――8年前
「センパーイ、僕の好きなこのサッカー漫画、ペルセウス座の流星、っていう漫画なんですけど、アニメ化しますかねー」
 野田先輩は、部室でイヤホンをしながらスマホでアニメを見ている。この高校では、スマホ禁止なのに。背の高い体で寝そべるから、部室のほとんどの面積を野田先輩が取っている。
「いやー、厳しいでしょー」
「そうですかー」
 この部活で一番アニメに詳しい野田先輩に言われてしまったら、もう諦めざるを得ない。

――それから2年後
 はー、やっとおわったー!
 部活を引退してから、勉強しかしてないけど、9月までに終わらせることを目標にしていた問題集が、終わった時の達成感はすごい。
 夜の1時、か。
 アニメが、やってる時間だな。
 おれは、テレビをつけた。
 「パスが渡ったー!」
 あれ……?
 おれは、目を擦った。
 青田がいる。
 五十嵐も。
 翔太も。
 これって。
 ペルセウス座の流星!?
「それを、五十嵐がシュート! 決まったあああ!」
 五十嵐たちが!
 動いてる!
 すげえ!
 夢みたいだ!
 憧れのキャラクターたちが!
 動いてる!
 
――現在
 俺は、精神科に通っている。
 そんなこと、誰にも言えるわけないじゃん。
 社会人になってから、自分で自分を殺したいって思うことが多くなった。落ち込むことも多くなった。
 そういうことをもしも誰かに打ち明けたのならば、俺は「そういう人」として扱われることになる。だからかな。俺はそれを、隠して生きている。いいでしょ。誰でも隠し事のひとつやふたつ、あるでしょ。
 精神疾患なんていうレッテルを貼られるの、嫌だよ。
 たくさんの電化製品が置かれた、大きなフロア。
 音楽が流れていて、モニターがついている広告もある。
 入るだけで小学生がワクワクするような、そんな仕掛けが用意されている。
 その端っこのカウンターに早番の俺と高野さん、内田さんは座る。
 高野さんは今日は髪をまとめる時間がなかったのだろうか、黒く生える長い髪をそのまま下に下ろしている。いつもの赤縁メガネが光る。内田さんはその向こうで、角刈りのてっぺんを掻きながら今日のチラシを眺める。目の前に歩いてきて現れるは坂下店長、短い髪の前髪をあげ、制服はしっかりとアイロンが施される。立ち止まってこちらを向くと、胸を張り、チラシを広げる。俺たち3人は手帳をカウンターに置き、右手にペンを構える。店長の口が開く。
「おはようございます。今日のノルマはパナソックス冷蔵庫もしくは洗濯機もしくはテレビ、1人1台。1人、1台です。はい。ソナーを買いに来たお客様、パナに振ってください。レグゾを買いに来たお客様、パナに振ってください。わかりますよね」
 今日のノルマは、大型家電の中の、パナソックスの対象商品を、今日中に何でもいいから1人1台売ること、みたいだ。テレビの例で言うと、ソナー、レグゾなどのメーカーのテレビを見にきたお客様に、パナソックスを勧めて買わせろという、指示だ。
 この朝礼を、他の人たちはどう聴いているのだろうか。
 俺はもちろん、本気で聴いている。何でかって言ったら、俺はこの中で一番学歴が高いのに一番年下で一番偉くない立場なのだ。それが気に食わない。プライドが毎日へし折られるから、俺は、営業成績で黙らせようと、数字で黙らせようと真剣に仕事をしている。
 毎日、違うノルマや目標が出される。
 もちろん、月の個人の売上目標だってあるし、粗利の目標だってある。
 俺は、去年の4月に新卒で入社した。
 いま、2年目の10月。
 一人前になったくらい、なんて言ってたら遅いと思う。
 俺は、この店舗の売上成績は2位を維持している。
 数字を取れば、誰も文句は言わない。わけではないんだけれど、説得力にはなる。
 
 今日は、日曜日。
 お客様の入りも多い。
 俺は、入り口の前で待機する。
 トランシーバーに、エスカレーターの下にいる高野さんの声が入る。
「はい、じゃあ開店しまーす」
 今日も勝負が始まる。
 おれは、ポケットに忍ばせた精神安定剤をギュッと握り締め、売り場に背筋を伸ばして立つ。

 エスカレーターから、2人の子供がたたたっと駆け足で上がってくる。その後ろから、夫婦がゆっくりと上がってくる。その2人は、店内の奥の方に入っていく。そこに、内田さんがついていく。
 洗濯機コーナーに2人が到着し、少し時間が経ったところで、内田さんが2人に声をかける。会話が始まったから、ファーストアプローチは成功したようだ。
 そんな光景を見ていると、電話が鳴った。
 電話は、入り口近くの柱とテレビコーナーの少し大きな机、洗濯機コーナーの接客テーブル、エアコンコーナーの柱についている。それらが、同時になり始める。
 周囲を見渡す。
 いま現状、電話に一番近いのは俺だ。
 俺は、震える手を押さえ、入り口近くの電話を取った。
「お電話ありがとうございます、日本電機半田店、立花が承ります」
 愛知県半田市は、愛知県に二つある半島のうちの短い方の半島、「知多半島」の真ん中ら辺にある市で、チェーン店が多く栄えているし、名古屋も1時間くらいで行けるからまあ便利に暮らせているとは思うんだけど、人口も結構多いために、お店は結構忙しい。
「あのさあ」
 50代くらいの女性の声だ。大きな声。背筋がゾッと凍る。もう、声を聞いただけでその人がどんな性格で、どんな見た目で、どんな年齢なのかおおよそ予測がつくようになった。
「はい」
「エアコンがつかなかったんだけど。私、わざわざお休みをとったのに。ふざけないでよ。家に来て、はい取り付けられないですーってふざけんじゃないわよ」
 まずは理解をしなければ。このお客様は、エアコンを注文し、今日取り付けるはずだった。そのために、休みをとっていた。でも、今日、工事業者に、取り付けられないです、と言われ、そのまま帰られた。だから怒っている。その解釈であっているはずだ。じゃあ、次に取る行動は……どのお客様のどの機種なのか、把握すること。そして、返品可能か確認し、折り返す。
「じゃあ、とりあえずデータをお調べしますので、電話番号とお名前を頂戴してもよろしいですか」
「河田華子。090-xxxx-xxxx」
 メモを取る。
 きつい。
 心にグサグサと刺さってくる。
「それでは、返品可能か調べた上で折り返しますね」
「早くしてね」
 電話をブチっと切られた。
 とりあえず、返品可能かどうかをトランシーバーで管理職に聞かなきゃ。
 家電量販店では、会話は基本トランシーバーを使って行われる。
 ポケットに引っ掛けてあるトランシーバーのボタンを押しながら、襟につけてあるピンマイクに向かって話す。
「あの、エアコンがつかなかったらしいんですけど、それって返品対応可能ですか」
「ああ、大丈夫」
「わかりました」
 よし、上司から返品の許可が降りた。
 その次に取る行動は、パソコンがある場所に行き、そこに電話番号を打ち込み、そこから顧客情報を確認すること。
 電話が、鳴る。
 電話対応は他の社員の誰かに任せて、パソコンの所へ急ぐ。
 電話の音が消えた。誰かが電話に出たみたいだ。するとすぐに、イヤホンから声が聞こえてくる。
「立花くーん、立花くーん」
 え、俺!?
「はい」
「河田様から電話が入っています」
 河田様! さっきの人!
「はい、出ます」
 一番近い電話!
 テレビコーナーの机の上にあるやつ!
 走って受話器をとった。
「お電話変わりました立花ですです」
「ねえ、折り返し全然来ないじゃない」
 全然って……まだ1分も経ってないぞ。
「すみません、情報を調べようと思いまして」
「で?」
「返品対応は、可能です!」
「返品対応は可能ですじゃなくて、まずは謝罪でしょ!?」
 ……一瞬、心がグッと下に沈む感覚を覚える。謝罪するタイミングなんてなかった。なかった。なかった。
「あなたねえ、お客様に謝罪しなきゃダメでしょ。ねえ、販売担当者と直接話がしたいんだけど。今日、高野って人いる?」
 俺の電話対応が悪かったから、河野様にエアコンを接客し販売した高野さんと直接話がしたいと言ってるのか。
 でも。高野さんは、多分……。
「お待ちください」
 保留ボタンを押す。そして、手をポケットの方に持っていき、トランシーバーのボタンを押して、ピンマイクに向かって話す。
「高野さん、高野さん取れますかー」
「対応中です」
 そうだよな。対応中だよな。
 受話器を取り、保留ボタンをもう一度押す。
「すみません、いま他のお客様対応中でして……」
「じゃあ私夜の7時半に帰るから、その時間に話させて」
 7時半に話させて、か。早番の定時は18時45分。高野さん、予定入れてるかな。俺が残業させたら迷惑だよな。というかそれ以前に、店長が残業をするなとよく怒っているから、他人に残業をさせる判断を俺がするのは避けたほうがいいよな……。
 どうすれば。どうすれば、いいんだろう……。
「すみません、高野はその時間もう帰ってしまっていまして……」
「はあ!?お客様が話したいって言ってるのに帰るって何?」
 自分で自分のことをお客様って言うタイプの人間は……多分……。
「あのねえ、あんたの対応最悪」
 胸にまたグサっと何かが突き刺さる感覚がする。
「本社に連絡するから。名前何、もう一回教えて」
 やっぱり。お客様は、これがあるから本当に強い。本社に連絡をされたら、本社でそのクレームをまとめ、店舗に本社から報告をされる。必ず、管理職に自分のクレーム対応の悪さが伝わってしまう。
「立花です」
「立花ね、本社に連絡するから。あなた本当に最低。謝罪もないし」
「申し訳ございません。本当に、申し訳ございませんでした」
 ブチッ。
 うっっ。
 胸が、痛む。
 イヤホンに声が入る。
「立花くん」
「はい」
「テレビコーナーに若いカップルが入ってるから行ってくれない?」
「わかりました!」
 胸が痛い。痛いけど、接客、行かなきゃ。
 ダッシュでテレビコーナーに向かう。
 小型〜中型テレビのコーナーに、27〜9位であろうカップルが2人で立っている。
 まずは、挨拶。ファーストアプローチ。
「いらっしゃいませー、テレビお安くなっておりますよー」
 彼氏が、テレビを指差す。
「あの、この32000円のテレビなんだけど」
「はい」
「安くならないの?」
 うっっ。胸が痛くなる。彼氏が指を刺しているテレビは、日本電機オリジナルテレビで、本社指示で値段を下げることができない商品なのだ。でも、安くできないと言うとその後お客様は、残念がるか、煽るか、怒る、ぐずる、そのような行動を取ってくる。どれをとっても、メンタルを削られることは確かだ。
「すみません、このテレビは、大変お安くなっておりまして、もうこれ以上は安くならないですね」
 腕を組み、彼氏は俺の方を見てくる。
「上司に相談してこないの? 売る気ないの?」
 うっっ。胸が痛む。
 売る気があるとかないとか関係ねーよ。この商品は安くならねーんだよ!そんなふうに、声を荒げたい。
「すみません、この商品はどうしてもお安くならないんです」
 彼氏がニヤッと笑う。許してくれたのか……?
「このままだと隣のエージョン行っちゃうけどいいんだね?」
 ……それは駄目だ。上司は、社員の接客を、遠くから、もしくは監視カメラで見張っている。お客様が買わずに帰ってしまうことを、「売り逃す」と言う。売り逃しは、トランシーバーですぐに言われる。から。言われたくないから。
 ……エージョンに行けばいいじゃん。でも、エージョンに行けばいいじゃんって言いましたなんて言ったら怒鳴られる。当たり前だ。営業は、売ることが仕事なんだから。
 この商品は本社指定で下げることができない。なら、値段を下げられる商品を勧める、しか、ない。
「えーっと、こちらのパナソックスの商品もすごく人気で……」
 ずーっとスマホを触っていた彼女が、声を発する。
「もういいです。いこ」
 鶴の一声。2人は、何も言わずにその場を去る。
 来る。来る。イヤホンに、声が来る。
「あれ、立花くん。お客様帰らせちゃったの?」
 胸がキュッとなる。
「あ、申し訳ございません、帰ってしまいました」
「他の商品に振り返ることとかできなかったの?」
「申し訳ございません、できなかったです……」
 謝ることしかできない。今日だけで何回謝ったのだろうか。
「じゃあいいや、65型の大きいテレビの方に若いカップル入ってるから、絶対パナを売ってこい」
「わかりました」
 絶対、パナソックス。
 プレッシャーを、感じる。
 壁面に、65型のテレビは展示されている。
 小型テレビのコーナーから壁面のコーナーに移った。
 誰だ……。
 ……あ。
 いた。
 ジムで鍛えていそうな彼氏と、最新のメイクを凝らしたような彼女。同棲を考え中の大体27歳のカップルってところか。それにしてはテレビにこだわっているな。65型だったら30万円くらいするぞ……。
 まずは挨拶。ファーストアプローチ。
「いらっしゃいませー、このパナソックスの商品、とてもお得になっているんですよー」
「すみません、店員さん、このレグゾのテレビって、もっと安くなりませんか?」
 胸がズキっと痛む。やっぱり、値引き交渉は苦手だ。
 言葉遣いは丁寧。地雷ではなさそうだ。
「はい、このレグゾのテレビには、クーポン値引きが1万円ついていますので、1万円お安くなります!」
「へえ……」
 彼氏の方が腕を組みながらテレビを見る。
 彼女はスマホを触っている。
 彼氏がテレビへのこだわりが強いのだろうか。じゃあ、このレグザのテレビをそのまま勧めれば、売り上げが……。
 いや、駄目だ。今日は、パナソックスキャンペーンの日。
 レグゾを売ったら。
 怒られる。
「このレグゾのテレビは、100万通りの画質をAIが分析して、最適な画質にしてくれる機能がついています。ですが、その機能はこちらのパナソックスのテレビにもついていて、パナソックスのテレビはさらに色がいいので……」
「僕、あれなんですよね。レグゾのタイムジャンプマシンが魅力で見に来たんですよね」
 タイムジャンプマシンか。
 まるごと録画して好きな場面にジャンプできる、ジャンルごとに録画してくれる最新の機能。
 それを言われると弱い。
 その素晴らしい「録画機能」がついているのは、レグゾだけだから。
 画質は確かにパナソックスは自信を持ってお勧めできる。
 でも。
 録画機能のことを言われると、正直レグゾが圧倒的に強い。
 でも。
 朝の指示。
 今日は、パナを売らなければならない。
 何としてでも、パナを……。
「でも、パナのテレビも……」
「パナを買うってなると、もう一度帰って勉強ですかね……」
 胸がズキっと痛む。
 それはダメだ。「売り逃す」と、怒られる。特に、さっきと違ってこのテレビは65型。損失も全然違う。このお客様は、パナをこれ以上勧めるなら帰る、と言う。つまり、パナをこれ以上勧めたら、怒られる結果が待っている。だがしかし。このお客様がレグゾを買ったら。今日の指示は、パナを売ること。65型を買いに来たお客様に、パナを売らなかったと言う結果が残り、俺は怒られる。つまり……。
 もう、俺が怒られることは、確定している……?
 つまり。
『パナを買うってなると、もう一度帰って勉強ですかね……』
 この発言が出た時点で、俺が怒られることは確定したのだ!
 何が。
 何が、いけなかった。
 俺の、営業力が足りなかった。
 でも。
 でも、帰られるよりはレグゾを売った方がマシだ。帰られるよりは、売り上げを立てたほうが、多分、怒られる度合いも小さくなるだろう。それなら。
 ……レグゾを勧めるまでだ!
「確かに、レグゾのタイムジャンプマシンを買った方は、皆様口を揃えてこうおっしゃいますね。『もう元には戻れない』って」
 ニコッ、と笑ってみせる。
 怒られることが確定した後の、笑顔。
 彼女が、スマホから目を離す。そして。
 お客様2人が俺の方を見る。
 わあ、という目線を俺に向ける。
 明らかにさっきまでとは表情が違う。
 ここからは言葉選びが重要だ。パナを勧めていたさっきから、どうやってレグゾに方向転換をさせるか。幸いなことに俺は、新入社員の時に、ある、「貴重な経験」を、している。
「私、レグゾの新製品発表会に行ってきたんですよ。結婚式場でやるんですけど」
「え、家電量販店の店員さんってそういうの参加できるんですか?」
 彼氏さん、多分、本当にいい人なんだろうな。そう言うのも、すぐにわかるようになった。でも、それでも、彼氏さんは、間接的に、俺を、傷つけることになる……。そんなこと、彼氏さんは知る由もないし。誰も、悪くないし。ただ、俺が、傷つくだけだから。
「そうなんですよ!それ結構楽しくてですね、これは結構店員やってて良かったなって思う点ですね」
「そうなんですね!いいなー、ドラマとかで見るプレゼンみたいなやつですよね」
「そうですそうです。それでですね、レグゾのテレビは、人一人一人の顔を検知して、美肌にしてくれるっていう機能があります!」
 そして、彼女が金髪のポニーテールを揺らし、大きなサークルのカラコンを入れた目を輝かせた。
「じゃあ、推しの顔も綺麗にしてくれるっていうことですか?」
「そういうことです。ドラマとかで重要なのは役者さんの顔です。そこを大切にしてるのが、レグゾのテレビなんです」
 人間の視界に近い映像を再現するのがソナー。色彩美を追求するのがパナソックス。そして、役者の顔を認識して最適に映すのがレグゾ。各社特徴があるが、各社の利点は言わず、お客様の求める商品の利点のみを言いバイアスをかける営業トーク。
 こんな工夫で、俺は。
 営業成績2位の座まで、のし上がってきたんだ。
 でも、ピッタリだな。推しの顔が見たい彼女と、最高の録画機能が欲しい彼氏。このカップルに、ぴったりのテレビだよ。パナソックスのテレビもいいけどさ。彼氏さん、本当に勉強してきたんだろうな。
「じゃあ、このテレビがいいですね!」
「うん、私もこれがいい!」
「いい選択だと思います」
 笑顔。笑顔、意識。
「立花さん、ありがとうございます。僕、立花さんのお話を聞いて、ずーっと迷っていたテレビ選びに、決心がつきました!」
 苦しい毎日だからさ。そんなこと言われると、本当に、嬉しくて仕方がないよ。でも、辛いよ……。
「あと、炊飯器も実は探していて」
 その発言を聞き、俺たちは炊飯器コーナーへと向かう。
「僕、ネットで買うのも好きなんですけど、こうやってお店で店員さんと話して買う方が好きなんですよね」
 彼氏の方を振り返ると、そこには笑顔が浮かんでいた。
 俺の顔には、笑顔を浮かべることができているだろうか。
 笑顔を浮かべろという指示だから、できているはずなんだけど。
 でも。
 心からの笑顔が、浮かんでいるだろうか。
「こちらが、炊飯器コーナーになります」
 彼氏が、顎に手を当ててどれがいいのかを見る。
「ぶっちゃけ、炊飯器ってどれがいいんですかね」
 やっぱり。
 やっぱり、こんなに優しいお客様には、お客様に合ったものを選んであげたい。
 でも。
 テレビでディスアドバンテージがあるから。
 ちゃんと、お店のためになる商品選定、自分自身のためになるをしなきゃいけないの、心苦しいな。

 不完備情報ゲーム。大学のとき少し触れた、経済学のゲーム理論の中の一つの考え方。片方は情報を知っていて、片方は情報を知らない状況。お客様と店員の間では、「情報の非対称性」が成立する、店員が絶対的有利な戦略的状況。
 さっきのテレビとは違い、お客様に商品知識は全くなく、こちら側に一方的に情報を知り得ている、店員側が有利に立てる状況。
 売るべき商品は、西芝の型落ち炊飯器。
「お客様は、早炊きとかすることって多いですか」
「結構早炊きするよね」
 彼女が、彼氏の顔を見ながらそう話す。それに呼応するように、彼氏は俺の顔を見る。
「はい、早炊きがほとんどです。それで、美味しいご飯が食べたくて、炊飯器には、高いお金を出したいと思っているんですよね」
「……それなら、ぴったりのものがあります!」
 家電の型は、一年毎に入れ替わる。
 でも、機能は殆ど変わらないことが多い。
 炊飯器は。
 ほぼ、半額まで落ちる。
「こちらの、西芝の炊飯器です。最新のものと機能がほとんど変わらない去年のモデルが残っています!」
 お客様お二方が、西芝の炊飯器を見つめる。
「西芝の炊飯器って、吸水の時に、真空にするんですよね。そのため、水の吸いがとてもいいです。だから、早炊きがどこよりも質が高くできるんですよね。早炊きを良くするお客様にはピッタリです」
 正直、普通の炊飯モードで最高の仕上がりは、パンサーの土鍋炊飯器。少し硬めが欲しければ、四菱電機の炭釜炊飯器。少し柔らかめが欲しければ、パナソックスのおどって炊き炊飯器。保温の時間が欲しければ、釜に鉄を使っている亀印の炊飯器だ。そして、早炊きに強いのが、今回の西芝の炊飯器。炊飯器は普通の炊飯モードにした場合、通常、最初に、米に水を含ませるための「蒸らす」工程が発生する。その後、「加熱」をして、炊飯をする。
 早炊きは、「蒸らし」の時間を減らした炊き方だ。だから通常、早炊きで炊くと米が硬くなるもしくはパサつく。しかし、西芝の炊飯器はその蒸らす時の「吸水」に強い。だから、理論上、早炊きに強い。
 接客の時に俺はよく、「バーナム効果」という心理現象を利用する。占いで使われるもので、誰にでも当てはまる一般的な特徴を「自分だけに当てはまる」と勘違いしてしまう心理現象のことだ。
 自分は早炊きをする、早炊きをする自分には西芝の炊飯器がピッタリだ、って思わせる。実際に、早炊きをしない人なんて、いない。
 でも、本当は。
 お客様にピッタリな商品を、選んであげたいけど。
 仕事だから。
 テレビが30万の表示。
 炊飯器が10万の表示。
 俺の権限では、テレビは、あと1万、炊飯器は、あと4万安くすることができる。だから、これを勧めた。
 この後、必ず値引き交渉が発生する。その時に、合計から値段を引く演出をすれば、「テレビから安くした感」を出せる。
 何が避けたいか。それは、「上司への相談」だ。自分より権限を持っている上司に相談をすれば、確かに、5万以上安くできる可能性は出てくる。でも。
 レグゾのテレビ安くしてくださいなんで言ったら、パナに振れ、なんで振れないんだと、こっぴどく怒られる。
 ならば。レグゾのテレビに決まった時点で、炊飯器でできるだけ値引きができるものを選ばせる。
 今回はたまたまそれが、西芝の型落ち炊飯器だった。それが、俺が西芝の炊飯器をお勧めした理由。
 今、40万円。自分の権限で、35万まで安くできる。
 彼氏が、口を開く。
「今、40万ですけど、どれだけ安くなりますかね」
「39万くらいですかね」
「うーん、実は、エージョンでも見てきて、テレビと炊飯器、機種は違うんですけど、38万だったんですよね」
「じゃあ、37万まで下げます!」
 彼女が、俺を上目遣いで見つめる。
「もう一声、どうですかね」
「じゃあ、36万5千円でどうでしょう」
 わあ、と、彼氏彼女は見つめ合う。
 そして、彼氏が口を開く。
「じゃあ、それでお願いします!」
 決まった。
 よかった。
 上司に相談しなくてもいい値段で、決めることができた。
 西芝の炊飯器を、決めることができた。
 近くの接客テーブルにご案内する。お客様にお掛けいただき、紙を渡す。住所を書いてもらう。型番と値段を書き、タブレットに住所を打ち込んでいく。一階に設置なのか、引き取りのテレビはどこのメーカーなのか、アンテナケーブルはついているのか、ブルーレイレコーダーの接続はあるのか、日にちはいつにするのかを質問し、保証のプランをお勧めする。
 その時間が、刻一刻と迫ってくる。
「じゃあ、会計に移ります」
 レジの置いてあるカウンターへとご案内する。そして、椅子にお座り頂く。
 彼氏が、財布からクレジットカードを取り出す。
「一括でお願いします」
「かしこまりました、それでは、36万5千円ですねー」
 会計が終わる。
 2人は椅子から立ち上がる。
 そして、彼氏は笑顔で俺にこう話した。
「今日は、本当にありがとうございました。立花さんのお陰で、楽しく買い物ができました」
 彼女も、フフッ、と笑う。
 胸が、痛くなる。
 俺は、本当はその一言を聞いて、嬉しいはずなのに。全く、嬉しくない。だって。売ったテレビは、パナソックスではなく、レグゾだから。
「いえいえ、こちらこそ本当にありがとうございました」
「また、何か買いにきます!」
 そうして、2人がエスカレーターに乗った瞬間。
 イヤホンから、声が聞こえてくる。
「おい、立花。パナ売る気あるのか」
 その言葉。
 俺の心を、ぐさっ、と突き刺す。
 おれは、すぐにバックヤードにいる店長のところに駆け寄る。
「お前さあ、チャンスだっただろ、あのカップル。パナソックスキャンペーンやべえんだよ。一人一台って言ったよなあ」
 心に、一言一言がグサグサと突き刺さる。
「……申し訳ございません」
「なんでレグゾをパナに振り返られなかった」
「お客様が、録画機能のタイムジャンプマシンを必要としていまして……」
「ああ、タイムジャンプマシンな。だと思ったよ」
 店長は、パソコンから俺に目線を向ける。
「お前、なんか動画配信サービスやってるか?」
「はい、ティーバとか、ネトフラとか……」
「そうだろ?そういうので、過去の場面とか番組とか、今見返せる時代なんだよ」
「はい」
「つまり、録画機能を充実させること自体、時代遅れなんだよ」
「……なるほど」
「それをお客様に説明すれば、切り返せるだろ?他にも切り返しトークとか聞いてくれたら教えてあげるからさー。本当、聞いてこいよ、色々。もういいわ、休憩行ってこい」
「……わかりました」
 入り口から一番遠いところの、従業員専用入り口のドアを開ける。そのまま、重いドアを開けると、階段がある。電気をつけ、その階段を下り、ドアを開けると、大きな倉庫へと繋がっている。そこから右に行くと、小さな事務所がある。
 事務所の隣には、自販機が置いてある。
 俺はそこで、モンエナをいつも買う。
 心の傷を、癒して、やる気を出すために。
 200円が自販機に吸い込まれ、代わりにモンエナが出てくる。
 その栓をカシャッと開け、立ちながら飲む。
 脳天に、刺激の強い味が突き刺さる。
 これがなきゃ、生きていけない。
 そのまま、事務所に入る。
「失礼します」
 事務所には、売り上げノルマの書いてあるグラフと、今月の目標が書いてあるホワイトボード、冷蔵庫、電子レンジ、ロッカー、そしていくつかの長机。
 おれは長机にモンエナを置き、朝冷蔵庫に入れておいたコンビニの唐揚げ弁当を取り出す。
 その瞬間、イヤホンから声が飛んでくる。
「おい、高野。なんで売り逃したんだ」
 高野さんが、何かを売り逃しているようだ。
「やっぱりコーズデンキも見に行きたいとおっしゃって……」
「いつもその場で決めろって言ってるだろ」
「すみません」
「お前も休憩いけ」
「かしこまりました」
 お客様は、他社を見に行きたい。俺たちの仕事は、その場で決めさせることだから。
 弁当をレンジに入れ、1分に設定して動かす。
『パナ売る気あるのか』
『売る気あるの?』
『あのねえ、あんたの対応最悪』
 降ってくる。
 声が上から降ってくる。
 ポケットから精神安定剤を一錠取り出し、口に放り込み、モンエナをゴクっと飲む。
 前精神科に行った時に、よく怒られるんですけど、怒られた後にすぐに心を回復させる薬ってありますかって聞いたらくれた薬。でも、この薬は眠くなるから、またモンエナをかちこむ。
「チーン」
 電子レンジから音がする。
 電子レンジを開け、唐揚げ弁当を取り出し、長机に持っていく。
 手を合わせ、唐揚げを食べる。
 モンエナを飲む。
 そして、スマホを開く。
 最近、小説を書いている。タイトルは、「内申ゲーム」。内申40を目指す、中学生のお話だ。小説を書いていると、現実逃避をすることができる。学園モノの小説を書けば、いつでも、中学校とか高校に戻ることができる。そして、これは俺が作る物語。嫌いなシーンは避け、好きなシーンを詰め込むことができる。だから俺は、小説を書くことが好きだ。まあ、賞レースで入賞したいなんてなると、話は別で、全然入賞できないから、それはそれで苦しいんだけど、でも。小説は、この世界を。この、汚い腐った世界を、忘れさせてくれるから。だから。今日も、俺は、小説を書く。
 おれは、この会社に隠している。精神科に通っていることを。
 大学を卒業してから学生相談室が使えなくなって、そこからはしばらく一人で頑張っていた。
 社会人になって精神科に通い始めたのは、あの日。普通に寝て、起きれなかった日。起きたら、12時だった。驚いた。そこで死ぬほど叱られ、おれは、休日、気づいたら精神科にいた。そんな経緯だ。睡眠薬を貰いに行った。それが初めだった。睡眠はできるようになった。でも。毎朝、1時間ほど金縛りに合う。そして、昨日聞いたお客様や上司からの声が上から降ってくるのだ。
 だから、おれは、精神科に通い続け、薬をもらっている。それは、俺が会社に秘密にしていること。辞めるつもりはない。成績が2位なんだから。やめたらもったいないし、たくさんの商品知識を手に入れたから。レグゾやソナー、四菱に関しては、休日返上で新製品発表会まで出席した。そこまで努力をして、辞めるなんてどうかしてる。でも、精神科の先生には、なぜだか転職を勧められる。俺が精神科に通い始めたのは、睡眠薬をもらって遅刻をしないようにするため、そして、怒られ用の薬をもらうため、なのに。
 鳥唐揚げが沁みる。結構美味しい。さっきはどうしたらパナソックスに振れたんだろうか。
 今は、ティーバで見逃し配信をしてる番組は多い。アニメやドラマならネトフラに上がるし、今や録画機能は廃れてしまっている。っていうのが、店長の意見。じゃあ、この話をしたら、録画の強いレグゾから、画質の強いパナに考えを変えてくれたのかな。
『パナを買うってなると、もう一度帰って勉強ですかね……』
 タラレバ論。結果論。考えても仕方がないこと。でも、こんなふうに毎日後悔をして。普通に考えて。
 
 動画配信サービスの話をしても、買ってくれなかったでしょ。

 見逃し配信される番組なんて限られてるし、期間決まってるしティーバだったら広告あるやん。ネトフラなんて課金しんといかんし。録画機能は、今でも十分素晴らしい機能だよ。そう、俺は思うよ。
 こんな本音をおさえて、俺は毎日仕事に取り組んでいる。これで反省をしたところで、何も変わらない。むしろ、いい炊飯器を選ばせた俺を俺は褒めるべきだ。でも、昼からまた、パナをどこかのタイミングで売らなければならない。
「立花、立花取れるか」
 イヤホンから店長の声がする。
 背筋がゾクっとする。
「はい、立花です」
「すぐに俺のところに来い」
 俺は、箸を置き、もう一錠精神安定剤を飲んだ。これを飲めば、この後に怒られても、そこまで凹むことがないから。
 椅子から立ち上がり、事務所を出て、階段をダッシュで駆け上がり、テレビコーナーを駆け抜けて、バックヤードに向かって、走る。
 店長が、パソコンの前で足を組んでいる。
「店長」
「お前さあ。報告しなかったよなあ。これ」
 店長が指を刺すその先。パソコンの文面を、恐る恐る覗く。
 そこには。こう、書かれている。
[本日のクレーム一覧 ①立花という社員が、電話対応で謝罪もせず、ぶっきらぼうな対応をしてきた]
 胸がズキっと痛む。
「本社から。お前、クレーム対応あったよな?今朝」
「……はい」
「それが本社まで行ってんだよ」
「……そうですか」
「ふざけんな。マジで。ちゃんと対応しろよ。はい、これ。反省文」
 心が、ズキっと痛む。
 店長が渡すその紙は、A4サイズで30行の書式。3時間くらいかかりそうじゃないか。
「……はい、申し訳ございません」
「本社に名前が行ったら、反省文だ。この紙、4日後までに書いてこい」
「わかりました」
 今日仕事が終わってからこれを書いて寝るのか。
 これで、今日1日が終わりか。
 昼から、パナ売れるかな。
 売れるといいな。

 トランシーバーのボタンを押し、マイクに向かって話す。
「立花、昼休憩から戻りました」
 その間0.5秒。
「冷蔵庫に中年夫婦」
「……かしこまりました」
 ……確かに、大型冷蔵庫コーナー壁面の、500リッターサイズのところに中年夫婦がいる。
『これいくらになるの』
 行きたくない。
 行きたくない行きたくない行きたくない行きたくない。
 舌を、噛んだ。
 痛みで、恐怖を忘れるんだ。
 ファーストアプローチ。
「いらっしゃいませー、こちらの商品、お安くなっているんですよー」
「今日冷蔵庫配送予定だったのが入らなかったんだけど。どうしてくれるんだ」
 心がズキっと痛む。
 クレーム。心が、泣いている。
『お前、クレーム対応あったよな?』
「あ、えっと……」
「だからどうしてくれるのって聞いてるだろ」
 心がずきんずきんと痛む。
 考えろ。この人が言っている意味を理解しろ。この人は冷蔵庫を買った。今日配送の予定だった。でも、その冷蔵庫を、玄関や通路が狭いなどの何らなの理由で搬入できなかった。どうしてくれるんだ、と言っている。ならば。入るものに選び直しだ。
「はい、えーっと、今日配送予定だったのが入らなかったんですよね、それでしたら入るものに選び直しになりますが」
「どれが入るの」
「一度データを確認しますので、電話番号よろしいでしょうか」
 電話番号で、パソコンで検索する。
 北野、と出てくる。配送センターに連絡も行っているだろう。
「すみません、北野様に冷蔵庫を販売された方いらっしゃいますか」
「はい、私です、佐藤です、搬入不可ですね、配送センターから聞いてます、対応変わりましょうか」
 佐藤さんか。
「お願いします」
 この店舗の中の俺との唯一の同期の、同い年の女性の佐藤さんが北野様のところへと走る。
「お客様、お待たせいたしました」
「あんたねえ、前進められた冷蔵庫入らなかったんだけど、ふざけんじゃないよ」
「申し訳ございません、うちで取り扱ってる入るものですと、これとこれと」
「はあ?こんなに小さいのしか入らないの?」
 胸が痛い。
 ごめん、ごめんね、佐藤さん。本当にごめんね、押し付けちゃって。
 イヤホンに副店長からの声が聞こえてくる。
「おい、立花空いたのか」
「はい、副店長空きました」
「洗濯機コーナーにシングル入ってるぞ見えてないのか」
「あ、はい行きます」
 シングルとは、親2人と高校生か大学生くらいの子供の組み合わせ。つまり、一人暮らし用の家電を選んでいそうな家族のことを言う。
 確かに、いる。
 背の高いメガネをかけた男性と、ボブヘアの茶髪の50代くらいの女性。そして、金髪のジャージを着た男子大学生。
 父親と思われる男性が、新生活セットと書かれたポップを指差す。
「あのー、この新生活セットを買いたいんですけど」
「はい!わかりました」
「じゃあ、お願いします」
「あ、はい!」
 そう言って一瞬で息子の買うものが決まると、息子はスマホをいじり始める。
「あ、あと、私たちの家の大きな冷蔵庫も選びたくて……」
「あ、そうなんですね」
 うっ。
 心にズキッと痛みが走る。
 そう。大きな冷蔵庫は壁面なのだ。
 管理職は、社員の動きを必ずどこかで見ている。
 副店長から無線が飛ぶ。
「あ、立花大きい冷蔵庫のコーナーに行ったな。パナ。パナ。パナ」
 母親が話す。
「550リッターくらいで、真ん中野菜がいいんですよね」
 真ん中野菜。
 冷蔵庫は、基本的に、冷蔵室、冷凍室、野菜室で構成されている。500リッタークラスの、家族用の大きな冷蔵庫では、基本的に冷蔵室が一番上にある。問題はその下。真ん中に野菜室で下に冷凍室か、もしくは真ん中に冷凍室で下に野菜室か。昔は野菜が取りやすいように真ん中野菜が人気だったが、冷凍食品が増えた最近は、真ん中に冷凍室で下に野菜室のスタイルが圧倒的に増えているのだ。
「真ん中野菜」というのは、野菜室が真ん中にあるモデルのことを指す。
 このサイズで真ん中野菜は、西芝と四菱しかない。
 そして、四菱はとても高価。
 つまり。
 このまま行くと、西芝に決まってしまう。
 どうしよう。
 パナの特徴はなんだ。
 まず、通常は冷凍室と野菜室の後ろにあるはずのコンプレッサーが冷蔵室の上段にあることで、普通は80%くらいしか開かない冷凍室、野菜室が、100%開くこと。
 イオンで脱臭効果があること。
 そして。
 瞬間冷却の機能がとても高いこと、などか。
 そして俺は。
 「真ん中野菜」で来た時の、必殺トーク。準備してある。前店長に聞いた。
「確かに、真ん中野菜だと料理の時に野菜を出しやすいですよね。でも」
 パナソックスの冷蔵庫の、一番下にある野菜室を開けた。
「ここに野菜室があれば、野菜を買ってきた時に野菜を入れやすいですよね」
 そう。野菜室が真ん中にあると、買ってきた野菜を持ち上げなければいけないが、野菜室が一番下にあれば、その必要がないのだ。
 夫婦が、顔を見合わせる。
「……確かに」
「それで、脱臭効果もありますし、急冷効果もあるんです!」
 濃いグレーでストライプの線が入ったその冷蔵庫を見る2人は、ぼーっとしながら。
「これ下さい!」
「わかりました!じゃあ、お手続しますので、こちらにおかけください」
 脳汁がブワァーっと出る感覚を覚える。
 来た。
 今日のノルマを達成した。
 これで、俺は、もう、怒られない。
 それにしても、一人暮らし用の家電といい、冷蔵庫といい、即決だったな……。

 ボソボソと、俺に聞こえない声で、夫婦で何かを話している。
 そして、俺に話しかける。
「……すみません、お金を忘れたので、家に取りにいっても大丈夫ですか」
 ……は?
「……はい」
 お金を、忘れた……。
 そんなこと、あるか?
 現実的に考えて。
 お金忘れたなら、カードで払えばいいじゃん。
「あ、あの……」
「すみません、帰ります」
 え、待ってよ……そんな……。
 椅子を引き、3人はどんどんと遠くなる……。
 イヤホンにに声が走る。
「おい、立花。帰っちゃったな、お客様」
 サーっと、血の気が引く。そして、心がズキズキと傷んでくる。
「副店長、申し訳ございません」
「なんで帰った」
「お金を忘れたっていって……」
「そんなの嘘に決まっているだろ。お前の営業力がないからお客様に帰られたんだ。値段ももっと相談してもよかっただろ」
 心がズキっと痛む。
「申し訳ございません……」
「売り場もどれ」
「はい……」

 2回目の夕方の休憩時間。
 事務所に行くと、冷蔵庫の隣の大きなソファに、ちょこんと座った佐藤さんがいた。
「お疲れ様」
「お疲れ様。立花くん」
 佐藤さんは、その声は優しいけど、その顔に笑顔は浮かんでいなかった。
「佐藤さん、さっき大丈夫だった?」
「……うん。……私、もしかしたら、この仕事辞めるかもしれない……」
 そう言って、微糖のコーヒーを握りしめる。
「……そっか」
 辛かったよな。さっき。すごくわかる。気持ち、すごくわかる。
 でも、なんも、反応できない。反応したところで、傷を抉るだけだから。
 もし。
 同世代の佐藤さんがこの店舗がいなくなったら。
 俺が唯一の、一番年下になってしまう。
 それは、本当に寂しいから。
 本当に、寂しいから。
 いなく、ならないで。佐藤さん。さっきはごめんね……。本当に、ごめんね……。
「私、もう休憩戻るね」
「……うん。お疲れ。頑張ろうね」
「……私ね、同期の立花くんがいるから頑張れる気がする」
「俺も、佐藤さんがいるから頑張れる気がするよ」
 でも、2人に笑顔は浮かんでいなかった。
 佐藤さんはそそくさと外に出て行ってしまった。
 スマホをチラッと見ると、連絡が来ていた。……セフレからだ。
「会いたいよ……」
 冷蔵庫のドアを開け、モンエナを取り出し、一気飲みする。
 ふう。
 これで、全てのストレスが吹っ飛ぶ。
 トランシーバーで連絡する。
「立花休憩戻りましたー」
 店長の声がする。
「プリンターでお客さん待ってるから、行ってきてー」
「わかりました」
 プリンターコーナーに行くと、黒ずくめでサングラスの中年の女性が立っていた。
「プリンターお探しでしょうか」
「あのさあ、ここで買ったプリンターが一年で壊れたんだけど」
 ……クレーム。
 心が、ズキッズキッと痛む。
「あーそうだったんですね、申し訳ございませんでした」
「無料で修理してくれるよね?」
「申し訳ございません、修理は有料になります……」
「いくらなの?」
「えーっと、15000以上になります……」
「え!?そんなの買い換えた方が早いじゃん!」
 心がズキっと痛む。
「そうなりますね」
「そうなりますねじゃないでしょ、もういいわ。私帰る」
 心が、ズキズキと痛む。
「そうですか……ありがとうございましたー……」
 そのまま、ぼーっとその人の背中を見つめる。
 俺、何か悪いことしたのかな。
 してないよな。
 してないのに。
 してないのに、なんで。こんなに、怒られてつらいんだろう。
 イヤホンに声が聞こえる。
「立花空いたのか」
「はい、空きました」
「じゃあバイト帰るからレジ入れ」
「わかりました」
 アルバイトさんの代わりにレジに入った。
「……いらっしゃいませー……いらっしゃいませー……お預かりしまーす、お返しでーす、ありがとうございましたー……いらっしゃいませー……」

 上がりの指示が出た。
「立花お先に失礼致します」
 そう無線を飛ばす。
 明日から三連休だ。
 ゆっくりできる。
 着替えて、店を出た。
 あ。
 セフレから連絡が来ている。
「ねえ、すごいつらいんだけど」
「つらいの……?」
「うん、すごくつらくて……今から名古屋駅で会えない?」
「名古屋駅……?いいよ」
 自転車を走らせ、家に帰り、着替えて、すぐに駅に向かう。
 最近流行りのマッチングアプリ。
 そこで出会って2回目のデートでカラオケに行ってキスをして、3回目のデートでホテルに行ってセックスしてから、奈々ちゃんとセフレ関係になった。
 今日はたくさん怒られた。
 たくさんお客様にも嫌なことを言われた。
 怒られすぎて、頭がクラクラしてくる。
 視界がゆらゆらゆれる。
 解放感とトラウマで、ゆらゆら、クラクラしてる。
 スマホがブルっと震える。
 奈々ちゃんからだ。
「ねーつらいー」
 俺も辛いよ……。
 俺も、本当に本当に辛いよ……。
 ……なんで返そう。
「そっか、つらいか。よく頑張ったね。えらいよ」
 でも、涙が出てきてしまいそうになるから。
「俺も、本当はすごくすごくつらいよ……」
 送ってしまった。
「泣いちゃいそうだよ……」
 そしたら、一通のメッセージが送られてきた。

「たまには、休んでもいいんだよ」

 名古屋駅に着くと、少し髪を巻いた、パッチリとした目のワンピースの奈々ちゃんが、金時計の前でスマホを構えて待っていた。
 そして、そのスマホで手を振った。
「奈々ちゃーん」
「透くーん、飲みにいこー」
「いいよー」
 俺たちは金時計のあるところから駅の外に出て、左に曲がり、エスカレーターに登り、「ゲートタワー」という商業施設に入った。そして、人がたくさんいる中でエレベーターで12階のレストラン街に向かった。
 たくさんの店がある中で、俺たちは、イタリアンの居酒屋に向かった。
「私レモンサワーにするー」
「おれはビールかなー」
「私ねー、今日自宅に帰れる自信がないから、透くんと一緒にいたいかなー」
「そっか」
「ビジネスホテル取ったからさ、そこ行こ……」
「いいよー……」
「「かんぱーい」」
 なんか。
 お酒を飲んだら。
 涙が出てきた。
「どうしたのー透くん」
「なんか、仕事が、つらくて……」
「そっかー。大丈夫だよ、透くん」
 そう言われるために、そう言ってもらうためだけに、奈々ちゃんに会ってるのかもしれない。
 フラフラでメンヘラだった俺を、奈々ちゃんは拾ってくれたんだ。
「奈々ちゃん、ありがとう」
「フフ、元気出して」
 ゲートタワーの下まで降りて、名古屋駅を真後ろまで突っ切り、「太閤通口」というところから外に出ると、飲屋街に着く。たくさんのビルが立ち並び、人も多い。キャッチも多いし、繁華街って感じがする。そこの信号を渡って、左に曲がってずーっと言ったところで、奈々ちゃんが、フフッと笑った。ここが目的地らしい。いかにもビジネスホテルのような見た目、10階建てくらいの建物。
 チェックインをし、カードキーをもらった。最上階までエレベーターで上がって、キーを差し込んだ。電気をつけ、そして、奈々ちゃんに、思いっきり抱きついた。
「う、あう」
 奈々ちゃんが苦しんでいる。そして、フフッと微笑みかける。そのまま、2人でベッドに横になった。

 
「おはよ」
「おはよ」
「ねえ、透くん。ゴム、外れてなかった?」
「あ、マジで?」
 奈々ちゃんはベッドの上に女の子座りで、ふわぁーっとあくびをする。
「ねえ、この後予定ある?」
 俺は、奈々ちゃんから目を逸らす。
「この後、俺、栄の病院に行かないといけないから」
 奈々ちゃんは手を合わせる。
「本当?じゃあ、私も栄の産婦人科行って、アフターピルもらってくる」
 荷物をまとめ、部屋を出る。エレベーターの中で、俺の脇腹をちょんちょんと触ってきては、フフッと笑う。
 手を繋いで、名古屋駅に向かう。朝の名古屋は、少しだけ、青く、幻想的に思える。
「ねえ、奈々ちゃん。アフターピル代、俺払うから」
「いいよいいよ」
「いや、悪いから……」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな……それで、透くんは、なんの病院なの?」
「……秘密」
「そっか……。言いたくないことも、あるよね」
 太閤通口から名古屋駅に入り、ずーっと進むと、地下鉄へ行く階段がある。たくさんの人が降りる中に、俺たちも降りて、改札でICカードをピッてやってもう少し階段を下ると、ホームに着く。電車がすぐに来て、俺たちはそれに乗る。隣同士で座って、俺がスマホを開くと、奈々ちゃんはそれをじーっと見て来る。でも二駅だから、別に何が起こるというわけでもなく俺たちは、栄駅で降りた。
 出口を上がると、大きな商業施設がある。
「あ、このアイシャドウ好き!」
「本当だ……あ、おれ、このアイシャドウ持ってるよ」
「そっか。いいね、可愛い。男子でもメイクするんだね」
「するよー」
 一瞬だけハマったことがある。黒歴史。
「あ、病院の時間だ……」
「そっか……私ね、2年前、精神科に通ってたんだ」
 奈々ちゃんは俯いている。
 栄で病院で、秘密って言った時点で、もう奈々ちゃんにはバレていたのかな。
 初めて、誰かにバレてしまったな。
「でもね、もう、薬飲まなくて良くなったんだよ。だから、透くんもね、大丈夫だと思うよ……」
「……2人だけの、秘密だからね」
「……うん」

 受付を済ませ、待合室へと移動する。
 人がたくさんいる。とても広い待合室に人がぎっしり埋まっている。前方には診察室が五つあり、厚い壁とドアで会話が聞こえないようになっている。左には検査室があり、血液検査などをそこで受ける。後ろには予診室がいくつかあり、初診の人とかがそこで説明を受けたりする。そして、右がカウンセリング室。2部屋ある。そのうちの一部屋のドアが開いた。
「カウンセリングでお待ちの163番の方ー」
 呼ばれた。
 カウンセリング室の中に入る。
 畳2枚分くらいのその部屋は、壁も天井も地面も真っ白で、真っ白な机の前後に椅子が置いてあり、下でサーキュレーターが回っている。アイラスオーイワのサーキュレーターか。サーキュレーターの中では結構高級だな。机の上にはセキュリティ会社を呼び出すベルが置いてある。俺は奥の椅子に座る。前の椅子にカウンセラーさんが座った。
 顔を上げる。
「こんにちは……」
「こんにちは」
 ボブヘアで前髪がすごく長い女性の谷口さん。大体29歳かな。
「最近の体調はどうですか?」
「結構、お客さんから強く言われると、つらいんです……」
「そっかそっか。つらいよね」
 マスク越しでも、谷口さんが優しい笑顔をしているのがわかる。
「それで、言葉が出てこなくなってしまう時とかよくあります……」
「そうですか……今の仕事、つらいよね。逃げても、いいんだよ」
「でも、逃げるの、もったいないです。成績とか、高いし」
「まあ、それもあるけど、でも、今の環境から身を引くってのも、大事だったりするよ。それでも、続けようと思うのなら、うーん、難しいところだよね……」
 カウンセリングって、こんな感じ。ただ話を聞いてもらえるだけでも、俺はとっても楽になる。
「休日は、何をしているの?」
「……セフレと、会ってます」
 カウンセラーさんだけには、なんでも打ち明けてしまう。
「そっか。そうなんだね」
「でも、このまま関係が続くかもわからないし……」
「うーん……私、立花くんにはセフレとかあんまり向いていないと思うの」
「向いて、ないですかね」
「だって立花くんは、相手の立場に立って考える力が強いでしょう? 相手の気持ちを考えないで割り切れるならいいけど、立花くんは優しいから、多分、割り切れないんじゃないかな……」
 セフレ。
 彼女でもない、友達でもない、不思議な関係。
 合っていないって言われても。
「でも僕は、セフレの人に生かしてもらっている気がするんです。その人がいなかったら、僕はもう……」
「そっか。そっかそっか。そうだよね。ごめんね、強く言っちゃって」
「いえ、大丈夫です……」
 この部屋の中は不思議で、本当の自分が出てきてしまうよう。
 
「……じゃあ、診察だね待合室でお待ちください」
 それから、偶然目の前の席が空いていたから、そこに座った。たまに診察室が開いては、番号が呼ばれ、誰かが入っていく。この時間、辛い。今までの悩みとか苦しみとかが、どんどん頭に浮かんできては、死にたくなって来る。ずーっと、ぼーっと待ってるのも難しくて、考え事をしているから。
 10分くらい経ったら、自分の番号が呼ばれた。俺は、3番の診察室へと入っていった。
 診察室には、長くて大きな机があり、先生が座っていて、その奥に会話の内容をタイピングするためのパソコン、そして、事務員の方が座っている。先生は、センター分けでメガネをかけていて、なんでも受け入れてくれそうな見た目の、白衣の方だ。
「あの、最近仕事がつらくて……」
「そうなんですね。転職なども視野に入れた方がいいんじゃないですかね」
「でも、今の成績とか知識とか、手放すのが怖くて……」
「次の職場でも、それは活かせますから」
「そうですかね……」
「じゃあ、お薬出しておきますね」
「わかりました……」
 駅前クリニックの診療は、これくらいで終わってしまう。回転率重視だからだろう。会計を済ませると、メッセージが来た。
「マックで待ってるよ」
 マックに入ると、奥の方で、奈々ちゃんがイヤホンをつけてアニメを見ていた。
「奈々ちゃん、お待たせ」
 奈々ちゃんは、スッスッとイヤホンを取り、俺の方を向いて、フフッと笑い、口を開いた。
「アフターピル8,000円だって」
「わかったよ……」
 俺は鞄から財布を取り出した。よし、ちょうど8,000円ある。俺はそれを手渡した。
「ありがとー!」
「うん。この後、大須商店街に行ってもいいかな」
「いいね! 行こうよ!」
 栄駅から2駅。なぜか満員の電車に2人でぎゅうぎゅうになりながら乗り、上前津で降りた。
 3番出口を出ると、大きな商店街が見えた。
 大須商店街。名古屋にある大きな商店街で、服や食べ物、電機やカードショップ、メイドカフェとかたくさん並んでいる。
 その中にあるアニメショップに2人で入った。
「あ、私このアニメ好きー」
「あ、俺このアニメ好き!」
「なんか、透くんってオタクだよね」
「オタクじゃないし。オタクだったら何オタクなの」
「広範囲オタク」
 少し歩くとチーズハットグ屋さんに着いた。
「わー! 俺チーズハットグ好きなのー!」
「買いなよ」
「いいのー!? やったー! 一本ください!」
「500円ねー」
 もらったチーズハットグを口に含んだ。
 うまい! チーズがのびーる。
「わー! 透くんチーズが伸びてる可愛い」
 奈々ちゃんは、写真を撮ってくれた。
「可愛い写真撮れたよー」
「わー、ありがとー」
 おみくじとか、UFOキャッチャーとか楽しんで、駅の方面に歩いていく。繁華街だから、歩いているだけでも結構楽しい。
「私ねー、またアプリ始めたんだー」
「……そうなんだ」
 なんで、なんて聞けなかった。
 そうしたら、俺たちの関係は無くなってしまうかもしれないから。
「……私ね、透くんといる時本当に楽しい。透くんがいてくれて、よかった」
「……そっか」
「これからも、一緒にいれたらいいな」
 改札で俺たちは別れる。
「じゃあね」
「うん、じゃあね」
 家に帰ったら、爆睡してしまった。
 起きると、夜の9時。
 連絡が来ている。
 俊太からだ。
「明日飲みに行かね?」
 今日は、月曜。
 明日は、火曜。
 そして、水曜まで休み。
 全然いける。
「うん、いいよー」
 そう返信し、俺はまた、目を瞑った。

 栄の4番出口を出ると、俊太が待っていた。
「おー俊太」
「おっす」
 繁華街の中に、目的地の焼き鳥屋さんを見つけた。
 そこに入って、案内された席に座った。
 木のテーブルに肘をつきながら酒を飲んだり、焼き鳥を食べたりしながら、俊太に話す。
「俺さー、店長にもお客さんにも怒られて、つらいんだよね」
 こんな話しか、どうしても出てこない。
「その話会うたびに毎回聞いてるんだけど。もうさ、辞めてスッキリしたーって話が俺聞きたい」
「そっか、でも辞めるのも勿体無いかなー、みたいな。売り上げも結構高いしさー」
 その後のセリフは、何となく予想がついていた。
「その力、次の職場でも生かせるんじゃね?」
 次の職場でも、同じように最初から覚えるのが大変なんだよ。
 どの職場に行っても、おんなじくらいつらいんじゃないかな、なんて思ってる。
 っていうか。
 辞めるとか言い出すと何言われるかわかんないから怖い。
「辞めるとか言い出すと何言われるかわかんないから怖くね?」
「怖いけどさー、それを乗り越えなきゃ、ずーっと今のつらいままだよ」
「まあ、確かにそうだけどさー……」
「てか、透マッチングアプリはどうなったん?」
「あー、2人とやった。1人はセフレ」
「メイク男子はちげえな」
 そう言って、フフッと俊太は笑う。
「最近してねーよ。腹立つなー。じゃあお前もメイクやれば?」
「俺はノーメイクでやれたから」
 焼き鳥屋を出て、栄の街並みを歩く。
「なんか、栄って綺麗だよなー」
 色んなビルとかが立ち並んで、キラキラしている。
「クラブ行かね?」
「そうだね」
 俺たちは、栄の繁華街を練り歩く。
「お探しは」
「大丈夫です」
「どこ行かれるんですか」
「クラブです」
「うちいい女の子いっぱいいますよ」
 キャッチを見てると仕事を思い出して胸が痛くなるから、断るのは全部翔太に任せている。
「いや、大丈夫です」
 少しの行列を抜け、セキュリティのお兄さんを潜り抜けて、受付にやってきた。その先では爆音が流れる。
 仕事のことを思い出す。
 お金を忘れたとか言われて帰られた。
 怒られた。
 プリンターが壊れたとか言って怒られた
 レグゾを売って怒られた。
 頑張ってやってたのに。
「3千円です」
「はい」
 中に行くと、ピカピカ光るフロアの中でたくさんの人が踊ってる。
「透、まずコークハイ頼もうぜ」
「いいね」
 バーカウンターに行って、コークハイを頼む。
 俊太と乾杯して、一気飲み。
 女の子を探す。
 俊太がいい子2人組を見つけたみたいだ。
「あの女の子達いいんじゃね?」
「いいね。行ってみるか」
「行ってみるか」
 人だかりを掻い潜り、その女の子2人に近づいていく。
 片方は金髪、片方は黒髪。
 それくらいしかこの暗がりだと情報が得られない。
 俺は話しかけた。
「楽しんでるー!?」
「うーん! めっちゃたのしーい!」
「いいねー!」
 俺は、金髪の女の子に抱きつかれた。
「ねー、めっちゃたのしーね」
「うん」
 金髪の女の子は俺から手を離し、俊太に抱きついた。
「ねえー、2人は友達ー?」
「友達だよー」
「じゃあねー」
 そう言って、金髪の子は黒髪の子と共にどこかへ消えてしまった。
 俊太は笑顔でこちらを向いた。
「次誰いく?」
「あそこで椅子に座ってる女の子2人行こー」
「いいねー」

「こんにちはー」
「クラブ楽しんでるー?」
 2人とも茶髪だ。長い髪の女の子が話しかけてきた。
「うん、楽しいー。乾杯しよー」
「いいねー」
 俺たちは、乾杯した。
「私たちねー、大阪から来たのー。名古屋イケメン多いから」
「そうなんだー」

 クラブは、どんどん盛り上がっていく。
 そして、1:00を境に終了した。
 ガヤガヤする箱の中でぎゅうぎゅう詰めになりながら、小さい出口に逃げ込んだ。ふわっと、栄の夜の街に出た。
 人だかりができてる。そこを少し避けて、俊太はポケットに手を突っ込む。
「持ち帰れなかったな」
 そのままタバコを取り出す。
「やっぱクラブナンパは難いわ」
「俊太ー、さっきさー、名古屋イケメン多いって言った時、俺たちはイケメン?なんて聞いておけばよかったなー、なんて」
「それ俺も思ったけどさ、イケメンじゃないって言われた時悲しくね?」
「あー、まあ確かにな」
「……なあ、俊太」
「ん?」
「『気にしない』って、どうやったらできるの?」
 俺は、俊太にタバコを一本貰った。
「うーん、わからん。右から左へ受け流すみたいな?」
「あー、なるほどね」
 それができないんだよな。
「でもさ、透。俺、思うんだけど、そんなこと考えてるより、やっぱ、辞めた方が早くね?」
「そうかな……」
「てかさ、おれ、お前と中学から一緒にいるけど、今のお前、死んでるよ」
 フッ、と、笑みが溢れる。
「死んでるって」
「まだ空いてるクラブ行くか?」
「そうだな」
 そう言って、まだ空いているクラブへと向かった。
 小さな階段を上がり、受付を済ませ、中に入ったら。爆音が流れ、人も大量だ。その中で、男の人が女の人に声をかけているところをたくさん見かける。
「分かれて行動しね?」
「いいね」
 目の前で2人組の女の子を1人の男がナンパしてる。
 あ。
 1人余った。
「ねー、楽しんでる?」
「うん!」
「友達は?」
「ナンパされちゃったー」
「一緒に乾杯しないー?」
「いいねー!」
 バーカウンターに行った。ドリンクチケットが2枚ある。これで奢っちゃおう。
「何がいいー?」
「ハイボール!」
「オッケー! すみませーん! ハイボール2つ!」
 バーのお姉さんがチューブでプラスチックのコップにハイボールを注いでいく。
「ありがとうございます!はい」
「ありがとー!かんぱーい」
 2人でプラスチックコップで乾杯する。
「おいしー!」
 キマるー!! いえーい!
「いいねー!」
 女の子はその大きな目を細めてニコッと笑う。
「どこ住んでるのー?」
「俺は半田だよー!」
「えー! 私も半田ー! 一緒だー!」
 一緒! やった!
 瞬間。
 女の子は、俺の唇を奪った。
「え……」
「じゃあねー」
 女の子は、どこかへといってしまった。
 唇を人差し指で抑える……。
 一瞬だった……。ドキッとした……。不意打ちだった……。
 あ……。1人になっちゃった……。
 別の子を……。
 てか、俊太は?
 急に寂しくなってくる。
 俊太、俊太……。
 あ、女の子と話してる。
 おれ、女の子と話せてない。
 誰か、ナンパしなきゃ……。
 でも、誰をナンパすればいいんだろう。
 爆音で音楽が流れている。
 その人並みに、飲まれていく。
 その間、30分くらいかな。
「透ー!」
 隣から、声が聞こえてきた。
 俊太だ!
「おー、俊太!」
「透、一緒にナンパしようぜ!」
「いいね!」
 俺たちはそれから、たくさんナンパした。
 色んな女の子と話して、連絡先を交換して、あっという間に5時になった。
 俺たちは、クラブを出た。このクラブで誰かを持ち帰ったことは、1回だけあるけど、やっぱり難易度は激高だ。
 俊太は、伸びをしながらうーって言いながら声を発する。
 早朝の栄。朝日が差し込んで、人があんまりいなくて、青くて、白くて、別世界みたいに思える。
「あー、疲れたなー。銭湯行かね?」
「いいね」
 スマホでマップを開き、銭湯に向かう。
「俊太、なんかクラブで儲けもんあった?」
「めっちゃ可愛い子と連絡先交換した」
「おー、よかったやん」
「透は?」
「……キスされた」
「まじ!? それ強くね?」
「キスよかったー! 俊太、今日の予定は?」
「おれは、アプリの女の子と会いに行く」
「お前まじか! すご」
「ええやろ」
 あー、楽しいなー。
 本当に、非日常に居る感じがする。
 不意に、仕事のことを思い出した。
 そして。
 たくさんの言葉が。
 俺の心を突き刺す。
『パナ売る気あるのか』
『あなたの対応最悪』
『ねえ、壊れたんだけど』
 トラウマって、やつかな。
 俊太が下を向きながら話す。
「……やっぱ銭湯行かんで良くね?」
「そうだね」
 俺たちは栄駅の改札で別れた。
「じゃあね」
「うん。アプリの女の子頑張れよ」
「おう」
 栄駅のホームは、クラブ帰りやホスト帰りの人たちがほとんどだった。
 そのまま、電車に乗り、家に帰った。
 お風呂にも入らず布団にダイブして、そのまま。
 気づいたら。
 木曜の朝だった!
 急いでお風呂に入って、歯磨きをして、準備をして、玄関を出て、自転車のスタンドを思いっきり蹴り、会社へと向かう。
 事務所に着いた。ロッカーに荷物をしまい、ベストを羽織って、事務所を出て、思い扉を開け、スイッチをつけて、階段を登る。
 一段一段が、だんだん遅くなっていく……。

 高野さんの声がイヤホンに響く。
「開店しまーす」
 今日は、平日。
 平日は、あまりお客様も来ないから、電話対応が多い。
 ぼーっと、売り場の入り口の前に立つ。
 あ。
 電話が鳴った。
 ……嫌だな。
 震える手を押さえながら、入り口に一番近い電話の受話器をとった。
 大丈夫かな……。
「一年前に買ったエアコンが壊れたじゃねーか! 早すぎるんだよ! ふざけんな! 直せ!」
 うっ、うっ。心が、痛む……。
 なんだ? なんかキレてるぞ? えーっと、壊れたなら、お客様の情報を……。
「大変申し訳ございませんでした。すぐに修理をメーカーに依頼しますので、お客様の電話番号お願いします」
「いつになるの」
「それはメーカーと調節していただいてですね」
 言われる。
 もう、わかってる。
 無理なこと、言われる。もう嫌だ。
「今日直しに来て」
 胸がズキっと痛む。
「申し訳ございません。メーカーさんも順番に対応していまして、今日というわけには行きません」
「じゃあいつ来てくれるの」
「遅くとも1週間以内には……」
「はあ? 遅いんだけど。上司に相談してくれる?」
「修理の対応をするのはメーカーの修理センターなので、上司は関係ないんです。大変申し訳ございません……」
 10分謝り続けたら、なんとか折れてくれた。
 もう、朝から本当に心が痛い。
 パソコンで修理の入力をする。
 そしたら、また売り場に立つ。
 その、繰り返し。
 でも、お客様が来ないだけマシかな。
 来たら、接客に行かないといけないから。

「これにします」
 冷蔵庫を決めていただいた80代のお客様。
 住所を書いていただく書類には、簡単なアンケートがついている。それもお願いしている。給湯器の使用年数や、トイレの使用年数、外壁塗装のサービスについての紹介だ。つまり、リフォーム商品の提案に繋げるためのアンケート。まあ、家電を買った後に殆どリフォームの提案なんて引っかからないから、無駄な時間って言って仕舞えば無駄な時間なんだけど。
 お客様が、一つ一つ、丁寧に書いていく。
「はい、書けました」
 俺は、それを元にタブレットに住所を入力していく。
「冷蔵庫は一階に設置で大丈夫ですか?」
「はい」
「引き取りの冷蔵庫は、ヒタツや四菱などの有名メーカーで大丈夫ですか?」
「はい」
「お日にちいつにしましょうか」
「明日で」
「明日ですねー、かしこまりました……」
 ……あれ?
 アンケートの最後の欄。
 外壁塗装もやっているんですが、興味はありますか? に、チェックが付いている!!!
 ここにチェックをつけてくれたお客様は初めてだ。
 もしかしたら。
 決まるかもしれない。
「外壁塗装のサービスもやっているんですが、いかがですか?」
「本当ですか? じゃあ、お願いします」
 ……え?
 今、なんて言った?
 外壁塗装。
 100万円以上の売り上げ。
 ほぼ、粗利。
 リフォーム売り上げ。

 脳汁が、ドバドバと出てくるのがわかる。
「少々お待ちください」
 少し席から離れる。
 マイクに向かって話す。
「店長! 店長取れますか!」
「……はい」
「外壁の見積もり希望のお客様いるんですけど、どうすればいいですか!」
「マジで!? すぐに俺のところに来い!」
 俺は、店長のところにダッシュで向かった。
 店長は、パソコンの前で足を組みながら、笑顔で俺の方を見た。
「やっぱお前すげえな! とりあえず、この紙を書いてもらえ! で、見積もりの日にちは明後日、支払いは1週間後。よくやった。あとは俺が準備しとくから」
『あとは俺が準備しとくから』
 心強い、店長の言葉。
 俺は、今日、リフォームのどでかい案件を一件、取得した。
「見積もりの日にちは、明後日でよろしいでしょうか」
「構わんよ」
「ほんとですか! ありがとうございます!」
 これで、もしかしたら。
 売上、1位を獲得できるかもしれない。
 でも。
 本当にうまくいくのだろうか。心配でもある。
 会計のテーブルに移動し、冷蔵庫の会計を済ませた。お客様が立ち上がり、エスカレーターへと向かう。
「ありがとうございました」
 お客様が帰ったところで、イヤホンに店長からの声が聞こえる。
「おい、立花。一緒に、テレビ配送設置行かないか?」
 基本的に、家電量販店は、在庫は配送センターを持っていて、テレビの配送は配送センターが行う。でも、稀に、お店の倉庫の在庫から店員が自ら運びにいくケースがある。例えば、その日のうちに配送をしたい場合、とか。
 店長から、配送設置に行かないか、と誘われた。
 これは、店長に気に入られているサインだろうか。
「はい、行きましょうか」
「じゃあ、午後3時出発な」
 3時出発。
 その時間は、体を開けておかないと。
 その後も接客を続け、時刻は3時を迎えた。
 店長と2人で、階段を降りて事務所に向かい、着替える。
「俺今日免許持ってないから、お前運転な」
「……はい、わかりました」
 事務所にあるパソコンで運転の手続きをしてから、外に出て、軽トラックに2人で55型のテレビを積み込み、ロープで縛り、硬く結んで落ちないようにしてから、店長は助手席に、俺は運転席に乗った。
 鍵を捻り、サイドブレーキを下ろし、レバーをドライブに合わせる。
「では、出発します」
 アクセルを踏む。
 緊張で倒れそうだ。
 どうしよう。
 怒られたらどうしよう。
「……お前、最近頑張っとるな」
「ありがとうございます」
「リフォームの案件取ったりとかさ、あと、正直あの西芝の炊飯器を売ったのもすごいと思ったよ。あれ副店長も売り逃してた商品だからな」
「そうなんですか!?」
「うん。君は、色々なことを考えながら仕事をしているんだなっていうのがわかる。見ていてわかるよ。どうやったら売れるのかを自分なりに模索して、向上心を持って仕事をしている。そんな気がする」
「向上心……」
「あとは、お客様の立場に立って考える力が、君にはある。販売員に必要なのは、どんなお客様の性格にもカメレオンのように合わせられる力だと思ってる。立花なら、それができる日も近いかもしれない」
「……そうですか」
「うん」
 赤信号。店長は、俺の方を見た。
「俺、お前がこの店舗の配属になって、よかったと思ってる。半田店には確実に、お前の力が必要だ」
 
 お客様の家に着いた。
 門があり、そこを開けると小道があり、自転車置き場が右にあり、左には小さな芝生がある。そこに石でできた花瓶があり、ガーデニングが施されている。その先にある大きな玄関の隣のインターホンを押す。
「はーい」
「日本電機です、テレビ配送に伺いました」
「はーい、お待ちください」
 しばらくすると、玄関から茶髪のパーマがかかった、40代くらいの、赤いワンピースを着た女性が出てきて、軽く会釈をした。
「お世話になっております、私立花と申します」
 そう言って、胸ポケットから名刺を取り出し、お客様に渡した。
「はい、井上です。今日はよろしくお願いします」
 俺と店長は、テレビを積み込むためにトラックに戻った。
「立花、ここまでは順調だぞ」
 店長と、俺で、箱に入ったテレビを玄関の前の小道まで運んだ。
「少し置こうか」
 2人で支えながら、テレビを地面に置いた。
 店長が、家に入り、お客様と話している。

 俺も。
 俺も、店長について行って、話した方がいいのかな。
 ここで、ボーッと突っ立ってるだけじゃ、サボってるって思われて、店長に怒られるかな。
 やばい、どうしよう。
 何しても怒られる気がしてきた。
 店長に。
 店長について行ってみよう。
 俺は、一歩、二歩と、玄関に近づいて行き。
 玄関に辿り着いた。

 ガッシャーン!!!!!!!

 大きな音がした。
 胸の奥がキューってなる。

 ゆっくりと、後ろを振り向いた。

 ソナーの55インチのテレビが、段ボールに包まれた状態で、大きな石でできた花瓶に当たっている。
 店長はびっくりして出てきた。
「大丈夫か?」
「……はい」
「わかった」
 俺は、段ボールを外し、出たゴミを軽トラックに乗せた。
 テレビの下をせーので持ち上げ、玄関を通り過ぎ、リビングにお邪魔をし、テレビ台の上に載せ、足を調節し、2人で手を離した。
 前使われていたアンテナケーブルをテレビに繋ぎ、テレビからコンセントを繋いだ。
「立花くん、リモコンと説明書持ってきて」
 俺は、軽トラックに乗せた箱からリモコンと説明書を取り出し、家の中へと運んだ。
 そして、店長に渡した。
「ありがとう」
 お客様も、ソファの後ろで見守っている。
 そして。
 店長は、リモコンを手に取り。
 テレビを、つけた。

 真ん中から少し右に、ピーッと。
 一筋の線が、入っている。

 店長が恐る恐るお客様の方を振り返り、笑顔で口を開く。
「えー、このテレビ、今日、調子が悪いみたいですね、新しいのに変えます」
「ええ、今日今からですか?いいですよいいですよ」
「いやいや、新しいの持ってきます! 申し訳ございません」
 そして店長はすぐに主任に電話をする。
「田中。お願いがある。今すぐ配送センターにあるソナーの俺が売った55型のテレビの在庫を確保してほしい。俺がすぐに取りに行くことをセンター長に伝えてくれ」
 電話を切り、お客様にもう一度謝罪をする。
 俺と店長は、トラックに戻った。
「俺が運転する」
 店長がそう言うと、すぐに運転席に乗った。危機感を察知し、俺もすぐに助手席に乗った。店長はサイドブレーキを下ろし、レバーをドライブに合わせ、ハンドルを握り締め、すぐにアクセルを踏んだ。
「……お前のミスだよな」
 心が、ズキっと痛む。
「申し訳ございません」
「お前が持ち場を離れたから、テレビが壊れたんだ」
 心が、ズキズキっ、と痛む。
「申し訳、ございません」
「あの花瓶は割れてなかったか?」
「いや、よく見てません……」
「は?あんだけ時間があって、見てなかったのか?」
 心がズキズキっ、と痛む。
「はい……」
「あれが割れてたなんて言ったらすごい損害だぞ。お前、この件でどれだけの人に迷惑がかかってるかわかってるよな」
 心が、痛む。安定剤が、精神安定剤が欲しい。
「申し訳、ございません」
「お前、マジでふざけんなよ。売り逃したりとかも多いし。もっとちゃんと仕事しろよ。まじで。頼まれた仕事はちゃんとやれよ」
 心が、痛む。痛んでいく。どうしようもできない。
 店舗に着いた。
 俺は、すぐに主任のところに走って行った。
「本当に、手配させて申し訳ございません」
「いいよ、仕方ない」
「申し訳ございませんでした」
 涙が溢れなかったのは、その後の仕事に影響が出なかったのは、せめてもの救いだった。
 ……電話が鳴った。
 今、電話に一番近いのは、俺だ。
 テレビコーナーの机の電話。
 受話器を取る。
「お電話ありがとうございます、日本電機半田店、立花が承ります」
「エアコンがつかなかったんだけど、どうしてくれる?」
 心がズキズキと痛む。
 エアコンがつかなかった。今日が取り付け予定日だったけど、取り付け不可で業者に帰られたということか。
 どうしよう。
「申し訳ございません。すぐに新しいものとお取り替えいたしますので」
「今日中ね」
「申し訳ございません、今日中になりますと」
「上司に相談してこいよ」
「……はい、少々お待ちください」
 俺は、恐る恐るトランシーバーのマイクを入れた。
「……すみません今日工事できなかったお客様がエアコン改めて今日工事を希望なんですけど」
「そんなの無理に決まってるだろ、少し考えたらわかることだろお前」
「はい、申し訳ございません」
 受話器をもう一度取った。
「申し訳ございません、今日中は難しそうでして」
「は!?」
「申し訳ございません、本当に、申し訳ございません」
「無理。今日じゃないと無理」
「そう言われましても、申し訳ございません、今日中というわけにはいきませんでして……」
「明日から俺仕事忙しいんだよ。ふざけんな。今日絶対もってこい。約束しただろ、今日取付するって」
「取り付けられないという可能性もお話はしています」
「は? 聞いてないんだけど、そんな話。今日中だ。必ず今日中」
「大変申し訳ございません、今日中は無理でして……」
「だって、少し頑張ったりとか努力したりとかならわかるよ。でも、長さ測ってすぐ無理って言って帰るじゃねーか。ふざけんなよ。あんなんでわかるかよ」
「申し訳ございません……」
「ふざけんな。今日取り付けだ。今日」
 このやりとりが、30分続いた。
「……わかった。予定合わせてやるよ仕方ねえから。お前が無能だから」
 一連の対応が終わった後、俺は、精神安定剤を飲んだ。
「いらっしゃいませー」
 40代くらいのスーツを着た男性が、俺の方に向かってくる。
「……どうされましたか?」
 嫌な、予感がする。
「ちょっと、エアコンの見積もり作って欲しいんだけど」
「はい、どのエアコンをご希望でしょうか」
 エアコンコーナーへと移動する。
「これとこれとこれ、ちなみにエージョン行ってきたけどね、結構安かったよ」
「ちなみに値段は……」
「そんなの言えるわけないよー。早く作ってー」
「はい、かしこまりました。ちなみにつけるところは、1階でしょうか、2階でしょうか……」
「そんなことまで話さないといけないの?」
「はい、申し訳ございません、そこまで話していただかないと、値段は出せなくてですね……」
 心がズキズキと傷んでくる。
「えーっとね,片方が2階で室外機ベランダ、片方が1階で室外機地面」
「かしこまりました、少々お待ちください……」
 3分ほど時間をもらい、見積書を手書きで作った。
「こちらが、見積もりになります」
 お客様は、俺の目をじっと見て、言った。
「君、営業向いてないね」
 そして、ハハハと笑った。
「俺も営業やってるんだけどさ、その喋り方じゃあ買ってくれないよ〜。もっとハキハキと喋らないと」
 腕を組み、その男は楽しそうに話す。
 こんなふうに、店員を煽ることが楽しいのかな。俺は、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、自分で自分のことを殺したくなった。
 お客様は帰って行った。
 イヤホンに声が聞こえてくる。
「おい立花、テレビを壊した上にエアコン売り逃したのか」
 また、心がズキっと痛む。精神安定剤、効いていないかもしれない。
「……はい」
 もう、謝る元気も出てこない。
 
 休憩時間。
 俺は、高校の頃の部活動のグループにメッセージを送っていた。俯きながら。
「営業向いてないねって言われた」
 そしたら、1人の友達から返信が返ってきた。
「それ、カスハラじゃね?」
「カスハラ?」
「うん、カスタマーハラスメント。最近、お客様から店員に対するハラスメントが問題になってるらしいよ」
 カスタマーハラスメント……。初めて聞いたな。最近、色んなハラスメントが問題になってると思うんだけど、そんなのもあるんだ。確かに、心を抉ってくるようなことを毎日毎日言われると、ハラスメントっていう感じもしてくる。
 
 仕事が終わり家に着くと、奈々ちゃんからメッセージが来てる。
「ねえつらいつらいよー」
「そっか。奈々ちゃんは大丈夫だよ」
 俺はそれだけ送って、夜10時前だろうか、眠りについた。
 時計を見た。朝の9時半だ。
 11:00までに着替えて朝礼の場所まで行かなければならない。準備を、準備……。
 あ、あれ?
 体が。
 動かない……。
 手、しか。
 動、かない……。
「奈々ちゃん、体が、動かない……」
「大丈夫、、、、、、?」
(スタンプ)
 ……
 ばっと時計を見た。
 10:45。
 寝てた!!!!!
 やばい。
 やばい!
 行かなきゃ!
 遅れる!
 遅れる!!
 ベッドから起き上がり、着替え、顔を洗い、カバンを背負って、ドアノブに手をかけ、鍵を閉め、階段を降り、自転車を取り出し、スタンドを蹴った。
 やばい。
 早く漕がなきゃ。
 今日の始業は11時。
 信号はほとんど青。でも、間に合うことは絶望的。人を轢きそうになる。ハンドルをぐいっと曲げ、どうにかして速く運転する。風を切って、一気に漕いでいく。見えた。日本電機! 駐輪場にサーっと入り、スタンドを立てた。
 時間は……。
 10:59
 ……。
 胸が、ずきんずきんと痛む。
 もう、どうしようもない。
 スマホを開き、電話帳から店舗の携帯の番号を探し、発信ボタンを押して耳元に当てた。
「……はい」
「……お疲れ様です、副店長。少しだけ、遅れます」
「はい、早く来てください」
 すぐに裏口から入り、事務所にダッシュをする。アルバイトの女の子がじーっと俺を見守る。ロッカーにカバンをしまい、制服を着て、トランシーバーを装着し、事務所を出て、階段まで走り、階段を駆け上がり、重いドアを開けて、フロアに入り、テレビコーナーを駆け抜け、バックヤードへと辿り着く。
 副店長が、足を組んで、スマホを触っている。
「副店長、申し訳ございません、遅刻をしてしまいました」
「このミス、何回目?遅刻、2回目とか3回目とかじゃないよな」
「申し訳ございません」
「昨日何時に寝たんだ」
「10時前です」
「じゃあ何で寝坊したんだ」
 何で。なんで、寝坊をしてしまったんだろうか。
「……わかりません」
「あのさあ、1分前に連絡されてもこっち計画立てれんじゃんか。もっと遅刻するって決まった時点で連絡しろよ」
 心がずきんずきんと痛む。
「申し訳ございません」
「こんなことは俺が指導する範疇ではない。まじで幼稚」
「申し訳、ございません」
「もういい、売り場に立っとれ」
「はい」
 
 俺は、放心状態で売り場に出た。
 数分後、副店長からイヤホンに声が入った。
「店長がコロナウイルスにかかったそうです。1週間来ないそうです」
「はい」
「はい」
「はい」
 店長がコロナウイルス。
 俺も移ってないかな。
 大丈夫かな。
 ふらっと、冷蔵庫コーナーに行った。
 ……あれ?
 あの人たちは。
 この前、お金を忘れたって言って帰って行った家族連れじゃないか……!
「立花、さん?」
「はい」
「私たち、前お金を忘れたって言って帰った前田といいます」
「前田、様……」
「本当は、お金を忘れたって言って、いろんな店を回りたかったんです。でも、色々と回った結果、ここの店の立花さんの対応が良くて、戻ってきました」
 そ、そっか。
 戻って、来てくれたんだ。
「そうなんですね! ありがとうございます!」
「このパナソックスの冷蔵庫と、新生活応援パックを下さい!」
「わかりました!」
 手続きをし、会計を済ませた。
「ありがとうございます、次は洗濯機も壊れそうなので、その時は指名します」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
 こういう瞬間も、嬉しいって思えれば、いいんだけど。
 なんか、最近。
 全然。
 喜びを、感じなくなっている気がする。
 ブーッ、と、携帯が鳴る。
 上司が見ていないことを確認して、携帯を覗く。
 奈々ちゃんからだ。
「会社、行けた? 無理、しないでね」
 頬に、一粒の涙が溢れた。
 俊太からも、連絡が来ている。
「お前、本当につらかったら連絡してこいよ。また、クラブ行ってナンパしような」
 トランシーバーのマイクを入れた。
「立花トイレ行ってきます」
 お客様用の階段を駆け下り、トイレに駆け込んだ。
 鏡を見ると、涙でボロボロになっていた。
 ポケットからスマホを取り出し、俊太に電話してみた。
 ……
 0:00
「……もしもし、俊太?」
「おう、どうした。ちょうど休憩中だよ」
「仕事、辛いよ……」
「そっか、辛いよな。あんま、無理すんなよ」
「ああ、分かってるよ……分かってるんだけどさ、もう、俺、本当に、この仕事……」
「お前なら、大丈夫だ」
「……そっか」
「俺はもう仕事に戻るわ」
 電話が切れた。
 奈々ちゃんから、電話だ。
「奈々ちゃん……」
「フフ、透くんだ。ちゃんと会社行けた?」
「……遅刻して、怒られた……」
「……そっか。透くん、無理、しすぎてるかもしれないね」
「ねえ、奈々ちゃん、俺、死にたいよ……」
「そっかそっか。透くん、頑張ったね。私にとって透くんは、大切な存在だから。いなくなったらダメだよ。私が悲しんじゃうから」
「……そっか」
「じゃあね。私、仕事に戻るから」
 
 ハンカチを取り出し、涙を拭いた。
 もう、涙、出ないよな。
 それを確認して、階段を登り、売り場に戻り、トランシーバーのボタンを押して、ピンマイクに向かって話す。
「戻りました」

 それから1週間が経った。
「立花さん、ご指名のお客様がカウンターでお待ちです」
 ご指名のお客様……?
「はい、今行きます」
 カウンターへと走った。そこで待っていたのは。
 あの時の、外壁塗装注文した、ご年配のお客様だった。
 そうだった。
 店長が準備しておくからって言ったのを聞いて、完全に安心し切っていた。店長はコロナにかかってしまった。なら。俺が、ちゃんと準備しておかなければいけなかった。失敗した。俺のミスだ。どうすればいい。どうすればいいんだ。
「100万、持ってきたんだけど」
「……は、はい、そうですか、はい、そうですか」
 やばいやばい、どうすればいい。何も言葉が出てこない。心がずきんずきんと痛む。だめだ。安定剤が欲しい。精神安定剤が欲しい。店長はコロナで休み。どうすればいい。どうすればいい。
「えーっと、えーっと……少々、お待ちください」
 ……店長に、電話だ。
「副店長、店長に電話したいので、店舗のスマホをお借りしたいです」
「了解」
 副店長からスマホを受け取り、電話帳から店長を見つけて通話ボタンを押した。
「……はい」
「お疲れ様です、立花です。あの、店長」
「はい」
「外壁のお客様来られたんですけど、どうすればいいですか……」
「外壁のお客様……?俺何もやってないけど……」
「そ、そうですよね、ど、どうすればいいんですか?」
「どうすればいいかって、知らんけど……」
「そ、そうですよね」
 心臓がどくどく言っているのがわかる。
「お前、俺がコロナになったって時点で準備しとかないといけなかったんじゃないの」
「そ、そうなんですけど……」
「お客様待ってるんでしょ? 行ってきなさいよ」
「……はい」
 お客様の方に、ダッシュで向かった。でも、でも……何も、何も、出来ない……。死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……。もう、極限状態だよ……。
「あ、あの……」
「何で準備しとらんのだ!」
 机をバン!と叩く音がする。
「もういいわ! こんなの」
 心がズキズキと痛む。
 頭が真っ青になる。
 100万円の案件が。
 お客様が。
 目の前から。
 消える。
 イヤホンから副店長の声が聞こえる。
「おい、立花。どうしたんだ。外壁のお客様逃したのか」
 やばい。
 何も。
 何も、できない。
「おい、立花。返事しろ」
 声が。出ない。
 手が、動かない。ボタンが、押せない……。
「無視とかありえんのだけどほんと」
 それでも、恐怖で、体が、手が、口が、足が、全く、動かない……。
「返事をしろって言ってんだよお!」
「申し訳ございません」
「もういい。お前、帰れ」
「帰、れ……?」
「お前は売り場に必要ない。今すぐ帰れ」
「……はい」
 ゆっくりと動く足。重い扉を開き、階段を降りる。倉庫に出て、事務所のドアを開ける。事務所には誰もいない。事務所に入ったところで体の力がスッと抜け、パタン、と、倒れてしまった。横になる中で、上司の、お客様の声が心の中で響く。ゆっくりと立ち上がり、着替え、裏口から店を出た。
 いつもよりも重いペダルを漕ぐ。赤信号が多い気がする。昼の3時だけど今日は早上がりだった。明日から仕事、行ってもいいのかな。……あ、奈々ちゃんから連絡が来てる。
「ねえ、今から会える?」
 今から、か……。
「ごめん、仕事中だから、会えない」
「そっか……」
 家に帰って、ベッドに寝転がる。自然に涙が大量に溢れる。それで枕を濡らす。もう、頭の中は真っ黒になっている。
 そこからの記憶はない。気づいたら朝だった、それだけ。時計を見ると、7:00を指している。今日は何となく、いつも作らない朝ごはんを作りたくなった。フライパンをコンロに置き、卵を落とす。箸でくるくると混ぜ、塩胡椒をかける。それをお皿に乗せ、机に運ぶ。レンジに入れておいたパックごはんを取り出す。それを、机に運ぶ。手を合わせて、朝ごはんを食べる。
 今日は、大丈夫かな。
 スマホに、連絡が来ている。佐藤さんからだ。
「昨日、大丈夫だった……?」
「……うん。大丈夫」
「今日、来れる……?」
「頑張って、行くよ」
 お皿を片付け、歯磨きをし、髪の毛を濡らして真ん中を立たせながらドライヤーで乾かす。ワックスをつけて、おでこを見せた清潔感のある髪型にセットする。ベッドに戻り、スマホをいじる。検索する単語は、死にたいとか、消えてなくなりたいとか。SNSの裏垢で、死にたいってたくさん打ち込む。そんなことしかできない。
 心が辛くなると、なんか、下にすごく押しつぶされるような感覚を覚える。それで、取り消せない苦しみがたくさん襲ってくる。
 もうすぐ会社に行かなきゃって思うから、カバンを背負ってドアノブに手をかけ外に出て、自転車のスタンドを上げる。今日は天気がいい。会社、行きたくない。
 事務所に着くと、佐藤さんがいた。茶髪になってる。最近染めたのかな。まつげがくるんと上がっている。ぱっちりと開いた目、ピンクのアイシャドウがとても似合っている。でも、その顔に笑みは少しもなかった。
「大丈夫だよ、立花くん。多分、大丈夫」
「そっか……。ありがとね」
「私もさ、つらいの。本当に、つらいの……行かなきゃ」
「そうだね」
 遅番の俺たちは並んで、階段を登り、バックヤードへと移動した。
 コロナから復帰した店長がパソコンの前で足を組んでスマホを触っている。
 11:00になる。
「おはようございます。僕がいない間に、外壁塗装の案件が、流れたらしいな」
「申し訳ございません、流れてしまいました」
「立花、お前のミスだよな」
「はい……」
「ちゃんと準備をしておくくらい出来たはずだ。何でやってなかった」
「……申し訳」
「何でやってなかったかって聞いてんだよ!」
「……忘れて、ました」
「……そっか。お前にとって、仕事ってその程度なんだ。じゃあ俺もお前がそういう意識だってことでこれから接するわ。じゃあ、朝礼始めます。あ、立花は聞かなくていいよ。売り場行ってて。やる気ないでしょ。覚える気ないでしょ」
「いや……」
「早く売り場に行きなさい」
「はい……」
 売り場に出て、お客様を見渡す。
 ……誰も、いない。
 そういう時は、お客様を探さないと怒られるから、お店をぐるっと一周してる途中。
 洗濯機コーナーに、髪を全て後ろに持っていくヘアスタイルの、20代後半くらいだろうか、清潔感に満ちた女性が立っていた。
 やばい。
 行きたくない。行きたくない。行きたくない。行きたくない。
 これから、どんな怒られが待っているのだろうか。
 周りを見て、精神安定剤をサッと口に入れた。
 それでも、体は動かない。
 アプローチしなきゃ。怒られる。こんなところを副店長に見られたら、怒られる。
 舌を、思いっきり噛む。痛みで、恐怖感を忘れるんだ。それでも、体は動いてくれない。親指の爪で、中指の第一関節をグッと押す。めちゃくちゃ痛い。足が動く。お客様との距離が、どんどん近づいていく。
 近くまで来た。
 挨拶が、できない。口の形を「い」にし、首の真ん中あたりにある声帯に力を入れる。
「い、らっしゃいませ、こんにちは……」
「あのー、お聞きしたいのですが」
 こちらをチラッと見る。
 背筋がゾゾっとよだつ。
 どんなことを聞かれるのだろうか。
「はい」
「私、新しく洗濯機を買い替えようと思っておりまして、どのメーカーがいいのか迷っているのですが、電気代はいいので、できるだけシワが伸びるドラム式洗濯機が良くてですね……」
 言葉遣いが丁寧だ……。そんな印象を受ける。
 整理しろ。今なんて言った。洗濯機を買い替えたい。電気代よりもシワ伸ばし機能を重視したメーカーの洗濯機が欲しい。
「なるほど、でしたら、このヒタツの洗濯機がおすすめです! 電気代は少しかさみますが、強い風でシワを伸ばしてくれる機能がついております」
「そうなんですね、だいたいお値段はおいくらくらいにしていただけるのでしょうか……」
 胸がグッと痛くなる。値引き交渉。本当に最近、嫌いな値引き交渉。どうしよう、どうしよう。言葉が出てこない。
「えーっとそうですね……」
「えーっとそうですねえ?」
 聞き返された。やばい。胸がずきんずきんと痛む。お客様の沸点に、逆鱗に触れたかもしれない……。
「あ、いや、あの……」
「私も接客業をやってるんだけどさ、そんな言葉遣いはないでしょ。私客だよ? ぶっちゃけあんたさあ」
 胸がグサっと痛む。下に押される感覚がすごい。
「接客業、向いてないよ」
 ふらっと。
 体の力が抜けた。
 倒れそうになったところで、意識を取り戻した。
『接客業、向いてないよ』
『接客業、向いてないよ』
『接客業、向いてないよ』
『接客業、向いてないよ』
『接客業、向いてないよ』
 もう、お客様はどこかへ行ってしまっていた。
 イヤホンから声が聞こえてくる。
「おーい、立花。お客様帰っちゃったんか」
「……は、はい、申し訳ございません」
「お前ほんと使えないな」
「……はい」

 最寄りの知多半田駅に、特急電車が停まった。それに足を踏み入れる。
 スマホを触りながら、約35分過ごすと、金山という駅に着く。そこで沢山の人が降りるのに続いて降り、名鉄の改札を出る。曲がると地下鉄に続くエスカレーターがあるから、そこに向かう。三列になっていて、立ち止まりましょうというアナウンスが常に流れている。そこを下ると、「名城線」という地下鉄が現れる。環状線になっていて、ちょうど左回りがやってきた。それに乗る。東別院、上前津、矢場町を経て、栄に到着する。大量の人が降りる。改札を出て、4番出口を出る。街中にある大きなビル。その中の一つ、三階に、俺が通うクリニックがある。入ると、保険証と診察券の提示を求められるから、それを渡す。待合室で待たされる。今日も人がものすごく多い。
「521番でお待ちの方ー、カウンセリング室へどうぞー」
 カウンセリング室に案内される。
「最近、調子はどうですか……?」
 言葉が、出てこない。
 全然、言葉が出てこない。
「ゆっくりでいいからね、ゆっくりでいいから、話してごらん」
「えっと……胸がずきんずきんとずーっと痛みます」
「そっか……。それは、何か理由があるのかな?」
「色々……つらいことが、多くて……説明、難しい、できない……」
 涙がたくさん溢れてきた。
「そっかそっか。無理、しなくていいよ。頑張ったね。私ももうこれ以上何にも聞かないから……」
 そのまま、30分が経過した。
 カウンセリング室を出て、待合室に座る。10分ほど待つと、診察室3番が開き、事務員が出てくる。
「521番の方ー」
 俺は、診察室へと向かう。
「最近、調子はどうでしょうか」
「怒られると、胸がずきんずきんと痛みます。この前、ストレスで、事務所で全身の力が抜け、パタンと倒れてしまいました。何度も、胸がずきんずきんと痛みます。10時に寝たのに、11時に間に合いませんでした。ミスが多くて、やり忘れが多くて、もう、どうすればいいのかわかりません。僕がやっている仕事っていうのは、接客業、営業の2つの側面を持っていて、その全てをしっかりとやらないと、接客業をやっているお客様や、営業をやっているお客様に失礼に当たる仕事だっていうことがわかったんですよ」
 看護師さんが必死でパソコンにメモを取る。
 先生は、俺の話をうんうんと頷きながら聞く。
「それで、みんな『気にしない』って精神でやっているみたいなんですけど、僕にはそれが出来なくて。値引き交渉も、お客さんには下げろって言われて、上司に相談するとお前の営業力が足りないからそう言われるんだ、って言われて」
「はいはい」
「毎日金縛りがすごくて」
「はい」
「それで、お客様の圧がすごくて、テレビを倒した時に怒られて、仕事中にトイレに行って涙を流して、精神安定剤を飲んでるんですけど正直全く効かなくて、心がずきんずきんと傷んで……もっと、もっともっと、精神安定剤を増やして欲しいんですけど……」
「……なるほど……」
 先生が、こちらを見て、少し、微笑む。
「……もう、大丈夫です。今まで、頑張りましたね」
「……どういう、ことですか?」
「あなたは今、深刻なうつ状態になっています。うつ病、ということで診断書を出しておきますから、明日から仕事を1ヶ月間休んでください」
 瞬間、体がふっと。軽く、浮いたような感じがした。
「……へ? 1ヶ月、仕事を、休む……?」
「はい、休んでください」
「いや、でも、引き継ぎとか、シフトとか……」
「そんなのは、いいから。とにかく、休んでください。今の状態だと、本当に危険です。絶対、休んでください。多分、3ヶ月以上は休職が必要だと思われます」
「でも、そうしたら、会社の人たちにうつ病って暴露しなきゃいけないじゃないですか。友達と遊ぶにも予定を合わせたりする時とか会話でも休んでるなんてことだったら辻褄が合わないし、俺そんな嘘とか得意な方でもないし、だから、うつ病って言わないといけないし……」
「その秘密を守るのと、命を落とすのとではどちらがいいですか」
「命を、落とす……?」
「死にたいって、考えることがありますでしょう。それを、衝動的に実行にうつすかもしれない、って言ってるんです」
「でも、正直、こんなに苦しいのなら、死んでも……」
「だから、危険なんですよ」
「でも、でも僕、そういう心が弱い人だって、そういう類の人だって、思われたくないですよ、気を遣われたくないですよ、なんか、こんなに勉強頑張ったのに、高い学歴を獲得したのに、経験人数だって多いのに……」
 先生の目を、見つめる。
「うつ病なんてレッテル貼られるの、嫌じゃないですかぁ……ねえ、嫌じゃないですかぁ……こんなに必死で生きてきたのに、何でそんなレッテルを貼られなきゃいけないんですか……そんなん、嫌じゃないですかぁ……グスッ……グスッ……嫌じゃ、ないですかぁ……」
「うつ病は、誰でもなりうる病気です。最悪の場合、死に至ります。このまま仕事を続けたら、本当に危険です。休みましょう。うつ病と暴露することで、何か見える世界が変わることだってあります。考え方が大きく変わって、自分をアップデートすることが、できるかもしれません。うつ病が治ったら、今よりも必ず、良い結果に繋がります。必ずです。だから、休んでください」
「……はい、わかりましたぁ……」
 会計を済ませ、クリニックを出た。薬局では、大量の薬が出された。俺は、薬局を出て、栄の人がたくさんいる大通りで、震える手でスマホを持って、電話帳を開き、「店長」と書かれた部分をタップし、発信をタップした。そのまま、スマホを耳元に持ってきた。
「……はい」
「お疲れ様です、立花です」
「はい」
「申し訳ございません、うつ病にかかってしまいまして、今月1ヶ月お休みを頂きたいです……」
「……そうかぁ、考えすぎちゃうんだな……」
 ……怒って、ないっぽい。
「分かった、1ヶ月休みを入れておく。診断書は、持ってこれるのか?」
「はい。今日、持ってこれます」
「分かった。何時でもいいで、待ってる。まあ、お前は、『この連絡を俺にする』っていう一番難しいところを終えたんだから、大丈夫だ」
「わかりました」

 自分がどんな人間に思われているかなんて、正直、他の人間になったことがないからわからない。ただ、少なくとも、精神疾患という、うつ病というレッテルを貼られたら、自分の価値が下がると、そう、思ってしまう。今でも、そう、思ってしまう。
 これからは、それを背負って生きていくことになる。
 それも、辛いな。