終業式も終わり、明日から始まる夏休みに期待を馳せた生徒たちで教室内はざわめき、浮ついていた。

 高校2年生の夏休みは貴重だ。

 まだ受験や将来に本格的に頭を悩ませる時期ではないが、ただ、1年生のときほどの気楽さもない。

 ある程度、進路について考えなければならない時期でもある。

 遊んで過ごせるのも、今だけ。

 だから、受験生になる前の今年の夏を、目一杯楽しんで、思い出を作ろうと、皆、躍起なのだ。



「姫、今日は何人から告られたの?」

 放課後、あちこちで笑い声が起こる教室で、持田小春(もちだこはる)が人の悪い笑みを浮かべながらそう訊いてきた。

「小春、いい加減、その『姫』って呼び方やめてくれない?」

 神林灯名(かんばやしひな)は、見るからに嫌そうな表情を作ってみせる。

 灯名のそんな小言に全く動じることなく、小春はぐいぐいと顔を近づけて灯名に迫る。

「いまや全校生徒が灯名のこと『姫』って呼んでるよ。
 学校いちの美少女の『お姫様』神林灯名、学年を問わず告ってくる男子は数しれず。
 なのに一向に姫は彼氏を作ろうとしない。
 では姫は、一体誰を好きなのか、美波高校、七不思議のひとつだね」

 歌うような小春の台詞に、からかいの色を感じ取り、灯名は整った顔を不機嫌そうに歪める。


「小春、おおげさ。 
 単に、私に好きな人がいない、それだけ」

 すると、横合いから、他の友人が割り込んで言った。

「今日は実質ゼロ。
 告ってきたの、沖田だから。
 これで5回目」

 その会話を聞いていた周囲の友人たちが爆笑する。

「やだ、見てたの?趣味悪い」
「沖田、また告ってきたの?本当身の程知らずだよね」
「実質ゼロかあ、珍しいよね、告ってくるのがひとりだけって」  

 口々に感想を述べる友人たちに混じって、小春は難しい顔をして腕を組む。

「じゃあ、姫は誰なら好きになるの?
 『王子様』とか?」

 小春の発言を受けて、友人たちの視線が教室の後方、男子がバカ騒ぎしている一角に一斉に向かう。

 その中に、一際目を引く美形の男子生徒がいた。

 芸能人と見紛うほどのビジュアルで、爽やかを体現するような、学校の有名人。

 美波高校に通う、全女子の憧れ、『王子様』の異名を持つ、灯名のクラスメイト、藤原璃来(ふじわらりく)

 すらりとした長身で、誰にでも分け隔てなく笑顔を絶やさない穏やかな性格の彼は、まさしく『王子様』然としていた。

 しかし、灯名はすぐに彼から目を離し、憮然とした表情で口をとがらせた。

「私は、誰も好きじゃない。
 今後好きになる予定もない、以上。
 私、もう帰るよ」

 灯名のつれない言葉に友人たちは揃って溜め息をつく。

「姫、宝の持ち腐れって言葉、知ってる?
 モデルみたいな体型して、綺麗な顔して、恋愛に興味ありません、どうして早く家に帰りたいのかと言えばネットゲームしたいから、なんて青春無駄にしてるよ。
 彼氏でも作ったら?
 モテるのに、もったいないよ」

 あまりに灯名が恋愛に消極的だから、何が事情があるのではと、友人たちは密かに心配しているようだ。

 友人たちのじっとりとした視線を振り切るように、鞄を掴んだ灯名は、「またね」と言ってドアに向かって歩き出す。

 そのとき、男子たちの会話が耳に入った。

「なあ、王子、お前、姫と付き合ってるってマジ?」

 ひとりの男子生徒が、藤原璃来にそう問いかけた。

「あ、その噂、俺も聞いた」

 他の男子も興味津々といった様子で期待に目を輝かせている。

「なあ、璃来、本当にあの姫と付き合ってんの?」


 すると璃来は、人当たりの良い笑みを瞬時に消し去り、不快極まりないといった表情を浮かべ、さきほどの灯名がしたように、口をとがらせた。

「付き合ってねーよ。
 だいたい、話したことも一度だってないんだから」

 なーんだ、と群がっていた集団から残念そうな声が上がる。

「夢があるんだか、ないんだか……」
「確かに、微妙だな」
「姫と付き合えるチャンスが、まだ残されてると思えばいいんじゃね?」
「なに、お前、姫と付き合えるなんて思ってんの?」
「思ってねーよ!
 でも、理想は高くたって誰にも迷惑かけてないだろ」
「そりゃそうだ」

 がはは、と笑いが起きる。

 唯一笑っていないのは、その中心に君臨する藤原璃来だけ。

 友人たちは、恋愛の話になると、突如爽やかな笑顔が消える『王子様』が不思議でならない。


 そんな彼らの会話を聞き流しながら、灯名は教室をあとにした。



 7月も終わりに近づいた、ある日の昼下り。

 神林灯名は、スマホ片手に見知らぬ街を歩いていた。

 フリルの付いたやや装飾過多な純白のワンピースに、日焼け対策に羽織った丈の短いカーディガンという格好だった。

 灯名の私服は、総じて『可愛くて女の子らしい』もので統一されている。

 しかし、それは灯名の趣味では決してなかった。

 灯名の両親は、ようやく出来たひとり娘の灯名に、服や鞄、アクセサリーなどを惜しみなく買い与えてくれる。

 神林家は、特段裕福というわけではない。

 灯名のためなら、お金は惜しまない、そういう両親の思いはひしひしと感じる。

 両親の買ってきたものに文句をつけたことはないし、両親に心から感謝している。

 だから、両親の前では笑顔を絶やさない。

 『普通の女の子』であり続ける。

 それが、神林灯名という少女だ。



 汗で首筋に貼り付いた、肩より少し長い色素の薄い茶色の髪を不快そうに振り払いながら、灯名はスマホの地図アプリを頼りに、駅前から離れたひとけのない路地裏を歩いていた。

 容赦なく照りつける7月の太陽と、緊張のせいで駆け足で跳ねる鼓動を抑えつけ、よほど意識していないと見逃してしまいそうなレトロな喫茶店の前で足を止めた。

 地図アプリとにらめっこして、ここが目的の地であることを確かめる。


 喫茶店『Casa』。

 昨日調べたところ、『Casa』とは、『カーサ』と読み、イタリア語で『家』という意味らしい。


 期待と不安に躍る心臓を放置して、深呼吸すると、階段を3段降り、木枠に格子状にガラスがはまった扉を開け、一歩を踏み出した。

 からんからん、と扉についた鈴の涼やかな音が灯名を迎えた。



 神林灯名には、唯一といっていい趣味がある。

 同級生のように部活に打ち込んでいるわけでもなく、習い事をするわけでもなく、授業が終わると、友人との約束がないかぎり、真っ直ぐ帰宅する。

 それを、青春の無駄遣いだという小春のような人種もいるが、灯名はきらきらした高校生活を送ることにこだわってはいない。

 帰宅してから、食事や入浴以外のほとんどの時間を、パソコンの前で過ごしている。

 『幻想宮殿』。

 それが、灯名を夢中にさせているオンラインゲームのタイトルだ。

 人気のあるゲームで、最初は内容が面白いからプレイしはじめ、すぐに趣味と呼べる存在にまで灯名の中で上りつめた。

 やがてゲーム上で知り合った3人の自称男女とパーティーを結成し、チャットで会話をはじめた。

 初めはゲームについてやりとりしていたが、会話が進むにつれて、4人は同年代で、しかも近くに住んでいることがわかった。

 そして、意気投合した4人は、ゲームそっちのけで、チャットに没頭し、誰にも言えない自分の秘密を告白する仲に至った。

 現実世界で、抱えきれない理不尽な悩みや苦悩を、顔の見えない素性も知らない相手に洗いざらい告げて、共感を示したり励ましたりする。

 灯名にとっても、他のメンバーにとっても、『幻想宮殿』は居心地が良く、悩みを共有出来る、癒やしの場所だった。

 そこには、現実世界では存在する偏見なんてなくて、ありのままの自分をさらけ出しても、この仲間なら、どんな自分の姿や本心を見せても、受け入れてくれる、そんな安心感があった。

 灯名にとってゲームで出会った仲間は、かけがえのない大事な存在になっていった。

 7月上旬、現実でも、みんなで会いたいね、という話になった。

 ごく自然な流れから生まれた提案だった。

 いつか、こういう日が来るのだろうと、心のどこかで思っていた灯名は、その提案に賛成した。

 残りのメンバーも賛成し、7月の終わり、つまり今日、オフ会を開催する運びとなったのだ。


 待ち合わせの場所は、灯名の家がある最寄り駅の隣。

 最寄り駅、とはいえ、灯名は高校に徒歩で通学しているし、休日に電車に乗って隣町まで買い物に行く、という生活もしていないから、駅にあまり馴染みがなく久々に乗った電車にも緊張したし、土地勘のない街で待ち合わせ場所に辿り着くか心配だったので、約束の時間に遅れないよう早目に家を出てきた。

 しかし、国の内外を問わずにプレイヤーがいるオンラインゲームで、パーティーを組んだ4人が、こんな近くに住んでいることは、さすがに驚きだった。

 さっと髪を手ぐしで整えると、額に浮かぶ汗をハンカチで押さえて、意を決して喫茶店の扉を開き、勇ましく板張りの床にパンプスのヒールを叩きつけた。

 涼やかな音色を響かせた扉を閉め、ざっと店内を見渡すと、敷地面積のかなり狭い、隠れ家的な店であることが窺えた。

 等間隔にテーブルが並び、仕切りはない。

 カウンターの中にいる、マスターと見られる、いかにもな風貌の髭がよく似合う老年に差し掛かった男性が、ちらと灯名へ目を向けると、軽く首を上下させて客を迎えた。

 客席の方へ視線を投げた灯名は、壁に沿って設置されたソファに座る人物を見て、絶句した。

 灯名と目を合わせた人物も、灯名の登場に目を丸くしている。

「……藤原、くん……」

 何とか喉から言葉を絞り出すと、ソファに座っていた人物──藤原璃来も、「神林さん」と灯名の名前を呼んだ。

 お互いの名前を呼ぶことも初めてだった。

 別に、互いを嫌っているとか、意識的に避けているというわけでもない。

 『姫』『王子様』として、数ヶ月に一度ほどの頻度で、『あの2人は付き合っている』と噂が飛び交うことが、2人を遠ざけた要因になっていることも否定は出来ないが、単純に会話を必要とする機会が今まで一度もなかった、というのが本当のところだった。

 だから、灯名も璃来も互いをどう呼ぶかに、まず迷った。

 そして、何故最寄り駅の隣の、隠れ家的な喫茶店に顔見知りが居合わせたのかと、互いに動転し、それ以上の言葉を続けることが出来なくなった。

 気まずい顔で軽く頭を下げ、灯名は璃来から出来るだけ離れた位置のソファに腰を降ろす。

 しかし、ソファは壁に沿って一続きだ。

 相手が動けば、その振動が互いに伝わる。

 店自体も広くないので、離れたところで、あまり意味はない。

 灯名は、どうか璃来が早く帰ってくれますように、と密かに願った。

 オフ会に参加するメンバーは、まだ来ていない様子だが、メンバーが集まったあと繰り広げられる会話を、決して璃来に聞かれるわけにはいかなかったからだ。

 この狭さでは、どれほど声を落としても、会話は筒抜けになってしまう。

 どうしよう、と灯名が腕を組んで、コーヒー色の天井を見上げたときだった。

 からんからん、と扉の開閉を告げる鈴の音が鳴り、灯名は視線をそちらに向けた。

「え……」

 ついうっかり声が出た。

 店に入ってきたのは、緩く巻いた金髪をヘアアクセサリーで飾り、武器にもなりそうな尖った派手なネイルを施し、限界まで短くしたスカートをはき、濃いメイクをした、いわゆる『ギャル』といって差し支えない少女が、ひょっこり扉から顔を覗かせたからだ。

「あれ……。
 『お姫様』に『王子様』?
 すっごい偶然。
 どうして2人が……?
 ……あ」

 ギャル少女は、不思議そうにソファに座る灯名と璃来を見たあと、意味ありげな笑みを浮かべた。

「やっぱり、2人が付き合ってるって噂は本当だったわけね?
 こんな知り合いに会う危険がない店でこっそりデートしてたんだ。
 あたし、すごい秘密知っちゃったなあ。
 これ、証拠映像撮ったら、大騒ぎになるんだろうなあ」

 スマホを取り出した少女に、灯名と璃来が腰を浮かせる。

 臨戦態勢に入った2人を見て、スマホをしまいながら少女は苦笑いを浮かべた。

「そんな怖い顔しないでよ。
 撮ったりしないって。
 撮ったところで、あたしに得はないしさ。
 知らないか、あたしが学校行ってないの。
 今更、こんなスキャンダル拡散させたくらいで、友達が出来るとか高校に馴染めるわけでもないしさ。
 いやあ、でも、学校に行ってなくても2人の噂は聞いてるし、学校のアイドルにお目にかかれるなんて、感激だよ」


 ギャル少女は、スカートを翻しながら、灯名と璃来の間の空間に腰を降ろす。

「あの……五十嵐さんだよね?」

 灯名が恐る恐る聞くと、ギャル少女は嬉しそうに笑顔を咲かせた。

「そう!
 五十嵐紅(いがらしべに)
 嬉しいなあ、姫があたしの名前知っててくれたなんて」

「何回か学校で見かけたし、クラスも同じだから、知ってるよ」

 灯名がそう言うと、紅は、にこにこと人懐こい笑顔を浮かべ、子供のように足をばたつかせた。

「で、結局2人は付き合ってるの?」

『付き合ってない!』

 灯名と璃来の声がぴったりと重なった。

 さすがの紅も2人の迫力に驚いて目を白黒させる。

「そ、そうなんだ。
 偶然だね。
 あたし、今日は待ち合わせなんだ。
 この店、待ち合わせによく使われるのかな?」 
 
 マスターは、カウンターから動きもせずに、「ご注文は」と、ぼそりと灯名たちに告げた。

 そんな声量でも充分聞き取れた。
 
 そこで初めて、璃来が何も注文していないことに灯名は気づいた。

 璃来も、店に来て間もないようだ。

 全員が、外の暑さに辟易していたので、アイスコーヒーかアイスティーを注文した。

 そのとき、またも扉の開閉音が店内に響き渡った。

 マスターが目で来客を鋭く観察する。

 店に入ってきた人物に、灯名はこの日、三度目の驚きを味わった。

 小柄で線が細く、黒縁メガネで、黒髪の、これといって特徴のない少年が、店内におどおどといった様子で入ってきた。

「間宮くん……」

 灯名が少年の名前を呼ぶと、間宮草介(まみやそうすけ)は、店内に居並ぶ顔ぶれに、怯えた眼差しになり、神経質そうな手つきで髪に触れ、消え入りそうな声で「何で……」と呟きながらも、少し間を空けて、灯名の隣に座った。

 灯名は、壁にかかった年代ものの時計を確認する。

 オフ会のメンバーと約束した時刻ぴったりだった。

 他に誰かが来る気配もない。

 一体どうしたことだろうと灯名が今一度天井を見上げると、いたたまれない沈黙が喫茶店に舞い落ちる。

 幽霊の鼻歌のようなBGMが流れ、液体がこぽこぽと沸騰する音、神経質に時を刻む時計の秒針の音がやたらと聞こえるだけの、静かな空間。

 そんな永遠にも思える気まずい静寂を打ち破ったのは紅だった。


 
 紅は、わざわざ立ち上がり、注目を一心に浴びた。

「あのさ、まさかと思うけど、みんなが待ってるのって、『宮殿』のオフ会メンバーじゃないよね?」

 『宮殿』という耳慣れた単語に、他の3人がはっと顔を上げる。

 その反応だけで充分だった。

 紅は目と口を大きく開け、信じられないとばかりに天を仰いだ。

「え、嘘でしょ、ちょっと待って……。
 本当にみんな、オフ会のメンバーなの?
 『宮殿』で知り合った仲間が、全員同じクラスでした、なんて有り得ないでしょ、普通」

 紅の言うことは最もだと、灯名は思った。

 オンラインゲームで出会った仲間が、クラスメイトだった。

 確率としては奇跡に近い、天文学的数字ではないだろうか。

 まさしく星の数ほどいるプレイヤーの中から選んだパーティーのメンバーが、全員クラスメイトだったなんて。

 他愛ない会話をしながら、ゲーム攻略に勤しんでいたパソコンの向こうに居たのが、顔見知りだったなんて。

 再び、沈黙が重力に逆らえず落ちてきたとき、紅が頭痛をこらえるような仕草で、「確認させて」と言った。

 ぐるりと一同を見回し、まず人差し指を間宮草介に向ける。

「吃音でいじめられている、ハンドルネーム『大樹』って、間宮、あんたのことだよね?」

 やはり怯えた眼差しながらも、はっきりと草介がうなずいた。

 紅の言葉を引き継ぐような形で、灯名が紅に視線を向ける。

「発達障害があって、不登校気味で、現在自暴自棄なハンドルネーム『アカネ』さんが、五十嵐さん?」

 紅も、草介にならって力強く肯定のうなずきを返す。

 紅は、灯名と璃来を指差すと、ごくりと喉を鳴らした。

「そうすると、つまり、こういうことになる。
 男の心を持って生まれた女子、ハンドルネーム『王子』が、神林灯名。
 女の心を持って生まれた男子、ハンドルネーム『姫』が、藤原璃来。
 『王子』と『姫』は、性同一性障害に悩んでいる。
 つまり、神林灯名と藤原璃来は性同一性障害を誰にも言えずに悩んでいる。
 ……で、合ってる?」

 灯名と璃来は、顔を見合わせると、戸惑いつつもやはりうなずいた。

「マジか……」

 紅の呟きに、心の中で全員が同意した。

 が、次の瞬間、盛大な紅の笑い声が轟いた。

「ふははっ、何それ、結局みんな知り合いだったんじゃん!
 すっごい偶然だよねえ、嘘みたい、有り得るんだねえ、こんなこと。
 みんな、もうお互いの悩み知ってるわけだし、いまさら気を遣う必要ないよね」

 紅の朗らかな声につられるように、灯名も薄く微笑みを浮かべる。

「確かに、すごい偶然だな。
 ちょっとすぐには信じられないくらいに。
 でも……もう、『僕』呼び解禁でいいかな?」

 灯名の言葉に、紅が嬉しそうに笑顔を向ける。

「お!出た、『王子』の『僕』呼び!
 じゃあ、遠慮しないで『姫』もどうぞ!」

 紅に促された璃来が強張った表情のまま、戸惑いの色を見せた。

「何、怖がってんの?
 あたしたち、ゲーム仲間じゃない。
 まだ信じられないの?」

 すると璃来が、うつむき、ぼそぼそと口の中で言葉を転がす。

「そりゃ、すぐには信じられないだろ。
 パーティー仲間が現実でも知り合いだったなんて。
 誰かにハメられてるんじゃないかって……」

「あら、本当に信じてないのね、『姫』は怖がりだもんねえ。
 じゃ、あたしたちが本当にゲーム仲間だってこと、証明する必要があるかしら?
 例えば、チャットでしか話していないことをあたしが知ってたら、信じてくれる?」

 自分を上目遣いで見る璃来に、紅は胸を張って言葉を振り降ろす。

「ハンドルネーム『姫』の将来の夢は、メイクアップアーティスト。
 どう?
 まだ誰にも言っていない、秘密でしょう」

 璃来は目を見開くと、次の瞬間には脱力した。

「信じてくれたのね?」

 一度うつむいた璃来は、肩を震わせた。

 笑っているのだと、灯名たちが気づくまで、少しの時間を要した。

「ふふっ。
 確かに、チャットでしか交わしていない会話だわ。
 本当、信じられない偶然ね。
 でも、こんな近くに自分の悩みを知る唯一の仲間がいるなんて、何だか心強いわ。
 だって、もう何も隠したり取り繕ったりする必要がない関係なんだもの」

 笑いを堪えながら、璃来は女性らしい柔らかい口調に切り替えた。

 それはそのまま、チャットでの『姫』の話し方だった。


 人間にじゃれつく仔犬のごとき笑みを作って、紅はさらに璃来へ促した。

「じゃ、解禁しちゃってよ、『姫』の『あたし』呼び」

「わかったわ、あたしは、ハンドルネーム『姫』こと藤原璃来。
 よろしくね」

「おお!キタ!
 『姫』の『あたし呼び!』」


 紅はさらにテンションを上げて、テーブルの上の飲みかけのグラスを掴んだ。

「何にせよ、めでたい!
 乾杯しよ、乾杯!」

「何に乾杯?」

 灯名が問うと、にや、と紅がいたずらっぽい笑みを形作る。

「もちろん、あたしたちの、奇跡のような出会いによ!」

 苦笑しつつも、灯名がアイスティーのグラスを持って立ち上がる。

 仕方ない、と言った様子ながら、璃来と草介も立ち上がった。

「あたしたちの出会いを祝して、乾杯!」

『乾杯!』

 4人は、渋い表情を浮かべるマスターになど気づかずに、かつん!と小気味よい音を鳴らして、グラスを合わせた。


 お互いのことは名前で呼ぼう、という紅の提案で、4人は下の名前で呼び合うことになった。

 現実の知り合いと、ゲーム内での話をするのは、何だか不思議な感覚だった。

 ここにいる仲間は、自分の全てを知っている。

 変に気を遣う必要も、隠す必要もない。

 お互いの悩みなど全て熟知し、それを受け入れて、彼らが一番恐れる偏見とも無縁だ。

 秘密を共有する仲間、というのは、こんなにも居心地の良いものなのかと、璃来は驚いていた。

「で、紅は何で夏休みなのに制服なんだ?」

 ひとつのテーブルに集まって話に花を咲かせていると、灯名が不思議そうに訊いた。

「そりゃ、高校の制服を着られるのは3年間しかないからよ。
 あたしは学校に行ってないけど、青春の象徴でしょ、制服って。
 今しか着られるチャンスないしさ。
 だから、普段着にしてる」

 ふうん、とうなずいて、灯名は自分の私服を見下ろす。

「灯名の服、可愛いね。
 でも、当然、灯名の趣味じゃないんでしょ?」

「当たり前だろ。
 こんなごてごてにフリルだのレースだのがついたワンピースなんて、恥ずかしくてたまらないよ。
 ただ、知ってるだろ、両親にとって僕は、長い不妊治療の末にやっと出来たひとり娘なんだよ。
 甘やかしたいのも、よくわかる。
 両親のためなら、これくらい我慢出来る」

「灯名は親孝行だね、あたしとは真逆。
 あたしなんて勉強についていけないしさ、見た目もギャルだし、学校に行く気にもなれなくて、昼間から遊び歩いてるし、本当、親不孝」


 実際、灯名は数回、学校で見かけただけの紅は、てっきり見た目通りの不良で、だから高校に来ないのだと思っていた。

 ゲーム内のチャットで、『アカネ』は発達障害、ADHDというハンデがあり、高校には進学したものの、勉強についていけずに劣等感を抱き、結果自暴自棄になり不登校になったと告白していた。

 紅が高校に来ない理由を簡単に推測して決めつけていたが、紅にも深刻な悩みがあったのだ。

 見た目だけで、こういう人間だと決めてかかることは、危険なのだと、改めて思い知らされる。

「ねえ、何で2人はあのハンドルネームをつけたの?」

 紅は、視線で灯名と璃来を示した。

「そりゃあ……」
 
 顔を赤らめ、璃来がもじもじと居心地悪そうに身じろぎする。

「憧れていたからよ。
 『姫』って呼ばれてちやほやされてた灯名に。
 女として」

 すると灯名も、難しそうな顔になって続く。

「僕も同じだよ。
 学校の『王子様』藤原璃来に憧れていたんだ、同じ男として。
 かっこいいなあって」

 どうやら灯名は照れているらしい。

「へえ。
 ある意味両想いね」

 ぼっと音がしそうなほど、2人は首まで真っ赤になった。

「でもなー、超絶美形の璃来に『あたし』呼びされると、何か女として負けた気分になるわ。
 璃来のほうがよっぽど女らしいし、顔も綺麗だし、女性として完璧っていうかさ」

 紅の発言に、璃来はわかりやすく表情を歪めた。

「ちょっと、『男』とか『女』とかで、あたしを区別するのやめてよ。
 それって、紅は生まれつき正真正銘の女子だけど、あくまであたしは男で、男にしては『女らしい』けど、あたしは一生女にはなれないって見下したように聞こえるんだけど。
 あたしだって好きで女の心を持って生まれてきたわけじゃないし、イケメンだの王子様だの騒がれるたびに不快な思いをしてきたんだから」
  
「ああ、ごめんごめん。
 璃来の顔があまりに綺麗だから、女として、あたしはどうなんだって、つい比べちゃってさ。
 まだちょっと、藤原璃来の顔で、女言葉で喋られると違和感があるっていうか」

「それは、そうでしょうね。
 あたしだって、まだ灯名が『僕』呼びしてることにも慣れないし、ゲームで勇敢に先頭に立って闘ってた、あの男らしい『王子』と灯名とが結びついてはいないもの」

 2杯目のアイスコーヒーを飲み干した璃来が、ふと壁の時計に目を向ける。

「やだ、あたしたち、3時間も話し込んでる。
 いい加減、喋り疲れるわけね。
 あんまり長居するのは失礼だし、今日のところは解散しない?」

 璃来の提案に、その場の全員がうなずいた。

 寡黙なマスターを含め。

「うーん、そうだね。
 ねえ、明日からゲーム内でも現実でも会わない?
 みんな、もっと話したいこと、いっぱいあるでしょ?」

「僕は構わないけど。
 草介はどう?」

 3時間で、数えるほどしか喋っていない草介に、灯名が話を振った。

「ぼ、ぼ、僕も、それで構わない、けど」

 草介は、軽くない吃音を持っている。

 言葉がつっかえてしまって、うまく話し出せない。

 それをからかわれ、幼いころからずっと、いじめのターゲットにされてきたと、チャットでは話していた。 

 こうして話していても、灯名は特に草介の吃音は気にならない。

 変だとは思わないし、草介にとっては、それこそ人生を揺るがしかねない深刻な悩みなのだろうけれど、そこまで思い詰める必要はないのではないかと思ってしまう。


 もちろん、灯名には草介の苦悩が全てわかるわけではないから、軽はずみな言動は出来ないのだけれど。

「じゃ、今日はこれにて解散ってことで。
 また夜、ゲームで会おう。
 それまで、元気でね、大親友!」

 紅による解散宣言を受けて、灯名が感慨深そうに笑う。

「大親友、か」

「そうよ、あたしたちは、悩みを分かち合える大親友でしょ?」

 混じりけのない紅の笑顔に、小春の顔がちらつく。

 親友、と呼べる相手ならいるつもりだった。

 しかし、灯名は自分が抱える悩みを打ち明けることが出来ず、小春たちの前では、『姫』を演じている。

『女子』を演じている。

 果たしてそれは、親友と呼べるのだろうか。


 今までの自分は、周りも、自分自身ですらも、欺いていたのかもしれないな、と紅の笑顔を見ながら、灯名は考えた。

 次に小春や友人と会うときに、どんな顔をすればいいか、灯名にはわからなくなった。

 会計を済ませ店を出たころには、外では夕方が始まっていた。

 しかし、夏の陽射しは健在で、セミの大合唱も絶え間なく聞こえている。

 電車に揃って乗り、隣の駅までの短い乗車時間を経て、「じゃあね」と手を振り合い、見慣れた駅前で別れた。

 悩み自体が消えたわけではない。

 何かが解決したわけでもない。

 けれど、力強い何かを手に入れたような気がして、灯名は鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌で家までの道のりを、夕焼け空を見上げながら歩いていた。

 まるで夢の中に入ってしまったようだった。

 欲しくてたまらなかったもの──『理解者』を得てこの先の人生に、光明を見出すことが出来た。

 自分は『理解』に飢えていたのだと気づかされ、心の奥底で、本当は何を欲していたのかを思い知った。

 現実は、夢を超えたものを運んできてくれた。
 
 夜になれば、また『宮殿』でみんなに会える。

 大切な『理解者』たちに。



「あー、なるほどね、わかった、わかった。
 そういうことね」

 喫茶店『Casa』に、紅の感嘆の声が響いていた。

 オフ会から数日が経ち、灯名や璃来が、友人と遊ぶ予定を入れていない日は、紅と草介と『Casa』に集まりお喋りに花を咲かせ、家に帰ればオンラインでゲームをする、4人はそんな夏休みを過ごしていた。

 灯名も璃来も、友人たちとの付き合い方は一切変えず、『姫』と『王子』をこれまで通り演じ続けている。


 最近は、勉強にコンプレックスを抱えている紅に、成績優秀な草介が、言葉にまごつきながらも教科書の内容を辛抱強く解説している。

「草介、教え方うまいね!
 あたしでも、時間をかければわかるものなんだなあ」

 少し誇らしそうな顔をした草介に、ペンを置いた紅が首を傾げながら腕を組む。

「草介、いいやつなのに、何でいじめられるかなあ」

「き、吃音があるから……」

 草介は、いじめられる現実を、諦めている節があった。

「それがなに?
 いじめる理由にはならないでしょ。
 それだったら、あたしだっていじめる対象になるんだろうし」

「べ、紅をいじめる勇気のある人はいないよ」

「まあ、そうね。
 いじめてきたら、そいつをぶん殴るからね、あたし。
 草介も、いじめてくるやつぶん殴っちゃえば?」

「ぼ、僕には出来ない、かな……」

 相変わらず気弱な笑みしか浮かべない草介だが、オフ会で顔を合わせてからしばらく経ち、徐々に口数も増えてきた。

 夏休みが明け、登校することが憂鬱でしかなかったが、いじめに対抗する術を、他の3人が考える、と言ってくれたことで、明るい気持ちになりつつあった。

 根本的に問題は解決しなくとも、自分のことのように心を痛めてくれる仲間がいる、そう思うだけで強くなったような、支えられている心地になる。

 学校に行こうという勇気が出てくる。

 また、紅に勉強を教えることで、まだ誰にも言っていない荒唐無稽にも思えていた将来の夢に、少しだけ近づいたような、自信がついたような気がする。

 もちろん、未来にはまだまだ暗雲が立ち込めてはいるのだけど。


「心を入れ替える?」

 紅と草介が教科書と対峙するテーブルから、少し距離をとったテーブルで、対面に座る璃来の言葉を、灯名が繰り返した。

「そう。
 もちろん、映画とか小説みたいに、『心が入れ替わっちゃった!』みたいなファンタジーな話じゃなくて、お互いの悩みに『男目線』『女目線』でアドバイスを送り合うの。
 あたしたちの目標は、『普通の人になること』だって、ずっとチャットで話してたでしょ?
 これは、そのための一歩」

 そう言いながら、璃来は大学ノートをテーブルの上に置いた。

『自分取り扱い説明書』

 表紙には、角張った字でそう記してあった。

「あたしは『男らしく』なるために灯名から、灯名は『女らしく』なるためにあたしから助言をもらって、お互いの心を擦り合わせて『普通の人』になるの。
 たとえば、こんなふうに」

 璃来は、2冊あるうちの1冊のノートを開いた。

『Q. 男子と一緒に着替えるのが恥ずかしいときは、どうすればいいですか』

 1ページ目に、璃来の字でそんな質問が書かれていた。

 意味を理解したらしい灯名は、璃来からペンを受け取ると、『A.』と書き出した。

『A. 胸を隠す仕草だけはするな、気色悪い』

 すると、灯名がもう1冊の新品のノートに、璃来を真似て何やら書き出す。

『Q. 短いスカートをはくのが恥ずかしい。どうすればいい』

 ノートを受け取って、質問に目を通した璃来は、苦笑いを浮かべ、アドバイスを書き込んだ。

『A. 脚は出せるときに出したほうがいい。
 いずれ、脚を出すなと言われる年齢になるから』

 その返答に、思わず灯名は噴き出してしまう。

「ね、こんな感じ。
 こうやって、性格を擦り合わせていって、男らしく、女らしく、『普通』になりましょう。
 そのほうが、生きやすいから」

 自分の心に宿る違和感を、隠すか公表するか。

 どちらにしても、多大な苦悩が生まれるが、今の灯名たちは、自分が性同一性障害だと公表して生きていくことを選択肢に入れていない。

 あくまで、生まれた性のまま、強烈な違和感を無視して、本当の自分を偽って生きていこうとしている。

 このノートが全ページ埋まるころ、自分たちは、立派な『男』と『女』になれているだろうか。

 少し窮屈に感じながらも、笑っていられるだろうか。
 
 ノートを見下ろしながら、灯名は期待と不安という月並みな感想を未来に抱いた。



 璃来発案の『自分取り扱い説明書』のページが半分ほど埋まったころ、夏休みが終わりを告げた。

 4人は、すっかり気の置けない間柄になっていた。

 『Casa』でも、『宮殿』でも、話は尽きなかった。

 新学期が始まる前日、草介が登校への憂鬱な思いをチャットで吐露した。

 すると、璃来が『明日は登校して、あたしに考えがあるから』と書き込んだ。

 気が乗らないながらも、草介は登校すると約束した。




「あー、腹減った。
 間宮、購買でパン買ってきてくれよ」
「あ、俺にも頼むわ。
 お前のおごりでな」


 草介をいじめているグループのリーダー、広岡とその仲間が、雑談で溢れる教室で、名前を呼ばれて肩を震わせた草介にそう言った。


 日常の一幕としてしか、いじめを捉えていないクラスメイトは、誰も草介を助けてはくれない。

 いじめを、止めてくれない。

 そんな中、おおげさな音を立てて、璃来が立ち上がった。

「購買行くの? 
 俺も用あるから、ついでに買ってきてやるよ。
 パン、何がいい?」

 璃来に問われ、広岡は頬を引きつらせた。

 広岡は、スクールカーストの頂点に君臨する璃来に、言い返すことが出来ず、口をつぐんだ。

 自分より弱い草介をいじめることしか出来ない小心者が広岡という少年だった。

「いいの?
 買ってこなくて。
 次からは間宮じゃなくて俺に言えよ」

 璃来にそう言われ、面子を潰された形になった広岡は、顔を真っ赤にして逃げるように教室を出ていった。

 璃来は、密かに草介と目を合わせて意味ありげに微笑む。

 ふたりの様子を見ていた紅と灯名は、小さくガッツポーズをして笑い合った。

 ちなみに、学校では、4人は言葉を交わさないことにしている。

 いつどこから、ほつれが生まれてしまうかわからないからだ。

 気を許しすぎた弊害ともいえる。

 璃来が草介の側についたことで、広岡たちからのいじめは、鳴りを潜めた。

 紅も、休み時間に図書館で草介に勉強を教えてもらうために登校するようになった。



 何もかもが好転しているようだった。

 しかし、安寧の時の崩壊は、一歩ずつ近づいていた。

 新学期が始まって一ヶ月ほどが経ったある日、登校すると、灯名は小春に呼び止められた。

「灯名、これ、見た?」

 小春が差し出してきたスマホ画面を、灯名は覗き込む。

 隠し撮りと思われる動画に、廊下で電話する璃来が映っている。

『もしもし、あたし。
 ごめん、今日はちょっと遅れるわ、ノートの交換、明日でいいかしら?
 ……ええ、悪いわね、また夜、話しましょう。
 ……うん、またね』


 音声まで綺麗に拾われている。

 灯名は蒼白になった。

「何、これ……」

 やっとのことで問うと、小春は興奮気味にまくしたてた。

「今朝、拡散された動画なんだけど、本当なのかな、これ。
 あの藤原璃来が、オネエ言葉で喋るなんて」

 教室を見回せば、みんな一様にスマホで璃来の動画を見てささやき合っている。

 すでに登校していた紅に近づき、灯名は小声で告げた。

「どうしよう……。
 電話の相手、僕だ……。
 昨日、『Casa』で、璃来に電話した……僕のせいだ」

 紅にしか聞こえない声量で言うと、紅が落ち着かせるように灯名の肩に手を置く。

 すると、教室が一瞬沈黙に包まれた。

 何も知らない様子の璃来が教室に入ってきたのだ。

「おい、王子、これお前か」

 男子が璃来の前で動画を再生してみせる。

 みるみるうちに、璃来が顔色を失くす。

 そんな璃来を見て、声を上げる者がいた。

 広岡だった。

「見ての通り、藤原璃来はオネエでした!
 何が王子様だよ、みんな、藤原に騙されてたんだよ!」

 勝ち誇ったように叫んでいるところをみると、動画を撮影し拡散させたのは広岡のようだ。

 草介の一件で、広岡が璃来に一方的に恨みを募らせていても不思議はない。

 璃来を貶めるために、付け狙っていたのだろう。
 
 まんまと、璃来は広岡の前でぼろを出してしまったのだ。

 璃来の反応を待って、教室に再び沈黙が降りた。

「きも……」

 小春がぽつりと言った瞬間を合図にしたように、教室がどっと沸いた。

「何、璃来、お前オネエだったの?」
「あたし〜って言ってみろよ!」
「どうりで女に興味ないわけだよなあ」
「俺たち狙われてんじゃね?  更衣室で着替えしてるの、エロい目で見てたんだろ?」
「きゃー、恥ずかしい!」

 男子が胸を隠す仕草をして笑いを誘う。
 
 灯名は恐れていた現実に、凍りついたように動けなくなっていた。


 生徒たちの声が渦を巻いて璃来に襲いかかる。

 教室で一番の弱者が決まった瞬間だった。 


 璃来の秘密が発覚して、一ヶ月が経過した。

 手のひらを返したクラスメイトに嘲笑われ、からかわれ、『オネエ』だと馬鹿にされる……。

 それが璃来の日常になった。

 もはや全校生徒が憧れた『王子様』の面影はどこにもない。

 ただ、草介に代わり、いじめていい存在が、新しく出来ただけのこと。

 逆境の中にありながら、璃来は、灯名に自分をかばわないよう強く言い聞かせていた。

 灯名の秘密まで露見することを避けるためだ。

 『Casa』でも『宮殿』でも璃来は明るく振る舞っていたし、いじめに負けずに登校していた。

 目の前の璃来を助けられないジレンマに灯名たちは陥っていた。


 ある日の風呂上がり、自室に戻りパソコンを立ち上げようとした灯名のスマホが鳴った。

 璃来からだ。

 時刻は夜10時。

 電話なんて珍しいな、と思いながら通話ボタンに触れる。

「もしもし?」

『あ、灯名?
 あたし。
 今、平気?』

「うん、今から『宮殿』に行こうと……」

『ねえ、最後の質問してもいいかしら?』

 外からかけているのか、声に混じって風が吹き抜ける音がする。

「最後?」

 ただならぬ気配の璃来に、灯名はにわかに緊張する。

『ノート、いっぱいになっちゃったでしょ?』

 夏、璃来に渡された『自分取り扱い説明書』は、交換日記のようになり、全ページ埋まっていた。

『で、ね、質問。
 生きることがつらくなったら、どうすればいいですか?』

 灯名は息を呑み、すぐに返答しようとした。

 そうしなければ、通話を切られてしまいそうな危うさを感じたからだ。


 微かに璃来が笑った。

『……最後に、声が聞けて嬉しかった、じゃあね、灯名』

 前触れなく、通話が切られた。

 胸騒ぎがして、灯名は立ち上がる。

 電話から聞こえた、微かな電車の音。

 学校だ、と直感した。

 灯名は、部屋着のまま家を飛び出し、夜の住宅街を疾走した。

 暗がりをかき分けて学校へ向かう道すがら、自分と同じように、着の身着のまま走ってきた紅と草介と遭遇した。

 3人は、驚いて一瞬顔を見合わせたけれど、目的は同じであるとうなずき合った。


 校門を乗り越え、校舎に侵入した灯名は、階段を駆け上がった。

 鍵が壊された重い扉を開け屋上へ出ると、素早く周囲を見回す。

 ひとけはない。

 目を凝らすと、フェンスのそばにうずくまる人影を見つけた。

「璃来……」

 声をかけると、璃来は振り返り、弱々しい笑みを浮かべた。

「飛び降りようと、思ったんだけど……ダメね、怖くて足がすくんじゃった。
 決心を固めるために、みんなにあんな思わせぶりな電話までしたのに、本当、情けないわ」

 やはり、みんなが危惧した通り、璃来は命を絶とうとしていた。

 灯名は璃来に近づくと、自分より大きい璃来の身体を抱きしめた。

「バカだな。
 死にたいほどつらいなら、僕に言えばいいだろ。
 何ひとりで背負い込もうとしてるんだよ、僕は、僕らはそんなに頼りないのか?」

 自分のために駆けつけてくれた、屋上の入口に立つ紅と草介に目を移し、次に灯名の胸に顔を埋めた璃来は、耐え切れず、大粒の涙を零し始めた。

 灯名にしがみついて、子供のように泣きじゃくる。

「ごめんね、灯名、あたし……あたし……」

 璃来を抱きしめながら、灯名は毅然と言った。


「さっきの質問の答え、つらいときは僕に頼れ」

 
 優しく璃来の髪を撫でながら、語りかけるように静かな口調で灯名は続ける。

「僕たちが普通になろうなんて、間違ってるんじゃないかな?
 僕たちは、生まれたときから、ズレてる。
 そんな僕たちが、普通の顔して生きていくなんて、歪を生むしかないよ。
 そのままで、いいんじゃないかな。
 君も、……僕らも」

 言葉にならない璃来の声を受け止めて、灯名は決意を固める。

 璃来の苦しみを、終わらせる。

 自分に出来ることをやろう、と。

 この夜の出来事は、忘れてほしいと照れた様子の璃来に頼まれ、もう二度とこんな馬鹿な真似はしないと約束させて、その証に灯名と璃来は小指を絡ませた。

 そのふたりの様子を見守っていた紅と草介は、ほっと息をついて、疲れたように笑い合った。

 翌日、登校すると、泣きはらした目を充血させた璃来は、数名の男子に囲まれ、ストレス解消代わりに小突かれ、からかわれていた。

「姫、おはよ」

 声をかけてきた小春の脇を素通りし、教卓の前に立った灯名は、ばん、と机を叩き、教室中に届く大声で叫んだ。
 

「黙れ!
 藤原をいじめることは、僕が許さない!」

 突然の姫の乱心に、教室中が静まり返る。

「ひ、姫……?」

「藤原をいじめるなら僕もいじめろ。
 僕は、『姫』なんかじゃない、藤原と同じ『性同一性障害』だ!
 男なんだ!」

「ちょ、灯名っ」

 紅が慌てた様子で灯名に近づこうとする。

 灯名の言葉に教室中が呆気にとられていた。

「僕らの、何が悪いんだ?
『普通』がそんなに偉いのか?
『普通じゃない人間』は、生きる価値もないって言うのか?
 答えろよ!」

 困惑が広がっていく。

 誰も答えようとしない。

 灯名の言うことは至極正論で、反論の余地はないからだ。

「二度と藤原を馬鹿にするな。
 もしまた藤原を傷つけるやつがいたら、僕が容赦しない、わかったか?」

 灯名の迫力に、誰もが驚き、自ら暴露した秘密に耳を疑った。

 璃来を囲んでいた男子が、そろそろと離れていく。

 胸がすっとした。

 これから先、偏見の目にさらされるだろう。

 暴露したことを、後悔するかもしれない。

 もう、前のようには戻れない。

 失うものは、あまりにも大きい。

 それでも……。

 璃来がくすっと笑った。

「馬鹿ね、灯名は」

 紅も草介も、晴れやかな笑顔を浮かべている。

 
 灯名が身を挺して守ったことにより、藤原璃来がいじめの対象になることは、二度となくなった。

 しかし、代償として、ふたりはクラスでの立ち位置を完全に失った。



 騒ぎは、すぐに担任の知るところとなり、灯名と璃来が必死に隠してきた秘密は、それぞれの家族に知れ渡った。

 放課後の学校に呼び出された両親は、今朝の騒動の顛末を担任から聞かされ、灯名が男の心を持っていたことを知ると、この世の終わりのような顔で、非常にショックを受けていた。

 両親の顔をまともに見ることが出来ず、『普通の娘』に生まれなかった自分を、灯名は呪った。

 申し訳なくて、心が痛んだ。

 やっと生まれた待望のひとり娘が『男』だったなんて、両親にしてみれば裏切り以外のなにものでもないだろう。


 璃来の家族の反応も、似たようなものだった。

 璃来は、3人目にしてやっと生まれた藤原家の長男だった。

 跡取り息子に期待していた両親は、あからさまに失望を露わにした。

 家族が自分を見る目が、明らかに変わったことを、璃来はひしひしと感じていた。

 理解されようとは思わない。

 けれど、拒絶されたくはなかった。

 家族とは、ただ血が繋がっただけの関係だが、無条件で受け入れてくれる世界で唯一の存在だと、璃来は信じたかった。

 璃来自身も傷つきながら、温度の下がった家族の視線を甘んじて受け入れるしかなかった。

 
 『姫』のスキャンダルは、またたく間に学校中へ広まった。

 廊下を歩けば好奇の目にさらされ、薄笑いを浮かべた顔で何事かをささやき合う生徒の姿が散見された。

 スマホを灯名と璃来に向けて撮影する後輩までいる。

 混乱を巻き起こした朝一番の『姫の乱心』の直後から、小春を始めとする友人たちは灯名を無視している。

 声をかけようとしても、察知されて逃げられてしまう。

 友人たちの反応は一様に冷たく、遠巻きに灯名を眺めては目が合うなり足早に離れていく。

 璃来をいじめから救うために取った行動を、後悔してはいない。


 璃来は唯一無二の仲間で、自分しか彼を守れなかったし、悔やむかもしれないということは織り込み済みだ。

 ただ、正しいことをしたのに、犯罪でも犯したかのような扱われ方をされることには不満が募った。

 『性同一性障害(じぶんたち)』の、何が悪いというのか。

 何故、忌避され蔑まれなければならないのか。

 友人たちは、何故灯名を理解しようとすらしてくれないのだろうか。

 異物でも見るような目つきで灯名を見て、話を聞こうとすらしてくれないのか。

 自分たちは、『友達』ではなかったのか。

 こんなことで、いとも容易く崩れてしまう程度の友情でしかなかったのかと思うと、やり切れないわだかまりが灯名の中で渦巻く。

 悶々としていると、灯名の発言の真偽を確かめ、今後の対応について協議するため担任の教師と、深刻な顔の両親との面談が始まろうとしていた。

「草介と『Casa』で待ってるから、面談が終わったら、ちゃんと、帰ってきてね」

 笑顔の紅が、灯名と璃来の肩をぽんと叩いたあと、草介を従えて教室を出ていった。

 朝から白い目を教室中から向けられていた灯名に変わらず声をかけてくれる紅の言葉に、胸の内がじんわりと温かくなった気がした。

 何を被害者ぶって嘆いているのか。

 小春たちに隠し事をしていたのは自分のほうなのだ。

 秘密を打ち明けなかった灯名に、小春が裏切られたと思っても、仕方のないことなのかもしれない。

 受け入れてもらえるか不安で、打ち明けられなかった灯名は、小春を信じ切れなかったのだろう。

 一方的に小春を責めるのは筋違いだ。

 時間をかけて理解してもらうしか道はないが、焦る必要はない。

 だって、灯名には待っていてくれる紅たちが、仲間がいる。

 これから先の未来において、欠かせない大切な大切な仲間という存在。

 誰とも比べることが出来なくて、信頼で結ばれた名前の形容しがたい愛おしい関係の仲間たち。


 進路指導室から、一足先に気まずい話し合いを終えて出てきた璃来と両親と入れ違いに灯名と両親が部屋へと向かう。

 すれ違いざま、璃来がそっと灯名の手を握った。

 優しいぬくもりに、勇気を貰い、涙が溢れそうになる。

 ぐっと唇を噛みしめてこらえると、顔を上げ、灯名は真っ直ぐ歩き出した。



 灯名の苦悩を知った両親は、ショックを受けながらも、娘のために一定の理解を示してくれた。

 もちろん、一朝一夕で受け入れられるような現実ではないだろう。

 葛藤していることが伝わってくるが、それを押し隠し、母は灯名の手を包み込んで気丈に振る舞ってみせた。

 痛々しい母の微笑みに、灯名の心は胸の痛みに耐えかねて目を逸らした。

 学校での灯名の扱いは、これまでと変わらないことになった。

 学校にとっても、性同一性障害の生徒に接することは初めてであり、扱いに戸惑いがあるようだ。

 男子生徒として扱われたいと、我を通すことは、灯名には出来なかった。

 これ以上、さらなる混乱を生むことは灯名の本意ではないからだ。

 今まで通り、女子生徒として変わらず高校生活を送る。

 周りの生徒への、理解の徹底を教師たちは約束してくれた。

 その点に関しては恵まれているな、と思う。

 一方でいじめられることはないにせよ、友人に生まれた偏見を改めさせることは現実的に望めないだろうとも考えている。

 居場所を失った教室で、肩身の狭い思いをしなければならないだろうが、同じ教室には璃来がいる。

 紅が、草介がいる。

 灯名を攻撃するだけの人間ばかりではないのだ。

 面談を終えて学校を出ると、校門で璃来が待っていた。

 両親と別れ、碧色を失った空を仰ぎながら、璃来とともに歩き出す。

 帰宅ラッシュの電車に揺られ、すっかり通い慣れた街を歩き、喫茶店『Casa』の年季の入った扉を、鈴の音とともに開け、店内に入るなり、場違いな大声がふたりを迎えた。

「灯名、璃来、おかえりー!」

 紅の大声にマスターがやはり迷惑そうに眉間にしわを寄せるが、相変わらず彼は寡黙にカウンターの中に佇んでいるだけだ。

 苦笑いして顔を見合わせた灯名と璃来は、少し声のトーンを落として言った。

『ただいま』 

 いつかと同じように声を揃えたふたりを急かして座らせると、紅はふたり分のコーヒーを注文した。

 マスターは首を上下させるだけで承諾したことを表す。

「ま、色々あるけどさ。
 負けることだけはやめようよ、何か悔しいしさ」

 紅がすでに空になったコーヒーカップをテーブルに置いてそう言った。

「悔しい、か。
 紅らしいわね」

 璃来の言葉に、紅はぐるんぐるんと腕を回してみせる。

「灯名や璃来のこと悪く言うやつがいたら、あたしがぶっ飛ばしてあげるよ。
 あたし、結構怖がられてるから」

「頼もしいわね。
 でも、腕力なら、あたしのほうがあると思うけど」

「いーの、いーの、璃来は『姫』でしょ。
 あたしが守ってあげるって」

「ゲームの話みたい」


 くすくすと璃来が笑う。

「だから、辞めたりしないよね、学校」

 内心不安だったのだろう紅の声音が湿り気を帯びる。

「ええ、辞めないわよ、ねえ、灯名」

 灯名がこくりとうなずく。

「良かった」

 紅は満面の笑みを浮べ、そして4人は誓った。


 偏見に負けず、卒業まで学校に通おうと。

 自分たちは、『普通』ではないかもしれない。

 少数派でいることが、良いことなのか悪いことなのかも、まだわからない。

 でも、本当に欲しいものは、すでに手に入っているのかもしれない。

 奇跡のような出会いがあった。

 自分より大切だと思える仲間に出会えた。

 ひとりではないと知った。

 居場所が、帰る場所が出来た。

 それだけで、今はいい。

 これから先、壊れることのない絆を抱きしめて、手を取り合って進んでいく。

 無限にも、有限にも思える時間を。

 どんなことが起きても、『此処』が4人の帰る、温かな場所だった。