正門へたどり着くと、屋上から見えた彼女は先ほどと同じ場所でしゃがんでいた。
 レンガ塀に背を預け、膝を両腕で抱え、その中に顔を(うず)めている。チェック柄のスカートはやっぱり、うちの高校のものだ。
 結局、来てしまった。
 「なんか熱っぽい気がするから保健室に行ってくる」——渉にそう伝えて、その足で校門前まで走ってきてしまった。
 心臓が鳴っている。
 俺と赤い糸でつながってるかもしれない人間が今、目の前にいるのだ。
 でも俺は、別に恋愛がしたいわけじゃない。
 ただ、この糸の正体を突き止めたかった。
 これは本当に、〝運命の赤い糸〟なのか?
 糸の先には、俺と一生をともにする人間がいるのか?
 小さなころからずっと秘めてきた謎。誰にも話せなかった不可思議な現象。ただそれを、解き明かしたいだけだった。
 彼女に近づく。
 俯いている彼女の、長く艶やかな黒髪が揺れている。
 頭は空っぽだった。手を伸ばせば彼女に触れられる距離に立った。彼女の水色のスニーカーが、俺のスニーカーの足先と重なりそうになる。
 そこまで来て、気づいた。
 ——違う。
 赤い糸は、彼女の指についていない。
 よく見ると、糸は彼女の足元を通り過ぎて、道の先を進んでいた。糸が草に隠れていて気づかなかった。もしくは、気持ちが(たかぶ)っていたせいで視野が狭くなっていたのかもしれない。
 この人は、たまたま赤い糸の上にしゃがんでいただけだ。
 俺と赤い糸でつながっていたわけじゃない……。
 急に恥ずかしくなって、引き返したくなった。
 でも間違いなく、彼女は俺の接近に気づいている。
 真下を向いていたとしても、感じていないはずがない。息を切らせて間近にやってきた、怪しい人間の気配を。
 言い訳を用意する間もなく、彼女がゆっくりと顔を上げた。
 彼女の透き通った瞳が、焦点を定めないまま俺を見返す。

「——浅、見……くん……?」

 ——え?
 一瞬、彼女の唇から漏れ出た言葉を理解できなかった。
 ……なんだ?
 なんで、俺の名前を……。
 彼女とは初対面のはずだ。
 それは、屋上で見たときから気づいていたことだった。知らない顔なのだ。彼女の胸元のネクタイは俺と同じ水色だから、同じ学年の生徒なのだろうと察することはできるけれど。
 なのに、なんで、この子は俺のことを知っているんだ……?
 驚いて黙り込んでいると、彼女の肩が右に傾きはじめた。
 そのままずるずると、壁沿いに倒れそうになる。俺は反射的にしゃがみ、その肩を支えた。

「あ……ちょっ……。……あの!」

 目をつむっている彼女は、わずかに呼吸が荒い。どうやら体調が悪いらしい。

「……めん、なさい。ベンチ……」

 対応に迷っていると、彼女が目をつむったままつぶやいた。
 ベンチは、角を曲がったところの公園にあるはずだ。
 けれど、彼女は全身の力が抜けていて動けそうにない。それにこんな状態で、休んだとしても治るものなのか。

「……学校、すぐそこだから、先生呼んでこようか? それか、……救急車」

 迷った末に聞いてみる。
 すると、即座に反論された。

「だめ……。学校も……病院も」

 だめ……って。
 この子は、自分の状況を理解しているのか?
 そう思いつつも、拒否されてしまったからには従うことしかできなかった。動けない彼女を、寄り掛からせるようにして背に乗せる。彼女のスクールバッグも腕にかけて、気合いで立ち上がる。
 スカートのひだ越しに、柔らかな肌を感じた。
 女子と密着するなんて、はじめての経験だ。
 けれど不謹慎な喜びなど一切なく、ただただこの子がちゃんと回復するのかだけが気がかりだった。
 ふらふらになりながら公園にたどり着く。そこには象の遊具がひとつあるだけで、人の姿はなかった。なんとかベンチに座らせると、彼女は沈み込むように席に収まり、はじめて笑顔を見せた。

「……ありがとう」

 笑顔といっても、あまりにも弱々しすぎる笑みだけれど。
 このまま立ち去ることもできず、しかたなく俺も端に座った。すると、彼女の手がゆっくりとスクールバックへ向かった。
 中を開きたいのか、必死にファスナーを動かそうとしている。けれど力が抜けて、半分も開かない。

「……やろうか?」

 声をかけると、彼女はきょとんとした視線を俺に向け、微笑んだ。
 中をあまり見ないように、そっぽを向いてバッグを開ける。任務はすぐに完了し、バッグを彼女のほうに押し戻すと、次は「ピンクのポーチ」と言われて結局中を探さなくてはいけなくなった。
 なるべく薄目の状態で目当てのものを探し、言われるがままにそれも開く。中にはピルケースが入っていた。
 もしかして、と思い、脇に見えていたミネラルウォーターのペットボトルも渡すと、彼女はにっこりして受け取った。

「飲んで、少し経ったら、動けるようになるから……。付き合わせてごめんね」

 心許ない手つきでペットボトルの蓋を開け、錠剤を飲む。
 なんだ、薬があったのか。薬でなんとかなるのなら、重病ではないのかもしれない。
 たったひと口の水を彼女は時間をかけて飲み、ふうっと息を吐いて、膝の上でペットボトルを握りしめた。