桜晴からの長い手紙を読み終えた私は、静かに両目から涙が溢れ出るのを感じた。
 お母さんが私の部屋の前まで来て「夜ご飯どうする? どこかに食べに行く?」と聞いてきたけれど、返事ができない。「ううっ」と鼻を啜る声が聞こえたからか、お母さんはしばらくすると静かに部屋の前から去っていった。
 世界一あたたかくて切なくて、大切な言葉がここにある。
 散りばめられた桜晴の想いが、胸の中で溶けて、私の身体の一部になる。

「桜晴のばか……」

 こんな手紙残されたら、一生忘れられないじゃない。
 もう誰のことも好きになれないじゃない。
 でも……それでいいんだ。
 私だってきみのことが好きなんだもん。この気持ちはきっと一生なくならない。
 もし、大人になって他の誰かを好きになったとしても消えない。
 だってきみの心臓は、生涯死ぬまで私のものなんだから。

 溢れてくる涙を押しとどめることもなく、今度は桜晴の書いた小説のノートを開く。
 一ページ目に現れたタイトルを見て、心臓が飛び上がりそうになった。

『僕の命をきみに捧げるまでの一週間』。

「なによこれ……」

 本当に、桜晴はずるい。
 こんなものを、残して逝ってしまうなんて。
 私は、あなたの書いた物語を読まずにはいられない。

『誰かと人生を入れ替えたいと思ったことはあるだろうか。

 僕は何度も、願ってきた。
 自分じゃない誰かになりたい。
 教室で楽しそうに笑うあの人は、背中から羽が生えたように自由に人生を飛び回っている。
 まだ会ったことのない、性別も違う誰かになって、今までやれなかったことをやってみたい。
 僕が僕であるゆえんがこの身体にあるのだとすれば、誰かの身体を借りて、新しい自分に生まれ変わりたい。
 僕はまだ何者でもないはずだから、誰にだってなれるはずだ。
 明日はきみと、入れ替わっているかもしれないと思うと、僕の心は想像するだけでふわりと軽くなる。
 僕は、無理して僕を続けなくていい。
 それだけで救われることがある。
 だから僕は、今日も誰かの人生と、少しだけ入れ替わろうと思う。
 晴れた日にさらさらと流れていく川を橋の上から眺めながら、目を閉じて、強く強く、請い願う。
 どうか僕に、別の人生をくださいっ!
 男でも女でも、子供でも大人でもいい。
 もう一度、新しい日々に連れて行ってください。
 まばゆい光に包まれて、水が流れる音が、ふいに断ち切られる。
 ホワイトアウトする視界の中で、僕の身体がにょいいいんと引き伸ばされるような感覚がして。
 僕はまっすぐに、きみの身体へと吸い込まれていった。』


 プロローグを読んですぐに、この小説が桜晴と私の入れ替わりの実体験のことを書いているのだと分かって胸が苦しくなった。
 ページをめくる。ところどころ、端っこが黒く汚れているのは彼が一心不乱に文章を書き綴り、鉛筆が擦れてしまったせいだろう。彼と私が入れ替わってからの日々が、ほとんどそのまま物語に落とし込まれている。小説は主人公である彼と、ヒロインの私の視点が交互に繰り返される形式で進んでいた。さすがに登場人物の名前は変えてあったが、私からすれば自分たちのことだということは一目瞭然だ。

 女の子の視点の方は桜晴の想像で書かれているはずなのに、まるで本当に自分が体験してきたことのようで、気がつけばこの一年ほどの出来事を振り返っていた。

 体育の授業でクラスの女の子たちに、陰口を言われて凹んだこと。
 美瑛神社で聞こえて来た天の声に導かれるようにして、私も誰かと自分の人生を入れ替えたいと願ったこと。
 たまたま入れ替わった桜晴と、ノートで日記をやり取りしたこと。
 江川くんと友達になったこと。
 ……心臓移植のドナーが、桜晴だと知ってしまったこと。
 私たちの大切な最後の一週間が始まって、存分に楽しんだこと。
 彼を、たまらなく愛しいと思ったこと。
 桜晴と入れ替わっていた時の記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

「いやだ……桜晴……っ。消えてなくならないでほしいよっ……」

 桜晴はもうとっくにこの世にはいないのに、小説を読みながら、彼の存在が消えてしまうんじゃないかという恐怖に駆られた。
 だって、桜晴がいない今、彼と私の奇跡の時間のことを覚えているのは自分一人なんだもの。
 抱えきれるはずがない。
 どうにかして、この小説をこの世界に解き放ちたい。
 桜晴が生きた証を、私と繋がっていた証拠を残したい。
 小説を最後まで読んだ。彼と過ごした最後の一週間が、鮮明に蘇る。 
 彼がくれた言葉が、波のように押し寄せて、私の胸の前で弾けた。


『明日の朝、入れ替わりがすでに終了していると知って絶望感に打ちひしがれているきみへ。
「ごめん」も、「ありがとう」も、もう飽き飽きしていると思うから、最後にこれだけ伝えさせてください。
 何度だって言う。
 僕はきみのことが好きだ。
 僕はきみのことを愛している。
 だからきみは胸を張って生きて。
 さようなら。僕の最愛のきみ。
 きみの幸せを、遠くからずっと見守っているよ』


「お母さん」

 小説を読み終えてひとしきり泣いたあと、私は一階に降りて母を呼びかけた。母はまだ晩ご飯を食べていなかった。コンピニで買ってきたのだろうか。色とりどりのお寿司が、テーブルの上に並べられている。時刻は午後九時、お母さんは相当お腹が空いているだろう。私の腹の虫も、そろそろ限界に近づいていた。それでも、心配そうに私を見つめる母に、私は一言こう告げた。

「相談があるの」