※本編から1~2年後の話です。
***
ポストシーズンが終わって一週間。立て込んでいた「日本選手権優勝チームの正捕手」としてのインタビューやら雑誌の取材やらテレビの収録もようやく落ち着きを見せ、ようやくオフシーズンらしくなった矢先のことだった。
「要さん、冷えピタ貼りましょうか」
「んー、ありがとぉ」
「アイスノンもあるんで、枕じゃなくてそっち使います?」
「ん。あっちいから、使う」
布団からモゾモゾと這い出してきたスワンズの大黒柱は、随分とぼんやりした表情で笑った。朝起きた時に測った体温は三十九度。昨晩はやけに疲れた様子でさっさと寝てしまったから、昨日から調子がおかしかったのだろう。
タオルで包んだアイスノンと枕を交換し、赤いおでこに冷えピタをペタッと貼る。ビクリと肩を跳ね上げた要さんだったけれど、すぐに「冷たくてきもちい」と上機嫌に言った。
「頭痛いとか気持ち悪いとか、ないですか?」
「ん。だりぃだけ。腹もへーき」
「何か食べます? ダッツありますよ」
「……ん、今はいっかな」
「要さんがアイス食べないって、ヤバいですね」
「そぉ?」
「シーズン中の夏バテ真っ盛りの時期でも蜂蜜飲んでるイメージなのに」
「はは、何それ。どんなイメージよ、俺」
アイスノンにくてっと頭をのせ、怠そうにタブレットを引き寄せる。昨シーズンの他チーム同士の試合を確認しておきたいらしい。どこまでも野球に貪欲なのは、昔から変わらない。
「なぁ、美澄ぃ」
「なんですか?」
「ごめんなー。本当はお前さそって、どこか出かけようと思ってたのに」
「いえ。こうして家でゆっくりできるだけでも、十分嬉しいですよ」
「そう言ってもらえると、気が楽だわ」
「それ、一緒にみてもいいですか?」
「あんま近くいると、移るかもしんねーぞ」
「俺もオフなんだし、大丈夫ですよ」
選手と専属トレーナー。仕事もオフも一緒だという俺の言い分に納得したらしい。要さんは布団をヒョイっと持ち上げ、俺が入れるスペースを作ってくれた。遠慮なくもぐり込む。
「わ、布団の中ほかほかだ」
「そうか?」
「熱、高いですもんね」
「まぁな〜……」
ゆっくりと半身を起こした要さんに倣う。寝ててもいいのに、と言うと、タブレット見にくいんだよ、と返ってきた。
「でも、シーズン中じゃなくて良かった」
「むしろ、シーズン中に気を張ってた分が一気にきたのかもしれないですね」
寮生活の中で、絶対的存在としてチームをまとめていた高校時代。プロになってすぐにお母さんが亡くなって、一人ぼっちで戦い続けていたこれまで。思い返せば、要さんには気の休まる瞬間なんてなかったのかもしれない。
「いつぶりだろ、こんな熱出したの」
「顔に危険球受けた時も、熱出てましたよね」
「あれはちょっと違う感じだけどな〜。あ、何戦みたい?」
「要さんのみたい試合でいいですよ。何戦でも野球は面白いですから」
「りょーかい。あ、高校の時以来かも。美澄入学してすぐの、春季大会の前日」
「……え?」
タブレットの中で、プレイボールが宣告された。日本代表のエース神志名さんを擁する埼玉ドルフィンズと、ブラックベアーズ福島の試合だった。この試合は何となく覚えている。二位争いも大詰めの、両者エースをぶつけ合った好カードだった――いや、それよりも。
「おお、初っ端から、神志名さん飛ばしすぎじゃん。これ気持ち抑えさせないと、もたねーやつ」
「要さん」
「つか、この試合、ドルフィンズ負けてんだっけ。キャッチャーの力量不足だわ、コレ」
「要さん、ちょっと」
「なにー?」
ぽややん。なんて効果音が聞こえてきそうな仕草で、要さんが小首を傾げた。頭を肩にのせられると、じんわりと熱い体温が伝わってくる。高熱なのに本当に元気だな、この人。とは思ったが、正直それどころじゃなかった。
タブレットの画面は、試合を流し続けている。俺はそっと画面に触れて一時停止させた。
「あの、いつ以来の熱って言いました?」
「高校ん時の、春季大会の、前日」
「記憶にないんですけど。あの大会のことはよく覚えてるのに」
「言わなかったし。母さん以外には、誰にも」
「でも、要さん普通に試合……」
「出てたよ。だって、美澄のデビュー戦だったし、誰にも、譲りたくないじゃん。四番だし、まだ二年だったし」
布団の中で、熱い手が俺の右手をぎゅっと握った。今ではこうして甘えてきてくれるが、青春時代の記憶の中にいる「要先輩」は誰よりも強く、カッコ良く、誰が見ても隙がなくて完璧なキャッチャーだった。それはもう、間宮世代と呼ばれるほどに。
「立てる音が人とは違うから、俺、ひたすら気持ちよく投げてたんですよ。体調悪かったなんて、全然気が付かなかったです」
「気付かせないように、してたんだよ。絶対動揺、させんじゃん。いくら緊張しなくたって、デビュー戦だぜ?」
「まあ……秋大までは俺、要さんにおんぶに抱っこでしたもんね」
「はは、おんぶに抱っこかぁ……懐かしいなぁ、けんか、したし。ってか、俺が一人でキレたのか、アレは」
「本っ当にビビりましたよ。要先輩が怒るイメージなんてなかったですもん。俺もエースとしての自覚が足りなかったって、あの後猛省しましたけど」
「お、呼び方、戻ってる」
「今の、恋人の俺にちゃんと甘えてきてくれるスワンズの頼れるキャッチャーは要さんで、あの時俺にキレたのは頼るの下手っぴスーパーヒーロー要先輩です。キャッチャーに四番に主将……それを高校二年生が一人で背負うんだから、余裕なかったんだなって今なら分かりますよ。本当に怖かったけど……」
「ごめんって」
「でも、今となっては体調悪くても隠さなくなったので、俺は嬉しいです。今だってみんなのスーパーヒーローですけど、俺の前では肩の力抜いてくれてるんだなって」
俺の本心に、要さんは眉をきゅっと寄せた。あまり見ない、照れと喜びがビックバンを起こした時の顔だった。
「変わってんなぁ。体調悪ぃとか言われても、困んねぇ?」
「逆に聞きますけど、俺が調子悪いのを要さんに黙ってたら、どう思います?」
「やだ。悲しい」
「そういうことですよ。求められたり頼られたりすると、張り切っちゃう生き物なんです。投手ってやつは」
「あー……どれだけ、性格が違くても、みんな同じなんだよな、そういうとこ」
「不思議ですよね」
キャッチャー・間宮要から見たそういう話は珍しい。熱でいつもより饒舌だからだろうか。もっと聞きたくて、潤んだ虹彩を覗き込んで続きを促す。
「……真尋はまあ、すげー気ぃ強いから、「俺がやってやるもんね!」ってタイプなの、分かるんだけどさ。お前も高校ん時は、ピンチの時こそ、右打者の胸元抉りにきてたし」
「要さんが構えたら、応えたくなります」
「朔もさ、ここぞの場面で、スローカーブのサインだしたら、ニヤって笑うんだぜ? あんまり好戦的なほうじゃ、ねぇのに」
「柔らかい雰囲気の人ですもんね、志麻さん」
「そ。だからさ、そんな個性的な奴らを生かすも殺すも、俺らの……俺のリードにかかってんだよ。はぁ……キャッチャーって、ほんとにおもしれぇ……どこまで行っても極めらんねぇもどかしさも、ぜんぶ好き……」
上擦る息の中幸せそうにつぶやいて、要さんはぼふっと布団に突っ伏した。全身から迸る、野球への愛。俺だって野球は大好きだけれど、いっそ妬けるくらいの真っ直ぐな気持ちが伝わってくる。でも俺は、いつまでも少年みたいに白球を追いかける要さんのことが、どうしようもなく好きだ。
「美澄」
「はい?」
「今日は一日、ずっと野球のこと、考えてたい」
「ふふ、いつもと変わらないですね」
俺たちの間には、いつも野球がある。今までも、これからも。
「うん。でも、それが幸せだから」
「あ、じゃあ、俺が独断と偏見で選んだ「昨シーズンの要さんベストプレー・トップテン」の話しましょうか」
「あはは、照れくせーよ、それ」
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ポストシーズンが終わって一週間。立て込んでいた「日本選手権優勝チームの正捕手」としてのインタビューやら雑誌の取材やらテレビの収録もようやく落ち着きを見せ、ようやくオフシーズンらしくなった矢先のことだった。
「要さん、冷えピタ貼りましょうか」
「んー、ありがとぉ」
「アイスノンもあるんで、枕じゃなくてそっち使います?」
「ん。あっちいから、使う」
布団からモゾモゾと這い出してきたスワンズの大黒柱は、随分とぼんやりした表情で笑った。朝起きた時に測った体温は三十九度。昨晩はやけに疲れた様子でさっさと寝てしまったから、昨日から調子がおかしかったのだろう。
タオルで包んだアイスノンと枕を交換し、赤いおでこに冷えピタをペタッと貼る。ビクリと肩を跳ね上げた要さんだったけれど、すぐに「冷たくてきもちい」と上機嫌に言った。
「頭痛いとか気持ち悪いとか、ないですか?」
「ん。だりぃだけ。腹もへーき」
「何か食べます? ダッツありますよ」
「……ん、今はいっかな」
「要さんがアイス食べないって、ヤバいですね」
「そぉ?」
「シーズン中の夏バテ真っ盛りの時期でも蜂蜜飲んでるイメージなのに」
「はは、何それ。どんなイメージよ、俺」
アイスノンにくてっと頭をのせ、怠そうにタブレットを引き寄せる。昨シーズンの他チーム同士の試合を確認しておきたいらしい。どこまでも野球に貪欲なのは、昔から変わらない。
「なぁ、美澄ぃ」
「なんですか?」
「ごめんなー。本当はお前さそって、どこか出かけようと思ってたのに」
「いえ。こうして家でゆっくりできるだけでも、十分嬉しいですよ」
「そう言ってもらえると、気が楽だわ」
「それ、一緒にみてもいいですか?」
「あんま近くいると、移るかもしんねーぞ」
「俺もオフなんだし、大丈夫ですよ」
選手と専属トレーナー。仕事もオフも一緒だという俺の言い分に納得したらしい。要さんは布団をヒョイっと持ち上げ、俺が入れるスペースを作ってくれた。遠慮なくもぐり込む。
「わ、布団の中ほかほかだ」
「そうか?」
「熱、高いですもんね」
「まぁな〜……」
ゆっくりと半身を起こした要さんに倣う。寝ててもいいのに、と言うと、タブレット見にくいんだよ、と返ってきた。
「でも、シーズン中じゃなくて良かった」
「むしろ、シーズン中に気を張ってた分が一気にきたのかもしれないですね」
寮生活の中で、絶対的存在としてチームをまとめていた高校時代。プロになってすぐにお母さんが亡くなって、一人ぼっちで戦い続けていたこれまで。思い返せば、要さんには気の休まる瞬間なんてなかったのかもしれない。
「いつぶりだろ、こんな熱出したの」
「顔に危険球受けた時も、熱出てましたよね」
「あれはちょっと違う感じだけどな〜。あ、何戦みたい?」
「要さんのみたい試合でいいですよ。何戦でも野球は面白いですから」
「りょーかい。あ、高校の時以来かも。美澄入学してすぐの、春季大会の前日」
「……え?」
タブレットの中で、プレイボールが宣告された。日本代表のエース神志名さんを擁する埼玉ドルフィンズと、ブラックベアーズ福島の試合だった。この試合は何となく覚えている。二位争いも大詰めの、両者エースをぶつけ合った好カードだった――いや、それよりも。
「おお、初っ端から、神志名さん飛ばしすぎじゃん。これ気持ち抑えさせないと、もたねーやつ」
「要さん」
「つか、この試合、ドルフィンズ負けてんだっけ。キャッチャーの力量不足だわ、コレ」
「要さん、ちょっと」
「なにー?」
ぽややん。なんて効果音が聞こえてきそうな仕草で、要さんが小首を傾げた。頭を肩にのせられると、じんわりと熱い体温が伝わってくる。高熱なのに本当に元気だな、この人。とは思ったが、正直それどころじゃなかった。
タブレットの画面は、試合を流し続けている。俺はそっと画面に触れて一時停止させた。
「あの、いつ以来の熱って言いました?」
「高校ん時の、春季大会の、前日」
「記憶にないんですけど。あの大会のことはよく覚えてるのに」
「言わなかったし。母さん以外には、誰にも」
「でも、要さん普通に試合……」
「出てたよ。だって、美澄のデビュー戦だったし、誰にも、譲りたくないじゃん。四番だし、まだ二年だったし」
布団の中で、熱い手が俺の右手をぎゅっと握った。今ではこうして甘えてきてくれるが、青春時代の記憶の中にいる「要先輩」は誰よりも強く、カッコ良く、誰が見ても隙がなくて完璧なキャッチャーだった。それはもう、間宮世代と呼ばれるほどに。
「立てる音が人とは違うから、俺、ひたすら気持ちよく投げてたんですよ。体調悪かったなんて、全然気が付かなかったです」
「気付かせないように、してたんだよ。絶対動揺、させんじゃん。いくら緊張しなくたって、デビュー戦だぜ?」
「まあ……秋大までは俺、要さんにおんぶに抱っこでしたもんね」
「はは、おんぶに抱っこかぁ……懐かしいなぁ、けんか、したし。ってか、俺が一人でキレたのか、アレは」
「本っ当にビビりましたよ。要先輩が怒るイメージなんてなかったですもん。俺もエースとしての自覚が足りなかったって、あの後猛省しましたけど」
「お、呼び方、戻ってる」
「今の、恋人の俺にちゃんと甘えてきてくれるスワンズの頼れるキャッチャーは要さんで、あの時俺にキレたのは頼るの下手っぴスーパーヒーロー要先輩です。キャッチャーに四番に主将……それを高校二年生が一人で背負うんだから、余裕なかったんだなって今なら分かりますよ。本当に怖かったけど……」
「ごめんって」
「でも、今となっては体調悪くても隠さなくなったので、俺は嬉しいです。今だってみんなのスーパーヒーローですけど、俺の前では肩の力抜いてくれてるんだなって」
俺の本心に、要さんは眉をきゅっと寄せた。あまり見ない、照れと喜びがビックバンを起こした時の顔だった。
「変わってんなぁ。体調悪ぃとか言われても、困んねぇ?」
「逆に聞きますけど、俺が調子悪いのを要さんに黙ってたら、どう思います?」
「やだ。悲しい」
「そういうことですよ。求められたり頼られたりすると、張り切っちゃう生き物なんです。投手ってやつは」
「あー……どれだけ、性格が違くても、みんな同じなんだよな、そういうとこ」
「不思議ですよね」
キャッチャー・間宮要から見たそういう話は珍しい。熱でいつもより饒舌だからだろうか。もっと聞きたくて、潤んだ虹彩を覗き込んで続きを促す。
「……真尋はまあ、すげー気ぃ強いから、「俺がやってやるもんね!」ってタイプなの、分かるんだけどさ。お前も高校ん時は、ピンチの時こそ、右打者の胸元抉りにきてたし」
「要さんが構えたら、応えたくなります」
「朔もさ、ここぞの場面で、スローカーブのサインだしたら、ニヤって笑うんだぜ? あんまり好戦的なほうじゃ、ねぇのに」
「柔らかい雰囲気の人ですもんね、志麻さん」
「そ。だからさ、そんな個性的な奴らを生かすも殺すも、俺らの……俺のリードにかかってんだよ。はぁ……キャッチャーって、ほんとにおもしれぇ……どこまで行っても極めらんねぇもどかしさも、ぜんぶ好き……」
上擦る息の中幸せそうにつぶやいて、要さんはぼふっと布団に突っ伏した。全身から迸る、野球への愛。俺だって野球は大好きだけれど、いっそ妬けるくらいの真っ直ぐな気持ちが伝わってくる。でも俺は、いつまでも少年みたいに白球を追いかける要さんのことが、どうしようもなく好きだ。
「美澄」
「はい?」
「今日は一日、ずっと野球のこと、考えてたい」
「ふふ、いつもと変わらないですね」
俺たちの間には、いつも野球がある。今までも、これからも。
「うん。でも、それが幸せだから」
「あ、じゃあ、俺が独断と偏見で選んだ「昨シーズンの要さんベストプレー・トップテン」の話しましょうか」
「あはは、照れくせーよ、それ」