***
小学生になったばかりの頃、私は心臓病を発症した。
父と同じ病気だった。その時まで父が心臓病だということを知らなくて、お母さんから「お父さんも同じだったの」と言われた時には、軽い衝撃を覚えた。
私も、お父さんみたいにいなくなってしまうのかな。
幼いながら、自分が消えてしまう未来を想像して、心が恐怖で埋め尽くされていった。
それからの日々は、入退院の繰り返し。学校に行ける期間があっても、運動はもちろん禁止だ。友達はまともにできなかった。体調が悪い時は、四六時中病院のベッドに張り付いていた。
——美雨、心臓移植のドナーが決まったって、さっき連絡があったわっ。
穏やかな風が病院の窓から吹きつけていた、二〇二五年四月の終わり頃。中学二年生になったばかりの私は、まだ一度も学校に行けていないことに焦りを覚えていた。
その最中、突如舞い込んできた母からの朗報に、聞き間違いかと思った私は信じられなくて、もう一度「なに?」と聞き返した。
——だから、ドナーが見つかったのよ!
——ドナー……。
——ええ。明後日には手術ができると言っているわ。どうする?
——ちょっと待って。ドナー、手術、えっと……。
逸る気持ちを抑えるような勢いで「ドナーが見つかった」と告げる母のテンションに、思考が追いついていなかった。この日だって、いつもと変わらない病院での無機質な一日が始まるのだと思っていた。飲みたくもない薬を大量に飲まされて、明日終わるかもしれない心臓の爆弾に怯えている。病気が発覚してからというもの、私の毎日はいつも死と隣り合せだったから。
突然、ドナーが現れたと言われても、どうすればいいか分からなかった。もちろん、可能なら移植をして健康な心臓を手に入れたい。でも、ドナーが見つかったということは、そのドナーとなる人が死んでしまうということだ。
心臓を提供してくれるパターンは、すなわちその人が脳死状態になってしまったというものが多い。中学二年生の私でも、さすがにそれくらいは理解できた。だから、母が興奮しながらドナーの存在を伝えに来たことに、違和感が拭えなかった。
私は、小一時間考えた上で、結局心臓移植を受けることに決めた。
母は心底ほっとして、腰が抜けたようにへたり込んだ。
私はそんな母に、ふとこう漏らした。
——病気が治るのは嬉しいけど、私が命をもらうってことは、誰かが命を失うってことだよね。
私の言葉にはっとしたのか、母の身体がふるっと揺れた。
——そうね。そうだわ。命を、いただくんだもの……手放しでは喜べないわね。感謝の気持ちを忘れないようにしないと。
——うん。
それからは母も冷静になったのか、粛々と手術の日程を伝えてくれた。
主治医の灰谷先生がやってきて、移植についての細かい説明を受ける。私と母は熱心に先生の話を聞いて、同意書にサインを施した。
——では、こちらで同意されたとみなします。手術まで、安静に過ごされてください。
灰谷先生は淡々とした口調で説明を終えた。私の病気が治ることを一番に考えてくれていた人だ。だが流石に、心臓移植で命を失う人のことを考えているのか、ずっと冷静な表情をしていた。
私はそれから手術の日まで、母にドナーの人のことを聞いた。でも母は、詳しいことはあまり教えてくれなかった。
——私が知ってるのは、修学旅行で東京からいらしていた方、ということぐらいで……。美瑛から富良野に行く観光バスが、事故に遭ってしまったんですって。
——修学旅行生の事故?
——ええ。とても、可哀想よね……。一人だけ、頭の打ちどころが悪くて、脳死状態になってしまったらしいの。
——そう、だったんだ。
その人の名前や、性別や、年齢は、教えてくれなかった。
あまり詳細に話してしまうと、私の決意が揺らいでしまうと思ったのかもしれない。私もそれ以上は、深く追及することができなかった。
数日後、心臓移植を終えた私は、自分の中で脈打っている心臓が、誰かのものだなんて信じられない気分だった。たくさんの管に繋がれて、何日も寝たきりで過ごした。命を譲ってもらったはずなのに、身体の痛みに何度も涙が溢れた。
それでも私は、起きている時間はずっとドナーのことを考えた。
この心臓の持ち主だって、本当は生きたかったはずだよね……。
私の気持ちに反応しているのか、心臓がシクシク痛んでいるような気がした。気のせいだと分かっていても、ドナーの心が泣いていると思ってしまう。
母は、私の命が救われたことに心底ほっとしている様子で、お見舞いの時には「退院したらどこに行こう」なんて話を延々と繰り返す。そんな話を聞くたびに、会ったことのないこの心臓の元の持ち主のことを思って、涙を流した。
私がこの人のことを、殺してしまったんだ。
この人の生きる未来を奪ってしまった。
そう思うことが正義ではないと知っているはずなのに、どうしてもそんなふうに考えてしまう自分がいた。
塞ぎ込んでいた私に優しい言葉をかけてくれたのは、灰谷先生だった。
——美雨ちゃん。僕は、きみが心臓移植を受けてくれたことを、誇りに思っているんだ。それはきみが自分の命を守ったから、というのもそうだけど、同時にドナーの相手の心も守ったからだよ。
——ドナーの心を守った?
——そう。きみが正面から相手の命を向き合って、ドナーと共に生きることを選んだんだ。向こうの家族だって、こうしてきみの身体の
中でドナーが生きていると思えることが、希望になる。
——家族……。
そうだ。ドナーの人にも愛する家族がいる。その家族の気持ちまで考えて、私はずっと悲しかった。でも先生の言うとおり、一緒に生きていると思えば、どれだけ心強いだろう。
——美雨ちゃん。どうか前を向いて、きみの未来を生きてほしい。これは僕と、きみの家族と、ドナーと、その家族の願いだ。
——……はい。
小学生になったばかりの頃、私は心臓病を発症した。
父と同じ病気だった。その時まで父が心臓病だということを知らなくて、お母さんから「お父さんも同じだったの」と言われた時には、軽い衝撃を覚えた。
私も、お父さんみたいにいなくなってしまうのかな。
幼いながら、自分が消えてしまう未来を想像して、心が恐怖で埋め尽くされていった。
それからの日々は、入退院の繰り返し。学校に行ける期間があっても、運動はもちろん禁止だ。友達はまともにできなかった。体調が悪い時は、四六時中病院のベッドに張り付いていた。
——美雨、心臓移植のドナーが決まったって、さっき連絡があったわっ。
穏やかな風が病院の窓から吹きつけていた、二〇二五年四月の終わり頃。中学二年生になったばかりの私は、まだ一度も学校に行けていないことに焦りを覚えていた。
その最中、突如舞い込んできた母からの朗報に、聞き間違いかと思った私は信じられなくて、もう一度「なに?」と聞き返した。
——だから、ドナーが見つかったのよ!
——ドナー……。
——ええ。明後日には手術ができると言っているわ。どうする?
——ちょっと待って。ドナー、手術、えっと……。
逸る気持ちを抑えるような勢いで「ドナーが見つかった」と告げる母のテンションに、思考が追いついていなかった。この日だって、いつもと変わらない病院での無機質な一日が始まるのだと思っていた。飲みたくもない薬を大量に飲まされて、明日終わるかもしれない心臓の爆弾に怯えている。病気が発覚してからというもの、私の毎日はいつも死と隣り合せだったから。
突然、ドナーが現れたと言われても、どうすればいいか分からなかった。もちろん、可能なら移植をして健康な心臓を手に入れたい。でも、ドナーが見つかったということは、そのドナーとなる人が死んでしまうということだ。
心臓を提供してくれるパターンは、すなわちその人が脳死状態になってしまったというものが多い。中学二年生の私でも、さすがにそれくらいは理解できた。だから、母が興奮しながらドナーの存在を伝えに来たことに、違和感が拭えなかった。
私は、小一時間考えた上で、結局心臓移植を受けることに決めた。
母は心底ほっとして、腰が抜けたようにへたり込んだ。
私はそんな母に、ふとこう漏らした。
——病気が治るのは嬉しいけど、私が命をもらうってことは、誰かが命を失うってことだよね。
私の言葉にはっとしたのか、母の身体がふるっと揺れた。
——そうね。そうだわ。命を、いただくんだもの……手放しでは喜べないわね。感謝の気持ちを忘れないようにしないと。
——うん。
それからは母も冷静になったのか、粛々と手術の日程を伝えてくれた。
主治医の灰谷先生がやってきて、移植についての細かい説明を受ける。私と母は熱心に先生の話を聞いて、同意書にサインを施した。
——では、こちらで同意されたとみなします。手術まで、安静に過ごされてください。
灰谷先生は淡々とした口調で説明を終えた。私の病気が治ることを一番に考えてくれていた人だ。だが流石に、心臓移植で命を失う人のことを考えているのか、ずっと冷静な表情をしていた。
私はそれから手術の日まで、母にドナーの人のことを聞いた。でも母は、詳しいことはあまり教えてくれなかった。
——私が知ってるのは、修学旅行で東京からいらしていた方、ということぐらいで……。美瑛から富良野に行く観光バスが、事故に遭ってしまったんですって。
——修学旅行生の事故?
——ええ。とても、可哀想よね……。一人だけ、頭の打ちどころが悪くて、脳死状態になってしまったらしいの。
——そう、だったんだ。
その人の名前や、性別や、年齢は、教えてくれなかった。
あまり詳細に話してしまうと、私の決意が揺らいでしまうと思ったのかもしれない。私もそれ以上は、深く追及することができなかった。
数日後、心臓移植を終えた私は、自分の中で脈打っている心臓が、誰かのものだなんて信じられない気分だった。たくさんの管に繋がれて、何日も寝たきりで過ごした。命を譲ってもらったはずなのに、身体の痛みに何度も涙が溢れた。
それでも私は、起きている時間はずっとドナーのことを考えた。
この心臓の持ち主だって、本当は生きたかったはずだよね……。
私の気持ちに反応しているのか、心臓がシクシク痛んでいるような気がした。気のせいだと分かっていても、ドナーの心が泣いていると思ってしまう。
母は、私の命が救われたことに心底ほっとしている様子で、お見舞いの時には「退院したらどこに行こう」なんて話を延々と繰り返す。そんな話を聞くたびに、会ったことのないこの心臓の元の持ち主のことを思って、涙を流した。
私がこの人のことを、殺してしまったんだ。
この人の生きる未来を奪ってしまった。
そう思うことが正義ではないと知っているはずなのに、どうしてもそんなふうに考えてしまう自分がいた。
塞ぎ込んでいた私に優しい言葉をかけてくれたのは、灰谷先生だった。
——美雨ちゃん。僕は、きみが心臓移植を受けてくれたことを、誇りに思っているんだ。それはきみが自分の命を守ったから、というのもそうだけど、同時にドナーの相手の心も守ったからだよ。
——ドナーの心を守った?
——そう。きみが正面から相手の命を向き合って、ドナーと共に生きることを選んだんだ。向こうの家族だって、こうしてきみの身体の
中でドナーが生きていると思えることが、希望になる。
——家族……。
そうだ。ドナーの人にも愛する家族がいる。その家族の気持ちまで考えて、私はずっと悲しかった。でも先生の言うとおり、一緒に生きていると思えば、どれだけ心強いだろう。
——美雨ちゃん。どうか前を向いて、きみの未来を生きてほしい。これは僕と、きみの家族と、ドナーと、その家族の願いだ。
——……はい。