十一月三日、週のど真ん中に、僕は美雨の母親に連れられて病院へとやって来ていた。外は今年初の雪が降っている。こんな時期に降る雪を見たのは初めてで、車窓から外を眺めていると、本当に自分が北海道に住んでいることを実感した。
「あー昨日タイヤ変えといて良かったわ。この感じじゃ、もうちょっと降りそうねえ」
病院の待合で一人呟いた美雨の母親は、小さくため息をついた。
それにしてもこの病院……思ったよりも広いな。まあ、隣町まで車を走らせている時点で、うっすらと予想はしていた。わざわざ平日に学校を遅刻してまで行くところなんだから、町医者ではないと思っていたけれど。
どう見ても総合病院らしい病院の受付で、僕は内心ソワソワとしている。
「有坂美雨さん、診察室へどうぞ」
受付で名前を呼ばれて母親と一緒に診察室へと向かう。一体何の検査をするのか、緊張が解けない。
「こんにちは」
診察室の中にいた医者は、四十代ぐらいの優しそうな男性だった。胸には「灰谷」と名札がついている。僕はすぐにほっと胸を撫で下ろす。威圧的な感じの人だったら、ずっと緊張しっぱなしだっただろう。
「有坂さん、その後身体の調子はどうですか? 何か悪いところなど出てませんか?」
医者の質問に対し、僕は首を横に振る。美雨の身体で、不調を感じたことはない。母親も、特に何も言わなかった。
「それなら良かった。じゃあ、いつものようにレントゲンだけ撮らせてもらえるかな? 問題なければそれで検査は終了しますね」
「は、はい」
レントゲン……一体、どこを撮るんだろうか。
疑問に思っていたが、レントゲン室に入ると、胸を撮るのだと分かった。
「じゃあいきますね」
合図と共にレントゲン撮影が行われる。心臓が、バクバクと音を立てていた。
「はい、終わりました。ではまた診察室へどうぞ」
医者に言われるがままに診察室へと戻っていく。
僕は再び母親の隣の椅子に腰掛けた。医者が、先ほど撮影したレントゲンの写真をモニターに映し出す。僕は画面をじっと見つめた。
「レントゲンで見ましたが、有坂さんの心臓——移植してから今まで、特に問題ないようですね」
「はあ。良かったです」
母親が安堵のため息を漏らす。僕は心の中で、医者が発した「移植」という言葉に取り憑かれた気分になった。
心臓移植。
今医者はそう言った。
美雨の心臓は、誰かの心臓を移植したものだったのか……。
でもどうしてそんなこと——なんて、考える余地もなかった。
「病気で辛い思いをした分、元気な姿を見ると私もほっとするんです」
母親の発言を聞いて、僕は息をのむ。
美雨は、かつて心臓の病気だった。移植をする場面は他にもあると思うが、美雨の母親の言葉からすぐに察することができた。
「そうですね。不自由な思いをした分、今は無理のない範囲で普通の生活を送ってほしいです。医者として僕も、同じ意見です」
「灰谷先生……本当に、ありがとうございます」
何度も何度も、美雨の母親が頭を下げるたびに、パーマのかかった美しい黒髪が僕の視界の隅で揺れた。僕も、つられてお辞儀をする。灰谷先生はにっこりと笑って、「また来年の定期検診で。それ以外で何か心配事があればいつでも来てください」と言ってくれた。
母親に付き添われて、診察室を後にする。受付で会計を済ますと、再び車に乗り込んだ。
「何事もなくて良かったわね」
「う、うん」
心臓移植について先ほど知ったばかりの僕は、母親の言葉になんと返事をすれば良いか分からない。曖昧に頷いただけだったけれど、どうやら不審には思わなかったようだ。
「最近、学校はどう? 楽しい?」
運転席に座った母親が、車のエンジンをかける。僕は助手席でシートベルトを締めて、「楽しいよ」と答えた。
「そう。美雨が普通に学校生活を送れているなら、それ以上に嬉しいことはないわ」
彼女の言葉はどこか湿り気を帯びていて、胸のうちに芽生えた少しの罪悪感が、チクチクと心臓に針を刺すみたいに痛く感じた。
僕は……美雨じゃないんだ。
母親にそんな突飛な話、できるわけがない。美雨の身体や生活のことを心から心配している母親の言葉を聞くべきなのは、僕じゃなくて美雨であるはずなのに。
この入れ替わりで初めて、彼女の居場所を奪ってしまったという罪の意識を感じた。
「そういえば、体育の授業はどうなの? 上手くやれてる?」
「いや……それはあんまり」
「やっぱりそっか。まあ仕方ないわよね。移植前まで運動できなかったんだもの」
「うん、仕方ないと、思う」
雪がちらちらと降る景色を眺めながら、ああ、そうかと腑に落ちる。
美雨は心臓が悪く、運動ができなかった。だから身体が思うように動かないことが多いのだ。成績優秀な彼女なら、運動面でも努力して鍛えられるはずだが、そうできないのには理由があった。
車窓が外気との温度の差で曇っていくのを、手でごしごしと擦ってなんとか外の世界を眺め続ける。僕はいま、美雨の一番大きな過去の出来事を知ってしまった。以前、美雨がクラスメイトから僕の中学時代の話を聞いた際には入れ替わりが終了しなかったので、大丈夫だとは思う。だが、彼女の過去を知ってしまった今、今後の身の振り方を考えなければならない。
僕は一体、どうしたいのだろう?
「あー昨日タイヤ変えといて良かったわ。この感じじゃ、もうちょっと降りそうねえ」
病院の待合で一人呟いた美雨の母親は、小さくため息をついた。
それにしてもこの病院……思ったよりも広いな。まあ、隣町まで車を走らせている時点で、うっすらと予想はしていた。わざわざ平日に学校を遅刻してまで行くところなんだから、町医者ではないと思っていたけれど。
どう見ても総合病院らしい病院の受付で、僕は内心ソワソワとしている。
「有坂美雨さん、診察室へどうぞ」
受付で名前を呼ばれて母親と一緒に診察室へと向かう。一体何の検査をするのか、緊張が解けない。
「こんにちは」
診察室の中にいた医者は、四十代ぐらいの優しそうな男性だった。胸には「灰谷」と名札がついている。僕はすぐにほっと胸を撫で下ろす。威圧的な感じの人だったら、ずっと緊張しっぱなしだっただろう。
「有坂さん、その後身体の調子はどうですか? 何か悪いところなど出てませんか?」
医者の質問に対し、僕は首を横に振る。美雨の身体で、不調を感じたことはない。母親も、特に何も言わなかった。
「それなら良かった。じゃあ、いつものようにレントゲンだけ撮らせてもらえるかな? 問題なければそれで検査は終了しますね」
「は、はい」
レントゲン……一体、どこを撮るんだろうか。
疑問に思っていたが、レントゲン室に入ると、胸を撮るのだと分かった。
「じゃあいきますね」
合図と共にレントゲン撮影が行われる。心臓が、バクバクと音を立てていた。
「はい、終わりました。ではまた診察室へどうぞ」
医者に言われるがままに診察室へと戻っていく。
僕は再び母親の隣の椅子に腰掛けた。医者が、先ほど撮影したレントゲンの写真をモニターに映し出す。僕は画面をじっと見つめた。
「レントゲンで見ましたが、有坂さんの心臓——移植してから今まで、特に問題ないようですね」
「はあ。良かったです」
母親が安堵のため息を漏らす。僕は心の中で、医者が発した「移植」という言葉に取り憑かれた気分になった。
心臓移植。
今医者はそう言った。
美雨の心臓は、誰かの心臓を移植したものだったのか……。
でもどうしてそんなこと——なんて、考える余地もなかった。
「病気で辛い思いをした分、元気な姿を見ると私もほっとするんです」
母親の発言を聞いて、僕は息をのむ。
美雨は、かつて心臓の病気だった。移植をする場面は他にもあると思うが、美雨の母親の言葉からすぐに察することができた。
「そうですね。不自由な思いをした分、今は無理のない範囲で普通の生活を送ってほしいです。医者として僕も、同じ意見です」
「灰谷先生……本当に、ありがとうございます」
何度も何度も、美雨の母親が頭を下げるたびに、パーマのかかった美しい黒髪が僕の視界の隅で揺れた。僕も、つられてお辞儀をする。灰谷先生はにっこりと笑って、「また来年の定期検診で。それ以外で何か心配事があればいつでも来てください」と言ってくれた。
母親に付き添われて、診察室を後にする。受付で会計を済ますと、再び車に乗り込んだ。
「何事もなくて良かったわね」
「う、うん」
心臓移植について先ほど知ったばかりの僕は、母親の言葉になんと返事をすれば良いか分からない。曖昧に頷いただけだったけれど、どうやら不審には思わなかったようだ。
「最近、学校はどう? 楽しい?」
運転席に座った母親が、車のエンジンをかける。僕は助手席でシートベルトを締めて、「楽しいよ」と答えた。
「そう。美雨が普通に学校生活を送れているなら、それ以上に嬉しいことはないわ」
彼女の言葉はどこか湿り気を帯びていて、胸のうちに芽生えた少しの罪悪感が、チクチクと心臓に針を刺すみたいに痛く感じた。
僕は……美雨じゃないんだ。
母親にそんな突飛な話、できるわけがない。美雨の身体や生活のことを心から心配している母親の言葉を聞くべきなのは、僕じゃなくて美雨であるはずなのに。
この入れ替わりで初めて、彼女の居場所を奪ってしまったという罪の意識を感じた。
「そういえば、体育の授業はどうなの? 上手くやれてる?」
「いや……それはあんまり」
「やっぱりそっか。まあ仕方ないわよね。移植前まで運動できなかったんだもの」
「うん、仕方ないと、思う」
雪がちらちらと降る景色を眺めながら、ああ、そうかと腑に落ちる。
美雨は心臓が悪く、運動ができなかった。だから身体が思うように動かないことが多いのだ。成績優秀な彼女なら、運動面でも努力して鍛えられるはずだが、そうできないのには理由があった。
車窓が外気との温度の差で曇っていくのを、手でごしごしと擦ってなんとか外の世界を眺め続ける。僕はいま、美雨の一番大きな過去の出来事を知ってしまった。以前、美雨がクラスメイトから僕の中学時代の話を聞いた際には入れ替わりが終了しなかったので、大丈夫だとは思う。だが、彼女の過去を知ってしまった今、今後の身の振り方を考えなければならない。
僕は一体、どうしたいのだろう?