日曜日の朝、いつものように午後八時に桜晴と入れ替わる。普段の土日なら、桜晴の家の食卓でちょうど朝食を食べようという時間だ。でもこの日は違った。一階の方が何やら騒々しい。朝から家族は何をしているのだろうかと不思議に思いながら、一階へと降り立った。
「桜晴、何してるの。ぼーっとしてないで早く準備しなさい」
「準備?」
桜晴の母親が、バタバタと身支度をして、出かける用意をしていた。傍では弟の秋真が、「俺のシューズどこ!?」とかけずり回っている。父親は金属バットを持って、家の中で素振りしていた。
「言わなかった? 今日は秋真の大事な試合だって。甲子園常連校の高校の監督もたくさん見にくるの。ここでスカウトされる可能性大よ」
「はあ」
スカウト、という響きを母親はいたく気に入ったらしく、その後も「すぐスカウト来たら嬉しいわね」なんて遠足前の子供みたいにワクワクしている様子だった。
私は内心、「そんなに都合よくいくかなあ」と冷めた気持ちで家族のドタバタを眺めていたが、やがて時間が来て全員で車に乗り込んだ。
父親はとても上機嫌で、まるで自分が試合に出るかのよう。秋真は緊張しているのか、普段はあっけらかんとした性格なのに、車内では固い顔をしていた。そんな秋真に、母親が喝を入れる。私は、朝食を食べ損ねたお腹がぐう、と鳴った。
「秋真、いけー! かっとばせえっっ!」
試合は秋真の所属する中学野球部が九回裏の時点で五点、相手チームが八点でピンチだ。ツウアウト満塁。秋真はなんと、四番打者らしく、チームメイトの期待を背負ってホームに立っている。真っ直ぐに伸びる姿は、いつも部屋でのんきにゲームをしているところからはまるで想像もつかない。
「秋真、いけるぞおおおおおお!」
父親が私の隣で大きな声援を送ったと同時に、相手チームのピッチャーが球を投げる。野球には詳しくないが、かなり速い。猛速球で飛んでくる球を見据えて、秋真が大きくバットを振りかぶった。
カッキーン、と小気味良い音が脳天を突き抜ける。放物線を描いた球は、外野を超えて応援席の方へ、遠く飛んで行った。
へえ、秋真ってこんなに真剣に球を打つんだ。
と感心している間もなく、チームからどっと歓声が上がる。
「ホームランだあああっ!」
誰かが叫んだと同時に、秋真は余裕の笑みで一塁から二塁、二塁から三塁へと駆け抜ける。ホームへと戻ってきた秋真を、全員が笑顔で迎えた。
母親も父親も、そんな秋真のことを愛しそうに眺めている。
私は……純粋に秋真がすごいと思った。
あんなふうにプレッシャーのかかる場面で期待通りにホームランを打てるなんて。私なら絶対に無理だ。
「秋真よくやったぞ!」
父親が早速息子の元へと駆け寄る。母親も、同じように目に涙を浮かべながら秋真の元へ急ぐ。私は依然として応援席に座ったまま、遠くからぼんやりと弟の成功を眺めた。
なんかちょっと、まぶしすぎるなあ。
私は一瞬、自分が桜晴の気持ちになって秋真の成功を傍観している気分になっていた。
いつか桜晴がノートに書いていた。自分は、秋真と比べると何の才能もないって。父親も母親も、自分のことは諦めて、秋真に絶大な期待を寄せている。自分には何もない。吃音は発症するし、成績もよくないし。運動だって人並みぐらいだ、と。
私はその時、「そんなことない」と書いた。
何もないなんて、そんな悲しいことは言わないでほしい。確かに、野球みたいに目立った才能はないのかもしれない。それでも、桜晴が書いた小説は、確実に私の心を動かした。桜晴にだって、小説という素敵な特技があるんだ。
桜晴は私の返事に「ありがとう」と返してくれた。
その時はそれで満足してしまっていたけど。桜晴、あなたはずっとこんな気持ちだったんだね。私には兄弟がいないから完全に理解できてはいなかった。誰にも期待されていないという感覚は、自分として生きる気力をこんなにも奪っていく。自分が自分である必要性が感じられなくなる。
私は一人、がらんどうになった応援席で、桜晴のためにすーっと涙を流した。
その日の夜、鳴海家の食卓には豪勢な食事が並んでいた。時刻は午後六時。いつもより早めの食事で、私はどうしようか迷っていた。
桜晴との約束では、夕食はそれぞれの家で食べることにしている。でも今日は——今日だけは、桜晴にこの場を見せたくなかった。
私は、自分で取り決めた約束を破り、食卓に並んだご馳走を食べ始めた。唐揚げにお刺身、ローストビーフ、赤飯。秋真が好きなものがずらりと並んでいる。私は、ローストビーフを一枚掴んで口に運んだ。柔らかく、タレが絡んで美味しい……はずなのに、どこか苦味があるように感じてしまう。
「秋真、よかったわねえ。まさか、三宮高校の監督が見に来てくださってるなんて。今回のスカウト、お母さんもびっくりしたわ」
「ああ、ありがとう。素直に嬉しい」
頬を染めて喜びを隠しきれない母親と、いつになく素直な言葉を口にする秋真。父親は「おかわりぃ」と四杯目の日本酒を飲んでいる。
「さすが、俺の子だ。まさかこんなに早くスカウトが来るとは思わなかったけどな。これで将来は安泰だな!」
「ちょっとあなた、さすがに将来安泰だなんて、そこまでは言いすぎよ。高校でも頑張らなきゃいけないんだから」
「そうけどよお。三宮高校なら三年連続で甲子園行けるだろ。あそこは文句なしの強豪校だからな。プロ選手だって多数輩出してる。もうプロになったも同然だ」
「もう、あなたったら」
母親は酔っ払いの父親を宥めつつも、まんざらでもないというふうに笑っている。きっと、秋真が甲子園常連校にスカウトされたことがたまらなく嬉しいのだろう。
秋真は自分を差し置いて盛り上がる両親に、「二人とも恥ずかしいからやめろって」と口を挟んだ。第三者の私から見ても、ちょっと浮かれすぎではないかと思うくらいだから、秋真のツッコミは正しい。私は内心「はあ」とため息をついた。
秋真はまだ中学二年生だ。この年で高校からスカウトが来たということは本当に快挙だろう。
心底、この場に桜晴がいなくてよかったと思う。私は桜晴が傷つくところを見たくない。
「さあさあ、桜晴、お前も飲め飲め! めでたい日の酒は美味いぞおっ」
「いや、僕まだ未成年だけど」
「俺がお前くらいの頃にはすでに一杯ぐらい飲んでたぞ!」
「ちょ、やめてって」
飲酒を強要してくる父親をやんわりと制し、私は「ごちそうさま」と両手を合わせた。
「あれ、もういいの?」
「うん。ちょっと今日はお腹いっぱいだから」
私はそれだけ言って、自分の部屋へと戻った。背後では陽気な父親が、今度は秋真にまでお酒を勧めていたのだから、始末に追えない。
「ふう……すごい一日だったな」
朝からバタバタと秋真の試合を見に行って、それから強豪校からスカウトまで来た。両親が盛り上がるのも、無理はない、か。
時刻は午後七時。まだ元の世界に戻るのに一時間はある。ノートに今日の出来事を書こうかどうか迷っていた時だ。
「兄ちゃん」
「秋真?」
桜晴の部屋の扉がノックされ、扉の向こうから秋真が現れた。酔っ払いの父親に付き合わされたからか、げんなりした顔をしている。秋真は部屋の中に入ってくると、私の前に座った。
「どうしたの」
まだ、秋真はご飯を食べ終わっていないかと思っていたのに、私と同じように切り上げてきたんだろうか。自分のお祝いなのに? 訝しく思っていると、彼は「あー疲れた!」と声を上げた。
「朝から試合して、いろいろあって疲れてんのに、父さんのあのテンションについていけないよ」
普段は秋真だって桜晴からすれば元気な性格なのに、そんな彼でもこうして疲れちゃうのか。やっぱりあの場を早めに去って正解だった。
「まあ……そりゃそうだよね。試合、お疲れ様。あとスカウトもおめでとう。良かったね」
「ん、ありがとう」
意外にも薄い反応が返ってきて私は焦った。秋真はスカウトされたことが嬉しくないのだろうか。そんな私の疑問に答えるように、「いやさ」と彼は続けた。
「嬉しいのはすっげー嬉しい。俺だって、ガキの頃から父さんや監督の厳しい指導に耐えてここまで来たんだからさ。……でも」
「でも?」
「父さんや母さんにとって、俺は野球をすることでしか親孝行できない人間なのかなって思うと、悲しくなるときがある」
「……」
秋真は眉根を下げて、寂しそうに小さく笑った。いつも暇さえあればゲームばかりしていて、そのくせ学校での成績は良くて、野球でも期待されている彼からは想像がつかない。私は、秋真という人間のことを、一ミリも理解していなかったんじゃないだろうか?
「俺さ、兄ちゃんが時々羨ましくなるんだ。期待されないって、確かに辛いこともある。でも、それだけ自由だろ? 兄ちゃんはこれから何にでもなれるじゃん。何になったって、言い方は悪いけど期待されていない分、応援してもらえるんじゃない? 学校の先生でも、宇宙飛行士でも、会社員でも。……俺はたぶん、野球選手になることしか両親を——特に、父さんを喜ばせられない」
秋真の主張が私の胸に——いや、桜晴の胸にグサリと突き刺さる。
期待されていない分、何をしても歓迎される。期待を裏切ることはないから。
桜晴は、秋真が両親に期待されて、自分は何もないことにきっと悩んでいるはずなのに。それすら秋真には羨ましく映っている。
皮肉だなあ……。
だけど、秋真の悩みは、私にも少し分かる気がした。
「秋真は……学校の先生とか、宇宙飛行士とかになりたいの?」
「そうだな、そんな夢を見たこともあった。ドラマやアニメ見てると、そういう職業に憧れるんだよな」
「へえ。じゃあ、なればいいじゃん」
「え?」
秋真が目を丸くして私を見た。
考えもしなかったことを言われて意表をつかれたようだ。
「だって、なりたいものがあるんでしょ? 野球よりも好きなこと。野球が得意だからって、プロになる必要ないじゃん。自分が好きなことに邁進してる方が、格好良いと思う。親の期待なんて関係ないよ。秋真の人生だろ」
最後は、自分に、桜晴に、言い聞かせるような気持ちで言い放っていた。
自分の人生じゃないか。
何になりたいのか、自分で決めて、何が悪い?
いくら別の自分になろうとしたって、結局は人生を決めるのは、自分なんだから。
「ははっ……ははは!」
秋真の笑い声が、静かな部屋に豪快に響き渡る。その笑い方はさっき食卓で見た父親のものとそっくりで。私は目尻をすっと細めた。
「兄ちゃん、そんなこと言うんだな。なんかびっくりした。でも、今日の兄ちゃん、格好良いと思う」
「……ありがとう」
私は桜晴じゃないのに、でしゃばって余計なことを言ってしまったな——とちょっぴり反省する。でも、普段兄弟なんて、素直に気持ちをぶつけることはできないんじゃないだろうか。私が桜晴だったからこそ、秋真の本当の気持ちを引き出せたのかもしれないと思うと、自分が誇らしかった。
今日のことは、桜晴に素直に報告しよう。
最初は桜晴の気持ちをかき乱してしまうかもと思って、何も書かずにいようかとも考えた。でも、隠していたっていつかはバレる。秋真が甲子園常連校にスカウトされたことを、桜晴だって祝福したいはずだ。たとえ、その中に嫉妬や後ろ暗い感情が混ざっていたとしても。弟のことだから、優しい桜晴ならきっと応援したいと思うだろう。
桜晴はそういう人だ。
「俺、ちょっといろいろ考えてみる。これからどうしたいか。考えて、自分の答えを出す。ありがとう、兄ちゃん」
「どういたしまして」
部屋を去っていく秋真の背中はどこか清々しい。彼はまだ中学生なんだし、将来のことを考える時間はたくさんある。なんて、高校生の自分が言うのも変かもしれないけれど。
秋真が部屋からいなくなると、そろそろ入れ替わりの終了時間が近づいていた。
自分の部屋に戻ったら、今日考えたことをノートに書いておこう。忘れないうちに、桜晴に伝えたかった。
十一月三日、週のど真ん中に、僕は美雨の母親に連れられて病院へとやって来ていた。外は今年初の雪が降っている。こんな時期に降る雪を見たのは初めてで、車窓から外を眺めていると、本当に自分が北海道に住んでいることを実感した。
「あー昨日タイヤ変えといて良かったわ。この感じじゃ、もうちょっと降りそうねえ」
病院の待合で一人呟いた美雨の母親は、小さくため息をついた。
それにしてもこの病院……思ったよりも広いな。まあ、隣町まで車を走らせている時点で、うっすらと予想はしていた。わざわざ平日に学校を遅刻してまで行くところなんだから、町医者ではないと思っていたけれど。
どう見ても総合病院らしい病院の受付で、僕は内心ソワソワとしている。
「有坂美雨さん、診察室へどうぞ」
受付で名前を呼ばれて母親と一緒に診察室へと向かう。一体何の検査をするのか、緊張が解けない。
「こんにちは」
診察室の中にいた医者は、四十代ぐらいの優しそうな男性だった。胸には「灰谷」と名札がついている。僕はすぐにほっと胸を撫で下ろす。威圧的な感じの人だったら、ずっと緊張しっぱなしだっただろう。
「有坂さん、その後身体の調子はどうですか? 何か悪いところなど出てませんか?」
医者の質問に対し、僕は首を横に振る。美雨の身体で、不調を感じたことはない。母親も、特に何も言わなかった。
「それなら良かった。じゃあ、いつものようにレントゲンだけ撮らせてもらえるかな? 問題なければそれで検査は終了しますね」
「は、はい」
レントゲン……一体、どこを撮るんだろうか。
疑問に思っていたが、レントゲン室に入ると、胸を撮るのだと分かった。
「じゃあいきますね」
合図と共にレントゲン撮影が行われる。心臓が、バクバクと音を立てていた。
「はい、終わりました。ではまた診察室へどうぞ」
医者に言われるがままに診察室へと戻っていく。
僕は再び母親の隣の椅子に腰掛けた。医者が、先ほど撮影したレントゲンの写真をモニターに映し出す。僕は画面をじっと見つめた。
「レントゲンで見ましたが、有坂さんの心臓——移植してから今まで、特に問題ないようですね」
「はあ。良かったです」
母親が安堵のため息を漏らす。僕は心の中で、医者が発した「移植」という言葉に取り憑かれた気分になった。
心臓移植。
今医者はそう言った。
美雨の心臓は、誰かの心臓を移植したものだったのか……。
でもどうしてそんなこと——なんて、考える余地もなかった。
「病気で辛い思いをした分、元気な姿を見ると私もほっとするんです」
母親の発言を聞いて、僕は息をのむ。
美雨は、かつて心臓の病気だった。移植をする場面は他にもあると思うが、美雨の母親の言葉からすぐに察することができた。
「そうですね。不自由な思いをした分、今は無理のない範囲で普通の生活を送ってほしいです。医者として僕も、同じ意見です」
「灰谷先生……本当に、ありがとうございます」
何度も何度も、美雨の母親が頭を下げるたびに、パーマのかかった美しい黒髪が僕の視界の隅で揺れた。僕も、つられてお辞儀をする。灰谷先生はにっこりと笑って、「また来年の定期検診で。それ以外で何か心配事があればいつでも来てください」と言ってくれた。
母親に付き添われて、診察室を後にする。受付で会計を済ますと、再び車に乗り込んだ。
「何事もなくて良かったわね」
「う、うん」
心臓移植について先ほど知ったばかりの僕は、母親の言葉になんと返事をすれば良いか分からない。曖昧に頷いただけだったけれど、どうやら不審には思わなかったようだ。
「最近、学校はどう? 楽しい?」
運転席に座った母親が、車のエンジンをかける。僕は助手席でシートベルトを締めて、「楽しいよ」と答えた。
「そう。美雨が普通に学校生活を送れているなら、それ以上に嬉しいことはないわ」
彼女の言葉はどこか湿り気を帯びていて、胸のうちに芽生えた少しの罪悪感が、チクチクと心臓に針を刺すみたいに痛く感じた。
僕は……美雨じゃないんだ。
母親にそんな突飛な話、できるわけがない。美雨の身体や生活のことを心から心配している母親の言葉を聞くべきなのは、僕じゃなくて美雨であるはずなのに。
この入れ替わりで初めて、彼女の居場所を奪ってしまったという罪の意識を感じた。
「そういえば、体育の授業はどうなの? 上手くやれてる?」
「いや……それはあんまり」
「やっぱりそっか。まあ仕方ないわよね。移植前まで運動できなかったんだもの」
「うん、仕方ないと、思う」
雪がちらちらと降る景色を眺めながら、ああ、そうかと腑に落ちる。
美雨は心臓が悪く、運動ができなかった。だから身体が思うように動かないことが多いのだ。成績優秀な彼女なら、運動面でも努力して鍛えられるはずだが、そうできないのには理由があった。
車窓が外気との温度の差で曇っていくのを、手でごしごしと擦ってなんとか外の世界を眺め続ける。僕はいま、美雨の一番大きな過去の出来事を知ってしまった。以前、美雨がクラスメイトから僕の中学時代の話を聞いた際には入れ替わりが終了しなかったので、大丈夫だとは思う。だが、彼女の過去を知ってしまった今、今後の身の振り方を考えなければならない。
僕は一体、どうしたいのだろう?
その日、学校では午後からの授業に出席した。美雨の身体の事情を知っている瑛奈と和湖が、「病院どうたった?」と心配そうに聞いてきた。
「特に、何もなかったよ。問題ないって」
「そっかー良かった! 美雨に何かあったらって思うと、私らは心配でさ」
「うんうん。美雨がいないと、瑛奈のボケに対応できなくなっちゃう」
「それはこっちの台詞!」
二人がいつも通り明るく戯れ合ってる姿を見て、僕は安心してぷっと吹き出す。
瑛奈と和湖が美雨の友達で良かった。
事情を知ってくれている心強い味方は、いないよりいた方が絶対にいい。
もし僕が彼女の前から姿を消しても、美雨のことを守ってくれる人間が、一人でも多くいた方が——。
「あれ……何考えてるんだろ」
自分が何を想像しているのか、自分でもよく分からなかった。
僕が彼女の前から姿を消す? そもそも、美雨と僕は出会ってすらいないのに。それに、入れ替わりが終わると決まったわけでもないのに、どうしてそんなことを考えてしまったんだろう。
「美雨、どうかした? ぼーっとしてる?」
「う、ううん。なんでもない」
「そう、それならいいんだけど」
和湖が心配そうな瞳を向けて来たので、慌てて否定した。
美雨に、この身体を返す時がいつか必ずやってくる。分かってはいるけれど、今日に限って想像してしまうのは、やっぱり午前中に病院で心臓移植の話を聞かされたせいだ。
美雨が今元気なら、それでいいじゃないか。
どうにか自分を納得させて、午後からの授業に備えるべく、教科書とノートを準備するのだった。
『今日、病院に行きました。美雨のお母さんに、定期検診だと言われて行かざるを得なくて。そこで、きみが心臓移植をしたって話を聞いてしまいました』
僕はその日の夜、美雨の部屋でノートを広げて今日の出来事を書いてみたが、やっぱり消しゴムでごしごしと擦って消した。美雨だって今日、僕が病院に行く予定であることは知っているはずだ。わざわざ自分から書かなくてもいいのではないか。
それに、美雨に直接、過去の話を持ちかけるようなことはしない方が良いのだと思い至った。病院の話は頭の片隅に追いやって、瑛奈たちとの他愛もない会話だけを書き連ねる。
「これでいいや」
出来上がった今日のノートは、特にツッコミどころのない普通の一日の出来事しか書かれていなかった。それでいい。彼女に余計な心配はかけたくないし。
ノートのページを閉じると、いつのまにか八時が近づいていることに気づいた。宿題をちゃちゃっと済ませた頃には、ちょうど僕は自分の世界へと戻っていた。
見慣れたはずの自分の部屋の方が、よそよそしく感じてしまうなんて、美雨としての生活がすっかり板についてしまっている。苦笑しながら、僕は書きかけの小説のノートを開いた。美雨との入れ替わりの日々を題材にした青春小説。最初はなんの気なしに書き始めたのだけれど、今ではこの小説を仕上げることに心血を注いでいる。
僕たちが入れ替わりで出会い、過ごした日々が消えないように。
どうか誰か一人でも多くの心に、この想いが残りますように。
そんなふうに願っている自分がいて、自分でも戸惑いを隠せなかった。
家族と夕飯を食べている最中、秋真がスカウトを受けた三宮高校に見学に行ってきたと話してきた。秋真が先月の試合で好成績を残したことは、美雨から報告を受けていた。その日の食卓は、きっと父さんあたりが大盛り上がりしたんだろうな、と容易に想像がついたけれど、美雨は淡々と事実だけを書いてくれていた。
僕は素直に、秋真がスカウトをされて良かったと思う。やっぱり成功するのは僕のような落ちこぼれではなく、秋真みたいな秀才なんだって受け入れられた。
だけどその後、美雨が秋真の本音を聞いたらしく、秋真の想いには胸を打たれた。
僕は弟のことを、ほんの少ししか分かっていなかった。
秋真、ごめん。
期待されるのもされないのも、どっちも苦しいよな。
そうと分かってからは、僕も必死で小説を綴っている。僕には僕の、秋真には秋真の人生があるから。秋真はあれから、これまで以上に野球の練習に一生懸命だ。僕が八時に現実に戻ってからも庭で素振りをしているから、彼の本気さがひしひしと伝わってきた。
秋真と自分を比べるのはもうやめよう。
気持ちを昇華できたのも、美雨が秋真から素直な心のうちを引き出してくれたおかげだった。
書けるところまで小説を書き進めていると、いつのまにか深夜一時を回っていた。どうりで瞼が重いはずだ。僕は、ノートを閉じて棚にしまう。今日は何文字ぐらい書けただろう。手書きというアナログな手法をとっているので、正確な文字数は数えられない。でも、ざっと十ページ分は進んだ。手首が疲れて悲鳴を上げている。ベッドに横になり、静かに意識を沈めた。
桜晴が私の身体で病院に行ったのは二週間と少し前のことだ。私も夜にお母さんから予定を聞かされていたので、定期検診の日は把握していた。けれど、ノートでは検診について、桜晴には事前に何も伝えていなかった。検診の話をすれば、おのずと過去の話をしてしまうから。
でも、検診が終わると桜晴から何らかの質問が来ると思っていた。病院に行けば、私の身体のことを嫌でも知ってしまう。動揺してノートに何かしらの反応を残していても、おかしくないと思っていたのだけれど。
実際のところ、桜晴は私に何も聞いてこなかった。その日のノートにはうっすらと一度書いた文を消した形跡があった。もしかしたら、心臓のことかもしれない。それでも桜晴は具体的なことは何も書かず、単にその日学校であった出来事だけを綴っていた。
私を気遣ってのことだろう。
優しい彼のことだから、あえて質問しないでくれたのだ。
それは、彼が私との入れ替わりをまだ続けたいと思ってくれている証拠でもあった。
だから私も、桜晴には「病院どうだった?」などと聞くことなく、今日まで過ごしている。
「はい鳴海ー、これ回して」
「うん」
十一月下旬に差し掛かった今日、都立西が丘高校一年二組の教室で、朝のホームルームの際に一枚のプリントが配られた。前の席の男の子からプリントを受け取り、後ろの人へと回す。タイトルは『来年度修学旅行積立について』。
修学旅行かあ……。
その時まで私たちは、入れ替わりを続けているのだろうか。
ぼんやりと考え事をしていると、担任の先生が説明を始めた。
「みんなも知ってると思うけど、二年生の四月に修学旅行がある。そのための積立についての手紙だ。保護者の方に渡しておくように」
先生からはそれだけだった。私は言われた通りに鞄の中にプリントをしまう。これは今日、桜晴のお母さんに渡さなくちゃ。もしかしたら私が桜晴として行くかもしれないんだし——なんて考えていると、一時間目の始業のチャイムが鳴り響く。みんな、唐突にポンと目の前に差し出された「修学旅行」というおいしいネタについて考える時間を取り上げられそわそわとしているのが分かる。そりゃそうだ。私たち高校生にとって、修学旅行は学校行事の中で一大イベント。友達と話したくなる気持ちはみんな同じだった。
昼休みになると、やっぱり教室の四方八方で修学旅行の話が上がっていた。私も例外ではない。いつも一緒にお弁当を食べる江川くんと、彼と仲が良く、最近私とも話してくれるようになった安達(あだち)くんと一緒に、修学旅行の話を始めた。
「俺たちも修学旅行、二年生の四月なんだな」
「ああ。珍しい時期だと思ってたけど、行き先はやっぱり北海道かな」
「北海道?」
自分の住んでいる地域の名前が出てきて、ぴくりと身体が反応する。
「あれ、鳴海は知らねえの? まあ部活入ってないから、先輩から話聞くこともないのか」
「う、うん。初めて聞いた。北海道なんだ」
「らしいよ。中学とは違うよな。俺、関西旅行だった」
「俺は北陸ー。北海道は特別感あるよな」
江川くんと安達くんが、来年の修学旅行に思いを馳せている最中、私は別のことを考えていた。
北海道か……。
桜晴が修学旅行に行くのは二〇二五年だから、私からすれば二年と少し前。もしかしたらどこかで彼と出会っていたかも……なんて考えて、馬鹿だな、と否定する。
広い北海道で、たった数日間だけ滞在していた桜晴と会っていた確率なんて相当低い。まして私は、美瑛町から出ていないんだし。絶対に会ってはいない。
「そういえば、北海道っていってもどこに行くんだろう? 江川くんたちは知ってる?」
私は気になっていたことを聞いた。
「えーっと、札幌は絶対行くよな。あとはなんだっけ、花がたくさん見られるところ」
「北海道でそんな場所、たくさんあるだろー」
「まあそうなんだけど。先輩たち、確か夕張メロンの店があったって言ってたな。時期外れで食べられなかったて嘆いてた」
「メロン……それって、富良野にある『富田フォーム』のことかな?」
富良野の『富田ファーム』といえば、観光雑誌に必ず載っていると言っていいほど有名な観光地だ。季節ごとの花を見られるのが一番の醍醐味だが、園内にはラベンダーソフトクリームや、ラベンダーグッズが販売されている。ラベンダーの時期になると、毎年観光客がわんさか訪れる。
その『富田ファーム』では夕張メロンを販売している店が併設されている。そちらも大人気だ。私も、『富田ファーム』にはお父さんが生きていた頃、それからお母さんと二人になった後に何度も訪れたことがある。大好きな場所だ。
私が『富田ファーム』と口にすると、江川くんがピンときた様子でぐいっと身体をこちらに乗り出した。
「あ! そうだ、そこ! 『富田ファーム』。鳴海、よく分かったな。北海道行ったことあるのか?」
「うん、まあ、家族で何回か。『富田ファーム』も二回ほど」
「そうか〜。じゃあ、修学旅行そこまで楽しみじゃないんじゃね?」
「そんなことないよ! 家族で行くのと友達で行くのは、全然違うと思う」
「それは……いいこと言うなあっ」
江川くんが私の頭をガシガシと撫でる。安達くんも一緒になって、私を揶揄った。男同士の戯れ合いには慣れてきたが、やっぱり照れ臭い。彼らと身体を密着させているのも、むず痒かった。
「その富良野ってとこ行くから、近くの美瑛も行くんじゃね? 道内では基本バス移動って聞いたよ。てかそもそも、旭川空港に着くんだから、位置的に最初に美瑛か」
冷静になった安達くんがそう教えてくれた時、心臓がどくんと大きく跳ねた。
美瑛……桜晴が、美瑛に来る?
それに確かいま、彼はバスで移動すると言っていた。修学旅行だから大きな観光バスを使うのだろう。
それ自体は珍しいことじゃない。でも、私の中で一つの可能性が浮上して、突如けたたましいサイレンが鳴り出したみたいに、心臓がぎゅううっと縮み上がる。
二〇二五年四月。
東京から来た修学旅行生。
美瑛から富良野に向かっていた観光バス。
ギシギシと、胸に嫌な音がこだまする。頭まで誰かに押さえつけられるかのような痛みが生じて、両手でこめかみの辺りを抑えた。
「鳴海、大丈夫か?」
心配そうな江川くんの声が、先ほどよりも遠くに聞こえる。
だめだ、意識が……。
「鳴海!? やばい、保健室運ぼうっ」
「あ、ああ」
二人が一斉に立ち上がり、私の両腕を肩に回す。教室にいたクラスメイトたちが、ぎょっとした様子でこちらを見ていた。「大丈夫?」と声をかけてくれる人が何人もいたが、呻き声が出るだけで、まともな返答ができない。
保健室にたどり着いて、ベッドに寝かされた時には、気が抜けたように意識がふっと沈んでいた。
***
小学生になったばかりの頃、私は心臓病を発症した。
父と同じ病気だった。その時まで父が心臓病だということを知らなくて、お母さんから「お父さんも同じだったの」と言われた時には、軽い衝撃を覚えた。
私も、お父さんみたいにいなくなってしまうのかな。
幼いながら、自分が消えてしまう未来を想像して、心が恐怖で埋め尽くされていった。
それからの日々は、入退院の繰り返し。学校に行ける期間があっても、運動はもちろん禁止だ。友達はまともにできなかった。体調が悪い時は、四六時中病院のベッドに張り付いていた。
——美雨、心臓移植のドナーが決まったって、さっき連絡があったわっ。
穏やかな風が病院の窓から吹きつけていた、二〇二五年四月の終わり頃。中学二年生になったばかりの私は、まだ一度も学校に行けていないことに焦りを覚えていた。
その最中、突如舞い込んできた母からの朗報に、聞き間違いかと思った私は信じられなくて、もう一度「なに?」と聞き返した。
——だから、ドナーが見つかったのよ!
——ドナー……。
——ええ。明後日には手術ができると言っているわ。どうする?
——ちょっと待って。ドナー、手術、えっと……。
逸る気持ちを抑えるような勢いで「ドナーが見つかった」と告げる母のテンションに、思考が追いついていなかった。この日だって、いつもと変わらない病院での無機質な一日が始まるのだと思っていた。飲みたくもない薬を大量に飲まされて、明日終わるかもしれない心臓の爆弾に怯えている。病気が発覚してからというもの、私の毎日はいつも死と隣り合せだったから。
突然、ドナーが現れたと言われても、どうすればいいか分からなかった。もちろん、可能なら移植をして健康な心臓を手に入れたい。でも、ドナーが見つかったということは、そのドナーとなる人が死んでしまうということだ。
心臓を提供してくれるパターンは、すなわちその人が脳死状態になってしまったというものが多い。中学二年生の私でも、さすがにそれくらいは理解できた。だから、母が興奮しながらドナーの存在を伝えに来たことに、違和感が拭えなかった。
私は、小一時間考えた上で、結局心臓移植を受けることに決めた。
母は心底ほっとして、腰が抜けたようにへたり込んだ。
私はそんな母に、ふとこう漏らした。
——病気が治るのは嬉しいけど、私が命をもらうってことは、誰かが命を失うってことだよね。
私の言葉にはっとしたのか、母の身体がふるっと揺れた。
——そうね。そうだわ。命を、いただくんだもの……手放しでは喜べないわね。感謝の気持ちを忘れないようにしないと。
——うん。
それからは母も冷静になったのか、粛々と手術の日程を伝えてくれた。
主治医の灰谷先生がやってきて、移植についての細かい説明を受ける。私と母は熱心に先生の話を聞いて、同意書にサインを施した。
——では、こちらで同意されたとみなします。手術まで、安静に過ごされてください。
灰谷先生は淡々とした口調で説明を終えた。私の病気が治ることを一番に考えてくれていた人だ。だが流石に、心臓移植で命を失う人のことを考えているのか、ずっと冷静な表情をしていた。
私はそれから手術の日まで、母にドナーの人のことを聞いた。でも母は、詳しいことはあまり教えてくれなかった。
——私が知ってるのは、修学旅行で東京からいらしていた方、ということぐらいで……。美瑛から富良野に行く観光バスが、事故に遭ってしまったんですって。
——修学旅行生の事故?
——ええ。とても、可哀想よね……。一人だけ、頭の打ちどころが悪くて、脳死状態になってしまったらしいの。
——そう、だったんだ。
その人の名前や、性別や、年齢は、教えてくれなかった。
あまり詳細に話してしまうと、私の決意が揺らいでしまうと思ったのかもしれない。私もそれ以上は、深く追及することができなかった。
数日後、心臓移植を終えた私は、自分の中で脈打っている心臓が、誰かのものだなんて信じられない気分だった。たくさんの管に繋がれて、何日も寝たきりで過ごした。命を譲ってもらったはずなのに、身体の痛みに何度も涙が溢れた。
それでも私は、起きている時間はずっとドナーのことを考えた。
この心臓の持ち主だって、本当は生きたかったはずだよね……。
私の気持ちに反応しているのか、心臓がシクシク痛んでいるような気がした。気のせいだと分かっていても、ドナーの心が泣いていると思ってしまう。
母は、私の命が救われたことに心底ほっとしている様子で、お見舞いの時には「退院したらどこに行こう」なんて話を延々と繰り返す。そんな話を聞くたびに、会ったことのないこの心臓の元の持ち主のことを思って、涙を流した。
私がこの人のことを、殺してしまったんだ。
この人の生きる未来を奪ってしまった。
そう思うことが正義ではないと知っているはずなのに、どうしてもそんなふうに考えてしまう自分がいた。
塞ぎ込んでいた私に優しい言葉をかけてくれたのは、灰谷先生だった。
——美雨ちゃん。僕は、きみが心臓移植を受けてくれたことを、誇りに思っているんだ。それはきみが自分の命を守ったから、というのもそうだけど、同時にドナーの相手の心も守ったからだよ。
——ドナーの心を守った?
——そう。きみが正面から相手の命を向き合って、ドナーと共に生きることを選んだんだ。向こうの家族だって、こうしてきみの身体の
中でドナーが生きていると思えることが、希望になる。
——家族……。
そうだ。ドナーの人にも愛する家族がいる。その家族の気持ちまで考えて、私はずっと悲しかった。でも先生の言うとおり、一緒に生きていると思えば、どれだけ心強いだろう。
——美雨ちゃん。どうか前を向いて、きみの未来を生きてほしい。これは僕と、きみの家族と、ドナーと、その家族の願いだ。
——……はい。
***
「……ここは」
目が覚めると、ベッドの上に寝かされていた。
「そうか、私、倒れて……」
江川くんたちと話している最中、頭がくらくらして彼らが保健室まで運んでくれたことを思い出した。
「昔の夢、か」
眠っている間に見ていた夢は、私の身に実際に起こったことだ。中学二年生だった私が、心臓移植をした時のこと。
灰谷先生の言葉が、胸の奥まで深く浸透する。
私はこの時に誓ったんだ。
誰かが分けてくれたこの命を、決して無駄にはしない。私の未来は、ドナーと共にある。一人じゃない。一緒に生きている。命の重みは二倍だ。だから、これまで不自由だった分、誰よりも真剣に自分の人生と向き合おう。
勉強も、友達づくりも、ゼロからのスタートだ。運動は……今までしてこなかった分自信はないけれど、できるかぎり頑張りたい。
私と一緒に生きているこの人が、幸せだと思ってくれるように——。
胸に秘めた決意を、退院後に全力で体現しようと、残りの中学生活を精一杯楽しんだ。学校では瑛奈と和湖という友達ができて、私のことを気にかけてくれた。だが同時に気を遣いすぎることもなく、二人とは普通の友人関係を築くことができた。
私にも、普通の学校生活を送ることができる。
初めての喜びをひしひしと感じながら、健康体になった私は活き活きとした日常を送っていた。
でもやっぱり、運動は思うようにできなくて。体育の時間でヘマをして、チームメイトが自分のことを悪く言っているのを聞いてしまって。それだけで、心が凍りついたようにつらくて。現実から逃げ出したいと思った矢先、私は桜晴と入れ替わった。
この入れ替わりに、何か意味があるのではないかとずっと考えていた。
「有坂さん、起きたのね」
保健室で仕事をしていた養護教諭の先生が、声をかけてくれた。
「はい。すみません」
「謝ることじゃないわ。日頃の疲れが溜まっていたようよ。大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
入れ替わりという非日常の最中にいることを、誰かに話すことはできない。疲れているのではなく、修学旅行の話に衝撃を覚えて、これ以上何も考えたくないと、脳が考えることを否定してしまったせいだ。
私の中で、先ほどからずっと一つの可能性が渦巻いている。
そんな……馬鹿な。ありえない。そんなことあるはずがない。
心は否定したくて仕方がないのに、頭ではどうしても、思い至ってしまう。
桜晴が、私に心臓を提供したドナーではないかということ。
可能性としては、何パーセントくらいだろうか。二〇二五年四月に東京から来た修学旅行生で、美瑛から富良野に向かうバスに乗っていた生徒の数は。西が丘高校だけじゃないかもしれない。西が丘高校だけだとしても、桜晴の学年は四百人もの生徒がいる。その中のたった一人が、桜晴であるという確率は低い。
「……っ」
でも……もし桜晴じゃなかったら、一体誰なんだろう?
私が桜晴と入れ替わったことに、何か意味があるとすれば。それは、彼がドナーであるということ以外に、何もないのではないか……?
「嫌だよ……」
こぼれ落ちた心の叫びが、先生まで聞こえてしまって、「どうしたの?」と心配される。私は「なんでもないです」と誤魔化しながら、目の淵から溢れ出る涙を、先生から隠すように拭った。
桜晴がドナーなんて、そんなの信じたくない。
私は桜晴のことが好きだ。こんな形で出会ってしまったけれど、どうしようもなく彼に惹かれている。初めて人を好きになった。幼い頃から友達すらまともにつくれなかった私が、初めて惹かれた男の子。そんな彼が、もしドナーだったら。私はこの先、どうして生きていけばいいの?
一人で悶々と考えても、決して埒はあかない。
お母さんに、真実を聞こう。
お母さんは移植の時、私にドナーの相手の名前を教えてくれなかった。私を気遣ってそうしてくれたことはよく分かっている。でも私には知る権利があるはずだ。
自分の左胸に手を当てる。トクン、トクンと規則正しく脈打つ振動を感じて、胸がぶわりと熱くなった。
私の中で今もこうして必死に生きている心臓が、一体誰のものなのか。
願わくば、桜晴ではありませんように。
命の重みに差なんてないはずなのに、どうしても桜晴の心臓ではないことを願わずにはいられなかった。