心が晴れたのは、一時的であった。

 駅前で璃来たちと別れ、家に帰ると、何とも微妙な表情の両親が食事をするでもなく、部屋の灯りさえ点けずに、リビングのソファに座ったまま放心していた。

「ただいま……」

 いつもと同じ、女の子を意識した発声で小さく声をかけると、今目覚めたばかりのような虚ろさを隠せないまま、母親が振り返った。

 ぎし、と軋む音が聞こえそうなぎこちない笑顔で、母親が言った。

「お帰りなさい、灯名ちゃん……あ、『ちゃん』は女の子みたいで嫌かしら?
 『灯名』という名前も、本当は嫌よね、ごめんね、気づいてあげられなくて……。
 わたしたち、親なのに、灯名が苦しんでいることにも気づかないで、『女の子らしいもの』ばかりを押しつけて、本音を言えない環境を作ってしまって、本当にごめんなさい」

 色を失った顔で、母親は立ち上がると、たたずむ灯名に頭を下げた。

「パパたち、勝手だったよな、灯名が好きなものも聞かず我慢させて、傷つけてしまった。
 苦しかったよな、本当に、悪かった」

 父親まで小さく灯名に頭を下げる。

 ずきずきと、胸が痛む。

 両親が自分を傷つけ、自分が両親を傷つけた。

 いたたまれなくて自分の部屋に逃げ込みたくなる。

 頭から布団をかぶって、現実逃避したくなる。

 『宮殿』で、仲間に会いたくなる。

 それでも、灯名はぐっと唇を噛みしめる。

「黙ってたのは、わたしが決めたことだから、ママたちが自分を責めることはないよ。
 わたしは、今までと同じ生活を送りたい。
 だから、変に気を遣ったりしないでほしいの。
 本当に嫌なら、その時はちゃんと言うから。
 男の子らしいとか女の子らしい、とか、線を引くのは、多様性が常識の時代にそぐわないし、ひとそれぞれの価値観があって難しいっていうか……だから……」

 頭の中で渦巻く複雑な感情を上手く言語化できない自分に若干苛立ちながらも、灯名はたどたどしく言葉を続ける。

「これからもママとパパの娘でいさせてください」

 そう言い切った灯名は、顔を上げ、両親の表情を伺う。

 そこに笑顔がないことに、 落胆した。

 まだ、現実を受け入れるのは、厳しいのかもしれない。

 両親だって、混乱しているのだろう。

 仕方のないこと。

 それでも、無意識に、灯名の唇からため息が零れる。

 それを聞いて、びくりと母親が肩を揺らし、凍りついた表情で再び頭を下げた。

「ごめんなさい、駄目よね、ママもパパも、古い人間だから、今の常識とか、多様性についていけなくて、本当、ごめんなさい」

 こんな顔をさせて、謝らせたいわけじゃないのに……。

「ママたちも、灯名ちゃんを、あ、ごめんなさい、灯名を理解できるように、勉強するから」

 今度は母親が、様子を伺うように灯名を上目遣いで見たあと笑顔を取り繕う。 

 こんなの、わたしの望む展開じゃない。

 両親はすっかり萎縮してしまって、灯名の言動に神経を尖らせている。

 腫れ物を扱うような、異物を見るような、昨日まで灯名を見ていた朗らかな両親の姿はもうない。

 きっと、昨日までのように、心の底から笑い合う日など、もう来ないのだろう。

 決定的な亀裂が、自分と両親を分断している。

 亀裂は深く、もう手を伸ばしても届かない距離まで達してしまっている。

 修復は、不可能だと悟った灯名は絶望的な暗闇に放り出されたような、真空の宇宙に置き去りにされたような、息苦しさにいたたまれず、リビングを逃げるように後にした。

 幸いなことに、次の日学校は休みだった。

 朝起きて、ダイニングキッチンへ向かうと、両親の姿はなく、テーブルにラップがかかった朝食が用意されていた。

 父親は休日、ふらりと外出することはあるが、母親も朝からいないなんて、珍しいなと思った。

 正直、昨日の今日で、両親と顔を合わすのは気が進まなかったので、不在はありがたかったが、同時に無条件に注がれていた愛情が、失われてしまったのかと、見限られてしまったのではないかと、言いしれぬ不安を抱いたのも事実だった。

 キッチンで皿を洗ってから、灯名はいつも通りの、フリルのついた白のブラウスにロングスカートという出で立ちで家を出た。

 初冬の足音が確実に、この街にもやってきていた。

 カーディガンを着てくればよかったな、と薄手のブラウスの二の腕をさすりながら、少し後悔する。

 短い乗車時間を経て、隣の駅に到着すると、慣れた足取りで高い空を眺めながらいつものように歩く。

 もう秋なんだよなあ、と改めて実感する。

 すぐに冬が来て、学年がひとつ上がってしまう。

 そうなると、自分たちは受験という現実に直面することになる。

 それはいい、ただ、その次は?

 自分が一体、将来どうなりたいのか、どこの大学を受験するつもりなのか、灯名には見当もつかなかった。

 自分は何者なのか、どう生きたいのか。

 展望は街灯も届かないほど、真っ黒に塗り潰されている。


 やがて、目的地が見えてきた。

 今日も、誰からともなく、4人は身を寄せ合うように『Casa』に集まった。

「うちも、同じようなものよ」

 アイスティーのストローから唇を離しながら、璃来が眉を寄せてため息をついた。

 両親に避けられていると話した灯名に、同意した璃来は美しい顔を露骨に歪めた。

「男だとか、女だとか、家を継がせるのにそんなに重要?
 『そう』生まれてきちゃったんだから、しかたないじゃない。
 今まであたしは十分努力してきたし、でも、あたしの中の芯まで誤魔化すなんて、あたしたちだけが我慢し続けるなんて、おかしいと思わない?」 

 ホットコーヒーから立ち昇る湯気をふう、と吹きつつ紅がうなずく。

「あたしも、発達障害があるってわかったとき、両親とも世界の終わりみたいな顔してさ。
 自分の子どもは、『普通』じゃないんだってショックだったみたい。
 あたしだって、『そう』なりたくて生まれたわけじゃないのにさ」

 猫舌なのか、紅は神経質なほど、コーヒーを冷ましてから口に運ぶ。

「そ、それを言うなら、僕だって同じだよ。
 ぼ、僕が吃音を持ってること、すごくショックだったらしくて……」

 珍しく草介が、自然に会話に参加する。

 ここに集まった4人は、似たような経験をしている。

 残酷な現実ではあるが、似た境遇である仲間を得たことは、全員にとって救いでもあった。
 
 すっかり制服の冬服に衣替えした紅を目を細めて眺めながら、名前のつけがたい焦燥に灯名は駆られていた。

 心のどこかに陰を宿しながらも、璃来たちと他愛もないお喋りをして、日が落ちる時刻まで『casa』に長居したあと、いつも通り最寄り駅で手を振って別れた。

 何かの終わりを示唆するような、物悲しい夜の始まり。

 ふと孤独が頭をもたげる。

 予感。



 心許ない街灯の灯りを辿りながら灯名は早足で帰路についていた。

『女の子が歩くには危険だ』と、灯名の門限は厳しく決められていた。

 ふと、足を止める。

──両親は、今でもそう思ってくれているだろうか。

 胸の奥が縮むような不安を抱きながら、ささやかな門を開けると、家に灯りが灯っていることに、ほっと息をつく。

「ただいま」

 玄関には、両親の靴が揃っていて、キッチンから料理の匂いが漂ってくる。

 先に着替えて来ようと、自室への階段を上がる。

 いつも通りにドアを開けて、灯名は絶句した。

 一瞬、部屋を間違えたかと、呆然としたまま周囲を見回すが、住み慣れた家で迷子になるほど、我が家は広くない。

 だとしたら、これはどうしたものか……。

 がらんとした部屋に視線を移して、再度穴が空くほど自分の部屋を凝視する。

 そこには、何もなかった。

 否、正確には、物はあった。

 フローリングの床に、簡素なベッドがぽつんと置かれていた。

 あるのは、それだけ。

 天蓋がついたお姫様のようなベッドも、猫脚の勉強机も、クローゼットの中の服も、決して広いわけでもない部屋に詰め込まれていた『お姫様みたいな』家具は、跡形もなく消えていた。

 我に返った灯名は、階段を駆け下り、キッチンの入口で足を止めた。

「ママ、わたしの部屋……」

 灯名がそれだけしか言えずにいると、母親は鍋を忙しなくかき混ぜながら、振り向きもせず、背中を見せながら何でもないことのように言った。

「いらないでしょう、あんな女の子みたいな家具なんて。
 ないと困るから、パパと家具屋さんに行ってベッドは買ってきたけど、机や服は、今度の休みにでも好みのものを買いに行きましょう」

 母親は振り返らない。

 新しい家具を買うために、両親は朝から家を空けていたのか……。 

「捨てた、の……?
 部屋の物、全部?」

「ええ。
 邪魔でしょう?」

 灯名は言葉を失った。

 幼いころ、両親が買い与えてくれた家具は、正直、好みではなかった。

 けれど、10年以上ともに過ごしたベッドにも机にも、思い出や愛着がある。

 それを、こんな簡単に捨てられるなんて……。

 灯名の背中を冷たいものが走る。

 拒絶だ、と思った。

 静かに鍋をかき混ぜる、エプロン姿の、普段と何の変わりもない母親の背中が途方もなく遠い。

 頭の中が真っ白になったまま、灯名はその場を後にした。


 重い足を、何とか進めながら、灯名は登校した。

 校門に到着する前から、周囲の生徒からの好奇の目にさらされているのがわかる。

 『姫』として、普段からあれだけ注目を集めていたのだ、無理はない。

 灯名に好意的な人間も、『姫』からの転落にほくそ笑む人間も、敵味方関係なく、今はただ灯名のスキャンダルに浮足立っていた。

 教室に入ると、視線は自分に突き刺さっているのに、誰も声をかけてくる生徒はいない。

 明らかに態度を変えた両親、いるだけで息苦しくなるような教室。

 どちらにしても、針のむしろであることは間違いない。

 酸素を貪るように何度も深呼吸して、できるだけ涼しい顔で自分の席につく。

 自分の秘密を暴露したことを、後悔してはいけない。

 璃来を助けるには、ああするしかなかったのだから。

 朝から騒々しい教室が、意味ありげに一瞬沈黙した。

 璃来が来たのだ、とすぐにわかった。

 今までのように、からかわれたり笑われたりはしない。

 かつて璃来を囲んで馬鹿話していた友人たちは、睨みをきかせる灯名から逃れるように不自然な動作で璃来から目を逸らす。

 紅や草介も登校してきて、笑顔で手を振って、おはよう、と声をかけてくれて、灯名は内心安堵の息をついた。

 仲間がいてくれたことで、灯名がどれだけ安心したか、紅たちにはわからないだろうとも思う。

 こうして、灯名たち4人は、『Casa』でも学校でも、気のおけない仲間として、更に絆を深めていった。



 クラス全員から、空気のように扱われ、また灯名たちも環境の改善を求めないまま、文化祭が過ぎ、試験が過ぎ、冬休みに突入した。

 心を無にすれば、学校での扱いに傷つくことはなくなったし、理解を求めなければ、家での居心地の悪さにも慣れた。

 灯名たちは、それぞれの誕生日も、クリスマスも年越しも、『Casa』か、ファミレスで共に過ごした。

 冬休みも終盤に差し掛かったころ、『Casa』で寒さをしのいでいたときに、唐突に璃来が言った。

「ねえ灯名、お願いがあるんだけど」

 何かしら厄介な話題を持ち出すとき、璃来はいたずらを企む子どものような、こちらを伺うような上目遣いで見てくる癖がある。

 それに気づいていた灯名は、小さくため息をついて、「何?」とティーカップを置いた。

 璃来は目を輝かせながら、ソファの上をじりじりと近づいてきて、小振りな黒い箱を指し示した。

 箱を開けると、中には多種多様なメイク道具が詰め込まれていた。

「灯名、モデルになってくれない?」
  
 どうやら、灯名にメイクの練習台になってほしいようだ。

「……璃来は、ヘアメイクの専門学校に行くんだっけ?」

「ええ、そうよ。
 親を説得して、卒業後は専門学校に行かせてもらうことになったの。
 一人前になったら、学費もろもろは全額返せ、あくまでお金は貸すだけだって、冷たく付け加えられたけど」

 璃来も璃来で、家族との関係には苦労しているようだ。

「ずっとね、灯名にメイクしたいって思っていたの。 
 灯名のビジュアルは、モデルとして申し分ないし、あたしなら、もっともっと綺麗にしてあげられるんじゃないかって、思ってたのよ」

「大した自信だな。
 ……断ったら?」

「あら、灯名は断らないでしょ」

 至極当然のように、璃来は言って、目を瞬かせた。

 その顔に拍子抜けして、灯名は璃来を試すのを諦めた。


 物腰は柔らかいのに、そうと決めたらてこでも動かない、それが藤原璃来だと、知っているのだから、試すだけ無駄なのだ。

「……わかったよ」

 最上級に不機嫌顔を作ってうなずく。

「もう、灯名ったら、そんな顔しちゃ駄目よ、しわができちゃう」

 そう言いながらも、璃来は
てきぱきと謎の箱の中から次々とメイク道具を取り出しテーブルに並べていく。

 寡黙なマスターの眉が、ひそめられたことに、灯名は気づいたが、見て見ぬ振りをした。


 ファンデーションを塗られ、眉の形を整えられ、口紅を引かれ、チークで頬を華やかに彩られ、最後に髪を結わえられ、1時間に及んだ璃来のメイクは終わりを告げた。

「こんなものかしらね」

 灯名の髪を整えながら、満足そうに璃来がうなずく。

 璃来から手鏡を渡され、変身した自分の顔と対面した灯名は目を見開いた。

「すごい……。
 まるで別人みたいだ」

 素直に感嘆の声をあげると、璃来は胸を張った。

「今までのままでも充分可愛かったけど、手を加えたら、もっと魅力的になるのにって思ってたのよねえ。
 灯名は自分の見た目に無頓着すぎるのよ、もったいない」

 灯名が再び不機嫌になりかけたとき、「メイク、できたの?見せて見せて!」と離れて草介に勉強を教わっていた紅が興味津々といった様子で近づいてきた。

 振り向いた灯名を見るなり、「可愛い〜!」と興奮した声音で叫び、紅は早速写真を撮り始めた。

「笑って笑って!
 こっち見て!」

「……おい、紅……」

 カメラマンと化した紅は、撮影した画像を璃来と同じく満足げに眺めながら、「これ、待ち受けにしようかな」と言い出したので、灯名は「やめろ、気色悪い!」と紅からスマホを取り上げようと手を伸ばした。

 灯名をかわしながら画像を見ていた紅が、ふと思いついたように顔を上げ、灯名を見た。

「ねえ、灯名。
 このあと暇?」

「予定は特にないけど」

「じゃあ、このあと原宿行かない?」

「はあ?原宿?何でだよ」

「決まってるじゃない。
 灯名を連れて歩いて、みんなに自慢したいの。
 すれ違った人が振り向くのは確実。
 腕を組んで、あたしの彼女ですって、見せびらかすのよ。
 もしかしたら、スカウトとかされちゃうかもしれないじゃない」

「はあ……、彼女ねえ」
 
 いかにも面倒臭そうな顔の灯名を、紅が早く行こうと急かしてくる。

 時刻はまだ昼を過ぎたばかり。

 そう遠くないし、門限までには戻って来られるだろう。

──門限、か。

 まだそんな言葉が無意識によぎる自分に、人知れず苦笑した。


 紅と連れ立って電車に揺られ、辿り着いた竹下通りは、長期休みとあって、若者でごった返していた。

 カラフルで個性的な服に身をまとった少女や髪を桃色に染めた自分たちと変わらない年齢の女の子たちが、立ち並ぶショップを冷やかしながら人混みをぶつからないように器用に道を闊歩している。

 誰かの付き添いだろうか、明らかに場違いな個性の渦に弾かれ、挙動不審な若い男の子もいる。

 

 灯名は、紅に腕を組まれ、問答無用に人の波へと身を投じた。

 じろじろと、無遠慮に視線をぶつけてくるメイド服姿の少女の敵意を感じたり、少女を物色している風の男性からは好奇の目を向けられたりと、決して居心地の良い時間ではなかったが、隣で紅が、何かに勝ち誇ったような笑みを浮かべているので、楽しいなら良かったかと、灯名は一応自分を納得させた。

 人混みから一歩抜け出ると、心底愉しそうに紅が笑った。

「ねえねえ、灯名。
 見た?
 男も女もみんな灯名のこと見てたよ。
 そりゃそうだよねえ、こんな美少女なんだもん。
 誰も放っておかないって。
 あたしの思った通り。
 あー、楽しかったなあ、灯名はあたしのものですって、大声で叫びたいくらい」

 腕を離し、うーんと伸びをした紅に呆れながらも、滅多に人混みには出かけない灯名
は、非日常な場所で、非日常なメイクをして歩いたことで、気分転換ができて、溜まった日頃の理不尽なストレスを解消できた気になった。

 冬の気の早い太陽が沈み始めたことに気づき、そろそろ帰ろうと灯名が言ったときだった。

「あの、ちょっとよろしいかしら?」

 遠慮がちに、灯名たちに声をかけてくる女性がいた。

 50代とおぼしき優しげな笑みを浮かべた上品な女性が、灯名たちに話しかけてきたのだった。

「ごめんなさいね、急に呼び止めて。
 私、こういう者なんです」

 紙片を灯名に渡しながら、女性は灯名の全身をざっと流れるように視線を動かした。

 渡されたのは名刺だった。

 横から覗き込んだ紅が、素っ頓狂な声を上げる。

「『スターライトプロモーション』って、大手のモデル事務所じゃない!
 しかも、生方俊子(うぶかたとしこ)っていったら、人気モデルを何人も育て上げた名物社長じゃない!」

 紅の、本人を目の前にした失礼な言動にも、名刺を渡した女性、生方俊子は動じる気配は見せなかった。

「嬉しいわ、私のことを知っていてくれて。
 私は、モデル事務所の社長をしている生方と申します。
 モデルや芸能界の仕事に、興味はありますか?」

 ない、と答えようとした灯名を制して、「あります!あります!」と紅が興奮して噛みつく勢いで答えてしまった。

 くすりと生方俊子は笑うと、「お友達は乗り気なようだけど、あなたは?」と冷静な口調で灯名に視線を送る。

「わたしは……特には」

「そう……残念ね。
 モデルや芸能界の仕事をやってみたいと思ったら、名刺に書いてあるアドレスに連絡して。
 あなたなら、いつでも歓迎するわ。
 じゃあ、また会えることを願っているわ、またね」

 生方俊子は、それ以上深入りすることはなく、悠然と立ち去っていった。

 気品と、大人の余裕を感じさせる背中だった。

「ちょっと灯名、何でモデルやりますって言わなかったのよ!
 あの生方俊子が直々にスカウトしてきたのよ?
 断るなんて信じられない!
 今から後を追って、やるって言いにいくわよ!」

 鼻息荒く腕を引っ張って走り出そうとする紅を、渾身の力を込めて引き止める。

「何するのよ、早く行かないと!」

「僕はモデルなんてやりたくない!
 いいから紅、帰るぞ!」

 未練がましく人混みに紛れて行った生方社長の目で追いながら、紅が歯噛みする。

 あくまでスカウトされたのは、璃来がメイクしてくれたから。

 普段のメイクをしていない自分の姿を見ればがっかりするかもしれない。

 紅によれば、生方社長はやり手らしいし、人を見る目は厳しいに違いない。

 自分なんかが社長のお眼鏡にかなうはずがない。


 璃来がもたらした魔法は、一夜で解けるのだ。

 このことは、璃来にも草介にも言わないよう、不満顔の紅を説き伏せて、家路についたのだった。



 4月になり、4人は高校三年生に進級した。

 灯名が自ら秘密を暴露して以来、4人は輝くような『青春』とは無縁な生活を送っていた。

 友達とハメを外して遊んだり、淡い恋愛に一喜一憂したり、部活で仲間と切磋琢磨して汗を流したりと、いつだったか小春が言っていたような、きらきらとした絵に描いたような青春を過ごすことは望めなかった。

 心が痛くなるような時間の欠損を、『Casa』や『宮殿』に集まり、4人は傷を舐め合うように、4人だけの、ささやかな青春と呼べる世界を築き上げていった。

 美波高校の話題のツートップ、神林灯名と藤原璃来の噂は、新一年生にも光りの速さで知れ渡り、好奇の目にさらされ相変わらず学校でふたりの居場所はなかった。

 昼休みは、屋上に集まりお弁当を食べる、それがいつしか定着していた。

 灯名と草介は母親手作りのお弁当、紅と璃来は購買で買ったお惣菜パンだ。

 大型連休を控えたこの日、璃来が少々口ごもりながら切り出した。

「ねえ、みんな、卒業したら、どうする?」

 璃来の言葉に全員にぴりっとした緊張が走る。


 これまで何度かそんな話になりそうな雰囲気があったが、4人の間で卒業後の話は、禁忌とされてきた。

 『普通』ではない自分たちが、果たして社会に出て、周りとの摩擦も生まずに、荒波を乗り越えることができるのだろうか。

 その不安から全員目を逸らし続けてきたデリケートな話題でもあった。

「あたしは決まってないわ。
 だって、勉強もできなくて、卒業だってできるかわからないのに、受験も就職も現実感ないっていうか、できない可能性が高いから、アルバイトとかで雇ってもらうしかないかな。
 せめて卒業だけはしないと、雇ってくれるところなんてないよね」

 紅の言葉に、他の3人が目を伏せる。

 しかし、重い空気を晴らすように、紅が「草介は?」とインタビューするような仕草 で話を振る。

 びくり、と肩を揺らした草介が、長い前髪の奥から、瞳をきょときょとと泳がせながら、か細い声で言った。

「わ、笑わない?」

「笑う?
 笑える職業なんてあるの?
 あ、お笑い芸人とか?」

 草介はぶんぶんと首を振って、「そういうのじゃなくて、その……」と言い淀む。

「何よ、笑わないから、はっきり言ったら?」

 紅に小突かれ、草介は顔を上げて答える。

「ぼ、僕、教師になりたいんだ、小学校の、先生」

 3人が、信じられないことを聞いたような驚愕の表情を浮かべていた。

「草介が、先生!?」

 驚いた3人の反応に、草介はやはりか、とうつむいてしまう。

「な、なれるわけないって思うよね、やっぱり。
 ぼ、僕、吃音があるでしょ、こんな僕でも友達ができるって、ちょっと普通とは違っても、生きていけるんだって、子どもに伝えられたらいいな、って思ってたんだけど、身の程知らずだよね」

 どこかいじけたような草介の言葉に、紅がかばっと草介の両肩に手を置く。

「いいと思う!
 っていうか、ぴったりじゃない?
 草介、成績も良いし、教えるの上手いし、わかるまで根気強く教えてくれるし、草介がいるお陰で、あたしも何とか学校通えてるし……。
 だから、やりなよ、学校の先生!」

 紅からの手荒い応援に、草介は目を白黒させながらも、照れたように、小さくうなずいた。

 璃来はメイクアップアーティストよね、と確認してきた紅にうなずいて肯定すると、恐る恐るといった様子で璃来が「灯名は?」と水を向ける。

 浮かない表情で無言を貫く灯名に、聞くべきではなかったかと璃来が焦ったとき、注意深く灯名を観察した紅が、遠慮がちに口を開いた。

「ねえ、もしかしてなんだけど灯名、あのこと、気になってたりする?」

「あのこと?」

 璃来が不思議そうに繰り返す。

 紅は、灯名と目を合わせて、話してもいいか許可を得ようとする。

 諦めたように灯名がうなずいた。

「実はね、冬休みに、あたしと灯名、原宿に行ったでしょ?」

 思い出すように空を見上げた璃来が、ああ、と声を出す。

「あたしが灯名にメイクしたときね。
 そういえば、あのあと、ふたりはデートに原宿まで行ったんだっけ?
 そこで何かあったの?」

「あったの、あったの、大変なことが!」

 ようやく口封じが解け、紅は興奮しながら勢いよく話し出した。

「超絶美少女と化した灯名を連れて竹下通りに行ったらね、読み通り道行く人がみんな振り返って、すごい自慢でさ……」

「紅、話の本筋はそこじゃないだろ」

 灯名が不本意ながら、紅の話を遮り、軌道修正する。

「あ、ああ、そっか。
 そうなの、本当にすごいのはそのあとでね。
 なんと灯名、モデルにスカウトされたの!
 しかも、あの生方俊子直々によ?
 すごいと思わない?」

 生方俊子の名前にはピンと来ないようだったが、モデルという言葉に、璃来と草介が身を乗り出した。

「灯名がモデル!?
 本当にすごいじゃない!
 モデルなんて、灯名にぴったり!
 どうして今まで黙ってたのよ!?」

 璃来が顔を輝かせながら灯名の手を握り、ぶんぶんと振り回す。

 それをぞんざいに振り払いながら、灯名はため息混じりの息をついた。

「モデルなんて、興味なかったから、断ろうと思って誰にも言わなかっただけ。
 言ったら今みたいに、みんな騒ぐだろ、それが面倒だったから」

「でも、あれから灯名、ちょっとおかしいじゃない。
 うわの空っていうか、悩んでるっていうか……。
 もしかして、迷ってるの?
 モデルになるかどうか」

 紅の鋭い指摘に、灯名は降参とばかりにうなずいた。

「迷ってる。
 モデルの仕事なんて興味なかったけど、あれ以来意識して、雑誌とかファッションショーとかで、モデルを見てる自分に気づいて……。
 多分、迷ってるんだと思う。
 僕にできるのか、そんな器なのかは疑問だし、自信もないけど、僕なんかがたくさんの人に喜んでもらえて、誰かの役に立てるなら、魅力的な仕事なんじゃないかと思い始めてる」

「ということは、『女性』としてモデルをやっていくってこと?」

 璃来の言葉に灯名はうなずいた。

「そのつもり。
 この姿のままで誰かに認められたり、求められたりするって、親孝行になるんじゃないかなって、邪な思惑もないわけじゃないけど」

 璃来がきらきらした瞳で、「いつか絶対、プロのモデルになった灯名のメイクさせてよね。
 新しい夢ができたわ、それまで頑張れそう」と灯名にぐいぐい迫る。

「みんな、卒業後の身の振り方は決まっているのね……。
 じゃあ、ひとつ提案なんだけど……」

 璃来は一呼吸置くと、語り出した。

「卒業後、もし実家を出るようなら、あたしたち、一緒に暮らさない?」

「一緒に暮らす?」

「そう。
 あたしね、卒業後は池袋にある専門学校に行くことになってるの。
 あたしの叔父さんが池袋の一軒家に住んでるんだけど、仕事で、家族を連れて海外赴任に行くことが決まってるのね。
 で、不在の間、家の管理をしてくれるなら、家賃とか無料で貸してくれるっていうのよ。
 早く実家を出たいから、住みますって返事しちゃったの。
 友達とシェアハウスみたいに住んでもいいか聞いたら、部屋数はあるから、構わないって言ってくれて……。
 どうかしら、もし、家の居心地が悪かったら、池袋で、一緒に暮らさないかなって」

 灯名は、頭の中で、生方俊子の事務所は、池袋からそう遠くない場所にあったことを思い出す。

 自宅よりはアクセスがいいし、何より、会話が途切れがちでよそよそしい雰囲気に常にさらされている実家から逃れられる術があるのはありがたい話に違いなかった。

──やっぱり、生方俊子の存在を、意識してしまっている。

 灯名が苦い顔をしていると、紅が挙手して宣言した。

「あたし、乗るわ。
 出来の悪い娘に、親が冷たくてね。
 もうほとんど見放されてるから、早く家を出たかったんだけど、アルバイトじゃアパートとか、借りられるのかわからないし、悩んでたところだったのよね」

 泣き真似をしてみせてから、紅が不安を吐露する。

「そう思って、紅には、家の管理とかをしてもらおうと思ってるの」

「管理?」

「そう、家の管理が貸してもらえる条件でしょう。
 だから、アルバイトの合間とかに、家の管理……掃除とか、あと出来れば料理とか家事を頼めならなって」
  
 紅が目をぱちくりとさせる。

「そんなくらいでいいの?
 料理は経験ないんだけど」

「料理ならあたしも初心者よ、やったことないもの。
 灯名や草介は?」

 ふたりとも、料理は未経験で、首を横に振る。

「じゃあ誰がやっても同じね。
 紅、簡単なものからで構わないから、料理、頑張ってもらえないかしら?
 どんなに不味くても、誰も文句は言わないから、大丈夫、ね?ふたりとも?」

 璃来のやけに圧のある笑顔に、灯名と草介は、こくこくと素直にうなずく。

 自分たちもできないのだから、注文をつける権利はないと言外に圧力をかけているのだ。

「本当にそんなことでいいの……?
 じゃあ、あたし、料理頑張るわ!
 灯名たちはどうする?
 あたし王子様とふたりだけで同居するの?」

「ぼ、僕もいいかな?
 紅が璃来とふたりだけで暮らしたいなら遠慮するけど」

「何よ、いいに決まってるでしょ!」

「い、いや、璃来の家だから……紅が決めることじゃないでしょ……」

 璃来はにっこりと満面の笑みを浮かべる。

 その笑顔を見て、璃来は『王子様』なんだよなあ、と
灯名はしみじみと実感する。

 整った綺麗な顔を見ているうちに、モデルに相応しいのは璃来の方ではないかとさえ思えてくる。

 自信のなさが、灯名を飛び立たせまいと、がんじがらめにしている気がする。

「灯名はどうする?」

「……僕は……」

 生方俊子の顔がちらつく。

 先延ばしにしてきた『将来』が、ついに近づいて来てしまった。

「少し、考えてもいいかな」

「もちろんよ、灯名の将来のことだもの、ゆっくり考えて」

 璃来の笑顔に優しさを感じ取って、灯名は安堵の息をついた。 


 受験生となり、進路に迷う時間がそうそう残されているわけではなかった。

 中間試験が終わると、灯名は両親に話したうえで、生方俊子と連絡を取った。

 手塩にかけて育ててきた娘が、スカウトされ、モデルになりたいという。

 両親が、喜ばないはずがなかった。

 一度は奈落の底に突き落としてしまった両親へ、灯名のできる限りの恩返しでもあった。

 生方俊子が社長をつとめるモデル事務所で、モデルになるべくレッスンを受けるため、なるべく事務所に近い場所に住みたいと告げ、池袋で友達とシェアハウスに住むことも同時に伝えた。

 突然の報告に、両親は目を白黒させたが、巣立とうとしている娘を引き止めはしなかった。

──自慢の娘になろう。

 灯名はそう誓った。


 夏休みに入り、いよいよ本格的に受験へと向けて、クラスメイトたちの目つきが変わってきた。

 草介も、志望大学目指して受験モードに突入し、『Casa』に中々顔を見せなくなり、勉強を教わっていた紅は毎日暇そうに過ごしている。

 璃来も、美容師国家資格の勉強を始めた。

 灯名は生方俊子が経営するモデルの養成所に通い、様々なレッスンを受けている。

 いつもつまらなさそうな、無表情が染みついた灯名にとって、演技や表現力を求められるレッスンはかなり骨が折れた。

 それぞれが新しい生活に向けて奮闘しているうちに、瞬く間に季節は過ぎていき、木枯らしが吹いて受験シーズンが幕を開けた。

 慌ただしく卒業後の準備をしていると、受験本番がやってきて草介を応援したり、引っ越し作業に追われたりしているうちに、学校で居場所がないことなど気にしている暇もなくなり、あっという間に卒業式を迎えた。

  晴れの日、最後まで友人たちと仲直りできなかったことを人知れず悔やんでいたが、卒業生や保護者、在校生でごった返した校門前で、誰かが灯名の耳元で囁いた。

「またね」

 驚いて振り向く。

 離れていく、見慣れた制服の背中。

「小春……」

 小春は、決して振り返ろうとはしなかったが、たった一言だけで、充分だった。


 小春とのわだかまりが解けたのだと、灯名の瞳からはとめどなく涙が溢れて止まらなかった。

「ありがとう、小春……」

 灯名が呟いたとき、「灯名〜」と自分を呼ぶ紅の声にはっとして、慌てて制服の袖で乱暴に目元を拭う。

 しかし、一歩遅かった。

「どうしたの、灯名?
 卒業するの、やっぱり悲しい?
 あたしは早く卒業したいと思ってたんだけど、こんな学校に愛着があるなんて意外だわ」

「……いや、そういうわけじゃないけど……」

「泣いてる灯名もレアだし、写真撮ろう、写真。
 ほら、璃来、草介、写真撮るよ、早く早く!」

 ブレザーの胸元の花飾りを直して、紅が声を張る。

「じゃあ行くよ、せーの!」

 はにかんだ笑顔の灯名と、満面の笑みの璃来、恥ずかしそうにうつむきがちの草介、楽しそうな紅の笑顔の写真がスマホに刻み込まれる。

「みんなにも送るね」

 すぐに、スマホが着信音を響かせる。

 高校生最後の瞬間は、永遠にも似た苦痛の時間が嘘だったかのように、晴れ晴れとした4人の笑顔で締めくくられた。