです、ちょっと待ってくださいね」
 青木さんはベッドに本を取りに行く。
「えっと、こんだけ持ってます!」
 手に余るほどの本を持っている。色々なジャンルの小説が手元に見える。
「で、私の本棚が、これです!」
 見せてくれた携帯の写真は100冊ほどの本がびっしりと詰まった本棚だった。
 すご!
「めっちゃすごいですね」
「いやー、そうでもないですよ」
「そうでもありますよ!」
「私、本読むことが趣味なんです。この入院も、本読むか寝るかぐらいしかやることないじゃないですか。だからたくさん持ち込んでます」
 フフフと青木さんは笑う。
「そうなんですね」
「立花さんは何で名前で小説家やってるんですか?」
「えっと、フラワーです!」
「フラワー……あ、検索したら出てきました! 面白そうな小説多いですね! 読んでみます! わあ! 入院中に小説家の人に出会えるなんて」
「小説家なんてそんな大層な人ではないです」
「いやいや! 大層ですよ! 私、めっちゃ嬉しいです!」
「そっ……か」
 俺って。
 結構たくさんの人に。
 必要と、されているんだな。
 死んでる、場合じゃないよな。

 その夜は、眠れなかった。
 腕時計を見ると、0:00。
 ベッドから起き上がり、病室を出て、ナースセンターに行く。
 コンコン、と、窓を叩く。
 暗いナースセンターの中から、うっすらと、
「はーい」
 という声が聞こえている。
 そして、とことこと、成瀬さんが、歩いてくる。成瀬さんは、俺と同い年の看護師さんで、優しそうな目に茶髪のポニーテールで、声も癒されるようなものを持っている。成瀬さんが、窓を開ける。
「どうしたのー……?」
「成瀬さん……あの、眠れなくて、睡眠薬が欲しいの」
「睡眠薬、ちょっと待ってねー、立花くん、立花くん……あ、あった」
 成瀬さんは、棚から睡眠薬を取り出し、俺に渡す。
「あ、ありがとう……」
「ねえ、今日は、ペルセウス座流星群らしいよ」
「ペルセウス座流星群……」
 成瀬さんは、ナースセンターから出てきた。
 ホールの壁際には、大きな窓がある。
 そこに、2人で歩いていった。
 空を見ると。
 星が、降っていた。
 成瀬さんの、優しい声が聞こえる。
「すごーい……」
「本当に、すごいね……小説のネタになりそう」
 成瀬さんが、こっちを見た。
「立花くん、小説を書いてるの?」
「うん……全然、ダメだけどね。賞レースも落ちるし」
「そっか……。ねえ、立花くんって、何で、精神科に通い始めたの?」
「家電量販店で働いていたんだけどね、酷いパワハラにあってね、だからだよ」
 綺麗な星が、キラっと輝いて、消える。
「……本当に?」
「本当だよ」
「……本当は……?」
「……何で、嘘だってわかったの」
「だって、小説を書いてるって言ったから」
 こっちを笑顔で見た。
「ねえ、教えて。立花くんが、小説を書いてる理由」

 ――大学3年、冬。
「そんな大事な書類があるなら、もっと早くやっておかないと」
「すみません」
 コンビニでモップをかけながら、おれは、茶髪でロング、メガネをかけた先輩に謝った。
「もう、なにしてるの。ミスも多いし。ちゃんと仕事しなさい。エントリーシートが今日の12時までって、今10時で、バイト午後2時まで入ってるんでしょ、じゃあもう諦めなさい」
「わかりました……」
 お客様がレジの前に立つ。
「はい、ありがとうございます。合計で1000円になります」
「クレジットカードで」
「はい、かしこまりました。差し込みお願いします……」

「ありがとうございましたー」
「どうした」
 後ろから太い声が聞こえた。
 金のネックレスをつけた、とても大柄な、それでも少し童顔で可愛い男性のオーナーが立っている。
「立花くん、今日12時締め切りのエントリーシートが出したくて、困ってるんですって」
「そういうのは早めにやっておかないと」
「すみません」
 早めにやったんだけど、全然思いつかなくて、あとちょっとで提出ってところでバイトに入っちゃったんだよ! でも言えない! そんな言い訳!
「じゃあ、ちょっとの間俺やっとくから。それ終わったらすぐ戻れよ」
 怖い顔。だけど、俺のためを思って言ってくれている。
「ありがとうございます、オーナー!」
 俺は、すぐに車に乗り、家に帰った。
 ガチャッ。
 母親がエプロン姿でおたまを持って顔をひょこっとリビングから出した。
「あれ、おかえり。バイトは?」
「今それどころじゃない」
 俺は二階へと駆け上る。

 就職活動。
 どう動いていいかわからなかった。
 たくさん、企業の説明会に参加した。
 もう、50社ほど参加しただろう。
 俺が、目をつけたのはおもちゃ業界だった。
 自分が考えたものが形になる。
 そして、それが誰かを喜ばせられる。
 そんな、何かを形にできる仕事に憧れた。
 おれは、文系だから、モノづくりはできない。
 でも、企画提案は、できる。
 おもちゃ業界に惚れ込んでいた。
 けれど。
 俺は。
 高校生の頃から。
 アニメが、好きだった。
 それはそれは、もう大好きだった。
 元々好きだったわけではない。
 小6の頃までよく見ていて、それから卒業したのだ。
 でも、高校生の剣道部のメンバーが、たくさんのアニメを紹介してくれるうちに、その魅力にハマっていった。
 国公立大学は、長期休みの期間が長い。
 その間、ずーっとアニメを見続けた。
 もちろん、ドラマも、映画も見た。
 漫画も、たくさん読んだ。
 俺にとって、長期休暇は。
 他の世界に入り込んでいる時間だったから。
 次第に、物語の世界にのめり込んでいった。

 そんな時に。
 昨日。
 見つけてしまったんだ。
 ある、「求人」を。
 日本の3代大手出版社、翔陽社、淑徳社そして黎明社。
 その中でも一番の売り上げを誇る翔陽社のエントリーが、今日までだったんだ。
 昨日の昼、見つけたんだ。
 それは。
「ライツ事業部」
 編集部でも、営業部でもない、特殊な部署。
 自社で出版している小説、漫画の、アニメ化、ドラマ化、映画化を進めるという部署だ。
 自分が動かしたい小説や漫画が、アニメになる。映画になる。ドラマになる。
 それを、自分の力で進められる。
 俺は、あの日の感動を思い出した。
 自分の大好きな漫画が、アニメになった瞬間。
 忘れられなかった。
 そう。
 ライツ事業部なら、それができる!

 
 俺の中に、今までなにもなかったおれの中に、一つの小さな光が現れた気がした。

 
 俺は、エントリーシートを昨日書き上げようと思ったのだが、いかんせんこれが長いんだ。
 それで、途中で寝てしまって、気づけば朝の9時半。バイトに遅れてしまう。でも、エントリーシートがまだ残っている!


 そんな展開でも、俺は。
 オーナーに最後のチャンスをもらった!
 昨日書いた紙を、スキャンする!
 コンビニに行って、スキャンする!
 あ、バイト先がコンビニだった!
 サングラスをしてマスクをしたらバレないだろう。
 サングラスとマスクと、USBと車のキーをカバンに詰めて、おれは玄関を速攻で出た。
 それで、再びコンビニに向かい、スキャンをして、速攻で家に戻った。
 
「応募が完了しました」


 ほっ。
 終わった。

 あ。
 バイト、戻らなきゃ!

 俺は、すぐに着替え、車を出した。
「オーナー、本当にありがとうございました! あなたは恩人です!」
「今回だけだからな。ほら、レジ並んでるから次からお前が対応しろ」
「はい、いらっしゃいませ、温めはどうされますか?」
 助かった。
 でも。
 ライツ事業部なんて部署があるなんで全然知らなかった。
 自分が大好きな漫画や小説をアニメに変えられる。
 そんな部署があるなんて。
 営業先は、アニメ制作会社とか、配給会社とか。
 映画化とかも自分で決めて進められる。
 まるで夢のような職業だ。
 夢のような……。
 いや。
 これは。
 夢。
 今までずっと探し続けていた、将来の、夢。
 俺が、羽ばたくべき世界。
 俺が、見るべき世界。
 それが、ここにあるんだ。
 俺は、やっと見つけたんだ。
 そして、エントリーシートを出した。
 俺は、一歩を踏み出したんだ!
 バイトが終わったら、他の会社も調べてみよう。

 いや。
 でも。

 3月1日から就活が解禁される。
 でも、その前から内定をもらってる人はたくさんいる。
 将来の仕事を、探さなければならない。
 そんな状況の中で。
 俺は。
 やっと、夢を見つけた。

 遅すぎたのかもしれない。

 これから、たくさんの企業を受けていかなければならない。
 俺は、まだ就活の本質を知らない。
 就活がどんなものか知らないし、内定が出なくて泣いているようなイメージしかない。
 そんな世界で。

 多分、何百倍もの倍率だよな、出版社って。
 そんなところを、目指してしまっていいのか……?

 そんな疑問が湧いてくる。

「はい、立花くん今日は上がりね」
「ほんと、ご迷惑おかけしました」
「ほんとだよー、これからは気をつけてね」
 先輩はウインクをしてくれた。
 本当に、優しい人たちに囲まれてよかった。
 
――大学三年、2月
「で、どうなったの?」
 つっつーが寿司を食べながら、おれに箸を向ける。
 短髪で高身長のイケメンなのに、行儀が悪いのが少し勿体無い。
「フラれたよ。告白したら、忙しいから、ってさ」
「マジか!」
 少しぽっちゃりとした姿がかわいいかっちゃんが、サーモンを飲み込んで驚きの声を上げる。
「まあでも、好きだったら忙しくても会うからな」
 かっちゃんは、核心をついてくる。
 俺も、この時期忙しいんだ。
 忙しい、はずなんだ。

――大学三年、11月
 大学一年から剣道サークルで仲が良くて、ずっと大好きでいた菜月に告白しようと、菜月を空き教室に誘った。
 本当は、9月に一緒にライブに行く予定だった。
 でも、その計画は、コロナウイルスで崩れ去った。
 そして。
 俺たちは。
 いつの間にか就職活動の波に移っていったのだった。
 俺は。
 菜月を、デートに誘った。
 デートに行かなければ、いきなり告白したら驚いてしまう。
 友達が急に告白してきて、友達関係がなくなってしまうなんてことは、あってはならないのだ。
 でも、菜月から来た返信はこうだった。
「ごめん、忙しいから、来週の木曜日の4時から15分しか、空いてない」
 俺も、忙しい。
 毎日、就活をしている。
 でも。
 俺は。
 彼女が欲しかった。
 だって。
 俺の周りは、彼女を作れって俺に言ってくるから。
 それが、単なるいじりだってわかっていても、自分が彼女を作らなければ、と思い込ませるのには十分な程に、言われていた。
 そして。

「じゃあ、その4限の時間に、C205号室に来て!」
 そう、呼び出したのだ。

 菜月は、少し遅れてやってきた。

「いるー?」

 久々に見る菜月は、おしゃれな黒のワンピースを着ていて、髪の毛は肩までかかり、ずっと茶髪だった髪は黒になっている。
「ライブ、悔しかったよねー、私、本当に行きたかった〜」
「そうだよね、行きたかった」
 ふふ、と笑う菜月。
 ああ。
 菜月と話していると、なんか落ち着くっていうか。
「あの、菜月。おれ、菜月のことが好きです。付き合ってください」
 夕陽に照らされた菜月は、当惑した表情で、俺に言った。
「ほ、ほんと? 私、こういうの初めてだから、ちょっと考えたい! 3日後にまた、連絡するから! じゃあね!」
 そう言って、菜月は出て行った。
 おれは、その場にポン、と尻餅をついた。
 これで、俺の3年間の思いは終りを告げたんだ。
 やっと、言ったんだ。

――大学三年、2月
「最近流行りのアプリでもやって、彼女作りや! 彼女作ると楽しいぞー! エロいこともできるし!」
 つっつーがハハハと笑う。
 つっつーは付き合って5年になる彼女がいる。だから、おれの中では尊敬な存在で、でも、少し嫉妬してしまうくらいの存在で。
「アプリ、か」
 でも、おれは。
 本当は。
 今。
 彼女は。
「おれも彼女作りてーけど告白までも行かねーもん、仲間だな、透」
 ていうか。
「ていうか、2人も彼女とか言ってるけどさ、就活はどうなの?」
 2人は、少し明るい顔をした。
 最初に火蓋を切ったのは、つっつーだった。
「おれは、休学したから」
「休学!?」
「うん。コロナが怖いからさー、この一年でなんかスキルでも磨いて、就職しよかなーなんて思って」
「休学、か……え、かっちゃんは?」
 かっちゃんは右上を見上げる。
「おれは……海外留学に行けなかったからさ、今年。また、一年いけるように、休学をするよ」
「そっか……」
 そっか。
 2月。
 就活の波に飲まれているのは、大学のいつメンのみんなかと思っていた。
 でも。
 俺だけだった。
 だから。
 彼女を作れ、とか言ってくるんだ。
 他にも、浪人している人とかにも、言われた。
 でも。
 菜月は、就活の波に飲まれている。
 就活の恐ろしさを、2人は知らない。
 もちろん、俺も。

 
「透、キャバクラとか行ってそうじゃね?」
 また、剣道サークルの部室で、就活が終わってる先輩からの俺のいじりが始まった。
 でも。
 なんか。
 フラれた後だからかな。
 一つ一つの言葉が、ズキズキと。
 胸に刺さる。
「レンタル彼女とかしてそう!」
 メガネをかけていかにもモテなそうな竹内先輩がそんなことを言ってくる。
「こいつ、金がないからやらないだけで、金があったら風俗とかキャバクラとか行きまくるっすよ」
 情報学部で頭のいい、大学院進学を決めた沼川が、またでっちあげた嘘を先輩たちにバラす。
 もう、やめようかな。
 このサークル。
 左後ろから、小さな声が聞こえる。
 茶髪にショートヘアの、愛衣ちゃんの声。
「そんな先輩、見たくないです」
 淑徳社のエントリーシートの期限が明日の夜まで。
 なのになんで剣道を今してるかって、結局エントリーシートとか書いてる時間ってつらすぎるから、だからこういうふうに剣道に逃げたくなる。
「やー、メーン!」
 沼川が面を打ってくる。
 俺はそれをすっと避けて、胴を打つ。
「ドオオオオオッ!」
 はい、俺の一本。
 所詮はこんなもんだよ。
 キャラではいじられてても、この剣道部の中では一番強い。
 でも、頭から離れない。
 出版社を受ける時にある、文章課題。
 課題作文は、「おれの自慢」。
 俺の自慢について、原稿用紙2枚分、作文しなさいというもの。
 そんなの、わかんない。
 わかんないよ。
 どうしよう。
 どんな作文にしようか。
「メーン!」
 うわ。
 沼川に面取られた。

「どうした、颯太。今日、なんか弱かったじゃん」
 沼川に電車で帰る時に言われた。
 少し笑いながら言ってくるのが腹立つ。
「もしかして、彼女できないから、イライラしてんの?」
「うるせえよ」
「図星かよ」
 はっはっは、と沼川は笑う。
 流石に腹が立ってくる。
「なあ、沼川」
「なんだよ」
「夢と彼女だったら、どっちが重要だと思う?」
 沼川は、車窓を眺める。
「なに言ってんの、お前。小説家気取りかよ」
「俺は今、夢を追いかけてんの。だから、彼女を作ることはできない。じゃあな」

 初めて。

 初めて、言えた。
 夢を、追いかけている、だから彼女ができないって。

 沼川は、電車を降りるおれを、呆然と見つめる。

 それで。
 志望動機と、長所短所、好きな作品とかの項目は埋まっているから、明日の10時までに、課題作文を終わらせなければならない。
 どうしようか。

 俺の自慢、なんて。

 やばい。
 自己肯定感が下がっていることに気がつく。

 地下鉄から地上に上がると、星空が広がっている。
 とても綺麗だ。

 あ。
 メッセージが来ている。
 愛衣ちゃんからだ。
「先輩、みんなの言うことなんて気にしなくていいですからね! 就活、頑張ってください!」
 星空が、少しだけ、目から溢れる水で滲む。
 ああ、そうか。
 俺を応援してくれる人もいるのか。

 俺の自慢。
 それは。
 友達が多いこと。
 星空を眺めて、素直に綺麗だって、思えること。
 剣道が、強いこと。
 あと。
 アニメが、大好きなこと。
 もし、淑徳社に入ってアニメ化をする部署に入ったら、アニメ化をしたい作品がとてもたくさんある。
 あ。
 メールだ。
 翔陽社からだ。
「あなたの希望にそぐわない結果となりました。今後のご活躍をお祈りしています。」
 落ちた。
 俺の夢が。
 光が。
 一つ。
 消えた。

 俺は、帰って、作文を完成させようとペンを手に取った。

 はっ!
 今、何時!?
 9時半!
 やばい!
 やらなきゃ!
 すぐにボールペンを手に取り、作文を一気に書く。
 書けた!
 今から、コンビニに行って、スキャンして……。
 車をすっ飛ばして、すぐにコンビニに向かった。
「いらっしゃいま……あれ、立花くんどうしたの」
「今、エントリーシートが!」
「またギリギリでやってんの」
 思いつかないんだよ、だから!
 カバンから作文用紙を取り出し、コピー機に挟む。
 USBメモリを差し込み、スキャンボタンを押す。
 30円、入れ忘れてた。
 すぐに30円入れて、2枚だから60円だ!
 すぐに60円を入れて、スキャンボタンを押す。
 スキャンができたから、すぐに帰る。
 そして。

 9時50分。
 Wi-Fi環境下である自宅の玄関を開け、パソコンを急いで持って。
 USBを差し込み。
 マイページにアップロードしようとした瞬間。
「アクセスがただいま集中しています」
 え!?
 アクセスが、集中!?
 目から涙が出てきた。
 あと、10分で締め切りなのに。
 もう、大手出版社はほとんどコマが残っていないのに。
 やばい。
 やばい。
 9:55
 9:56
 9:57
 涙が、止まらない。
 アクセスが、できない。
 9:58
 9:59


 
 10:00
「今年度の採用応募受付は終了しました」

「うわあああ!」
 俺は、家で絶叫した。
 妹が階段を降りてくる。
 茶髪の髪を揺らしながら、ダボダボのTシャツにスウェットで、ドタドタと足音を立てながら。
「ねえ、さっきからうるさいんだけど!」

「俺の、俺の夢が、光が、また一つ……」
「うるさい!」

 ああ。
 誰も共感してくれない、このつらさ。
 俺には、もう。
 黎明社しか、残っていない。

 俺は、カフェによく行く。
 よく行くというか、毎日行く。
 バイトで稼いだお金は、ほとんどカフェに使っていると言っても過言ではない。
 2月の下旬。
 インターンも、会社説明会も、就活解禁に迫り、もう佳境だ。
 それでも、俺は、おもちゃメーカーの一社しか、インターンには行けてなかった。
 会社説明会もたくさん参加したけれど、内定につながるものは一つもなかった。
 いわゆる、NNT(無い内定)ってやつ。
 いつまで続くのかな。NNT。
「いらっしゃいませー、ご注文はお決まりでしょうか?」
「コーラでお願いします」
「コーラで、はーい失礼いたします」
 カラト珈琲店。
 窓際の席を、おれはいつも陣取る。
 ここだと、車が通る景色とかも見えて綺麗だから。
 俺は、履歴書とかエントリーシートとかに書きたいから、毎日カフェに来てから30分はTOEICの勉強をする。
 TOEICの試験が、2月28日にあるから、それまでにしっかりと対策をしておかなければならない。
 取るなら、700点。
 まだ、黎明社のエントリーは始まっていない。
 いつ、エントリーが始まるかはわからないけど、それに間に合えば運がいいし、間に合わなくても、面接でTOEIC700点とりました、と話せればそれだけでも強みだ。
 でも、俺にとって、英語はそれだけの強みでは無い。
 海外留学に、2年生の時、行ったのだ。
 夏休み、短期で。
 その時に、衝撃の出来事が起こった。
 たくさんの国籍が集まる語学学校のみんなで、ロンドンの市街に遊びに行く時。
 なんと、アニメの話題で盛り上がったのだ。

 俺は、それを鮮明に覚えている。
 もし、おれがライツ事業部に受かれば、その、語学学校で友達になった外国人のみんなにも、素晴らしいアニメを届けることができる。
 日本中だけでなく、世界中にアニメを届けることができる。
 そんな、憧れの仕事が、そこにはある。
 だから、TOEICの対策をする。

 その後は、自動車メーカーがインターンを募集しているから、それに応募する。
 志望動機、自分の長所短所、学生時代に頑張ったこと。
 毎回書いているけれど、とても大変で。
 コピペもなかなか難しく、とても大変。
 他にも、家電メーカーや、商社。
 業界を絞れって言われても、なかなか難しくて。
 だから俺は、たくさん受けようと思っている。
 俺は、大学生活で、悔しいことがたくさんあった。
 主に、彼女が作れなかったこと。
 でも、大きないい企業から内定貰えば、みんな黙るでしょう、なんて思っている俺がいる。
 本当は。
 でも、本当は。
 ライツ事業部に行きたい。
 心から、そう、願っている。
 

2月27日
 自動車メーカーのインターンは、予想通り、落ちた。
「なんだよー、また寿司屋に呼び出して」
 つっつーが、手を頭の上に持っていきながら話す。
「そうだよー、俺たちも忙しいんだよー、まあ、透に呼ばれちゃ、くるっきゃ無いけど」
 へへ、とかっちゃんは笑う。
「俺、お前らに伝えたいことがあって、というか、相談したいことがあって」
 つっつーは、手を机の上に置く。
 俺は。
 あの日。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ。
 傷ついてしまった。
 でも。
 つっつーと、かっちゃんとは。
 もっとずっと、友達でいたい。
 そう、思っているんだ。
「ねえ、つっつー、かっちゃん。俺はさ、今、就職活動で忙しいから、彼女とか、本当は作る暇、無いんだ」
 かっちゃんが、ぽかんとする。
「え、でも、前告ったって……」
「その時はまだ、こんなに内定が出ないなんて思ってなかったんだ。でも、エントリーシートを毎日書いて、それがほとんど落ちて。恋愛なんて、おれも、本当は、忙しくてできないんだよ。だから、彼女を作れ、とかっていうのは、言わないでほしいし、前、言われたこと、ちょっと傷ついちゃったかも……」
 そこまで話して、俺は、俯いてしまった。
「顔を上げろよ」
 つっつーが、そう言ってくれた。
 顔を上げた先には、つっつーとかっちゃん。
 つっつーが、口を開く。
「ごめんな、俺、知らずに傷つけてしまってたんだな。おれ、ずっと透と友達でいたいし、就職活動、応援するよ」
 かっちゃんが、少し俯く。
「おれも、ごめん。全然、透の気持ちに気づけてあげられなくて。で、透は、どういう仕事に就きたいって思っているの?」
 そうか。
 その質問が、くるのか。
 おれに与えられたチャンスは、あと一回。
 それでも。
 ここで。
 言うのか。
 いや。
 大丈夫。
 2人なら、受け入れてくれるはず。
「漫画とか小説とかを、アニメとか映画、ドラマにする、ライツ事業部って言う部署が、出版社にはあってね。それを、目指してる」
 つっつーが腕を組む。
「メディア化ってこと?」
「そう」
 かっちゃんが、少し間を置いた後に、目を見開き、口を開く。
「めっちゃいいじゃん! 俺、好きな漫画がアニメになった時、最高の気分なんだよ! でも、そんな部署があるなんて知らなかったし! めっちゃいいじゃん!」
 つっつーは、腕を組みながら話す。
「確かに、面白そうだよね」
「2人とも、共感してくれるのか……?」
「ああ!」
「当たり前よ!」
 よかったー!
 2人が、おれの夢を素晴らしいって言ってくれて。
「おれ、夢なんだよね。そう言う仕事に就くの」
 かっちゃんが、俺の目をじっと見つめる。
「夢は、でかいほうがいい。本当にでかい方がいい。俺も、お前とおんなじように、でっかい夢があるからよ」
「……そっか!」
「ああ! 当たり前よ!」
 おれ、2人と友達で、良かった。
「明日、TOEICを受けに行くんだ」
 そう言うと、かっちゃんが、え、って言う顔をする。
「俺も、TOEIC受けるよ!」
「え、マジで!?」

2月28日
 TOEIC試験当日。
 ザァザァぶりの雨。
「まさか、おんなじ日にTOEICとはな」
「ああ。頑張ろう」
 俺とかっちゃんは、名古屋駅を出て、裏の方に向かった。
 名古屋駅の裏の建物で、TOEICが開催されるらしいから。
 結構並んでいた。
 みんな、就活前だから、焦っているのかもしれない。
 試験会場に、時間になると案内された。
 コロナ禍だったからだろうか。
 こんなに人が一つの部屋に集まっているところ、久々に見た気がする。
「始めてください」
 おれは、問題用紙を開いた。
 まずはリスニング試験。

 まずまず、できた気がする。
 次に筆記試験に移る。
 文法問題がたくさん並んでいる。
 周りから、カッカッと鉛筆でマークする音が聞こえてくる。
 文法は、大事だけど時間勝負だから、サーっと解いていかないといけない。
 でも、この日のために文法の参考書を一冊終わらせておいたから、ここは楽勝……。
 一問、わからない問題があった。
 そこは飛ばせば、大丈夫。
 ザーッと解いていった。

 ふう。
 全部。
 全部、解き終わった!
 TOEIC全部解き終わるの、初めてだから。
 めっちゃ、嬉しかった。

「なあ、かっちゃん、俺、全部解けたよ!」
「は、まじ? 今回むずくなかった? お前すげえな! マジでライツ事業部受かっちゃうんじゃないか?」
「そう、だといいけどな。おれ、今夜、新しい剣道サークルの部長に、引き継ぎ事項を伝えないといけなくて」
 そう。
 今日の夜。
 俺は。
 愛衣ちゃんと、夕食に行く。
 愛衣ちゃんは、剣道サークルの次期部長だから、現部長のおれが、引き継ぎをしないといけない。
「ああ、そうなんだ。とりあえず、飯いこうぜ」
 俺とかっちゃんは、昼飯に向かった。
「は、女?」
「うん、女の子」
「それ、デートじゃん」
「かっちゃん、俺、恋愛もうしないって……」
 かっちゃんは、席を乗り出しそうになって言った。
「お前、俺なんて出会い無いんだぞ! 一つ一つ、大切にしていかなきゃ!」
 そんなこと、言われても。
 俺には、時間がない。
 忙しいから、とフラれたのが頭をよぎる。
 でも。
 かっちゃんの、忙しくても会うからな、好きなら、って言う言葉も、頭をよぎった。
 それでも。
 本当に。
 忙しいから、フッたんだと思う。
 俺は。
 そう思う。
「なあ、かっちゃん。就活、大変なんだよ。本当に、大変なんだよ」
「そっか。そうだったよな。ごめん、俺としたことが」

 その夜。
 名古屋駅の金時計からエスカレーターを上がったところに、愛衣ちゃんは立っていた。
「愛衣ちゃん!」
「先輩! ご飯食べに行きましょ!」
 愛衣ちゃんは、俺と肩が触れるか触れないかくらいの距離感で、歩き始める。
「どこに行きましょうね、私、今日ステーキが食べたいです!」
「いいね、ステーキ!」

「コロナウイルスで、時間が止まっていたので……先輩は、どこの会社受けるんですか?」
「漫画とか、小説とかを、アニメ化とか、映画化、ドラマ化する部署受けようかな、なんて思って」
 ステーキを食べながら、うー! と、目を丸くしながら音を発すると、愛衣ちゃんは、口の中のステーキを飲み込み、話し出した。
「いいじゃないですか! 私、ドラマとかアニメとかめちゃくちゃ好きです!」
 そういう時の仕草が、可愛いって思ってしまう。
 やっぱり。
 俺は、まだ。
 大学生で。
 恋愛。したいよ。
 本当の本当は、恋愛したいよ。
 もしかしたら、菜月もそういう想いだったのかもしれない。
 だから、少し悩ませて欲しいって、言ったのかもしれない。
 本当に。
 それだけ、目指す価値があるものなのかな。
 ライツ事業部。
 恋愛しながら、両立とか、できないのかな。
「先輩、ステーキ冷めちゃいますよ」
「あ、ああ」
 食べ終わると、名古屋駅の夜景がとても綺麗なスポットに偶然出た。
「先輩、夜景綺麗ですね」
「うん、綺麗だね」
「ちょっと、一緒に眺めません?」
「うん」
 沈黙が走る。
 俺は、多分ここで告白をするべきなんだろう。
 でも。
 できない。
 前、フラれた経験と。
 そして。
 就職活動が忙しいってことで。
 そのまま、会話がないまま、5分くらいが経った。
「帰りましょうか」
 言われてしまった。
「……帰ろ」
 2人で、階段を降りて、改札をくぐった。
「じゃあ、先輩、ありがとうございました」
「ありがとう」
 ああ。
 もう。
 遊んでくれないんだろうな。
 そんなことを思いながら。
 俺は。
 電車に、乗った。
 
 はっ!
 目が覚めると、3月2日だった。
 あれ、3月1日は?
 夜の闇に、消えていったみたいだ。
 俺は、すぐにスーツに着替え、カバンを背負い、ポートメッセなごやへと向かった。
 ポートメッセでは、就活解禁と同時に行われる大きな合同企業説明会が開かれていた。
 俺は。
 最寄駅で降りて、気づいた。
 みんな、手持ちかばんだ!
 俺だけ、ナップサックだ!
 俺は、気づかなかった。
 説明会もインターンも、全部オンラインだったし。
 カバンを、買わないといけないことに。
 気づいて、いなかったのだ。
 でも、そんなこと今言ってももう遅い。
 すぐに、ポートメッセなごやへと向かった。
 ポートメッセなごやに着くと、QRコードの提示を求められた。
 俺は、即座にアプリのQRコードを提示して、ゲートを入った。
 そこには。
 とてもたくさんのブースが、並んでいた。
 金融業界、建築業界、商社、メーカー、小売。
 そこに、出版のブースはなかった。
 まあ、そうか。
 そうだよな。
 でも。
 NNTで卒業だけは、絶対にしたくない。
 まず。
 金融業界の、保険会社に向かった。
「第日本保険では、日本人の生命保険の60%のシェアを占めています……」
 眠くなってくる。そんなこと、思っちゃいけないけど。
 でも。
 自分が興味のない業界って、こんなにも。
 つまらないんだな、って、思い知らされる。
 結局、何の成果も得られず、合同説明会を終えた。

3月17日
 朝7時の名古屋駅は、すごくガヤガヤしている。
 俺は今、月島先輩のところに向かっている。
 今日は、サッカーサークルの大会。
 俺は、剣道サークル以外に、サッカーサークルにも入っている。
 それで、そのサッカーサークルの大会が、今日ある。
「先輩、来てくださいよ!人数足りないんすよ!」
 就活が忙しかったけど、人数が10人しかいないって言うことを聞いて、流石に助けてあげようと思った。
 イケメンで話題の月島先輩の車に同じ学科で金髪の悠人と乗り、3人で奈良県まで向かう。
 悠人が、スマホを触りながら俺に問いかける。
「お前、何社受けた?」
「俺、10社」
「どうだった?」
「全落ち」
「だよなー。俺も、そんな感じ」
 悠人は、スマホから俺の方に目を向け、そう答える。
「え、月島先輩。月島先輩は何社くらい受けたんすか?」
「30社」
「30社っすか」
 俺は、月島先輩と悠人の会話を、眠いながら、朧げながら聴いている。
「30社って、多い方なんすか」
「ああ、別にそんなこともないよ」
「え、俺10社受けて全部落ちたんすけど、このままでもいいんすかね」
「まあ、いんじゃね。2次選考とかあるし」
「2次選考って、大体の会社であるんすか」
「うん、ある。だから、みんな内定が決まるのが5月くらいかな」
「そうなんすね」
「ねえ、悠人」
「なに」
 サッカー好きで陽キャの2人に、相談をしたら、なんで帰ってくるんだろう。
「俺、彼女作らないで就活頑張ってるんだけど、彼女って、本当に作らないほうがいいのかな」
 悠人は、窓を見ながら答える。
「うーん、俺は彼女いるけどさほど影響はないかな。それより、彼女できるまでに遊んどいた方がいいよ。クラブに行くとかして」
 前から先輩の声が聞こえる。
「それか、アプリで手当たり次第当たってみて女遊びをするとか」
 そっか。
 そんな、軽く考えちゃっていいんだ。
 てか、別に。
 この人たちの中では、彼女がいるとかいないとかって、そんなに大きな問題ではない。
 彼女がいなかったら女遊びができる。それくらいの価値観でいるんだ。
 その価値観を持てば、俺は、楽なんじゃないか?
 そんなことを、思った。
 サッカーの試合は午前中に終わってしまい、午後からは旅館で過ごすことになった。
 旅館では、やっぱり月島先輩と悠人と3人の部屋だった。
「俺、SPIの勉強するから」
 そう言って、悠人は、SPIの問題集を取り出した。
「俺アニメ見るー」
 月島先輩は、アニメを見始めた。
 こういう、旅館の中ではゆっくりと過ごすって言うのも、なんか、サッカーサークルって感じがする。
 ふと。
 黎明社のホームページを開いた。
「エントリーシート、締め切り3月19日まで」
 え。
 始まってる。
 やばい。
 始まってる。
 エントリーシートを開いた。
 あなたの志望分野はなんですか、それに対する志望動機を書いてください(200)
 あなたの性格を書いてください(200)
 あなたの好きな本をあげ、その感想を書いてください(200)
 あなたの好きな、弊社が運営するコンテンツを一つ挙げ、その評価をしてください(200)
 あなたが学生時代に頑張ったことを書いてください(200)
 エントリーシートは以上です。もう一つ、課題作文を提出してください。
 課題作文「なんで!?」

 課題作文は、原稿用紙2枚分だった。
 時間がある。
 悠人も、SPIの勉強をしている。
 集中、できる。
 今のうちに、やってしまおう、全て。
 これは、チャンスじゃないか?
 このタイミングで、黎明社のエントリーが来たの。
 チャンスじゃ、ないか!?
 今日中に、完成させてやる。
 絶対に。
 志望する部署は、ライツ事業部でしょう。志望動機は、海外留学に行った時に海外の人が日本のアニメを見て……。
 どんどん、書き進めていった。
「なあ、悠人」
「なに」
「俺さ、菜月って人に、忙しいからって、フラれて」
「ああ、そうなんだ」
「もしかしたら、俺も忙しいって伝えたら、付き合えたのかな」
「うーん」
 悠人は、SPIを解く手を止めた。
「多分、その人は、透だったとしても、透じゃなかったとしても、フっていたと思う。多分、忙しかったんだよ。だから、気にしなくていいよ」
「そっか」
「それに」
 悠人は、おれの肩を組んだ。
「お前は、今、目指してる企業があるんじゃないの?」
「なんで、それを」
「かっちゃんから聞いたよ」
「そっか」
「その企業の選考を、最優先にすればいいんじゃない、夢なんだろ、お前の」
「……ああ」
「俺も、一つ、大きな夢があるからさ」
「大きな夢って?」
「スポーツメーカーに入って、スパイクを企画する。それで、プロの選手に使ってもらうんだよ。でも、結構落ちちゃったから、後1社しか残ってないんだけどな」
 俺と、同じ状況だ。
「そっか」
 気にしなくても、いいんだ。
 なんか。
 俺の中のモヤモヤが。
 一気に、スッキリした気がする。
 
 TOEICの結果が帰ってきた。
 結果は、730点。
 まずまずの出来だ。
 目標の700点を超えられて、よかった。

4月2日
 俺は、妹と家具屋さんに遊びに来ていた。
「私、このベッド欲しいんだよねー」
 妹が、ベッドを手でボンボンと押しながら、口を動かす。
「あー、ふかふか、いいなー」
 スマホにスッと目を向けた。
 すると。
「あ、メールがいっぱい来てる」
「たくさんエントリーしたからじゃない?」
「そうかも」
 ちょっと開いてみた。
「この度は、貴殿の希望にそぐわない結果となりました。いい企業と出会えることを、お祈りしています」
「お祈りしています」
「お祈りしています」
「お祈りしています」
「お祈りしています」

「……お祈りメールばっかだ」
「あっ……そっか」
「あ、でも」

「この度は、黎明社にエントリーいただきましてありがとうございました。つきましては、次回選考に進んでいただきたく、連絡を差し上げております」

 受かった!
 黎明社! 書類が!
 通った!
「ねえ! 黎明社の書類が通ったよ!」
 妹は、目を丸くしながら俺の方を見た。
「おお! よかったじゃん!」
「うん!」
 手を、グッてやってる。
「出版社、受けてたもんね!」
「うん! めっちゃ嬉しい!」

「つきましては、4月の4日までにテストを受験いただきたく思います」
 テストを受験、か。
 俺は、家に帰って、すぐにテストを受けた。
 意外と、簡単な問題だった。
 と、思った。
 最後の10秒。
 俺は、気づいてしまった。
 問題を、読み間違えていることに。
「誤っているものを選びなさい」
 全て、合っているものを選んでしまっている……!
 ミスった!
 もう、戻せない!
 時間が、きてしまった。
 ああ。
 もう。
 出版社の夢は。
 ここで。
 終わった。
 大学は広い。
 広いから、行ったこともない部屋がたくさんある。
 その中でも、この部屋は。
 俺は、絶対、4年間で、縁がない部屋だと思っていた。
 でも。
 俺は。
 4月15日の今日。
 予約をして。
 来てしまった。
「こんにちは。学生相談室の、川田です」
 川田さんは、少し大きな丸メガネをかけ、二十代後半くらいの女性だった。
「こんにちは、国際学科の立花透です」
「今日は、どんな相談事があって来たんですか?」
「はい。僕は、やりたいことっていうのが、見つかったんです。それは、小説とか漫画を、アニメとか映画、ドラマにする、出版社の部署、『ライツ事業部』っていうところで働くことなんです」
「はい」
「なんですけど、3大出版社に落ちてしまいまして」
「3大出版社以外にまだ選考やっているところはないの?」
「はい、実は、3大出版社以外にも出版社受けてたんですけど、全部落ちてしまって。もう、出版社で残っている選考は、無いんです」
「そっか。夢が破れてしまったってことだね」
「そうなんです。しかも、今まだ内定がなくて、とても悩んでいます」
「そっかそっか。うーん、つらいねえ。内定がないの」
 川田さんは、淡々と喋っていく。
 カウンセリングって、こんな感じなんだ。
「でも、夢が叶わなかったとしても、幸せになる方法はたくさんあるから」
「彼女を作るとかですか?」
 川田さんは、俺の目をじっとみた。
「それで、悩んでいたのね。別に、彼女を作らなくたって、幸せって思える方法、たくさんあるよ。夢が叶わなくたって、幸せって思える方法、たくさんあるよ。例えば、美味しいものを食べるとか、テーマパークに旅行に行くとか。そんな簡単なことでいいから、幸せって思えることを、今から、増やしていけばいいんじゃないかな」
「そう、ですか。でも、すごくショックなんです。夢が破れたことについて」
「そっかそっか。ショックだよね」
「でも、内定がないから、就職活動は続けていかなければいけないんです。それもそれで、とても辛くて」
「そっかそっか。実際さ、大学を出て社会人になったら幸せが逃げていく、って思ってる人たくさんいるんだけどさ、そんなことなくてさ。お金がたくさん入るから、それで、色々なものが買えるし、そこでやりがいを見つけて、幸せって思えるかもしれないよ」
「……確かに、そうですよね」
 おれは、満面の笑みでそう返答した。
「夢が叶わなくたって、幸せは手にできる。手に、できる……」
 目から。
 涙が。
 止まらなかった。
「うんうん。今は、たくさん泣いていいんだよ。悔しいよね。わかるよ。今はたくさん泣いて、気持ちを整理することが大事だから」
「……でも、たまに死にたくなって……俺の努力は、全て無駄だったんじゃないか、って、思って……この前、ドライヤーのコンセントでロープを作って、それをカーテンレールに引っ掛けて……」
「……ちょっと待って」
 顔を抑える手を広げた。
「……はい?」
「……そこまで行くと、私じゃ、どうにもできないかもしれない……。ちょっと、5分くらい待ってて」
 川田さんは、自分のデスクに移動し、パソコンを立ち上げた。カタカタと高速でタイピングする。
 5分後。一枚の紙が、プリンターから出てきた。川田さんはそれを封筒に入れる。そして、俺のところに来た。
「立花くん。これは、精神科への紹介状。できれば、すぐにでもこれを持って、どこでもいいから行きやすい精神科の病院にに行ってほしい」
「……就活が忙しくて、行けません」
「……そうか、わかったわ。じゃあ、お守り代わりに持ってて。……もし、もう一度自殺したくなったら、すぐに行くんだよ。わかった?」
「……わかりました。失礼します」
 俺は、涙を拭いて、学生相談室を後にした。そしてその足で、キャリア支援室へと向かった。
 ここも、初めての部屋だった。
「あのー」
「はい」
「ずっと自分1人でやっていたんですけど、内定が出なくて……」
「あの、その前に、自己紹介をしようと思います。私、相談員の藤本、と申します。よろしくお願いします」
 藤本さんは、メガネをくいっとあげながら、そう自己紹介をした。
「あ、そうですね。僕も、自己紹介をしないと。国際学部の、立花透です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。立花くんは、今まで、どんな業界を受けてきたんですか?」
「自動車メーカー、おもちゃ業界、そして、出版です」
「あー、そうですか。どれも倍率が高い業界だね。これからは、もっと内定が確実に取れるところを受けていかないといけないね」
「でも、興味のない業界は、つまらなかったりするんじゃないですかね」
「そんなこと、ないよ。入ってみて、楽しいとか、思えることの方が多かったりもするから。ほら、うちの学校にも求人が来ている。ここなんか、どうだ。藤丸鉄鋼。ここだったら、愛知県の会社で、家から通えて、休日も126日あって、条件はいいと思うけどね」
 藤本さんは、ニヤリと笑った。
「……そう、ですよね、内定、取りに行かないといけないですよね」
「うん。そうだね、もうこの時期、大手企業も採用を終わらせてることが多いから。内定を取りにいかないと。この、藤丸鉄鋼は、エントリーシートの期限が明後日だから、ちょっと早めにやらないといけないけど、それでも、学校に求人が来ているくらいだから、内定は取りやすいと思うよ」
「そうですか」
 その後、藤丸鉄鋼の対策の話を15分ほどした。
「今日のところは、時間になっちゃったから、これで面談終わりね」
「わかりました。受けてみます、藤丸鉄鋼。ありがとうございました」

 次の日。
 エントリーシートがなかなか手につかない。
 気づけば午後5時になっていた。
 今は、授業は、ゼミのみ。だから、こんなこともザラなのだ。
 でも。
 今日は。
 サッカーサークルがある。
 でも。
 藤丸鉄鋼のエントリーシートをやらなきゃ。
 サッカーサークルなんて、行っている場合じゃない。
 でも。でも。
 耐えられない。
 俺は。
 胸の痛みと闘いながらエントリーシートを書くくらいなら、サッカーサークルに行くことを選択する。
 そう思って、車を走らせ、高速道路で大学へと向かった。
「おお、透。大会以来じゃん」
「悠人」
「どうした?サークル来るの、めんどくさかった?」
 悠人が、スパイクを結びながら、笑う。
「いや、最近、ちょっと辛くて。」
「そっか」
 悠人は立ち上がり、つま先を床にトントンとして、スパイクを足にはめた。
「悠人はさ、スポーツメーカー、どうなったの?」
「全落ち。内定は人材業界から出たから、そこに入ろうと思う」
「そっか」
「でも、営業成績を上げれば幸せだと思うし。おれはそれでいいと思うんだよ」
 そう言って、悠人はサッカーをしに出ていった。
 俺も、すぐに着替えて、グラウンドに出た。
 たくさん走り回ってサッカーをしたら案外楽しくて。
 夢とか、恋とか、そういうの全て忘れられるくらい楽しくて。
 やっぱ、俺、サッカーが好きだ。
 そう、考えた時。
 俺。
 は。
 思い出した。

『センパーイ、僕の好きなこのサッカー漫画、ペルセウス座の流星っていう漫画なんですけど、アニメ化しますかねー』

 あの、ペルセウス座の流星が。

『パスが渡ったー! それを、五十嵐がシュート! 決まったあああ!』
 おれの、大好きなマンガが。
 アニメ化した瞬間を。

 ……何か、方法はないのか。
 まだ、何か方法はないのか。
 
 サークルが終わった後、ご飯に行くことになった。
 そこでは、とても盛り上がり、楽しかった。
 帰り、おれは悠人を送っていった。
「なあ、楽しかったか? 透」
「うん、楽しかった」
「……透。就活、人と会わなかったら、死ぬぞ」
 
 中学の友達であり、別の大学に通っている俊太からメッセージが届いている。
「なあ、合説いかね? 今度」
 合同説明会。
 友達と一緒に行ったことはなかったかもしれない。
「いいね。行こ」
「うん」
 藤丸鉄鋼のエントリーシートは、ギリギリで提出し終わった。

 5月30日、藤丸鉄鋼から、連絡が来た。
「貴殿の希望にそぐわない結果となりました。いい企業に出会えることをお祈りしています」

 落ちた。
 落ちた。
 落ちてしまった。
 藤丸鉄鋼も。
「どうした」
 車の中で。
 おれは。
 その合否の判定を見てしまった。
 隣には、俊太がいる。
 スーツ姿の俊太が、車を運転している。
 だから、泣いちゃだめだ。
 こんなに。
「なあ、俊太」
「ん?」
「就活って、病むよな」
「病む。俺も、めっちゃ病んでるもん」
「だよね」
「今日の合同説明会で、いい企業が見つかるといいね」
「そうだね」
 おれは。
 その合同説明会で。
 いい出会いをして。
 日本電機という企業から内定を頂いた。
 日本電機は、日本で有名な家電量販店。

 ここに入れば、将来安泰。
 じゃあ。
 もう。
 就活。
 終わりで。
 いいかな。
 そう、思った。
 俊太からメッセージだ。
「今度、フットサル行かね?」
 名古屋駅から徒歩15分くらいの所にある個人参加のフットサル場。
 1100円払って申し込めば、チームを組んでくれて、ローテーションでフットサルができる。いわゆる、個人フットサル、「個サル」。

「いやー、疲れるなぁ」
「ああ、結構疲れる」
 俊太は、イケメンな顔にダラダラ垂らした汗をタオルで拭きながら、そう言う。
 梅雨の前のこの時期は、スポーツをしたら何かと暑い。
 
「なあ、俊太、俺たち就活終わったじゃんか」
「うん」
「このままでいいんかなって、たまに思うんよね」
「このままで、って?」
「いや、なんだろう……やっぱ、なんでもない」

 俺は、それからバイトにも明け暮れた。
「立花くん、就活は終わったの?」
「ああ、終わりました」
「どこになったの?」
「日本電機です」
「あー、日本電機ね。私昨日行ったわ」
「ほんとですか?」
「うん。行った」
「そうですか……ちょっと、レジ行きます」
「う、うん」
「いらっしゃいませー、1,000円になります、ちょうどお預かりします、ありがとうございましたー」
 先輩は、俺のレジの動きをじーっと見つめて、パチパチと手を叩いた。
「おー、手際良くなったね」
「これぐらい、お手のもんっす」
「じゃあ、大学卒業まで、もう就活終わったし、バイト漬けって感じ?」
「うーん、就活、これで終わっていいのかって、迷っているところあるんですよね」
「あ、そうなんだ」
 これで、終わっていいのか。
 確かに、幸せは掴める。
 どんな方法であっても、幸せは掴める。
 でも。
 夢は。
 叶わなかった。
 叶わなかった夢のことを考えても仕方がないけど。
 でも、確かに夢は。
 叶わなかったんだ。
 俺は、6月、7月と、バイト、サークルに明け暮れた。
 もう、好きな人とも付き合えない。
 おれの大学生活は、これで終わったんだ。
 将来は、大手企業に入って、食いっぱぐれることはない。
 全然、いいじゃないか。
 普通の、大学生活。
 7月の終わり。
 一通のメールが、おれのスマートフォンを鳴らした
「テレビ・ムーン 後期採用のご案内」
 俺のスマートフォンを鳴らしたのは、そんな文面だった。
 テレビ・ムーンは、一応エントリーしてすぐに落ちたテレビ局だった。
 みんながテレビ局受けるからってノリで、受けたようなものだった。
 だから、連絡が来た。
「テレビ・ムーンは、クリエイター部門を募集します。クリエイター部門は、番組を制作・企画・編集する部門です。バラエティ事業部、ドラマ事業部、アニメ事業部から志望する分野をお選びください。エントリーシート締め切りは、8月12日までです」
『アニメ事業部』
 俺は、すぐにアニメ事業部についてスマートフォンで検索した。
・アニメ事業部
 出版社、アニメ制作会社が取引先となります。どの小説や漫画の作品をアニメ化するのかを話し合って決めていただき、アニメ化が決定すれば「製作委員会」を立ち上げ、そのアニメの製作に携わっていただきます。
『どの小説や漫画の作品をアニメ化するのかを話し合って決めていただき』
 ……これだ!
 テレビ局の、アニメ事業部!
 この、テレビ・ムーンのクリエイター部門に受かれば、将来的にアニメ化をする部署に、行ける可能性がある!
 そうか!
 テレビ局も製作委員会の一員だから、アニメプロデューサーになるのか!
 そうじゃん!
 じゃあ!
 受けるしかないじゃん!
 エントリーシートの画面を開いた。
 内定先について教えてください(80)
 志望する分野を教えてください
 テレビ・ムーンを志望する理由と入社後にやりたいことをお書きください(200〜350)
 あなたのこれまでの人生で、「最大の挑戦」について教えてください(300〜400)
 クリエイター部門課題①「リアルタイムで見てしまう番組」タイトル(30)
 テレビを普段見ないような人が思わず見てしまう番組のタイトルを30字以内で書いてください。
 その企画内容をお書きください。(400)
 400字!?
 いいだろう。
 やってやるよ。
 リアルタイムで、見てしまう番組だろう。

 おれは、8月に入ってから、毎日図書館に通い、この「テレビ・ムーン」の企業研究をした。
 そして、キャリア支援室にも駆け込んだ。
「藤本さん! テレビ局が再募集しています! 僕、ここ受けたいです!」
「まあまあ、落ち着いて」
 リアルタイムで見てしまう番組。
 おれが失敗してきたこと。
 恋愛。
 恋愛、しか思いつかない
 モテないし。
 どうすればいいかわからないし。
 勇気が出ないし。
 恋愛コンサルタントでもついていれば……。

 それだ!
 
 タイトルは、「こんな僕だけど、好きになってくれますか」
 今まで、イケメンだったのになぜかモテなかった人たちを集めて、その一人一人に恋愛コンサルタントがつく。
 それで、本当にモテるようになるのか、っていう恋愛番組!
 絶対、ウケるんじゃないか!?
 それで悩んでる人多いし!
 リアルタイムで見たくなるでしょ!
 おれは、キャスティングや時間帯、内容などを深めて、文章を完成させた。
「イケメン予備軍とイケイケ女子による恋愛バラエティーを作りたいです。地上波で、男性までターゲットを広げた恋愛バラエティーが作りたいです。元々女性からモテず、外見、特に髪型や、服装、美容に気を遣うようになりました。結果、イケメンと言われるようになり、デートに多くの人から誘われました。しかし、付き合うには至りませんでした。恋愛テクニック不足です。この経験から、モテる外見と中身を手に入れる方法を楽しんで知れる番組を作りたいと考えました。イケメンの素質がある人をオファーし、ゲームに勝てばプロが服装や髪形を大変身させてくれる、恋愛コンサルタントにアドバイスを聴ける等、外見と中身をアップデートできるシステムにすれば、勉強になる上、イケイケ女子が徐々に惚れていく様子も含め、ギャップを楽しめます。タイトルは、『こんな僕だけど、好きになってくれますか』です」
 8月12日に提出をした。
 
 結果待ちの1週間は、とても辛かった。
 というか、苦しかった。
 というか、なんだろう。
 辛かった。

 結果。

「厳正なる審査の結果、貴方はぜひ一次選考に進んでいただきたいです」
 やった!
 通った!
 書類が!
 通った!

 テレビ・ムーン、選考当日。
 夏だから、暑い。
 夜行バスで行ってもよかったんだけど、暑いから、新幹線でビュンと。
 東京まで、来た。
 スーツのネクタイにジャケットまで着ると、流石に満員電車は暑い。
 13:00から、おれの番。
 出番は15分。
 何を聞かれるのか。
 すごく、緊張しながら電車に乗る。
 降り間違えないかとか。
 でも、なんとか会社について、面接会場に着いた。
 ノックを3回して、入室。
「失礼致します」
 そこは、少し広い、日差しの差し込む会議室のような部屋。
 いかにもサラリーマンっていう感じの、眼鏡をかけたスーツ姿の男性が口を開く。
「今日は、よろしくお願いいたします。採用担当の、岸田です」
 ビジネスカジュアルな服装の40代くらいの女性が口を開く。
「山本です」
 おれは、緊張をしながら椅子の前まで来た。
「よろしくお願いいたします、立花です」
「それでは、お座りください」
 面接官は2人。
 2人の面接官が、手を椅子に向ける。
「ありがとうございます」
 手持ちカバンを横に置き、座る。
 岸田さんが、司会なのだろうか、話し始める。
「それでは、自己紹介の方をお願いします」
「はい、愛知公立大学社会学部国際学科の立花透と申します、よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします、まず、志望動機についてお聞かせ願いますか」
「はい、私は、アニメが大好きで、このアニメをたくさんの人に……」
 やばい、緊張して言葉が出てこない!
「たくさんの人に、広めたいな、と思います」
「ありがとうございます、好きなアニメとかあるんですか?」
「はい、サッカーアニメの『ペルセウス座の流星』です、チームワークなどが見られていいかな、と思います」
「ありがとうございます」
 岸田さんは表情一つ変えず、司会を進める。
「じゃあ、あなたが入社をしたとして、アニメ化したい作品などはありますか?」
「……いえ、特には」
 ……なに、言ってんだ、俺。
 だめだろ。
 なんか、ださなきゃ。
 だめだ。
 何にも出てこない。
「……ないです」
「わかりました。学生時代に頑張ったことは何かありますか?」
「はい、剣道部の部長の経験です。剣道部の部長として、みんなをまとめて……」
『レンタル彼女とかやってそう!』
『キャバクラとか行ってそうじゃね?』
「……まとめて、なんで力は、私には、なかったです。ただ、いじられてばっかりで……」

「……わかりました。選考は、以上となります。結果は後日連絡いたしますので、お待ちください。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 俺は、退出をした。
 テレビ・ムーンの廊下は、なぜだろう、いつもより暗く感じた。
 全然。
 正直、全然話せなかった。
 自分、めっちゃアニメ好きなはずなのに。
 全然、アピールできなかった。
 アニメの知識じゃ、誰にも負けないのに。
 もっと、藤本さんに、指導して貰えばよかった。
 面接、見て貰えばよかった。

 そうだ。
 テレビ局、って、他にもあるよな。
 テレビ局って、採用、結構早いよな。
 おれは、帰りの電車ですぐに調べた。
 大手キー局が、アニメ事業部を持っている。
 キー局、テレビ革新は10月から選考開始、内定が出るのが12月。
 テレビ関東、テレビ中央は、11月から選考開始、内定が出るのが1月。
 テレビ・ムーンとテレビ・マーガレットは、12月から選考開始、内定が出るのが2月。
 つまり、三年生のうちに受けて、三年生のうちに、内定が決まってしまう企業、ということだ。
 応募条件は、卒業見込みまたは卒業後3年以内の方、って書いてある。
 つまり。
 今から、四年生の今から受けても、卒業までに内定が出る、っていうことか!

 例えば、四年生の11月にテレビ関東を受けるとする。
 内定が出るのが、四年生の2月。
 その時点で、日本電機の内定を断ればいい。
 それで、入社日はその次の年の4月。
 一年間は、バイトで持たせればいい。
 日本電機の内定を残したまま、卒業直前まで就活ができる!

10月13日
 テレビ革新の選考がスタートした。
 この日。
 ゼミがあった。
 だから、キャリア支援室の予約表に、自分の名前を書いた。
 帰り道。
 大学四年の10月ともなると、紅葉が少し目立つようになってくる。
 そんな中に、愛衣ちゃんを見つけた。
「愛衣ちゃん!」
「わあ! 立花先輩!」
「一緒に帰ろ!」
「いいですよ!」
 今日は、なんかついてる気がする。
「就職、決まったんですか?」
「まあ、一応、ね」
「わあ! おめでとうございます!」
 茶髪のショートヘアから覗く黒目の大きな瞳が、くしゃっと笑った。
「ありがとう! でも、ちょっと迷ってるんだよね」
「まあ、迷いますよね。でも、ひとまずお疲れ様です!」
「ありがとね」
 愛知公立大学、と書いてある校門を出て、そのまま、なぜかもう駆動している愛知県のリニアモーターカーの駅に着いた。
「先輩は左のホームでしたよね」
「うんじゃあね」
「はい、さようなら」
 反対側の豊田に向かうホームは、人がほとんどいない。その中に、愛衣ちゃんが1人。
 こっち側の名古屋に向かうホームは、人がたくさんいる。
 いま、走り出したら、告白できるかな。
 でも、足が動かない。
 あ。
 リニモ、きちゃった。
 帰らなきゃ。

「なるほど、テレビ局の選考は早いから、内定が出るのも早い。そうなると、今から受けても卒業までに内定が出るから就職留年をする必要がない、一年アルバイトをして生活すればいいから……ごめん、もう一回言って」
 キャリア支援室の相談部屋で、単発でメガネの四十代くらいのスーツを着た藤本さんは、眉間に皺を寄せながら、腕を組む。
「だからえっと、その……」
 おれは言葉に詰まり、右手をぎゅっと握る。
「つまり君は、四年生の10月っていう今のこの時期から、3年生に混じってテレビ局の選考を最初から受けたいっていうことね!」
「はい!」
 眉間に皺がもっと寄った。
「厳しくない? だって、今までテレビ局受けてきて思わなかった? 内定者は東京の私立大学の人がほとんどだって。ここは地方国公立だよ?それに、国公立って就職いいわけで、現に君はいい企業の内定を持っているわけじゃない。それなのに……」
「僕は……僕は、世に出ている素晴らしい小説たちを、マンガたちを、アニメ化させたい! 動かしたいんです! 自分の力で、動かしたいんです! やっと、10年間探し続けて、やっと、やりたいことが、やっと見つかったんです! だから!」
 藤本さんはメガネを直し、首を傾げながら、に質問した。
「本気なのかい?」
「本気、です。だって、ほら!」
 おれは、パソコンを取り出し、カチャカチャと動かした。
○君の性格を書きなさい
○君の長所を描きなさい
○君の短所を書きなさい
○弊社に入社してやりたいことを書きなさい

「エントリーシートも完成してるんです!」
 藤本さんがメガネを右手の人差し指で上げた。
 藤本さんがメガネを上げる時は、真面目になる時だけ。
「……若干誤字脱字はあるけど。」
ごくっ、と唾を飲んだ。
「なるほどな。わかった。付き合ってみよう」
「本当ですか?」
「ああ。やるからには本気で行くぞ。まず、エントリーシートからだ。これじゃあ、なにが書いてあるのかわからない。本気度は伝わってくるけど、企業に対しては、簡潔に、筋を通して伝えるんだ。締め切りまで何日ある」
「あと1週間です」
「……ギリギリだな」
「はい!」
「自信満々の返事をありがとう」
「えへへ」
「じゃあ、次回までに、簡潔に、筋を通して伝えるように書き直しだ」
「はい! わかりました」
 キャリア支援室のドアを開け、外へ出た。
 俺の気持ちが、伝わった……!
 やった!
 協力してくれる!
「あら、立花くん。なんかいいことあったの?」
 パーマがおしゃれな40代くらいの進路指導室の青木さんが俺に話しかけてくれた。
「はい! 藤本さんが、就活これからも手伝ってくれる、って!」
「あれ、就活はもう終わったんじゃなかった?」
「そ、そうなんですけど……」
 フフッ、と、全てを見透かしたかのように青木さんは笑った。
「……頑張ってちょうだい!」
「はい! 頑張ります!」

「あの、これでいいと思いますかね」
 藤本さんに修正したエントリーシートを見せた。
「おお、いいと思うよ! あとは、これを提出して、面接練習だな」
「はい!」
 それから、2週間後。
 その時は、突然やってきた。
 俺が大学の食堂で1人カレーライスを食べている時。
 スマートフォンが鳴った。
「この度は、テレビ革新の選考を受けていただきありがとうございます。誠に残念ながら、立花様は落選となりました。またきらりと光る企業に出会えることを、お祈りしています」
 落ちた。
 身の毛がゾワッとよだつ。
 なんで落ちた。
 研究が足りなかったのか。
 エントリーシートのどこがダメだったんだ。
 それだけ、テレビ局の選考は、難しいということなのか。
 きつい。
 結構きつい。
 あれだけ頑張って考えて、作ったエントリーシートがこうも簡単に打ち砕かれてしまうのは結構心にくるな。
 大学を歩く。
 打ちっぱなしコンクリートがおしゃれなこの大学。
 螺旋階段を上がると、購買につく。
 そこに、ふらっと立ち寄る。
 そこには、本がたくさん置いてある。
 本には、「アニメ化決定!」などと言う背表紙が貼ってあったりする。
 羨ましい。
 俺もそんな仕事がしたい。
 そう、思いつつ。
 その本を手に取る。
「宿木の子守唄」
 その本の表紙は、イラストだけど、緑がいっぱいで、木漏れ日が綺麗。
 そうか。
 アニメの良さって、そう言うところにあるのか。
 絵でしか表現できない海の輝きや、森の輝き。
 美しさ。
 アニメって、そう言うところもめっちゃ魅力的だよな。
 その本と、ルーズリーフ、そしてルーズリーフをしまうファイルを購入して、購買を出た。
 購買を出て右に曲がると、学校の講義室がたくさん並んでいる大きな棟に出る。
 そこをトコトコと歩き、階段を降り、外に出ると、綺麗な広場に着く。
 トコトコと進み、右に曲がると、図書館に出る。
 図書館は、個人スペースみたいになっていて、その自習スペースがとても充実している。
 俺はそのスペースを一つ借りて、ルーズリーフを一枚取り出した。
 そこにまとめるのは、アニメの魅力。
 本当のアニメの魅力とは、どこにあるのだろうか。
 さっき見つけた、森林や海の、アニメならではの綺麗さ。
 アニメだったら、空も飛べるし、魔法も使える。
 そんな綺麗な環境の中で、空も飛べて、魔法が使えれば、それは魅力的なシーンになりうる。
 ただ学校に向かっている時、ただ桜を見ている時、その絵、綺麗な絵は、人々を「自分の世界と同じなのに別の世界みたい」と言う感覚に引き込んでいく
 それを、つらつらとルーズリーフに書いていく。
 なんで、アニメをやりたいんだろうか。
 面白い作品をプロデュースしたいから。
 自分で原作を探し、アニメにすることに興味があるから。
 この漫画が好き! って話すことが好きで、それを全世界をターゲットにする仕事なんて最高じゃん、って思うから。
 その後も、なぜアニメが好きなのか、なぜ、アニメ化をしたいのかを、ルーズリーフにとにかく書きまくった。
 これが、俺流の自己分析。
 自己分析、である。

 俺は、時間がうまく作れないから、精神科には行かず、スッと行ける学生相談室に、通い続けていた。
「……そっか、テレビ革新も落ちちゃったのね」
「そうなんです、最近落ち続けて、メンタルもやられてて」
「まだ、テレビ局は残っているの?」
「はい、残っています」
 川田さんは、表情をひとつ変えずに、おれに質問をする。
「じゃあ、そのテレビ局も受けていくの?」
「はい、受けていこうと思います」
「くれぐれも、無理はしないようにね」
「でも……でも、無理をしないと、クリアできないこともあるんです」

 学生相談室を出ると、夕焼けが眩しかった。
 左に行くと帰れるけど、おれはその足で、右に行き、講義棟に入った。
 キャリア支援室の藤本さんに会うために。
「藤本さん、僕、アニメ化をなんでしたいのか、なんでアニメが美しいのか、何でアニメ化したいのかをルーズリーフにまとめました」
 藤本さんはそれをみて驚いた表情をする。
「すごいね! いいじゃん!」

 藤本さんのお墨付きももらったところで、おれは帰路に立った。
 リニモに乗り、ゆらゆらと揺られる。暫くすると、家の最寄駅である、名古屋の一番東側で長久手市に近い、「藤が丘駅」に着いた。階段を登り、改札を抜け、エスカレーターを登る。
 星が出ている。
 ここは飲み屋街。
 今日が金曜日だからだろうか。所々でスーツ姿の会社員たちが肩を組みながら楽しそうに歩いている。その姿を見ると、なんとなく、悲しい。たくさんの会社に落ち続けているから、おれ、将来どうなってしまうんだろうって、心配で。
 星の下を、歩いて帰る。
 ポケットの中で、スマホが鳴った。テレビ関東とテレビ中央からのメールだ。
「新卒採用を開始いたします」
 俺は、すぐにページを開いた。
 2社とも、同じようなエントリーシートの内容だった。
○なぜ、その分野を志望するのですか。
○学生時代、頑張ったことはなんですか。
 俺は、結局、テレビ革新の時と同じようなことを書くことしかできなかった。
 
 結果、2社とも、落ちた。
 
「2社とも、落ちてしまったんです」
「そうですか」
 俺は、また、学生相談室で泣いてしまった。
「もう、やめてもいいんですよ」
「そ、そうですよね……」
「無理して体調を崩しても、意味ないですし……」
 そんな会話をしている途中。
 メールが来た。
「テレビ・ムーン 新卒採用のご案内」

 テレビ・ムーン。
 俺は、涙を拭いた。

 一度、後期採用でエントリーシートを通してくれた企業だ。

 この企業だったら、チャンスはあるかもしれない。
 もう一通。

「テレビ・マーガレット 新卒採用のご案内」

「川田さん」
「はい」
「僕はまだ、諦めたくありません」
「……そうですか、わかりました。でも、何度も言いますが、決して無理はしないようにね。それだけ」
「はい」
 俺は、自己分析をしたその成果を充分に、テレビ・ムーンとテレビ・マーガレットのエントリーシートに詰め込んだ。

 結果が来たのは12月の前半。
 俺が、大学に、ゼミの授業で向かっている最中だった。
「テレビ・ムーン 選考結果のご案内 マイページをご覧ください」

 俺は、恐る恐るマイページを開いた。

「この度は、テレビ・ムーンの選考を受けていただき、ありがとうございます。厳正なる審査の結果、貴殿は不採用となりました。いい企業と出会えることを、お祈りしています」

 不採用。
 俺は、不採用だった。
 そんなことを思いながら、学校の最寄り駅に着いた。
 たくさんの人が降りていく。
 俺は、その中のただ1人の存在。
 それでも。
 そのただ1人の存在でも。
 落ち込んでいる、大きな存在。
 おれは、ゼミで、卒論があまり進んでいないことを指摘されてしまった。
 そりゃあ、企業のことばっかりやってたら、卒論も進まないわな。
 でも、そんなんじゃダメだ。
 第一目標は、卒業をすること。
 そのために、勉強をしてるし、卒業をしないと、テレビ局にも入れないから。
 って、思いながら、ゼミの授業が終わる。
 大学内を歩く。
 自然が綺麗。
 これを、アニメ化出来たなら、なんて思いながら。
 大学内を、歩く。
 
「俺もし透がそういう業界に入ったらさ、アニメ化して欲しいゲームがあるんだよね」
 焼肉を食べながら、俊太はそう言ってくれる。
「俺でも最近さ、落ちることしか考えられなくて」
「落ちた時のことを考えるんじゃなくて、受かった時のことを考えたら」
「そっか……そうだよね」
「うん、夢ってそういうもんだよ。叶わなかった時のことをずーっと考えるんじゃなくて、叶った時のことを考えるの。そうすれば、本当になる。そういうもんだよ」
「そっか」
 今日はなんとなく、焼肉がうまい。

12月25日
 思い出す。
 テレビ・ムーンに落ちた。
 落ちた。
 落ちた。
 マイナス思考が。
 渦を巻く。
 ゼミが終わり。
 大学を出た。
 青い空が広がっていて。
 とっても綺麗。
 緑は生い茂り。
 大学の校舎は太陽の光を受けて少し光っているようで。
 俺は。
 大学から。
 帰る。
 そんな時。
 また。
 スマホが。
 鳴った。
「テレビ・マーガレット選考結果のお知らせ」
 俺は、恐る恐るメールを開いた。
「厳正なる審査の結果、貴方にはぜひ一次選考に進んでいただきたく、連絡差し上げました。つきましては、面接の日時を次からお選びください」
 やった!
 受かった!
 書類、通った!
 テレビ、マーガレット!
 しかも、テレビマーガレットは、おれが大好きなペルセウス座の流星を放送しているテレビ局!
 やった!
 受かった!
 あ……。
 愛衣ちゃんだ。
「愛衣ちゃん」
「わ! 立花先輩!」
「一緒に駅まで帰ろ!」
「いいですよー」
「愛衣ちゃん、今日はねー、少しいいことがあったんだー」
「えー、何ですかー?」
「それはね、テレビ・マーガレットの書類が通ったの!」
 愛衣ちゃんは、手を合わせた!
「すごいじゃないですか! おめでとうございます! 私もテレビ・マーガレットの番組、好きですよ!」
 細い道を潜ると、そのまま正門に着く。
 そこを出て、電車の駅に向かう。
「俺、頑張ったんだよー!」
「先輩、すごいですね! 私も、頑張らなくちゃ」
 今日は、クリスマス。
 愛衣ちゃんを、ご飯に誘いたい。
 けど……。
 今すぐにでも、テレビ・マーガレットの面接対策をしたい。
 日程を選択したい。
 そうこうしているうちに、駅の改札口まで来てしまった。
「それでは、私はこれで……」
「……うん、じゃあね」
 言えなかった。
 この後、お昼ご飯いこって。
 言えなかった。
 何だろう。
 この、悔しさは。
 テレビ・マーガレットの書類が通って嬉しいはずなのに。
 でも。
『すごいじゃないですか! おめでとうございます! 私もテレビ・マーガレットの番組、好きですよ!』
 この一言が、とっても嬉しくて。
 おれは。
 電車の中で、少し幸せに。
 窓の外を、眺めた。
 
1月6日
 俺は、東京に来ていた。
 テレビ・マーガレットの面接の日。
「次の方、どうぞー」
「はい。失礼致します。愛知公立大学、立花透と申します」
 三十代半ばの男性が2人、座っている。
 1対2の面接。
「生まれ変わったら、何になりたいですか?」
 生まれ変わったら、何になりたい……?
 やばい、想定した質問と全然違う……。
「僕は……生まれ変わったら、もう一度僕自身になりたいです。もう一度僕自身になって、人生をやり直したいです」
「はい、ありがとうございます」
 これで……これで、いいのか?
「好きなアニメは何ですか?」
「はい、ペルセウス座の流星です。ペルセウス座の流星は……」
 よし、この話題はよく話せた。
「無人島に何か一つ持って行けるなら、何を持っていきたいですか?」
 やっぱり……!
 想定していない質問!
 どうしよう……。
「はい、無人島に、ボートを持って行きたいです。それで、無人島から脱出して、有人島に……」
「船舶免許は持っているんですか?」
 もう1人の面接官が、ププッと笑う。
 心が、ズキッ、と痛む。
「それは……」

「それでは、以上で面接を終了いたします」
「ありがとうございました」

 こんなんでよかったのだろうか。
 いや、ダメだ。
 多分、アウトだ。
 船舶免許なんて持っていないのに、ボートを持っていきたいとか言っちゃったし。
 そもそも、あの質問の正解って何なんだ。
 生まれ変わったら何になりたいとか。
 ぜんっぜんわからん。
 俺は、そんなことを思いながら、テレビ局を出た。

 1月12日。
 卒論の提出日。
 昨日徹夜した。
 それで、卒論を仕上げた。
 提出をしにいくと、サークルのメンバーが何人かいた。
 挨拶をして、卒論を提出した。
 その後、キャリア支援室に行った。

「テレビ・マーガレット、受かってますかね……」
「うーん、想定できない質問をして、学生を惑わして、本音を揺さぶるっていう面接のパターンだったかもしれないね」
「じゃあ……」
「こればっかりは、結果が来ないとわからない。とりあえず、2次面接の対策をしよう」
 おれは、眠いながらに話した。
 そして、6時。
 講義棟を出た。
 空は夜空でキラキラしていた。
 歩いていると、愛衣ちゃんをみつけた。
「愛衣ちゃん!」
「先輩!」
「愛衣ちゃん、また一緒に帰れて嬉しいよ」
「私も、嬉しいです」
「おれね、卒論出し終えたんだよ!」
「わあ! おめでとうございます! これで、一安心ですね!」
「うん!」
 夜空が、おれたちを包み込む。
「ねえ、愛衣ちゃん」
「……何ですか?」
「おれ、愛衣ちゃんのことが、好き。好きです、付き合ってください」
「……お願いします!」
 その時だった。
 ブー、と、スマートフォンが鳴った。
 俺は、スマホが気になったのか、告白から逃げようとしたのか、わからないけど、スマートフォンを開いた。
「テレビ・マーガレット 選考結果のご連絡」
 おれは、そのまま、それを開いた。
「厳正なる審査の結果、貴殿の希望に添えない結果となりました。いい企業に出会えることを、お祈りしています」
 俺の目から、水がつーっと、零れた。
 そして、震える声で。
「ごめん、今日はやっぱ、1人で帰る」
 そう言って、俺は、早歩きを開始した。
 すると。
 愛衣ちゃんが、おれの手を掴んだ。
「どうしたんですか? 私に説明してください!」
「なんで!?」
「だって、先輩の悲しみ、1人で悲しんでるんじゃなくて、私も一緒に悲しみたいです!」
「愛衣ちゃん……」
「私、先輩のことが好きです! 何かに向けて頑張る先輩のことが! 大好きです! っていうか、今! 私! 先輩の彼女です! だから、話してください! 何があったんですか!」
「……出版社とテレビ局、全落ちした」
「……そう、だったんですか」
「うん……悲しいよ。めっちゃ、頑張ったんだもん」
 空を見上げる。
 夜空が滲む。

「……ごめん、やっぱ今日は、1人で帰らせて」

 起きたら昼過ぎだった。
 スマホで精神科を調べて、名古屋で一番評価の高い病院を予約した。若宮スケートパークも近いらしいから、スケートボードも片手に持って、いつかに川田さんに渡された封筒をもう片方の手に持って、藤が丘駅へと向かった。
 藤が丘駅は、リニモの駅でありながら、名古屋市営地下鉄、東山線の終点の駅である。地下鉄の方の駅の改札を潜り、エスカレーターを登る。電車が来たからそれに乗り、栄駅へと揺られる。
 栄駅を出ると、嫌というほどに太陽の光が眩しい。大きな通りから小さな通りへと歩いていき、クリニックに着いた。受付を済ませ、番号札を貰った。
 これが、俺にとって初めての、精神科への通院だった。
 広い待合室でボーッと待って、番号が呼ばれたから診察室へと入った。
 先生に、紹介状を渡し、今悩んでいることを辿々しくも説明した。
「まず、私が言いたいこと。それは、自殺をしてほしくないということ。次に言いたいことは、もう、無理をしてほしくないということ。もう一つ、次回も来てほしくて、できればカウンセリングも予約してほしいと言うこと。この病院は駅前クリニックで、診察時間は5分しかないんです。それは本当にすみません。あと」
「先生、僕は、これからどうすればいいですか」
「……まずは、彼女さんを大切にしてください。小さなことから始めていきましょう」
「……わかりました」
「薬、出しておきますね」
 5分なんて、あっという間だ。おれは、診察室を出て、また待合室の椅子に座った。会計を待つ間、愛衣ちゃんにメッセージを送った。
「この間はごめん」
「今度さ、カフェ行かない?」

 若宮スケートパークで1時間くらい滑った。スケボーをやってる時は、集中できるから、いろんなことを忘れられる気がする。
 ……俺の方を、じーっと見てる女の子がいる。中学生か、高校生か、そんなくらいに思える。俺も、それくらいに始めたら、もっと上手くなってたのかな。
 
2月1日
 星が少し出てきている。名古屋の中でも栄えている方の駅、金山駅のカフェの窓の外は、雪が降っていた。
「私、映画好きなんですよね。後で、DVDショップに行きませんか……?」
「……ああ、いいね」
「やったー!」

 少し歩いたところのDVDレンタルショップに一緒に入った。DVDレンタルショップなんて、久々に来た……。あ、この作品、めっちゃ好き……。この作品も、この作品も、この作品も!
「愛衣ちゃん、この作品めっちゃいいよ! あ! この作品も! この作品はね、めっちゃ綺麗でね、あ! この作品! 俺めっちゃ好き!」
 愛衣ちゃんは横で微笑みながら、俺の話を静かに聞いていた。
 俺は、気がついたら30分くらい作品の話をしていた。
「あ!ご、ごめん、話しすぎてた……」
「いえいえ、先輩が、どれだけ映像作品を愛しているかが、わかりました」

 俺たちは、そのまま一緒に駅に向かって歩いて行った。
 雪が電灯に照らされて綺麗。
「なあ、愛衣ちゃん」
「何ですか?」
「おれ、テレビ局とか、出版社とか、目指すところが高すぎたのかな。実は、それで悩んでてさ。書類とか、一次面接で落とされてばっかりで。とてもじゃないけど、おれが受けるような会社じゃなくて」
「……先輩。先輩が、出版社とかテレビ局を目指したくなるのは、当たり前です。だって、さっき、DVDショップでずーっと好きな作品について話していたじゃないですか! 先輩、アニメとか映画とかドラマとかが本当に大好きなんだな、って伝わってきましたし、だから、映像化の事業が、やりたいことができるのは、当たり前なんです! だから、先輩は四年生になっても頑張って大学に行って、最後の最後まで就活したんじゃないですか?」

「……確かに、そっか。おれは、やりたいことを追いかけていたのか」
「そうですよ。先輩は、気づかないうちに、やりたいことを追いかけられていたんですよ! それって、素晴らしいことだと、私は思いますよ! だって、私はやりたいことを追いかけた経験、ないですから。先輩のことが、羨ましいです」
「そっか……おれは、やりたいことが追いかけられていて、幸せだったのかもな」
「はい! そうですよ! 自信持ってください! あ! 流れ星ですよ! 先輩」
「本当だ!」
 愛衣ちゃんはおれの腕を掴んでぴょんぴょんする。
「綺麗ですねー」
「綺麗だねー」
「あ、先輩、こういうのはどうですか? 小説を書いてみるとか! もしかしたら、アニメ化されるかもしれませんよ!」
「……小説、か」
 文章の表現で、自分の好きなように物語を構築して、それを誰かに、伝える。あの時、テレビ番組を企画したみたいに、想像力を全て文章にぶつけて、そこに世界を作って、今まで俺が就活で得た物語についての知識も経験も全て詰め込んで、最高の作品を、作る……。
「私、小説めっちゃ好きで、一回小説の文学賞に応募しようとしたことあるんですよー! 小説すいせい新人賞っていう新人賞でですねー、あ、確かあれ3月31日が〆切でした! 今からなら、ちょうど間に合うんじゃないですか?」
 何、そのシンクロニシティな話。
 ……めっちゃ、いいじゃん!
「……くよ」
 フフッ、と愛衣ちゃんは俺の顔を見つめる。
「……何ですか?」
 声が、少しだけ、震える。
「俺、書くよ。小説、書くよ!」
 また、流れ星が流れる。
「先輩! 完成したら、見せてください!」
「えー、どうしよっかなー」
「えー、見せてくださいよー」
 満天の星空が、俺たちを包み込む。


――
「結局、その新人賞には落ちて、社会人になってから忙しくて、あんまり会えなくて。彼女も就活シーズンで、お互いに自分のことで精一杯になっちゃって。結局、彼女が既読スルー、未読スルー、それで俺たちの関係は終了。って、感じ! これが、俺が小説を書き始めた理由!」
 流れ星がまた一筋、流れた。
「でもさ、もし、この病気が治ったら、また、仕事を始めるわけじゃんね。仕事を休職してるわけだからさ、転職活動してもバレないし、夢にもまた挑戦できるんだけどさ、でもさ、辛くて。夢に挑戦するのが、怖くて。もう、怖くて。でも、仕事にももう、戻りたくなくて。でも、夢は俺の心の中にあって。今、俺の心の中って、ぐっちゃぐちゃなんだよね」
「そっ……か」
 成瀬さんは、その優しい目で俺の方を見つめる。
「女遊びの癖は、サッカーサークルの影響かな?」
「はっ、何でそれを!?」
「私、女遊びをする男、無理なんだよね」
「そ、そ……そんなあ……」
「……私ね、小学校の頃、酷いいじめを受けててね。私の唯一の支えになってくれたのが、スクールカウンセラーさんだったんだ。それから、私、スクールカウンセラーになるのが夢でさ」
「……うん」
「私はいじめに必死で耐えてさ、そしたらいじめる側も私をいじめるのがつまらなくなったのか、私の友達にターゲットを変えたの。佐野雛子っていうんだけどね。そしたら、雛子がうつ病になっちゃってね、精神科に入院することになって、お見舞いに行ったんだ」
「うん」
「雛子はね、未だにうつ病なの……」
「え……」
「カウンセラーさんは、私は守れたけど、私の友達は、守れなかったんだ。高校に上がってさ、進路を決める時に、じっくりと考えてみたの。調べてみたの。そしたら、わかったのスクールカウンセラーができることって、限界があるんだ、って」
 
『……でも、たまに死にたくなって……俺の努力は、全て無駄だったんじゃないか、って、思って……この前、ドライヤーのコンセントでロープを作って、それをカーテンレールに引っ掛けて……』
『……ちょっと待って』
『……はい?』
『……そこまで行くと、私じゃ、どうにもできないかもしれない……』
 確かにあの時、病院を案内されたな。
「それで、辛い思いをしている人に心から寄り添える仕事って何だろうって、もう一度考えてね。結果、スクールカウンセラーの夢は、諦めたんだ」
「そっ……か」
 成瀬さんは、俺の方を見た。
「私ね、夢を諦めることも、全然ありだと思うの。確かにさ、夢を追いかけることって、素晴らしいと思うよ。世界も広がるしさ。でもさ、幸せって、それだけじゃないと、思うんだ」
 
 それから数ヶ月が経った。
 数ヶ月何してたかって、半田の一人暮らしの家に戻ってた。朝起きてすることなくて、朝ご飯食べて、昼ごはん食べて、することなくて、お菓子食べて、夜ご飯食べる。そんな生活。
 今日は、診察の日。
 名前が呼ばれた。
 先生は、相変わらず色気があるけど天然な感じ。
「先生、僕、治ってきた気がします。それで……働きたいです。働いて、お金を稼ぎたいです」
「いいんじゃないですか、働いても」
 ……え?
 まじで?
 最近、お金なくて、困ってたから。
 ていうか、働いてもいいっていうことは。
「もしかして」
「はい、病気、治ったって思っていいと思います!」
「ほんとですか!? そうなんですね!!」
 先生はフフッと笑う。
「もう、あなたも気づいていると思います。この世界には、生きる希望があるんだって」
「そ、そっか!! ……じゃあ、これから就活ですね……」
「まあ、ゆるめにね、無理しちゃダメだよ。頑張ってね。薬も出しとくから」
「はい!」
 帰りの電車は、とにかく転職について調べた。
 大学生活で、就職活動はしていたから、何となくわかっているけれど、エージェントを使うと楽だということは知っている。有名なのだとリザードエージェント、ドーダあたりかな。
 電車を降りて、改札を出たところですぐに電話をかけた。
「リザードエージェント野崎です」
「あのー、転職活動を始めようと思っているんですけれども」
「そうなんですね、職種はどうされますか?」
「前個人営業をしていた時にお客様対応が大変だったので、法人営業を受けようと思います」
 それから、就職活動は始まった。
 履歴書に、休職をしていた、と書いてあったから、たくさんそのことについて聞かれた。
「うつ病? 薬とか飲んでるの? それ飲んだら楽になるの?」
「面接をしてる側から言うのもなんだけど、焦って転職活動する必要ないと思うよ」
「なんで日本電機に入社したの? ……そうなることはわかっていたよね。なのに何で入社したの?」
「なんで日本電機をやめようと思ったの? ……たくさん怒られたから……俺も怒るかもしれないけど大丈夫?」
「心弱そうだね」
「営業ってさあ、大変なんだよね。うつ病経験者に、ついていける?」
 ほとんどの会社、落とされた。
 名古屋駅をトボトボ歩く自分が、惨めで仕方なかった。
 何か自分の存在価値を作ろうと、小説を書き続けた。
 今回応募した小説は、ノベマ! で開催されていた、キャラクター短編小説コンテストのワンナイト・ラブストーリー。色々な、一夜限りのラブストーリーを考えては、投稿した。その数、9個。
 段々、自分の心が辛くなってきた。
 大学生の時に、初めて学生相談室に行った時も、就職活動中だったな。答えられない無茶な質問投げかけられて、落とされて。履歴書とかエントリーシート書きまくって、めっちゃ苦痛だった。それを、もう一回味わわなければいけないなんて思っていなかった。
 でも、やっぱり転職したい。
「へえー、日本電機なんですか。最近、エアコン変えようと思ってるんだけど、どこのメーカーがおすすめとかある?」
「パナソックスですね、パナソックスは、フィルター自動掃除機能がついているモデルは、他のメーカーはダストボックスにたまるんですけど、パナソックスは細かい埃のまま外に出してくれるんです」
「へえー、すごいですね。……この会社に入社しようと思った経緯は何かあるんですか?」
「法人営業ということで、今まで意識していたお客様の立場に立つ力が活かせると思ったからです」
「なんか、営業の時に工夫していたこととかあるんですか?」
「はい、『バーナム効果』という心理現象を利用していました。占いで使われるもので、誰にでも当てはまる一般的な特徴を『自分だけに当てはまる』と勘違いしてしまう心理現象のことです。例えば、『ヒタツの縦型洗濯機を売れ』という指示が出ている状態で、専業主婦の方に洗濯機を接客するとします。ヒタツの縦型洗濯機の特徴は、『時間が短い』こと。それを念頭に置き、質問を始めます。『あなたは、何人家族ですか?』すると、お客様は答えます。『4人家族です』『そうなんですね! 結構、たくさん家事を任されたりしていませんか?』『そうなんですよ、本当に大変で、誰も何もやらないから』『……だったらヒタツがおすすめです! 洗濯時間が一番短いので、他の家事に集中できます! お客様にピッタリですよ!』……実際に、家事を時短したくない人なんていないんです。洗濯以外のの家事がないなんて人、いないんです。でも、このような会話の方法をとれば、『家事が山積みの自分にこそピッタリな商品だ』と思わせることができます。これが、バーナム効果を工夫して使った営業方法です」
「なるほど、ありがとうございます。以上で面接を終わります」
 
 その会社の最終面接は、社長と一対一だった。
「うつ病になったっていうのは、何か理由があるの?」
「お客様に1時間怒鳴られたり、インカムで怒られたり……」
「なるほどねー、それは大変だったね」
 その企業に合格してから1ヶ月間、休みだった。
 日本電機の、自分の勤めている店の店長に、退職をします、と勇気を持って言った。
 制服を持って行った。事務所に鎮座する店長は、フフフと笑った。
「別に、喧嘩別れじゃないからな」
「はい」
「街で見かけて無視したらビンタだぞ? お前は、真面目だから。全力で仕事をやるから。だから」
 店長は、俺の目を見て、こう言った。
「無理すんなよ」

 新しい会社に入るまで、おれは、児童小説文庫の一つであるシンデレラ文庫の文学賞に応募する作品を、毎日スタバに行って書き続けた。小さい子に、喜んでもらえる作品作りをしたくて。

 入社してからは、まずは工場で研修になった。でもやることなんてなくて、ずーっと立ったまま仕事を見学するだけ。
 今までの後悔とか、今の悩みとかが頭を狂わせようとしてくる。
 でも、狂わない。
 なぜなら、悩む、考えるのは脳が勝手にしていることだから、放っておけばいい。
 その考えを、知ったから。
 時々、仕事を手伝うこともあって、怒られることもある。
 でも、前みたいに深く落ち込むことなんてない。
 なぜなら、仕事なんてそんなもんだって、知っているから。
 時々、死にたくなることもあった。
 でも、俺は死なない。
 なぜなら、俺を必要としている人はたくさんいて、あと、死ぬのはとても面倒くさいことだってわかっているから。
 最近、学んだこと、自分に言い聞かせていることがある。
 気にしない、気にしてない。
 大抵のことは気にしなくていいし、大抵のことは相手は気にしていない。
 忘れがちだから、思い出せるようにしておく。
 あと、すぐに自殺に逃げようとするから、死ぬのは怖い、っていう感情も忘れないようにしておく。
 明日も仕事。
 空は暗い。
 薬を飲んで。
 眠る。
 不安で眠れない。
 そんな時。
 おれは、友達にメールする。
 依存先は、たくさん持っておいた方がいい。
 これも全部、自分がうつ病になって知った考え方。
 生き延びるための、方法。
 たくさんの人に会って知った、ポジティブ精神。
 目を瞑ると、たくさんの後悔が押し寄せる。
 大学時代の友達関係、恋愛、学歴、前の会社に入ってしまったこと。
 それでも、俺は、大丈夫。
 後悔は。心が勝手にするものだから。させておけばいいって、思っておけばいい。

 メールを確認した。
「ワンナイト・ラブストーリー、受賞が決定しました」
 やっと、やっと努力が身を結んだんだ!

 目を開けると、そこは天井だった。
 夢か。
 今日も、たくさんの悩みがどんどん頭を襲ってくる。
 でも、大丈夫。
 気にしない、気にしてない。
 おれは、着替えて、精神科に行くために家を出た。
 雄也から連絡が来ている。
「転職おめでとー!」
 
 文学賞の結果は、全落ち。
 シンデレラ文庫は、待っているところ。
 いいさ。
 小説はあくまで、おれがうつ病を治すための一つのツールでしかなかったんだから。
「立花さーん、立花透さーん」
「はーい」
 小田先生が、足を組んで、待っていた。
「薬は、ちゃんと飲めてる?」
「はい、飲めてます」
「夜は、ちゃんと眠れてる?」
「はい、眠れてます」
「そっ……か」
 先生は、俺から少しだけ、目を逸らした。
「私ねー、精神科医、辞めようかなって思って……」
「え、何でですか?」
「あのね、私が担当していた患者さんが自殺しちゃったの……」
「え……」
「でもね、私ね、立花くんと一緒に会話したりとかして、たくさん気づかされたの。気にしないこととか、悩みを上手に切り抜ける方法とか。私が立花くんに教えているように見えて、教えられたのは私の方だったのかもしれない。だから、私は、心を壊さずに今、こうして生きている。でも、少し、死にたい気持ちも」
「……だめですよ、死んじゃ。先生のことを信頼している人は、たくさんいるんですよ」
 小田先生は、フフフ、と笑った。
「立花くん、自分が死にたいって言ってたのに、他人に死なないでって言えるまでになったんだね。ごめんね、今の話、嘘だよ。立花くんが、元気になってるのを確認したかっただけ。立花くん」
「はい」
「長い間、闘病生活お疲れ様でした。頑張ったね。私、本当に嬉しい。私に、元気をくれて、ありがとう」
 先生は、フフッと笑った。
 そして。
 たくさんの、涙を流した。

「ごめん、ごめんね、立花くん……」
 ……嫌な予感がする。
 心が、ズキズキと痛み出す。
「な、何がですか……?」
「私が持ってる患者さん、本当に、自殺しちゃったの。その患者さんはね……」
 先生が、輝く目で、こちらを見た。

「和希くん、なの」

「え……」
『なあ、一緒に喋ろーぜ』
『ああ、いいよ』
『名前なんていうの?』
『透。君は?』
『俺は和希。閉鎖病棟にずっといて、最近開放にきた』

『おれさー、年少入ってたんだよね』
『年少ってなに?』
『少年院。マジできつかった。でも、ここの方が正直きつい。トイレめっちゃ臭いし、ベットクソ狭いし、暇でやることないしね。年少の時はいっつもみんなで麻雀やったり筋トレやったりしとった』
『俺、うつ病が酷くて入院することになったんだよね』
『うつ病か……これ食って元気だしな』

『透、俺さ、今日退院なんだよね』
『……え?』
『最後の日に透と会えて良かったよ。めっちゃ楽しかった。あー、もう少しいれたらなー、もっと楽しかったのに』
『……そうだな』
『じゃあな。最後に、俺は、お前を必要としていた。入院中、マジで暇だったんだぞー』
『へへ、そっか。ありがとな』
 あの時のグータッチが、頭に浮かぶ。

「そんな……じゃあ、もう、和希は……」
「ごめんね、ごめんね。私のせいで、和希くんが……もう、私、辛くて、本当に辛くて、後悔ばっかりに支配されて、死にたくて、毎日、死にたくて、本当に、辛くて、自殺、したいの……」
 少しの時間、2人で、泣いた。
 俺は、震える声で先生にこう言った。
「……先生、顔をあげてください」
「……へ?」
「……死ぬの、怖いですよ。死んだら、めんどくさいですよ。手続きとか、色々と。どうするんですか、この病院の先生が自殺したなんてニュースが流れたら。この病院ダメになるじゃないですか。悩みなんて、後悔なんて、心が勝手にすることだから、させておけばいいんですよ」

「……確かに、和樹が死んだことは、とっても、とーっても悲しいです。でも。でも、僕は、僕には、小田先生が必要です。僕は、小田先生という神医師がいたから、うつ病を治せたんです。だから、絶対に死なないでください。死なないでくださいよ、しな……死なないでくださいよぉ、先生、何で死ぬんですかぁ……僕には、先生が、先生の存在が、必要なんですよぉ……自殺志願者の僕を変えたのは、先生じゃないですかぁ。せっかく、せっかく、やっと、やっと、とてつもなく、どうしようもなく」
 俺は、今。
 今。
 どうしようもなく。
「生きたい、って思えたのに、先生が死んじゃうなんて、嫌です、嫌ですよぉ」
「……死ななくても、いいの?」
「……僕は先生に、生きてほしいです」
「そっ……か。私、生きても、いいんだ」
「後先生さあ、僕が女遊びしてること、成瀬さんにバラしましたよねえ、僕が成瀬光さんと付き合えなかったの、先生のせいですからねぇ、もう……」
「……それはごめん、てか何で成瀬さんの下の名前知ってんの……わかったよ、なんかお詫びする」
「……じゃあ、ブラのサイズ教えてください」
「は、はあ!? セクハラだよセクハラ! ……だれにも秘密だよ?」
「え、教えてくれるんですか」
「何で泣き止んでるの」
「先生もじゃないですか」
「……Cだけど」
「……和希のタイプですね」
「ばっ……バーーーーカ」
 やっぱ、先生って、どこか色気がある。

――ノベマ! に投稿された透のエッセイは、「"アンチ青春"エンタメ部門」で「第9回スターツ出版文庫大賞」に選ばれて書籍化され、多くの書店に並び、人気を博し、後に、「本屋大賞」を獲得することになる。

 そしてその作品は2期に及んで「テレビ・ムーン」にてアニメ化された。

 月が輝く夜、成瀬光は、看護師の仕事を終えた後、久々に会う友達と、栄の4番出口で待ち合わせをしていた。
「光、久しぶり!」
「雛子!」
「私ね、やっと、やっとね!」
 雛子の顔は、涙と笑顔で溢れていた。
「うつ病、治ったの! それでねそれでね、光に絶対見てほしい、私の大好きなアニメがあってね、フラワーっていう人のエッセイが原作なんだけどね……あ、これこれ! 『月が降るようで』!」