「美澄先生、ちわっす!」
「こんにちは、松岡くん」
 玄関から聞こえてきた元気な挨拶に、雪平美澄は穏やかな笑みで応えた。つい一週間ほど前はひょこひょこと右足を引きずっていた小学生の彼は、ずいぶんとしっかりした足取りで奥の施術室へやってくる。慣れた様子でパイプ椅子に腰掛けた松岡の前にしゃがみこむと、包帯が巻かれた右足を膝の上にのせた。
「痛みはどう?」
「もうほとんど痛くない!」
 野球部の部活中、ピッチャーである彼はバントの処理をする際に体勢を崩し、右の足首をぐりっと捻ってしまったらしい。なかなか腫れが引かなかったが、ここ数日でかなり改善したようだ。
 包帯を取り、患部の状態を確認する。腫れはほぼ引いたが、「ほとんど」痛くないということは多少の痛みは残っているのだろう。柔道整復師とあん摩マッサージ指圧師の資格を持つ美澄が、親指でくるぶしの下をぐぐ、と圧迫した。松岡がいてて、とまだまだ幼い顔を歪める。
「うん、順調によくなってきてはいるよ」
「じゃあさ、もう練習再開していい?」
「うーん、もう少し我慢かな」
 痛みが残っているうちは、無理をさせるわけにはいかない。患部を庇うことで別の場所に力が入り、痛めてしまう危険性もある。
 電気治療の為のパッドを足首に巻き付けながら、美澄は野球少年を見上げた。練習を控えて、という言いつけをきちんと守っているのだろう。不服そうに唇を尖らせる坊主頭が可愛らしい。
「松岡くんは右利きだよね?」
「うん」
「右投げのピッチャーにとって、右足は最後に地面を蹴ってボールに力を伝える大切な役割があるんだ。万全の状態まで戻さないと、力がしっかり伝えられない。球速があっても、力やキレのない球は打ちやすい。バッターとして、そういう経験はない?」
「ある。そういうボールは、打ちやすいと思う」
 しっかりと頷いてくれた松岡に、美澄はやさしく続けた。
「じゃあ、これ以上の説明はいらないかな。だから今は我慢だよ。大丈夫、しっかり治せる」
「はぁい」
「電気が終わったら、テーピングしてあげるからね」
 電気を流す機器のタイマーをセットすると、玄関のほうから自動ドアが開く音がした。壁の時計を見上げる。放課後の部活を終えた中学生たちが来院する時間だ。
 多々良接骨院は、おじいちゃん先生で院長の多々良、多々良院長の一番弟子である四十代の吉村、そして昨年入社した美澄の三人で治療を行っている。主に学生、それから高齢者を中心に、地元に根付いた接骨院として日々たくさんの人が訪れていた。
「なぁ、昨日のプロ野球すごかったよな。観た?」
 この地区の小学校や中学校の野球部は強豪が多く、訪れる学生も野球部率が高い。聞こえてくる内容も、おのずと野球に関することが多くなる。部活について。もしくは、テレビで毎日のように放送されているプロ野球について。今日は後者のようだ。
「もちろん観た。すごかったよな、スワンズの三者連続ホームラン!」
「美澄先生は観た?」
「あー……ううん、観てないや」
 まだまだ小さな足へ流れる電気が強すぎないのを確認してから振り返る。夏の太陽でこんがりと日焼けした中学生たちは、一様に信じられないとでも言うような目を美澄へ向けた。
「えー、観てないの? 美澄先生、野球やってたんだろ」
「少しだけだよ。ほら、電気やる人はちゃんと椅子に座って」
 ぱん、と手を打つ。はーい、と野球部らしからぬ、のんびりとした返事が重なった。電気治療組は事務所から出てきた吉村に任せ、美澄は入口付近に立っていたひょろりと背が高い少年を手招く。
「井上くんは、左足マッサージしよっか」
「っす」
 奥のパーテーションで区切られたスペースへ移動し、井上をマッサージベッドに座らせ、先日から違和感があるという左足のスネの外側に触れた。たしかに、左手の指先に張りが伝わってくる。
「ここ、痛くない?」
「少し……痛いです」
「ちょっと張ってるから、よく解しておこう。家に帰ったら、よくアイシングしてね」
「分かりました」
 前脛骨筋の張りは、疲労が主な原因だろう。痛くない程度の力で筋肉に沿ってさすっていると、頭上から声が降ってきた。
「あの、美澄先生」
「なぁに?」
 手は止めずに顔を上げる。年下に舐められやすい美澄にも敬語を欠かさない中学生の真面目そうな眼差しが、美澄を見つめていた。
「俺、甲子園で美澄先生のこと、見たことある気がします」
「人違いじゃない?」
「スワンズで昨日ホームラン打った間宮選手と、バッテリー組んでましたよね?」
「……」
 スワンズとは、東京に本拠地を置くプロ野球チームの「東京スワンズ」のことだ。テレビで野球を観戦しなくともその程度の知識はあるが、美澄は何も答えなかった。
「先生って、すごくイケメンじゃないですか」
「そう?」
「そうっすよ。前から思ってたけど。ハーフですか?」
「いや、クオーター。祖父がヨーロッパの人なんだ」
 スラブ系の祖父の血が濃く出ているのか、その手の質問には慣れていた。色素の薄い髪や虹彩。抜けるように白い肌。高い鼻に薄い唇。幼少期とは違い、周囲の人々とは少し違った特徴を持つ容姿を揶揄されているわけではないと分かっているので、褒め言葉として受け取っている。
「すげー球投げる左ピッチャーで、顔もカッコよくて、よく覚えてます。美澄先生も左利きだし、そのピッチャーの苗字も、たしか雪平だった」
 その目は確信めいていた。美澄は苦笑する。
「イケメンだって言ってくれるのは嬉しいけど……あれはもう、過去の話だよ。もう六年も前だ。井上くんだって、小学生の頃でしょ?」
 大人の六年前と中学生の六年前では、あまりにも大きな差がある。十四歳の彼ならば、当時八歳。小学二年生か三年生だ。
「そうっす。でも、家族みんな野球好きで、テレビで観てました。先生は、プロにならなかったんですか」
「うん、色々あってね……よし、マッサージ完了。あまりやりすぎるとかえって痛める原因になることもあるから、家に帰ったらアイシングメインでマッサージはしないように。明日も様子見ながら、電気治療かマッサージか判断するね」
「はい。ありがとうございます」
「この後は肩の電気治療だね。移動しようか」
「あ、美澄」
「はい?」
 よっこいせ、と立ち上がるのと同時に、電気治療組の相手をしていた院長の一番弟子、吉村に名前を呼ばれた。
「多々良先生が呼んでたぞ」
「分かりました。すみません、井上くんの肩も電気治療でお願いします」
「了解」
 井上の治療を吉村に託し、呼び出しの心当たりが全く無いまま事務所へ戻る。なんだろう。自分が担当した事務処理で、何か不手際でもあっただろうか。手に嫌な汗を滲ませながら向かった事務所――と倉庫を合体させた決して広いとは言えない空間で、院長の多々良があごに手を当てながら、予約表のバインダーを眺めていた。
「失礼します。多々良先生、何かありましたか?」
「ああ、急にごめんね美澄くん」
 年季のこもったオフィスチェアに腰掛ける多々良の背後に立ち、本題であろうバインダーを覗き込む。美澄の欄の明日夜八時に、赤ペンで丸がついていた。
「明日の夜、美澄くんにご指名があって。受けちゃったんだけど大丈夫?」
「大丈夫です。でも珍しいですね。多々良先生指名なら分かるんですが。女性です?」
「いや、男だよ。しかも初診」
「わ、本当に珍しい……」
 多々良は腕利きの柔道整復師として、度々雑誌にも取り上げられる優秀な人だ。そんな彼ではなく、まだまだひよっこの美澄を指名してくるなんて。美澄の整った顔面狙いの常連マダムなら、まだ分かるのだが。
「ちなみに名前は、間宮要さん」
「……え?」
 その名前を聞いた刹那、美澄は呼吸の仕方を忘れた。にわかには信じられず、思わず真顔で聞き返す。
「間宮要さん。同姓同名の可能性もあるけれど、あの東京スワンズの間宮選手だったりして」
 さすがに違うかぁ、とお茶目に笑った多々良に、美澄は真剣な面持ちを崩さなかった。
「いや、多分その間宮要だと思います……あの人、高校の先輩なので。電話、どんな感じの人でした?」
「明るくて、こう、あはは~って感じの声だった」
「間違いなく先輩ですね……」
 その感じは、美澄の知っている先輩捕手に違いない。
「でも、どうして……」
 美澄より一つ年上の要が卒業してから今日まで、彼とは一度も連絡を取っていなかった。だって、嫌われてしまったはずなのだ。美澄が野球から目を背け、逃げたから。それを今さら、どうして。
 不安が湧き水のように込み上げてきて、頭のてっぺんから足のつま先まで覆い尽くしてしまう。治療を受けに来るというのはただの口実で、本当は嫌いな後輩をボコりにくるのかもしれない。多々良先生ごめんなさい。明後日から来られないかも――「おーい、美澄くん?」
「っ、ああ、すみません」
「都合が悪かったら今からでも断るけど……」
「いえ……大丈夫です」
 それでも、断る選択肢はなかった。わざわざ正規の手続きを踏んで予約してきたのだ。こちらも誠意を持って迎えなければ。
「現役のプロ選手だ。騒ぎになっても困るだろうし、奥の個室を使おうか」
「そうですね。施術内容は、明日状態を確認してからにします」
「電気治療機器を使う場合は、診療時間が終わってからにしよう。表は僕と吉村くんで回すから、七時半くらいから準備に入ってもらって」
「分かりました」
 話がまとまって満足したのか、意気揚々と事務所を出ていく小さな背中を見送った後、デスクの上の予約表に書かれた名前をそっと指でなぞってみた。間宮要。六年前の夏、青春の全てを共にした人の名前の隣には、多々良の几帳面な文字で「背中の張り」と書き加えられていた。きっとプロの世界は、美澄には想像も出来ないような重圧の連続なのだろう。だって、主将で四番で扇の要だった高校時代の彼は、怪我のひとつもしたことがなかった。
「……要先輩」
 たとえ嫌われていたとしても、忘れられていたとしても、久しぶりに会えるのを喜んでいる自分がいる。憧れと不安が入り交じって、胸が苦しい。


 翌日の夜八時のきっかり五分前に、間宮要はやってきた。目立たないようにとの配慮だろう、キャップをかぶりマスクをして、半袖のパーカーにジーンズとラフな格好をしていたから、治療を受けていた学生たちに正体がバレて騒ぎになることは避けられたが、体つきが一般人とは全く違った。共に白球を追いかけていた頃よりもずっと逞しくなった先輩捕手は、奥の個室へ到着するなりマスクを下げ、にっと八重歯を覗かせる。
「美澄、久しぶり」
「お久しぶりです、要先輩」
 記憶の中と何一つ変わらない笑顔に、胸がきゅーっと締め付けられて涙が出そうになる。深く一礼して呼吸を整え、もう一度顔を見上げた。目が合った者を一瞬で虜にしてしまう甘ったるい眼差し。すっと通った鼻筋。よく笑う口元に、そこからちらりと見え隠れする八重歯。圧倒的なオーラも全て、一ミリとして違わず記憶の中の要とリンクした。本物の要先輩だ、と呟きそうになって、慌てて飲みこむ。今は患者と施術師。やるべきことがある。
「背中の張り、でしたよね?」
「ん、そう」
「状態を確認したいので、まずはベンチに座ってもらえますか」
「はーい。服、脱いだほうがいい?」
「パーカーの下は」
「アンダー着てる」
「じゃあ、パーカーだけ脱いでください」
「りょーかい」
 パーカーの下から現れた体躯は、プロ野球選手のそれだった。くっきり浮かび上がった背筋は、上着を畳むわずかな動作でも動きを見せる。
「触りますね」
 断りを入れてから、そっと背中に触れた。キャッチャーの要が酷使する場所である肩甲骨周辺に、バットのスイングで痛めやすい左の腰付近。ひと通り触れて、特に張っているように思えるのは、やはり右の肩甲骨の下部だった。
「この辺ですかね。張ってる場所って」
「あー、うん、そう。さすが」
「ここを重点的に解しましょう。マッサージベッドにうつ伏せになってもらえますか」
「分かった」
 うつ伏せた背中の先ほど触れて確認した場所に、親指の付け根で圧をかける。うあー、と気の抜けた声が聞こえた。
「要先輩」
「なに?」
「どうして、うちへ?」
 本当は聞くべきでないと分かった上で、あえて訊ねた。東京のプロ球団で活躍するような人が、わざわざ埼玉の接骨院までやってくるなんて。
「友だちに、地元で腕がいいって評判の接骨院があるって教えてもらってさ」
「でも、チームにトレーナーいますよね? いいんですか?」
「いいんだ。大事にしたくないから、オフにこっそり来たわけだし。正捕手の俺が痛いとか違和感があるとか言ってたら、みんな不安になるだろ」
 口調は明るかったが、どんな表情をしているかは見えなかった。
「ってことは、背中、痛むんですね」
「すこーしだけな。プレーに支障はないよ」
 普段相手にしている学生とは比べ物にならない質量を持った筋肉の感触が、手のひらに伝わってくる。トップアスリートの身体だ。美澄の知らない六年間が、そこに詰まっている気がした。
「身体、大きくなりましたね」
「まぁな。でも、俺なんか小さいほうだぜ? プロはマジで、筋肉ダルマがごろごろいんの」
「そうなんですね。あ、少し力入れるので、痛かったら言ってください」
「んー。美澄、マッサージ上手いなぁ」
「仕事ですから。というか、背中の張り結構強いので、出来れば休んだほうがいいです」
 悪化して肉離れに繋がる危険性がある。治療する側としての意見だった。
「シーズン中だし、さすがに休めねーよ。チームにバレたくねぇからココきたの」
「……まあ、そう言うと思ってました」
「俺、ダメなんだよ。プロんなってから、夏になるといつもこうで」
 要は困ったように笑って、それきり何も話さなくなった。力が強くなりすぎないよう細心の注意をはらいながら、凝り固まった背中を解していく。
 顔を合わせた瞬間から、嫌悪感は微塵も伝わってこなかった。キャッチャーというポジション柄、高校の頃から心理戦が上手い人だったから、負の感情を全て内側に隠している可能性も無くはないけれど。
――俺のこと、嫌いになったんじゃないんですか。
 逞しい背中に問いかけたくなる。そうだよって言われたら、二度と立ち直れなくなるくせに。
「要先輩、一度起き上がって、ゆっくり立ち上がってみてください」
「んー……おお、背中が軽い。すげー」
 見上げた先で、要が相好を崩した。ゆらゆらと楽しげに揺れる身体を両手で制し、直立させる。一歩離れて見ると、真っ直ぐ立っているはずの身体がほんの少しだけ右に傾いていた。
「……疲れで重心がズレてるかもしれないです。投げたり、バット振るのに支障はないんですよね?」
「とりあえずは。試合観た? 俺、一昨日ホームラン打ったんだぜ?」
「いや、観てないですが……とりあえず、背中の筋肉を伸ばすストレッチのやり方を教えるので、毎日寝る前にでもやってみてください」
 一人でも出来る簡単なストレッチを教え、昨日の打ち合わせ通りに診療時間が終わってから電気治療を施した。プロ野球選手の突然の来院に、多々良も吉村もぽかんと口を開けて驚いていたが、当の本人は全く気にする様子もなく、吉村がちゃっかり用意していた色紙に快くサインなんかして帰っていった。
 片付けまで全て終えて帰路につく頃には、まるで嵐が去っていったような静けさと、一試合を一人で投げ抜いた後と変わらないくらいの疲労感が肩に重くのしかかっていた。でも、美澄は無傷だ。お礼参りみたいに、憎き後輩をボコボコにしにきたわけではなかったらしい。
 高校三年の春、美澄は左肘の手術をした。切れてしまった靭帯は無事に繋がり、主治医曰く「再び投げられる状態」にまで回復したはずだったが、もう一度マウンドに立つことは叶わなかった。
 プロで待ってる。尊敬してやまない人がそう言ってくれたのに、美澄は約束を守れなかった。失意に塗れた入院中、チームメイトや卒業した先輩から届いたたくさんのメッセージに元気をもらった。「焦るな」「みんな待ってるから」「大丈夫」――その中に、要の名前はなかった。
 きっと要はプロへの道を諦めた美澄に失望し、怒っていたのだ。そんな結論に至った時の絶望感は、今思い出しても涙が出そうなくらい苦しい。高校生が生きる狭い世界の中で、最も尊敬する人に嫌われるのは、魂を削られるような痛みをともなう。月日を重ね、もっと広い世界を知り、ようやくまともに呼吸ができるようになったと思ったのに。要は、再び美澄の前に現れた。
 日が落ちても暑さが引かなくなってきた七月下旬。通勤に使用しているシティサイクルは、心地良い風で頬を冷やしてくれる。少しだけ遠回りして帰ろう。いつもは右折する交差点を、今日だけは真っ直ぐ進んだ。もう少し、感情を整理する時間がほしい。
 再会できて嬉しかったのか、それとも苦しかったのか。自分自身に問いかけてみても、答えは出なかった。


 予期せぬ再会から一週間後。要は再び多々良接骨院にやってきた。もちろん、電話できちんと予約をしてきた上でだ。
「こんちわー」
 夜八時、五分前。にこにこと人好きのする笑みを浮かべて来院した要は、前回と違ってキャップとマスクをしておらず、ちょうど治療を終えて帰るところだった学生たちを驚嘆させた。何せ、テレビの向こうで活躍するプロ野球選手が突然目の前に現れたのだ。言葉を失って目をまん丸にしている球児たちを横目に、美澄は要を奥の個室へ案内した。ベンチに座り、もぞもぞとパーカーを脱ぐ背中に問う。
「背中の調子、どうでしたか?」
「すげーよ。全然平気だし、身体も軽くて」
「ストレッチしました?」
「もちろん。毎日欠かさずやった。美澄のおかげだ」
「要先輩が自分でしっかりケアしたおかげですよ。ところで、もう少しオーラを抑えてきてください。学生たち、目がこぼれ落ちそうなくらい驚いてましたよ」
「悪い悪い。あんなに驚かれるとは思ってなくてさ。そんなに俺ってオーラあんの?」
「すごいです。眩しくて直視できない」
「と言いつつ、めっちゃ見てくるじゃん。おもしれーなぁ、美澄は」
 こちらも二回目だからか、前回よりスムーズに言葉が出てきた。会話のリズムが懐かしく、心地良い。
 断りを入れ、背中に触れた。一週間前のような張りは無く、しなやかな筋肉の感触が手のひらを押し返してきた。
「状態、かなり改善しましたね」
「マジ? 先週、美澄にマッサージしてもらってから、めっちゃ活躍したんだけど」
「それはよかったです」
「試合、テレビ中継されてるんだけどなぁ……もしかして美澄、プロ野球は観ない人?」
「……はい」
 プロだけじゃなく、甲子園大会も観ていない。ニュース番組のスポーツコーナーで野球の話題になると、なんとなく後ろめたくてチャンネルを変えてしまう。野球からは完全に離れていると言っても過言ではなかったが、そこまで正直に伝えたら悲しませてしまう気がした。
「観てほしいな。俺の野球してるとこ」
「……かっこいい、でしょうね」
「楽しませるって保証するよ」
「今度観てみます。ところで、背中は大丈夫そうですけど、どこか痛いですか?」
 そういえば、二度目の来院の理由を聞いていなかった。予約欄にも書かれていなかったから、てっきり背中の張りがまだ続いているのかと思っていた。
「どこも痛くない。身体の疲れ取りたくて来たって感じ。ダメだった?」
 椅子を支点に身体ごと振り返った要が、こてっと小首を傾げた。身長が百七十六センチある美澄よりも十センチほど背の高い男のしていい仕草ではないが、元々こういうあざとさがある人なので気にしない。
「もちろんダメじゃないです。じゃあ、今日は多めにマッサージしましょうか。前回と同じくうつ伏せでお願いします」
「はーい」
 蓄積した疲労が全て、とは言わないけれど。少しでも来てよかったと思えるコンディションまで整えてあげたい。少しでも力になりたい。その一心だった。

「お邪魔しました。美澄、また来るから」
「はい。お待ちしてます」
「あ、間宮選手! サインください」
「俺もー!」
「ちょっと、みんな、要先輩……じゃなくて間宮選手はプライベートで」
「いいよ、美澄。あ、でもここの時間的に大丈夫? 閉店時間的な」
「それは大丈夫ですが、いいんですか?」
 来院時に堂々と入ってきたから、こうなるとは思っていたけれど。施術を終えて個室から出てきた途端、要は学生に囲まれてしまった。眉を下げた美澄に、要は鷹揚に笑ってみせる。
「大丈夫。よし、みんな順番なぁ」
「間宮選手、質問いいですか」
「いいぜ~」
「彼女いるんですか」
「あはは、初っ端からそういう質問? いねーよ。野球が恋人ってみんなに言っとけ」
「じゃあ俺も野球が恋人!」
「おっ、じゃあライバルだな。よし、みんなサイン大丈夫? 親御さんにも、「間宮要からサインもらったから今日から東京スワンズファンになる!」って言っといてな?」
 どんな理屈だ、と思わず笑ってしまった。
「ウチは元々スワンズファンです!」
「うちもー」
「俺も。じいちゃんも父ちゃんも俺もそう! 三者連続ホームランで騒ぎすぎて母ちゃんに怒られたもん」
「マジで? へぇ、スワンズ人気なんだなぁ。ありがとうな」
 野球少年たちの目がキラキラと輝いている。プレー外でも、プロ野球選手が与える影響は大きいようだ。
「美澄も俺の活躍観てよ。次来た時、感想聞くからさ」
「分かりました。久しぶりに観た野球が負け試合にならないように、頑張ってくださいね」
「おう、任せろ」
 口では生意気なことを言ったが、「次」があることに心底安堵する自分がいた。嬉しかったと、今度は胸を張って断言できる。たとえわずかな時間だったとしても、要と会って話ができた時間は、美澄にとって幸せ以外の何物でもなかったのだ。


 要との約束を守る為、休日の夕食時にテレビのチャンネルを野球中継に合わせた。懐かしいダイヤモンドに、テレビ越しでも圧倒的されそうな大歓声。いつもこの中でプレーしているのかと感心すると同時に、心臓が拒否反応を示して早鐘を打つ。この胸の痛みは病的なものではなく、精神的なものだと分かっている。過去から目を背けるのが上手くなっただけで、ちっとも乗り越えられてなんかいない。
 スタメン発表のアナウンスと同時に、打順が画面に映し出される。五番・キャッチャー、間宮。本当にプロ野球選手なんだなぁ、と今になって実感する。
 今日の先発投手である若槻真尋という選手は、若干二十歳にして球団のエースピッチャーらしい。美澄より三つも年下だ。すごいなぁ、と一人呟きながら、近所のスーパーで安かった鯛の切り身で作ったアクアパッツァを頬張った。彼女いない歴イコール年齢。一緒に出かけるような友人もいない美澄にとって、料理は数少ない趣味だ。
 ホームゲームの為、スワンズは後攻。これから始まるのは一回の表なので、要たちはそれぞれの守備位置についている。試合開始を前にリズム良くボール回しをする選手一人一人がアップになって、簡単な紹介が読み上げられていく。
 スタメンマスクはもちろんこの男。常勝スワンズの扇の要を任される若き天才、間宮要――実況アナウンサーの軽快な声に合わせて画面いっぱいに映し出された甘いかんばせ。甲子園出場よりもずっと狭き門であるプロの世界で、「天才」と評されるほど凄い選手だったのか。たしかに学生時代、プロのスカウトが何人も練習や試合を視察しにくるような人ではあったけれども。
 体つきはプロらしくなったけれど、マウンドに立つ投手へ声をかける時の表情は少しも変わらない。ピンチでも決して動じない、自信たっぷりでいたずらっ子のような笑顔。基本お調子者な人なので、よくこちらをからかってくる時は正直ムカつくけれど、野球をしている間は不思議なくらい安心するのだ。
 マウンドに立った先発投手の若槻真尋は、エースらしい、気の強そうな目をしていた。主審によってプレイボールが告げられ、試合が始まる。ゆっくりと上げた左足を大きく前へ踏み出し、投じた第一球。スピンの効いた白球は糸を引くように要の構えたミットに吸い込まれ、パァンと画面越しでもよく分かる乾いた音を立てた。
 ボールを投げ返す何気ない仕草に、ノスタルジーを感じずにはいられなかった。今でも鮮明に思い出せる青春の日々と、手が届かないくらい遠くへ行ってしまった現実。対極にある二つの感情が、美澄の心を締め付ける。
 あっという間にアウトを三つ取り、今度はスワンズ側の攻撃。一番バッターが内野安打で出塁し、二番がバントで一塁ランナーを二塁へ進める。三番バッターがライト前にタイムリーを放ち、あっという間に点数が入った。教科書に手本として載っていそうな鮮やか過ぎる攻撃に呆気にとられていると、今度は何だかすごく打ちそうな体格のいい選手がバッターボックスに入った。四番バッターの日下部麗司。表の守備で、ファーストにいた選手だ。昨シーズンは、三十本もホームランを打ったらしい。画面の下部にそんなデータが表示されていた。
 二球でツーストライクと追い込まれてしまったが、粘りに粘って四球を選んだ。ワンアウト一、三塁。チャンスで回ってきた打席に、美澄は思わず食事の手を止めて食い入るように画面を見つめた。
 五番、キャッチャー、間宮。ウグイス嬢のアナウンスをかき消してしまいそうなほどの大歓声が、要の背中を押している。バッターボックスへ向かう要の真剣な表情の中に、抑えきれない高揚感が滲み出ていて、何故か涙が出そうになった。
「……頑張れ、要先輩」
 一球目は外に大きく外れてボール。四球でランナーを出した後だから、そろそろストライクを欲しがる頃合いだろう――と考えるのがセオリーだから、あえてもう一球外すかもしれない。でも、この勝負はきっと要が勝つ。読み合いは、昔から彼の得意分野だ。
 ピッチャーが二球目を投げる。待ってましたと言わんばかりの鋭いスイングに、美澄は一瞬ボールを見失った。要がバットを放り、ボールの行方を見上げながら駆け出す。実況アナウンサーの声に熱がこもった。
――打球は伸びて、伸びて……入りました! 丹羽のタイムリーと間宮のスリーランで一回の裏から四点差をつけ、エースの若槻を援護します!
 悠々とダイヤモンドを一周する姿は、あまりにもカッコよかった。負け試合にならないように、とは言ったけれど、こんなに活躍するだなんて思ってもみなかった。
 気づかないうちに、口角が上がっていた。怪我をしてから五年もの間、ずっと意地を張って野球から目を背けていたのに。憧れていた先輩が活躍しているのを目の当たりにして、心臓がいい意味でドキドキと鼓動の速度を上げていた。
 次に会ったら、なんて声をかけようか。

 
 三度目の来院は、久しぶりの試合観戦から二週間後のことだった。
 要の所属する東京スワンズが加盟しているラ・リーグは、全国各地に本拠機を置く六チームが参加しており、シーズン中に開催される試合の半分はホームゲーム、もう半分は各本拠地に出向いてのビジターゲームとなっている。遠征で家を空けていたから来られなかったのだと、予約の際に要本人から聞かされた。
「美澄ぃ……バス移動で腰バキバキだから、重点的にお願いしてもいい?」
「分かりました。マッサージ終わったら、電気治療もしましょうか」
「ん。ありがと」
「あ、そうだ。先輩、試合観ましたよ」
「マジで? どうだった? 俺、活躍した試合だった?」
 隠しきれていなかった疲労の色が一気に吹き飛んだような、明るく弾んだ声だった。
「一回裏に、スリーラン打った時の試合でした」
「めっちゃいい時じゃん! やっぱ俺、持ってんなぁ」
「そうですね。やっぱり、本当にカッコよかったです」
 アンダーウェア越しに触れ、全身の状態を確認していく。本人の申告どおり、腰の筋肉がカチカチになっていた。遠征なんて日本各地へ行けて楽しそうだと思うが、長時間の移動やそれにともなう疲労の蓄積など、いいことばかりではないらしい。
「いいとこ見せられてよかった」
「でも、次の試合では三打席連続三振……」
「うわ、そっちも観ちゃった?」
「はい。肩に力入りまくってるなぁ、って思いました」
 アウトを告げられた時の悔しそうな表情は、初めて見る顔だった。
「あの時は負けてたから、どうしても点数とってやりたかったんだよ。頑張って投げてるピッチャーの為にも」
「その結果、最後の打席で逆転タイムリーって……漫画に出てくるヒーローかって思わずツッコミいれましたよ」
「一人で?」
「一人で。ビール飲みながら」
「はは、その美澄見たかった」
「昔からそうでしたよね。要先輩は、責任とか期待とか、全部一人で背負えてしまう人だった」
 要は何も言わなかったけれど、指先に伝わってくる肩の張りが答えだった。先日よりも時間をかけて解していこう。片付けと戸締りは下っ端である美澄の役目だ。多少時間がオーバーしても、何も言われはしないだろう。
 マッサージに電気治療。全ての施術を終える頃には、多々良も吉村も帰宅した後だった。二人きりの室内は静かで、互いの呼吸さえよく聞こえる。好都合だ。心置きなく懸念をぶつけられる。
「要先輩、少し気になったことがあるんですけど」
「んー?」
「前回来院した時より、痩せましたよね……?」
 わずかな変化だったが、それはたしかな違和感だった。壁に貼られた人体模型をイラスト化したポスターを眺めていた要が、ぴくりと肩を跳ねさせる。
 要先輩、ともう一度名前を呼べば、先輩捕手は恐る恐るといった様子で振り返った。バチッとぶつかった目は、すぐにフラフラと泳いで逸らされる。自覚ありか、この人。
「飯、ちゃんと食ってるんですか」
「まあ、それなりに」
 怪しい。それなりって何だ。
「ホントですか」
「……うん」
「今日の夕食は?」
「食べた」
「何を」
「…………素うどんを、少し」
「はい?」
 この身長と筋肉量で小麦粉オンリーはダメだろう。そもそも、キャッチャーは消費量の多いポジションだ。しかも今は夏。たくさん食べても、どうしても夏は痩せてしまうんだと、同級生のキャッチャーが言っていた。要だって例外ではないはずだ。
「タンパク質は? 脂質は? ビタミンやミネラルは? というか、少しってどれくらいですか」
「このくらいの器の、半分」
 両手の手のひらで受け皿を作って、要は唇を尖らせた。
「いやいやいや、計算しなくてもカロリー不足でしょう!」
「……ス、スミマセン」
「まさか、毎年じゃないですよね」
「夏は、どうしても苦手で」
「でも、シーズン打率は低くないですよね」
 調べてみたら、三割前後だった。要は「気合い」と言って苦笑した。その状態で今までどうにかなっていたのは、才能と努力と意地っ張り故か。
 心配を通り越した感情が、何故か怒りに変換された。ふつふつと湧き上がって、色素の薄い目が据わる。
「要先輩」
「っ、ハイ」
 ガッと要の右手を掴んで、甘ったるい目をじっと見つめて、美澄は言った。
「うちに来てください。俺はこれから夕飯なので、一緒に食べましょう」


 キッチンカウンター越しに見える憧れの人は、居心地が悪そうに小さくなっていた。ソファに浅く腰かけ、テレビを眺めている。時折こちらをチラチラ気にしているのが面白い。
 明日も試合なので、あまりのんびりはしていられない。身体を休めるのも、プロ選手の立派な仕事だ。
 ご飯はタイマーで既に炊き上がっていて、あとは食材を刻んでいくだけ。刻んだオクラに一口大にカットしたアボカド、納豆にとろろ。それらをどんぶりによそったご飯にのせていく。同時進行で作った豆腐とワカメの味噌汁も、いいタイミングで完成した。
「先輩、お待たせしました」
「ありがと。おお、すげー」
「刻んでのせただけなので。簡単ですよ」
「でもごめんな、わざわざ」
「今日は元々ネバネバ丼にする予定だったので。一人分も二人分も変わらないです。さ、食べましょうか」
 最近、暑さがより厳しくなってきたから、今日は元々食べやすさ重視のメニューにする予定だった。美澄が手を合わせると、要もそれに続く。いただきます、と二つの声が重なった。
 要は納豆ととろろの境い目をスプーンで慎重にすくって大きな口で頬張ると、ふにゃりと相好を崩した。美味しいですか? と聞くと、何度も首肯する。口に合ったようで何よりだ。
「うめぇ」
「それはよかったです。ちなみにキムチも刻んだので、味変の時はご自由にどうぞ」
「俺、辛いの苦手……」
「あー、甘党でしたっけ」
「そ。辛いのもだけど苦いのも無理」
「このあと、コーヒーいれようと思ってたんですけどお茶にしますね」
「牛乳入ってれば大丈夫」
「何対何です?」
「九対一」
「牛乳が九?」
「うん。あと甘くしてほしい」
「お茶いれるの、全然手間じゃないですよ?」
「コーヒー牛乳は好きなんだよ、俺」
 それはもはやコーヒー牛乳ではなく牛乳コーヒーでは、と思ったが、口には出さなかった。「好き」を語る要は、いい顔をしている。
「もしかして、今もスタベの新作飲みに行ってるんですか?」
「いや、身体の為にもあまり行ってない。甘いもの食べていい日は決めてて、三ヶ月に一回くらいにしてる」
「俺、要先輩が寮の食堂ではちみつ飲んだの、いまだに覚えてますよ」
「あの時の美澄のドン引き顔、俺も覚えてるわ……」
 要が極度の甘いもの好きだと知ったのは、美澄が高校に入学し、バッテリーを組んで間もない頃だった。スタベの新作フラッペが発売されるたび付き合わされるのだと、当時の最上級生が教えてくれたのだ。
 何だか不思議な気分だ。嫌われてしまって、もう二度と会えないと思っていた要が、美澄の家で、美澄の作った料理を食べながら、想い出話に花を咲かせている。夢かもしれない。逃げた野球に再び目を向けて、センチメンタルになった心が見せた幸せな夢。でも、それでもいいや。


 二度目の夕食だというのに、要はあっという間にどんぶりを空にした。
「ごちそうさま。美味かったし、すげー食いやすかった」
「よかったです。じゃ、コーヒーいれてくるのでゆっくりしててください」
「何から何まで申し訳ないから、何から手伝うよ。皿洗いとか」
「大丈夫です。俺が勝手に連れてきたので」
「俺、美澄にあんなに怒られたの初めてだったからビビった」
 手伝いは不要だと言ったのに、要は空の食器を持ってついてきた。万が一お湯がこぼれて火傷なんてさせたら、美澄では払いきれない賠償金を球団から請求されそうなのでキッチンから追い出すと、渋々さっきまで座っていたソファへと戻っていった。その背中があまりにも寂しそうで、美澄は大急ぎで食器を片付け、アイスコーヒーとアイス牛乳コーヒー(激甘)を作った。
「要先輩。すみません。すごく甘くしちゃったので、牛乳足したい時は言ってください」
「えー、そんなに? いただきまーす」
「あ、ちょっ、ほんとに甘いですって」
 注意喚起したにもかかわらずグラスを豪快にあおった要が、キラキラと目を輝かせて美澄を見た。
「やばい、めっちゃ美味い!」
「俺は要先輩の味覚が分からない……」
 まるで子どもみたいな笑顔につられて笑ってしまう。テレビでただ流れているバラエティも相まって、リビングは明るい雰囲気に満ちていた。
「お前がいたら、夏も苦手じゃなくなりそう」
 その言葉に、鼓動が速くなる。分かっている。要に必要なのは美澄自身ではなく、施術や作った料理のほうだってことは。
「自分で作る余裕ないなら、ご家族に作ってもらったらいいんじゃないんですか? 埼玉と東京なら、通えない距離じゃないですし」
 要が母子家庭で育ったのは知っていた。彼によく似た美人な母親が、たまにスタンドの上のほうで応援していたのを覚えている。
 試合間の空き時間に会話する姿を見るかぎり、親子関係は良好そうだったし、息子がこれだけ活躍しているなら喜んでサポートしてくれそうな気がするのだが。そんな美澄の考えは、すぐに叶わぬものだと気付かされる。
「母さんは死んだよ。俺、もう独りなんだ」
「……え」
「俺が高校を卒業して、一ヶ月くらいの時かな。プロになりたてホヤホヤだった俺に心配かけたくなくて、調子悪いのずっと我慢してたみたいでさ。倒れて病院に運ばれた時にはもう遅くて、あっという間だった」
 美澄は衝撃のあまり取り落としそうになったグラスを両手で持ち直し、喉から言葉を絞り出した。
「そう、だったんですね……」
「それからもうずっと一人でさ。別に、自分で飯作れないこともないんだけど、夏とかシーズン後半はやっぱりキツくて」
 要は眉を下げて小さく笑った。
「すみません、何も知らずに……」
 無神経な発言だったと、美澄は自分の無知を恥じた。生命と野球じゃ重みが違えど、突然失うということの痛みを知っている。
「言ってなかったもん、仕方ねーよ。むしろ謝るのは俺のほうだろ。ちょうどお前が怪我した時期と重なったんだよ。手術するくらいの怪我だって聞いたのに連絡してやれなくて、先輩らしいことしてやれなくて……悪かった。本当に」
「謝らないでください。要先輩は何も悪くない」
「……俺、キャプテンだったじゃん」
「ええ」
 扇の要で、四番で、キャプテン。そしてバッテリーを組んだ相棒として、誰よりも頼りになる人だった。
「俺、キャプテンとか、ほんと、そーゆーの向いてなかったんだよ。疲労と暑さとプロの緊張感でこのザマなのに。そんな奴が先頭に立ってまとめる立場とか、笑っちゃうよな」
「向いてないなんて、一度も思ったことはないです。要先輩を超えるキャプテンを、俺は知らない」
 口の端に自嘲を含ませた要を、かぶりを振って否定した。美澄にとって、要は世界で一番のキャプテンだった。きっと、当時のチームメイトもそう思っているはずだ。
「まあ、そういうネガティブな感情を抱え込んで、平気なフリして意地を張り通せるところ。全然変わってないなーとは思いますけど」
「……よーく分かってんじゃん」
「バッテリーでしたから」
 要が美澄を知っているのと同じだけ、美澄も要を知っている。いつか、胸を張って言える日が来ることを願っている。

 ふと見上げた壁掛け時計は、間もなく日付けを跨ごうとしていた。
「先輩。もう夜も遅いし、泊まっていきます?」
「え、さすがに迷惑だろ」
「ストレッチ補助に朝食付き。悪くはないと思いますが」
「俺は嬉しいけど……美澄は嫌じゃねーの?」
「嫌だったら、そもそも家まで連れて帰ってきて夕飯食べさせてませんよ」
「そっか。じゃあ、甘えさせてもらおっかな」
 ふわりと笑えば、ちらりと覗く八重歯が眩しい。男から見てもかっこいい上に背も高く野球が天才的に上手いだなんて、神様は何物を与えれば気が済むのだろう。
 平日の試合は基本的に夜に行われるナイトゲームの為、午後から動き出しても十分間に合うらしい。明日は火曜日。美澄は接骨院自体が休みなので、一日休みだ。
 順番に風呂に入った後、公約どおりストレッチを手伝う。座ったままでも二塁へストライク送球が出来る要の強肩は人よりも可動域が広く、一人ではなかなか満足に伸ばすのが難しそうだった。
「息は止めないでくださいね。痛かったら教えてください」
「うぃ~……」
 あぐらをかいて座る要に頭の後ろで手を組んでもらい、背後に立つ美澄が両膝で要の肩甲骨を押さえ、両手で上腕を斜め後ろに持ち上げる。心配になるくらいの可動域だが、本人は痛そうな素振りを全く見せないので大丈夫なのだろう。
「次、足伸ばします。仰向けに寝転がってください」
「んー」
 フローリングに敷いたヨガマットの上に寝転がった要と視線がぶつかった。本人の嗜好と同じ甘ったるい眼差しが、美澄を捉えて離さない。何故か先に逸らしたら負けだと思って見つめ返すと、要は心底嬉しそうに、そしてくすぐったそうにはにかんだ。
「わー、ホントに美澄だ。ほんもの」
「なんですか、藪から棒に」
「だって、もう会えないと思ってたからさぁ……」
 それは美澄とて同じ思いだった。嫌われたとばかり思っていた。辛いのは自分ばかりだと思って、勝手に嘆いて、諦めて。
 左のハムストリングスを伸ばしていた手を止める。美澄が次の言葉を探しているのを察してか、要はゆっくりと半身を起こした。
「……俺、実は」
「うん」
「怪我をした時に要先輩から連絡がこなかったのは、先輩が俺のことを嫌いになったからだと思ってました。怪我をして、思うように投げられなくなって、俺は野球から逃げた。こんな弱くて卑怯な俺のことなんて、嫌いになって当たり前だって」
 弱虫な自分自身が大嫌いだった。膝の上で握ったこぶしが震える。
「本当は、俺もプロになりたかった。また要先輩とバッテリーを組みたかった。スカウトもきてたし、球団の人と話をする機会もあった。それなのに、俺はみんなを裏切って逃げたんです」
「逃げじゃないだろ」
 要の右手が、美澄の左手首をそっと掴んだ。年中着ている長袖シャツの袖を上腕まで捲られる。
 さらけ出された、消えない手術痕。白い肘の内側に走る一本線は赤みを帯び、苦しい記憶を思い起こさせる。それらを全部上書きするみたいに、要の少しカサついた指先がなぞった。
「これだって、美澄が頑張った証だと俺は思うけど」
「……っ」
「それに、プロになることが全てじゃないしな。柔整師と指圧師だっけ? スポーツやってる人をサポートする仕事してるじゃん。それは逃げなんかじゃなくて、真摯に向き合ってる証拠だと俺は思うよ」
 ツンと鼻の奥が痛くなって、慌てて上を向いた。
「……あまり、やさしい言葉をかけないでください」
「え、どうして。俺今すげー先輩っぽいこと言ったじゃん」
「でも、要先輩が俺の先輩でよかったなって、改めて思いました。ありがとうございます」
 誰がなんと言おうと、要は世界で一番のキャプテンだ。

 アラームの音で目が覚める。とじ続けようとするまぶたと戦いながら身体を起こすと、背中がぱきぱきと音を立てた。ソファで寝たから仕方ない。来客時の為に敷布団を買おうと心に決めた。
 ぐっと伸びをしてから立ち上がる。カーテンを開けると、窓の向こうにはどこまでも高い夏の青空が広がっていた。試合日和だと思える程度には、野球と向き合えるようになったのかもしれない。
 寝室のほうから音はしなかった。身体が資本のプロ野球選手をソファで寝かせるわけにはいかないと、半ば無理やり美澄のベッドに押し込んだはいいが、ゆっくり眠れただろうか。
 朝食は何を作ろう。要が甘党だという好み以外は知らない。苦いのと辛いのが苦手。子どもみたいで、ちょっと可愛い。
 今朝は和食の気分だった。魚の特売日に買っておいた鮭の切り身が冷凍庫に眠っている。常備菜のひじき煮に、卵はだし巻きにして、ほうれん草と油揚げで味噌汁を作れば優雅な休日のブレックファースト。料理が趣味でよかった。ああ、一昨日常連さんからいただいたイチゴも添えよう。
 間もなく鮭が焼きあがるというタイミングで、寝室のドアがゆっくりと開いた。くぁ、とあくびをこぼしながらキッチンへやってきた要の頭には、ぴょこんと寝ぐせがついている。
「おはよぉ」
「おはようございます。よく眠れました?」
「ん。家で使ってるマットレスと一緒なのかな。全然気になんなかった」
 その言葉に嘘はなさそうだった。昨日よりも顔色がいい。
「もうすぐ朝ご飯ができるので。座って待っててください」
 ボウルの中で卵をチャカチャカと混ぜながら、視線でリビングを指した。
「ん……でも、箸くらいは用意させて」
「じゃあ、そこの引き出しから二膳、お願いします」
「お願いされたー……」
 ぼんやりとしている要は珍しくて、つい目で追ってしまう。テーブルに箸を並べる動きに合わせて寝ぐせがひょこひょこと跳ねて面白い。
 我ながら上手くできただし巻きをカットし、グリルからこんがり焼けた鮭を取り出した。
「すげーいい匂いする」とすっかり覚醒した様子の要が、リビングで嬉しそうに笑っている。

 楽しい時間ほど、早く過ぎるのは何故だろう。
「あの、もし要先輩が良ければ、なんですけど」
「ん?」
 玄関の上がり框に腰かけ、スニーカーの紐を結ぶ背中に声をかけた。わざわざ手を止め、振り返ってくれる。だから美澄もしゃがみ込んで、同じ視線の高さで続けた。
「接骨院に来た日は、そのまま家でご飯食べて行きます? 今回みたいに泊まってもらっていいので」
 提案は、美澄の希望でもあった。求められたら、応えたくなるのがピッチャーの性だ。正しくは、「元」ピッチャーだけれど。要とバッテリーを組んだ過去は消えない。要の存在が、六年間ずっと心の奥底でフタをして閉じ込めていた感情を呼び起こした。
「いいの?」
 まっすぐな目が美澄を見つめる。頷けば、大きな手のひらが頭にのせられた。そのままわしゃわしゃと撫で回されると、オキシトシンが分泌されるのが自分でも分かった。
「ありがと。次も楽しみにしてる。じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。頑張ってくださいね」
「今日、美澄は休みだっけ?」
「そうです。試合、観ますね」
「ん。絶対活躍するから」
 広い背中がドアの向こうに消えても、そこからしばらく動けなかった。


 リーグ三連覇、そして昨シーズンは日本一にもなった常勝軍団は、今年も首位をひた走っていた。
――その中でも注目すべきは、昨日サヨナラタイムリーを放った間宮要。昨シーズンまでは夏になると目に見えて落ちていた打率が、今夏は目に見えて上昇している。日本代表にも選出される天才が、どこまで成績を伸ばせるかが期待されている。
「カッコいいなぁ……」
 新聞に掲載された記事に目を通すと、思わずそんな言葉が口をつく。
 今日は朝からコンビニへ行って、スポーツ新聞を買ってから出勤した。ファンのお手本のような行動だ。ふと我に返って「何してるんだ、俺……」となる時はあるが、要が一面に大きく掲載されている新聞を見かけるとどうしても手が伸びてしまうから仕方ない。ちなみに、全てきちんと保管済みである。
 ピンポーン、とチャイムが鳴り響いた。二十二時の来客は、ただ一人と決まっている。
「わりぃ、遅くなった」
「お疲れさまでした。今日は惜しかったですね」
 接骨院の閉院時間が二十一時だからリアルタイムの視聴は叶わなかったが、結果は先ほどニュースで確認した。ゼロ対一。スワンズの完封負けだ。
「もーマジで悔しい。向こうのライトが超ファインプレーしてさぁ。あれで二点は防がれたし。久しぶりの完封負けとか、ホントへこむわぁ」
「そんな要さんに朗報です」
「うん」
「今日の夕飯はハンバーグオムライスです」
「やった、へこんだ心が一気に元通りだ」
 一秒前とは打って変わって足取りが軽くなった要に、笑いが堪えられなかった。
 遠征が無ければ週に一回、オフの日に施術を受けに来ていたのが、今では週に二回、三回と増えた。今日のようなナイトゲームの日は試合後の移動になる為、到着が夜遅い。そういう時は直接美澄の家まで来てもらい、食事を振る舞いマッサージをしたりストレッチの補助をする。オフの日は今まで通り夜八時に予約を取って、接骨院で施術を行った後二人で美澄の家に帰った。
 はたから見たら尽くしすぎだと言われるかもしれないが、多すぎるくらいの食費を(いらないと言っているのに)渡されているし、そのおかげで食卓にのぼる料理の材料が豪華になったので、ウィンウィンの関係だと美澄は考えている。
 リビングのテーブルには、美澄がついさっきまで読んでいた新聞がそのままになっていた。紙面の自分を目で捉えた要が、うわぁ、と眉を寄せる。
「それ、買ったんだ」
「はい。要先輩が載ってるので。ほら、こんなに大きく」
「いや、見せなくていい。恥ずかしいから」
「俺すげー、ってならないんですか?」
「スタメン定着してすぐの頃はなったけどさ、よく考えてみ? アドレナリン全開でテンションぶち上がってガッツポーズしてる自分を後から冷静になって見返すなんて、結構恥ずかしいぜ?」
 俺すげーとなっていた当時を思い出したのか、照れくさそうに両手で顔を覆った要を横目に夕食の準備を進める。形まで作っておいたハンバーグを焼きつつ、ケチャップライスを卵で包んでいく。生ものは美澄自身が苦手なのとアスリートには不向きなので、トロトロバージョンではなくよく焼きバージョンだ。
「要先輩、スプーンの用意をお願いします」
 何だかんだ気になるのだろう。恐る恐るといった様子で新聞に目を通していた要に声をかける。待ってましたとばかりに動いてくれるので、美澄としても頼みやすい。
「おっけー。うわ、やべぇな。超美味そう。しかもデミグラスソースじゃん」
「缶のやつを温めただけですけどね」
「ケチャップも美味いけどさ、デミグラスもいいよな」
 最近知ったのは、要が甘い物以外ではオムライスやハンバーグ、エビフライにから揚げなど、お子様ランチとして出てきそうな料理が好きだということだ。高校の頃はとても大人に見えた一学年の差が、今では懐かしい感情だった。
 食事を終え、ひと休みしたらストレッチとマッサージを施し、夜中に放送されるリアクションが大げさな通販番組を眺めながら、日本代表正捕手の野球談議を子守唄に眠りにつく。そして翌朝、美澄の出勤に合わせて二人で家を出る。いつかファンから刺されるんじゃないかと心配になるくらい贅沢な日々を、数ヶ月前の自分は想像もしていなかった。

 日中の暑さが、より厳しさを増す八月初旬。今日の夕食は素麺だったが、明日も明後日も素麺にしたいくらい暑かった。要はきっと、毎日素麺を出しても美味い美味いと食べてくれるだろうけれど、それはさすがに美澄のプライドが許さない。
 明日の献立を考えながらコーヒーを啜る。カフェインへの耐性があるのか、寝る前にブラックコーヒーを飲んでも影響を受けない体質だった。
 ふと、テレビから木製バットの打撃音が聞こえた。いつも流しているニュースのスポーツコーナーで、野球特集に切り替わる時のジングルだ。
――今日のプロ野球スーパープレーをお届けします! まずはこの選手。東京スワンズ不動の正捕手、間宮要選手の強肩発動! 昨シーズン盗塁王の東選手にも、進塁を許しません。
 よく見かけるスポーツアナウンサーが、映像に合わせて熱の篭った声で語る。
――いやぁ、このプレーは本当に凄かったですよ。二塁に進まれたら、東選手にはヒット一本で帰ってくる足がありますからね。今日の試合、ここで決まったと言っても過言ではありません。間宮選手の強肩は宝ですよ。彼がいるかぎり、日本代表の捕手には困らないでしょうねぇ。
 右下のワイプで嬉しそうに目を細めたのは、解説者の野村。元キャッチャーである老齢の彼は辛口の批評で有名だが、今日の要は文句のつけどころがない活躍だったようだ。
――長年プロで活躍された野村さんでも、そう思われる選手なんですね。
――ええ。是非とも自分が教えたかったくらいの逸材ですよ。
 パッと映った観客席の画角だけでも、要のユニフォームを来たファンがたくさんいる。試合を観る前から薄々分かっていたが、要の人気は凄まじい。多分、球団で一位二位を争う「チームの顔」だ。
「ねえ要先輩、すっごい褒められてますよ」
「なー。俺、今日全然打てなかったのに」
「勝ったからいいじゃないですか。というか、普通に一本ヒット打ってたし」
「でも、単打だし。得点に絡めなかった」
 どうやら今日は「納得行かなかった日」のようだ。ほぼ牛乳の甘いコーヒーをちびちびと啜り、不服そうに唇を尖らせる横顔を盗み見る。テレビの向こうで躍動する、プロ野球選手としての間宮要しか知らないファンは、今日はダメだったと落ち込む彼を知らないだろう。後輩の家でこうして寛いでくれていることも、知っているのは美澄だけ。そんなちょっとした優越感が、無加糖のブラックコーヒーをほんのりと甘くした。
「なあ、美澄ぃ」
「なんですか?」
 野球の話題がサッカーに移る。呼ばれたので隣を見たが、要はテレビの画面に目を向けたままだった。
「連休って取れんの?」
「取れますよ。来週の火曜と水曜も連休ですし」
 これといってどこかへ行く予定もなく、当たり前のように要と過ごすつもりでいる。
「よかったら、試合観にこない? スワンズドームの一塁ベンチ上の席、関係者枠で用意できるんだけど」
 美澄が野球観るの、しんどくなければ。落ち着いた口調で続けられた言葉に、要がこちらを見なかった理由を察した。目を合わせたら断りにくくなると思ったのだろう。小さな気遣いが嬉しかった。
 かさぶたで覆われた心の傷に問う。自分はどうしたい? そんなの、決まってる。
 美澄の宝石みたいなヘーゼルがぱぁっと明るくなり、キラキラと輝き出す。蕾がほころぶような笑顔が、答えだった。
「俺、観に行きたいです。先輩が野球してるところ」
「よし、分かった。いい席取ってもらうから、楽しみにしとけよ?」
「はい!」
「んで、試合終わったら俺んち泊まってきな」
「え、いいんですか?」
「もちろん、いつも泊めてもらってばかりで悪いしさ。火曜日の試合観て、一緒に帰ってそのまま泊まる感じでいい?」
「いつもと逆ですね」
「……嫌?」
「いえ、すごく楽しみです」
「絶対勝たなきゃなぁ」
「期待してます。ホームランですか?」
「プレッシャーかけるなぁ。ま、絶対楽しませるからさ」
 大きな手のひらが、美澄の丸っこい頭をぽんぽんと撫でた。一週間後が、今から待ち遠しくて仕方ない。


 昼食を食べてから一緒に家を出て、要の車で球場へ向かった。
「チケットに書いてあるゲートに行けば入場できるから。中にも座席表あるし、もし分かんなくてもスタッフいっぱいいるから、聞けば大丈夫」
「分かりました」
「あとコレかぶってけ。スワンズの応援してる感出るから」
 ぽす、と頭にかぶせられたのは、要が今しがたかぶっていたキャップだった。視界の上のほうに何か文字が見える。一度手に取って確認してみると、キャップのつばの裏側に誰かのサインが書かれていた。
「もしかして、要先輩のサインですか?」
「そう。この辺が間宮で、この辺が要」
「すごい。プロって感じがします」
「はは、プロだからなぁ。それ、美澄にあげるから」
「ありがとうございます。大切にしますね」
「ん」
 選手用の地下駐車場で別れ、階段を使って一人で地上へ出る。試合開始までは時間があるにもかかわらずドーム周辺は既に賑やかで、たくさんの人が応援ユニフォームを着ていた。「MAMIYA」の背ネームと要の背番号である二十七を見るたび、何故か誇らしい気持ちになる。
 しばらく辺りを散策した後、入場開始時刻まで近くのカフェで時間を潰してから、チケットに記載されたゲートへ向かった。
 柱や壁に大きく掲示されている看板には、東京スワンズのレギュラー陣の写真が使われている。もちろんその中には要もいて、精悍な表情で腕を組んでいた。彼のことだ。撮影後に照れてモジモジしていたに違いない。せっかくなので後で要に見せようと何枚か写真に収め、入場列の最後尾に並ぶ。ドーム型球場特有の、内外の気圧差で生まれる風に抗いながら回転扉を抜けた先には、壮大な世界が広がっていた。
「……わぁ、懐かしー」
 スワンズドームで試合をした経験はなかったけれど、毎日駆け回っていたグラウンドは、眼下に広がっているダイヤモンドと同じ広さで同じ形。肌で感じる球場の雰囲気は、テレビ越しに見るよりもずっと生々しい。
 要が用意してくれた席からは、マウンドやバッターボックスがよく見えた。ダッグアウトの屋根がすぐ目の前にあり、内容までは分からないが、アップ中の選手の声が聞こえてくる。要はティーバッティングの最中で、フォームを確認しながら黙々とバットを振っていた。
 試合開始まではあと一時間近くある。木製バット特有の乾いた打撃を聞きながら、キャップを外してサインを眺めていると、あの、と左から声がした。
「……はい?」
 顔を上げる。応援ユニフォームを着た知らない女性が、美澄の顔と要のサインを交互に見ていた。美澄と同じく一人で観戦しにきたのか、周囲に同行者らしき人はいない。試合前の高揚感が、丸みを帯びた頬を染めている。
「間宮選手、お好きなんですね」
「あ、えっと、はい。好き、ですね……」
 訊ねられたのはライクのほうだと分かっているのに。好き、と言葉にすると、勝手に心拍数が上がった。
「サイン、いいですね。キャンプとか観に行かれたんですか?」
「え、と……そんな感じ、です」
 実はさっき、本人からもらったんです。しかもコレ、間宮要が直前までかぶってて――なんて言ったら、大騒ぎになるに違いない。時には必要な嘘もある。
「そうなんですね! 私も行ったんです。丹羽選手が好きで、ユニフォームにもサインしていただいて」
 そう言いながら、女性は美澄に背中を向けた。要とは違う形のサインが、背番号六の下に書かれている。丹羽夕晴選手。日本を代表する名ショートストッパーで、キャプテンも務めるチームの顔。要と同じくらい応援ユニフォームを見かける回数が多かった。
 試合開始時刻が迫っていた。スタメンが発表され、拍手が沸き起こる。ある程度は下調べをしてきたが、細かな観戦のマナーは正直分からない。周りに合わせて拍手をしてみれば、自分も応援の輪の中に溶け込めた気がした。

 打った瞬間、要は確信したようにボールの行方を見上げながらゆっくりと駆け出した。選手も観客も息を飲んで美しい放物線を追いかける。ビジター応援席のレフトスタンドに打球が突き刺さった瞬間、会場が揺れんばかりの大歓声に包まれた。六回裏。お互い一点も許さない緊迫した試合の均衡を破る、今シーズン第二十号ホームラン。
「ほ、ほんとに打った……」
 ホームランですか? とプレッシャーをかけるようなことを言ったのは美澄だ。でも、まさか、本当に実現してしまうなんて。まるで、マンガに出てくるヒーローのような話じゃないか。
 ダイヤモンドを一周した要がホームに戻ってきた。ベンチ前のフェンスから身を乗り出して声を出していたチームメイトとハイタッチを交わし、スタッフから白い何かを受け取る。スイカより一回り小さいサイズの球団マスコット「はくちょん」のぬいぐるみだった。
 ホームランを打った選手が、それを観客席に投げ込むパフォーマンスはテレビでよく見る光景だ。それを手にするチャンスがあるのは、一塁上の席。美澄が今座っている席周辺のファンだけだ。
 我こそはとアピールする周囲の人々の中で、目立たぬように大人しく座っていたはずなのに。天才捕手の甘ったるい目は、迷わずに美澄を見つけ出した。
――美澄。
 声は、歓声にかき消されて聞こえなかった。それでも、自分の名前を呼んだのだと分かった。
 要が投げたぬいぐるみは防護ネットを越え、美澄の真上に落ちてきた。さすが野球選手。コントロールが抜群にいい。手を伸ばしてキャッチする。ちゃんと取りましたよ。視線で伝えると、要は無邪気な笑顔を浮かべて頷いた。
 試合はまだ終わりじゃない。既にツーアウトだったこともあり、キャッチャーの要は数人がかりで防具をつけていく。
「おめでとうございます。よかったですね!」
 先ほど声をかけてきた丹羽選手ファンの言葉に首肯する。光を集めて輝く瞳に映りこむ美澄は、要に負けないくらい幸せそうだった。
 それにしても、はくちょんの見た目はもう少しどうにかならなかったのだろうか。簡単に表現するならば、人型の白鳥。足がやけにリアルだ。ちょっぴり、否、結構気持ち悪いシルエットをしているが、意外と柔らかくて抱き心地がよかった。ぎゅーっと腕の中に閉じ込めてみる。「ヤメテー」と断末魔が聞こえてきそうな見た目になった。だんだん可愛く見えて……はこないな。
 グラウンドでは攻守が交代が行われている。チームメイトの手荒い祝福を受けながら守備位置についた要の楽しそうな表情は、昔と少しも変わらない。野球を心から愛して、たくさんのファンに愛される人。グラウンド上での一挙一動から、目が離せない。


 試合後の待ち合わせ場所について話しておくのを忘れてしまった。日中に要と別れた地下駐車場へ行こうと思ったが、どの鉄扉を開けたらいいか分からない。全部が該当する扉にも見えるし、違うふうにも見える。入場する前に散策をしたのが間違いだったろうか。そう、美澄は今、迷子だった。
 下手に動くと余計に分からなくなりそうで、薄暗がりの中で煌々と光を放って存在を示す自動販売機の横に並んだ。自分の立てる音が消えると、別の足音が聞こえることに気がついた。何となく息をひそめ、要から受け取ったはくちょんのぬいぐるみを守るように抱え込む。徐々に大きく、鮮明になる足音に呼応するように、スマホが着信を告げた。
「っ……おお、びっくりした」
「す、すみません……」
 気配の主は思い浮かべた相手ではなかったが、見たことのある顔をしていた。驚きに見開かれている涼しげな双眸。観客席で隣になった女性の「推し選手」だった。
「こんな所で何してんすか……ってか、電話、出ないんですか」
 試合中に披露していた軽やかなプレーからは想像もできない気怠そうな声で指摘され、慌ててボディバッグからスマホを取り出す。要先輩。画面に表示された名前に、腰が抜けそうなくらい安心した。
「し、失礼します……もしもし、雪平です……」
『もしもし、美澄ごめんな、どこで待ち合わせるか言うの忘れてたわ。今どこ?』
「あ、えっと、地下駐車場に行こうとして、迷ってしまって……」
 電話に出たのに、丹羽はそこから動かない。温度の低い目が、じっと美澄を凝視している。驚かせてしまったのが、相当頭にきたのかもしれない。
『俺が迎えに行ったほうがいいかぁ。美澄、近くに何ある? ゲートの番号とか看板とか、教えて』
「はい! 薄暗くて、自動販売機と、あの、丹羽選手がいます」
『丹羽さんいんの!? ってか丹羽さんは目印じゃねーから!』
 スマホ越しに要の笑い声が響いた。笑いごとではないのに。唇を尖らせると、目印にしてしまった「丹羽さん」が、
「要の知り合い? 貸して。代わりに説明しますんで」と熱のない口調で右手を差し出した。マメだらけで硬そうな手のひらに、おそるおそる端末をのせる。
「あー、もしもし。俺。なに、待ち合わせでもしてんの? 後輩? ふーん、じゃあ年下か。今、すげぇ説明難しいとこにいんだわ」
 普段ここを使い慣れている人ですら説明が難しいのだ。目印が人になっても仕方ないだろう。
「お前のご褒美スタベの近く。関係者用三番ゲートの近くに自販機あるだろ? そこにいる。ん、分かった」
 話がまとまったようだ。無言で差し出されたスマホを受け取る。
「すみません、ありがとうございました」
「すぐ向かうって。あんた、要の後輩なんだ?」
「はい。要先輩は、高校の一つ上の先輩で」
「ふーん」
 一緒に待ってくれるのだろうか。丹羽は自動販売機にポケットから取り出した小銭を入れ、水を二本買った。やる、と一本を美澄に渡して、もう一本を半分ほど一気に飲んだ。
「もしかして、チケットの人か」
 チケットの人。一瞬考え、要が用意したチケットの話だと結論づけた。
「あ、そうです。要先輩が、チケットを用意してくれて……すごくいい席で、今日は本当に楽しかったです」
「そりゃよかった。アイツ、自分名義でチケット取るの初めてだったから、誰呼んだんだってチームの中でウワサになってたんだよ。後輩だったんだな」
「初めて、だったんですね」
 何故だろう。すごく嬉しかった。
「俺と同じで、野球にしか興味ないんだろうな。プロ入りしてからずっと女の影すらないし、ヘラヘラしてるようで人付き合いも慎重なタイプだから」
 美澄の知らない要の話だった。遠くから、慌ただしい足音が聞こえる。丹羽は音のするほうを見て、ほんの少しだけ口角を持ち上げた。
「美澄ぃー」
「要先輩、すみませんでした」
「丹羽さんもすみません、待っててもらっちゃって」
「いや、別に大した手間じゃない」
「水まで買っていただいたんです。丹羽選手、本当にありがとうございました」
「ん。また来て応援してくれればそれでいいよ。んじゃ、帰る」
「っす。ありがとうございました」
 要が来た道とは反対方向へ歩いていく背中が見えなくなると、肩からどっと力が抜けた。なんというか、オーラがすごかった。
「ほんとごめんな、どこに行っていいか分かんなかったろ」
「俺もすっかり忘れてました。地下駐車場の入り口も、どこだか分からなくなっちゃって」
「お前、昔から方向音痴だよなぁ」
「そうですか?」
「練習試合の時、トイレ行ったっきり戻ってこないと思ったら隣のグラウンドにいたことあったじゃん」
「そんなこともあったような、ないような……」
「つーか目印に丹羽さんはマジで面白かった」
「あれは慌ててたので……!」
「っし、もう迷子にならないように、手ぇつないじゃお」
「えっ」
 指先が触れ合い、するりと絡まる。大きくて温かな手は、豆だらけで硬くなっていた。美澄が野球から離れてから、どれだけバットを振り込んできたのだろう。
 ぎゅっと握られたので、そっと握り返してみる。要は一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐにふにゃりと目を細めた。
「さ、帰ろーぜ」
 いつもより、二人の距離が近かった。暑いのに離れたくない。心臓がうるさくて、要まで聞こえてしまいそうだ。試合前だって、緊張したことないのに。
「なあ、美澄」
「……なんですか」
「手汗、すげーな」
「暑いから仕方ないんです!」
 それは言わない約束だろうと抗議の視線を送っても、要はへらへらと笑うばかり。誰よりもカッコよくて頼りがいがあると思ったら、直後にイタズラが大好きな子どものような笑顔を見せる。こういうところが、昔から大好きだ。
「ぴちゃぴちゃ……」
「……」
「っ、あはは、いててて、元ピッチャーの握力強ぇよ」
「要先輩が悪いんですー」
「怒った?」
「怒ってない。ホームラン打ってくれたので」
 階段をおり、美澄一人ではたどり着けなかった地下駐車場で要の車を目指す。道は覚えられなかったが、尊敬する先輩の愛車はすぐに見つけられた。アウディのSUVタイプ。乗り込む為に手を離さなければならないのが、少し寂しい。

 要が暮らすマンションは広く、そして美澄の家よりも物が少ないように見えた。冷房が効いて過ごしやすい気温に保たれた室内は、駐車場からここまでまとわりついてきたジメッとした暑さを瞬く間に取り払ってくれる。
 リビングへ到着するなり、リビングの隅にあるサイドボードの前に腰をおろした要に手招かれた。なんだろうと不思議に思いつつ隣に並ぶ。シンプルでおしゃれな家具のような見た目で気がつかなかったが、小さな仏壇がそこにはあった。
「これ、もしかして」
「そ。母さんの仏壇。今ってコンパクトでインテリアっぽいの、色々あるんだわ」
「イメージはやっぱり、和室にどーんと置かれてるのですもんね。あの、俺もお線香、お供えしてもいいですか?」
「もちろん。母さんも喜ぶと思うよ。美澄のこと「いつ見ても綺麗な子ねぇ」とか言って気に入ってたし」
「え、そうなんですか」
 線香に火をつけ、おりんを鳴らす。透き通った音と共に手を合わせながら、心の中で語りかけた。お久しぶりです、と。
 要がトイレに行っている間、ぐるりとリビングを見回してみた。見るからにふかふかのソファがあるが、勝手に座るのは気が引ける。フローリングに座って、タイトルも知らないドラマを眺めてみる。
 線香は匂いがしない物なのだろう。白檀や沈香の代わりに、部屋はほんのりと甘くていい香りに満たされていた。要からいつもする匂いだ。
「美澄、お前なにそんなとこで小さくなってんの」
「ソファ、座っていいですか」
「おう。テレビも好きなの観ていいし、何でも好きに使いなさい」
 笑いながら隣の部屋に入っていった要は、すぐに上下の服を手に戻ってきた。
「俺、着替え持ってきましたよ?」
「いいよ、こっち使いな」
「じゃあ、お言葉に甘えて。着替えてきます」
「脱衣所、トイレの手前のドアな」
「分かりました」
 早速脱衣所に移動して着替えた美澄は、言葉を失った。いや、薄々気づいてはいたのだ。十センチ近く身長が違う上に、相手はアスリート。そりゃブカブカに決まっている。
「要先輩、分かってて俺に着せましたね……?」
「うん。俺が初めて美澄の家に泊まった時、足がつんつるてんだったから。逆はどうかなって気になって」
 あまった裾を捲りあげる美澄を見つめる要は、この上なくいい笑顔をしていた。好奇心旺盛か。
「身長も筋肉量も違うって分かってても、なんか悔しいです。シャツは半袖のはずなのに、もはや七分袖だし」
「いいじゃん、似合ってるよ」
「顔が笑っちゃってるじゃないですか!」
 うつむいて肩を震わせる先輩捕手は基本的にはやさしいけれど、あまり良くないほうの意味で「いい性格」をしている。相手の読みをことごとく潰していく強気のリードをするクセに、バッテリーを組んだ投手に対してはとことん献身的。今でもたまに使われる「性格の悪い人たらし」という言葉は、天才捕手・間宮要を的確に表現していると思う。
 わざと触れ合う距離に腰かけ、遠慮なく体重をかける。これくらいで怒るような相手ではないし、体幹の強い要はびくともしない。というか、美澄のじゃれ合い程度の力に押し負けていたら、本塁クロスプレーの際に吹き飛ばされてしまうだろう。
 がっしりとした左上腕二頭筋の、質のいい筋肉の柔らかさが心地いい。頬を押し付けた状態のまま固まった美澄は、大きく息を吸い込んだ。
「……先輩の匂い」
「え?」
「今着てるシャツも、この家も、ふんわりとだけど同じ匂いがして……なんだか、包まれてるような気分になるんです」
「もぉー……やめろよ、恥ずいから」
 スンスンと鼻を鳴らした美澄に、要は苦笑する。
「先輩の匂い、落ち着くんで。やめません」
「っ」
 一瞬のできごとだった。要が不意に身体をこちらに向けると、力強い腕に引き寄せられた。包まれている「ような」ではない。本当に包まれている。抱きしめられたと理解するのに、美澄はたっぷり二秒を要した。
 とく、とく、とく、とく。伝わってくる心音が、熱いくらいの体温が、時間の流れを止めた。それは一呼吸程度の短い時間だったかもしれないし、何分もの時間が経っていたかもしれない。分からないけれど、要に抱きしめられたという事実に、理解はできても感情が追いつかない。
「え……? せ、先輩?」
「……っ、ごめん、つい」
 身体が離れると、すーすーして落ち着かなかった。見上げた先には、いつも通りの間宮要の横顔がある。
 要は立ち上がり、キッチンへ入っていった。夕食を作るのだろう。要先輩、今のは何だったんですか。心の柔らかくて無防備な部分に踏み込んでしまいたい気持ちをぐっと飲み込んで、背中を追いかけた。
「キッチン使ってよければ、俺作ります」
 心臓が空回りして頬を火照らせる。鏡を見なくても、自分が赤い顔をしていると分かった。
「いいの? 助かる。お前の料理美味いし。俺、けっこー料理下手だし……」
「食べたいものあります? 冷蔵庫の中次第なんですけど」
「美澄の作ったのなら、何でも嬉しい」
 要はわざとらしく美澄から目を逸らしていたが、今はそれでよかった。だってこんな情けない顔、見せられない。手汗ぴちゃぴちゃよりも大問題だ。
 スパイスラックに最低限の調味料は揃っている。食材も乾燥パスタにトマト缶、野菜室には玉ねぎ、冷凍庫には冷凍保存されていたひき肉――「すぐできるので、ミートソースパスタにしましょうか」
「俺、ミートソースのスパゲッティ好き」
「だろうなって思いました。アマトリチャーナとかペスカトーレより、ミートソースとかナポリタンのほうが好きですよね、先輩は」
「あまとりちゃーな? ぺすかとーれ?」
「パスタの種類です。あ、要先輩は座ってていいですよ」
「いや、一緒に作りたい。いつも作ってもらってばかりで悪いし」
「そうですか? じゃあ、パスタを茹でてもらえると助かります」
「分かった。俺、パスタ茹でんのは得意。よく食うし」
「俺もよく作りますよ。パスタって、アスリートの食事にいいらしいですもんね。効率よくエネルギーが吸収できて」
「そ。味付けどうしても面倒だったら、塩と胡椒だけでいく」
「そ、それはやったことない……」
 あんまり美味しくないから、やんないほうがいい。そう言っておかしそうに笑う顔は、いつも通りの要だった。



 二人で作ったミートソースパスタに舌鼓をうっていると、普段観ていないドラマが始まった。
「変えてもいいですか? これ、観たことなくて」
「ん。いーよ」
 リモコンに手を伸ばす。ランダムにボタンを押していくと、
「青いボタン押してみ?」と要が言った。音量調整の上にある青いボタンのことだ。切り替わった画面に映し出されたのは、今日見たのと同じグラウンド。試合前練習の映像だろうか。明るい声と不規則に繰り返される打撃音が響いて聞こえた。
――本日のテーマは「最近食べて美味しかったもの」です。早速インタビューしていきましょう!
 元気よく切り出したのは、爽やかな笑みを湛える笠井アナウンサーだ。いつも家で視聴しているニュースのスポーツコーナーを担当している人だが、こういった企画は知らない。
「東部テレビの、スワンズ専用チャンネル。地上波ではやってないやつだけど、笠井さんは分かる?」
「分かります。いつも「今日のスーパープレー集」で大興奮してる人ですよね」
「あはは、覚え方に癖あるなぁ。東部テレビと東京スワンズはグループ会社だから、よく特集もされるし取材にもくるんだよ」
 視線を画面へ戻すと、笠井アナが通りかかった選手に本日のテーマについて質問をしていた。お互い慣れているのだろう。選手たちも楽しそうに受け答えをしている。
――あ、間宮選手おはようございます。
――おはざーっす。今日のテーマなんすか?
――最近食べて美味しかったものです。間宮選手は何かありますか?
――そーっすねぇ……色々あって悩むんですけど、一つだけ選ぶならハンバーグオムライス……いや、だし巻きも美味かったんだよなぁ……。
 どちらも自分の作ったやつだなぁ、と美澄はのんきに考えた。アナウンサーにも負けない甘いマスクが眩しい天才捕手は今、美澄の向かいで幸せそうにミートソースパスタを頬張っている。ギャップが凄まじい。
「だし巻き、気に入ってもらえてよかったです」
「母さんが作ってくれたやつとそっくりだったんだよ、味が。あの時、一人ですげー感動してた」
 三切れ中二切れを最後まで残してあったから、あまり好みの味ではなかったのかと思っていた。好みのものは最後まで取っておくタイプか。
「明日の朝も作りますね」
「マジ? やった。楽しみ」
 手を伸ばせば触れられるほうの要が喜んでいるうちに、笑顔輝くみんなのヒーローである要のインタビューが終わったようだ。笠井アナの立つ背後の景色が少し変わった。
――あ、笠井さんだ。はざっす。
 名前のテロップが表示された。若槻真尋。東京スワンズの若きエースだ。マウンドに立つ姿に抱いた気が強そう、という印象は、立ち止まって会釈した画面越しの真尋を見ても変わらなかった。
――若槻選手! おはようございます。インタビューいいですか? 今日のテーマは、最近食べて美味しかったもの、なんですけど……。
――餅! 投げる日は絶対食べるくらい好き。
「こいつ、うちのエースの真尋」
 要は視線を画面に向けたまま言った。
「知ってます。久々に観た試合は彼が先発でしたし、それから何試合も観てますから。スワンズはすごい選手が揃ってますよね」
 試合を観るようになってから東京スワンズに所属する選手について調べてみると、日本代表に選ばれている選手が多くて驚いた。要はもちろん、今テレビで好物の餅について語る真尋もそうだ。
「まぁな。じゃあ、他の選手も分かる?」
「分かります。えっと、今日助けていただいた丹羽夕晴選手がショートで、セカンドが矢野爽選手」
「そ。日本一の二遊間。丹羽さんは昨シーズンの首位打者。あの人は本物の天才だと思う。とりあえずヤバい。で、爽さんは育成出身だけど丹羽さんの守備についていけるからヤバい」
「四番でファーストの日下部麗司選手、ライトが小嶺碧選手」
「麗司さんはうちの不動の四番な。打球の飛距離がとにかくヤバくて、碧は俺と同い年のヤツ。あまり目立たないけど守備もバッティングも堅実で実はヤバい」
「……ふふ、要先輩、ヤバいしか言ってないですよ」
「俺の語彙力に期待しちゃダメだ。でも、みんないい人でさ。うちのチームって、なんて言ったらいいかな……家族みたいなんだよ。俺、一人だから嬉しくて」
 美澄が知る高校生の要よりも、今のチームメイトを語る要は柔らかな表情をしていた。当たり前だ。三年間という高校生活の中で、一学年下の美澄が共にあれたのはたったの一年半程度。プロ入りしてからの六年とは、時間の長さも重みも全然違う。
 手を伸ばせば届くし、まだ抱きしめられた時の温もりが鮮明に残っている。それでも、「家族(チームメイト)」を思い浮かべて穏やかに目を細める要が、遠い。

「何日でも泊まってっていいんだけどなぁ」
 そうもいかないのが社会人である。連休なので今日は休日でも明日は仕事なので、元から今日の試合は観戦せずに帰る予定だった。今は要のドーム出勤に合わせて、最寄り駅まで送ってもらっている最中だ。
 あまりにも寂しそうな声に、美澄は運転席を見た。そうですね、でも仕事なので……としおらしく返すよりも早く、
「でも、そうはいかないよなぁ」と要が呟いた。一人で結論が出たようだ。
 窓から見える空が綺麗だ。のんびりと流れる雲を目で追いかけながら、時間が止まってしまえばいいと思った。そうすれば、要とずっと一緒にいられるのに。近頃はそんな自分の思考回路にも、驚かなくなってきている。
「でも、それは困るか……」
「ん? どした?」
「あ、ひとりごとです。このまま時間が止まったらずっと要先輩と一緒にいられるけど、それだと要先輩が野球できなくて、嫌だなって」
 車は大通りを直進する。前方の信号が赤になり、車が速度を落とした。
「うん? そんなこと考えてたの?」
「だって、楽しかったんですもん」
 美澄だって、できることなら帰りたくないのだ。それなのに、要は目をまんまるにして驚いている。
「なんですか、その顔」
「俺ばっか浮かれてんのかと思ってた。お前が試合観にきてくれて、家にも泊まりにきてくれたから」
「そんなことないです。俺だって浮かれてましたよ。ルンルンでしたけど」
「いや、美澄がルンルンしてるとこ見たことねーよ」
「あまり顔に出ないだけです。ねえ、要先輩。またきてもいいですか?」
「当たり前ですよ。いつでもきてください」
「なぜ、敬語……?」
 信号が奥から順番に青に変わった。要がゆっくりとアクセルを踏み込み、景色が流れ出す。
 あと二つ先の交差点を左折したら、駅はもう目の前だ。もう少し、もう少しだけ。願えば願うほど、一秒が短くなるのは何故だろう。鳴り始めたウインカー音が、この幸せな時間の終わりを告げていた。
 車の大きさを考慮して、一般車昇降場ではなく近くのパーキングエリアで降りることにした。後部座席に置いた荷物を取ろうと手を伸ばす。
「要先輩」
「んー?」
「見すぎです。照れるんですが」
「うん」
「俺の顔なんて見て楽しいです?」
「楽しいよ。なあ、美澄」
「はい?」
 リュックを取って前を向いた刹那、ちゅ、と小さく響いたリップ音。頬に触れた柔らかさに目を見開くと、大きな手のひらが頭を撫でた。髪を指で梳いて、そおっと輪郭をなぞる。それはまるで、宝物に触れるような繊細な手つきだった。はにかむ顔を直視できない。だって、キスをされたのも、そんな撫で方をされたのも、初めてだったから。
「またな」
「っ……今日もテレビで試合観ます、頑張ってください」
「おう。じゃ、気をつけてな」
「要先輩こそ」
 車を降りて、深く一礼する。たった今、美澄の頬にキスをした先輩捕手のSUVのテールランプが見えなくなるまで見送って、その場にへなへなとしゃがみこんだ。
 きっと、要にとっては挨拶代わりで、深い意味なんてないのだろう。だからこそ困ってしまった。
「うわぁ~……」
 胸をきゅーっと締め付けるような切なさに、両手で顔をおおってうつむく。柔らかくて、温かくて、その感触は全然嫌なんかじゃなくて。なんだ、これ。俺は知らない。
 心の底に芽生えた、甘さくてほろ苦い気持ち。どこか憧れにも似たそれは、美澄の知らない感情だった。

 ふわふわと落ち着かない心を抱えたまま、電車に乗って帰宅する。鍵を開けて玄関に入れば、静寂が広がっていた。
 二人でいるよりも、一人のほうが静かなのは当たり前。要は元々よく喋るほうだし、美澄も要が相手だと自然と口数が増えた。足音がよく聞こえる。自分の呼吸の音も。寂しさを覚えるのは、仕方のないことだろう。
 美澄はリビングに荷物を置き、寝室へ向かった。クローゼットの折戸を開けて右奥から引っ張り出したのは、合成皮革製のグラブケース。封印したはずのそれを抱えて、大きく息を吐いた。
 球場の空気を肌で感じて、攻守に輝く憧れの人をこの目で見て、胸が熱くなった。そして羨ましくなった。マウンドに立ち、要が構えるミットめがけてボールを投げ込んでいたピッチャーが。ボールがミットに吸い込まれた時に響く、高く乾いた捕球音。要の出す音が世界で一番好きだと改めて思った。
 少しでも明るい場所がいい。リビングの窓ぎわにしゃがみこみ、高校卒業と共に閉じ込めた思い出を取り出した。グローブと、ボール。要との青春が全て詰まったそれらは、美澄の心拍数を上げ、手のひらに嫌な汗を滲ませる。
 あの頃のまま手入れも何もしていないグローブはすっかり色褪せていたが、カビなどは生えていなさそうだった。ボールもボロボロで汚れているけれど、これは美澄の投げすぎによるものだ。そっとグローブを右手にはめ、左手でボールを握る。生命線ともいえるストレートの握り。指先の感覚はまだ鮮明に残っているのに、手が震えて投げられそうもなかった。ボールを握るだけで、だ。情けない。要は逃げじゃないと、頑張った証だと言ってくれたけれど、野球から目を背けたこともみんなの期待を裏切ったことも事実だ。少しでもスポーツをしている学生の力になりたいだなんて、大層な大義名分を掲げてはみたものの、結局は罪滅ぼしなのだ。
 要と、キャッチボールがしたかった。昔みたいに、なんて贅沢は言わない。たった一球だけでもいい。彼のミットへ向けてボールを投げたかった。傷は完全には癒えていない。痛みをともなうと分かっていながらも、野球と向き合う勇気が出てきたのに。ボールを投げるのさえ難しいのは辛かった。
 野球が好きだった――否、野球が好きだ。だから余計に悔しくて、胸が痛い。
 あの夏の空の色も、マウンド上での緊張感も、土の匂いも、ボールの縫い目に触れた指先の感触も全部、美澄の中に残っている。一つも手放すつもりなんてなかった。
 窓越しに夏の日差しを浴びながら、久しぶりにグローブの手入れをした。さすがにもう実践では使えなさそうだけれど、キャッチボールくらいならできるだろう。もちろん、美澄自身がボールを投げられればの話だが。
 視界がオレンジ色に変わって、ふと時計を見上げた。随分と長い時間が経過していたらしい。テーブルの上のリモコンに手を伸ばし、電源ボタンを押す。夕焼けに似合わない彩度で輝き出したテレビの画面には、昨晩「餅が好き」と語っていた気の強そうなかんばせが映っていた。
 グローブとボールを抱えたまま試合を観た。もちろん要がスタメンマスクをかぶり、投げるのはエースの若槻真尋。スピードも出るが、彼のストロングポイントはコントロールなのだろう。遊び球をほとんど使わず、テンポよく投げてリズムを作る姿が頼もしい。
 要の二試合連続となる本塁打も出て、スワンズは快勝した。ああ、そういえば、昼食を食べていない。夕食を作るのも忘れていた。あまり食欲はなかったけれど軽く何か作ろうと立ち上がりかけて、テレビから聞こえた名前に再び腰をおろした。本塁打で決勝点をあげた要と、完投した真尋のヒーローインタビューが始まった。
――本日のヒーローインタビューは、決勝点をあげた間宮選手と、完投勝利で今シーズン九勝目をあげた若槻選手です。お疲れさまでした。ナイスゲームでしたね。
 熱のこもった大歓声を、お立ち台の二人は嬉しそうに受け止めた。歓声のボリュームが少し落ち着いてから、要にマイクが向けられる。
――ありがとうございました。真尋が頑張って投げてたので、点数を取れてよかったです。
――たしかに、今日もナイスピッチングでしたね、若槻選手。
 続いてマイクを向けられたエースピッチャーは、要にピッタリと肩を寄せてはにかむ。何故だろう。面白くない。
――要さんのリードを信じて投げました。それに、俺の為にホームランまで打ってくれましたし……愛ですね、愛。今日勝てたのは、要さんのおかげです。
――だそうです。間宮選手、いかがでしょう?
――まあ、俺のおかげだと思います。愛……かどうかは知りませんけど。エースにそう言ってもらえるのは嬉しいですね。
 観客席に笑いが起きた。インタビュアーの声もかすかに震えている。二人の距離は近いままだ。
――間宮選手は今シーズン絶好調ですからね。二試合連続ホームラン。お見事でした。
――次の試合も打てるように頑張ります。応援よろしくお願いします。
――若槻選手も、一言お願いします。
――次も要さんが打ってくれると思います。応援、よろしくお願いします!
 真尋の目は、強い照明を跳ね返してキラキラと輝いている。完投の疲れを見せない充実感溢れる表情からは、要を心から慕っているのが伝わってきた。
 たしかに、要は昔からリードだけではなく、投手の気持ちまで上向かせるのが上手なキャッチャーだった。エースと正捕手だから、球団も何かとコンビを組ませて売り出しているし、実際に人気の二人だ。分かってはいたが、今は受けるダメージが大きい。
 せっかく要が楽しい時間をくれたのに。一人で落ち込んで、馬鹿みたいだ。自分を責めるほど思考は泥濘にはまって動けなくなる。どろどろと煮詰まった感情が、腹の底で渦巻いていた。


 夕食を作ろうと思っていた真面目な自分は、奥底に引っ込んでしまった。試合後のニュース番組をぼんやりと眺めていると、残ったいじけ虫がもう寝てしまえと耳もとで囁く。ずっと傍らに置いていたグローブとボールをケースにしまってクローゼットに戻そうと立ち上がりかけ、着信音に動きを止めた。
「要先輩……」
 沈んだ心がふわりとほんの少しだけ浮上した。単純な心のつくりをしていて助かった。憧れには、電話越しだろうと沈んだ声を聞かせたくない。
「はい、雪平です」
『もしもーし、俺っす。今、電話大丈夫?』
「大丈夫ですよ。あとはもう寝るだけなので」
『そっか。な、美澄、試合観た? 俺のホームランに盗塁阻止!』
「観ましたよ。ヒーローインタビューまで全部」
『マジ? 美澄、観てくれたかな~って考えてたら、声聞きたくなっちゃってさぁ』
「そうだったんですね。今日も観に行けばよかったなぁ」
『言ってくれれば、いつでもチケット用意するから』
「毎回は申し訳ないですよ。チケット代、払わせてください」
『ダーメ。カッコつけさせてよ、これくらい』
「カッコつけなくたってカッコいいのに」
『なに、嬉しいこと言ってくれるじゃん』
「……嬉しいですか?」
 ヒーローインタビューで、現相棒に言われた言葉とどっちが嬉しいですか。口から飛び出しそうになった棘だらけの言葉を慌てて飲み込んだ。何てことを言おうとしてたんだ、俺は。
『美澄、なんか元気ない?』
「……え」
『今朝は元気だったよな? 帰ってから、なんかあった?』
「あ、えっと、その……」
『話してみ? 俺、もう家だから、周りに誰もいないし。な?』
「……困りませんか。俺に相談されても」
『全然。俺キャッチャーだから、相談されるとむしろ燃えんのよ』
 態度が悪いとか、ふてくされていると言われても仕方ない返答をしたのに、要の声はどこまでもやさしかった。甘えたくなってしまう。足元へ目を落とし、ぽつりと呟いた。
「今日、家に帰ってから、久しぶりにグローブとボールを出してみたんです」
『おお、いいじゃん。また一歩前進だ』
「でも、ボールを握ってみたら……手が震えて、全然ダメで。情けないですよね、ホント……」
 自嘲が口角を持ち上げる。困らせてしまっただろう。こんな弱い後輩なんて相手にしていられないと、軽蔑されてしまったかもしれない。一度沈んだ気持ちはなかなか上向いてくれずに、悪いほうへと誘われていく。
『情けなくない。つーか、俺嬉しいんだけど』
「嬉しい?」
『お前がまた野球と向き合ってくれることが。慌てなくていいんだよ。ゆっくり、一歩ずつ前に進めればいいじゃん』
 要の言葉は、ささくれた心にすっと染み込んだ。でも、それでいいんだと自らを納得させることはできなかった。
「お、俺は」
『うん』
「要先輩と、キャッチボールがしたいのに……」
『っ』
 勇気を出して振り絞った声は、小さくて掠れていた。電話だからこそ口にできた小さな願い。要が子供みたいに笑ったのが、気配で分かった。
『分かった。次のオフ、グローブ持ってそっち行くから! 俺のオフの翌日って、接骨院休みだよな?』
「休みです」
『朝ちょっとだけ早めに起きて、近くの公園行こーぜ』
「でも俺、投げられないですよ……?」
 ボールを握るのがやっとなのだから。美澄が心苦しそうに声のトーンを落とした。
『大丈夫。投げられても投げられなくても、一緒にキャッチボールしよ』
「投げられないのにキャッチボールとは……」
『それはその時に考える!』
「……ふふ、なんですか、それ」
『お、やっと笑ったな』
「……すみません、ありがとうございます」
『ちょっとは元気出た?』
「出ました。次の休みが楽しみです」
 楽しみと同じくらい、不安はあったけれど。要と一緒なら、大丈夫だと思えた。