*
花火は荒川の河川敷で行うことになった。
花火が許可されている場所ならどこでもよかったけれど、動画や写真を撮ることを思い出し、背景もこだわりたくなった。そう閃くと、今度はどこがいいかをひたすら考えるようになった。
とにかく、桜庭が行ける範囲であることが前提だ。そのうえで雰囲気がいい、桜庭が気に入る場所。
スマホで探して、毎晩のように桜庭に送った。その中で、「川辺ってロマンチック! ここがいい!」と反応したのが、荒川だった。
今日は、花火当日の日。
体調を考え、念のため俺が桜庭の家まで迎えに行くことになっている。十六時に待ち合わせのため、昼間のうちに姉ちゃんの部屋で髪をセットした。
鏡の中に赤い糸が映っている。
こんなことをしていていいのだろうか。
俺には本命の彼女がいる。どこの誰かもわからないけれど、いつか、桜庭じゃない人と恋に落ちる。じゃあ俺の今の気持ちは不誠実なんじゃないのか?
でも、そう思うたびに頭を振った。
〝運命なんかにしばられたくない〟
桜庭のあの言葉が、たしかに俺の背中を押していたのだ。
「あ、浅見くん!」
桜庭の家は高校に比較的近い大きな一軒家で、チャイムを押すと、すぐに桜庭が出てきた。
危ないというのに、外階段を跳ねるようにして降りてくる。そして門を開ける前に、俺のほうへと手を伸ばしてきた。
「また髪の毛フワフワしてるー。かっこいい!」
髪を触られそうになり、うしろへ逃げた。桜庭は笑いながら、巾着からスマホを取り出して、さっそく俺の写真を撮りはじめる。
そんな桜庭を、俺は呆けた顔で見ていただろう。
「……浴衣?」
桜庭は浴衣を着ていた。
白地に百合の花が咲く、おしとやかないでたちだ。
「そ! 今日はこの辺で花火大会ないみたいだから、周りの人にじろじろ見られちゃうかなぁ」
桜庭が少しの照れを見せながら、袖をつまんでポーズを取る。俺はぼうっとしたままその姿を見つめた。
もし誰かにじろじろ見られたとしたら、それは浴衣が物珍しいからではなく見惚れているからだと思う。
それくらい、きれいだった。凛とした格好とお団子にした髪がよく似合う。桜庭はもともとかわいらしい顔立ちをしているけれど、それがさらに際立っている。
桜庭がおどけるたびに、足元の下駄がやさしい音を奏でた。
「きれい、ですね」
「わ、ありがと! ……なんで敬語?」
俺も浴衣で来ればよかった、なんて思ったものの、俺は浴衣を持っていない。それでも、夜な夜な練習したヘアセットと新しく買ったTシャツは、今日という一日を彩ってくれるはずだ。
駅に向かい、上りの電車に乗り込んだ。
ドアの前に立つと、日の落ちる景色が見て取れた。夕日に照らされて燃え上がる街並みは、神々しいものの、命を使い果たす前の最期の灯火みたいだ。
いても立ってもいられず、桜庭が話している家族旅行の思い出を遮って、話しかけてしまった。
「平気?」
外に目を向けていた桜庭が、こちらを向く。
「ん?」
「やっぱり……近場のほうがよかったかと思って」
「なんで?」
「体力的な意味でさ。駅降りたら、多少は歩くし……」
すると、桜庭は俺の心配を一蹴するように笑顔を作る。
「大丈夫だよ。全然疲れてないもん。ふたりで遠くに行くのはじめてだから、うれしい」
先ほどから桜庭の首元が気になっていた。
車内は夕暮れの空気が入り込んで涼しいというのに、うなじのあたりに玉の汗が浮いている。
「……じゃあ、席が空いてないか探しに行こう。楽しむのはこれからなんだから、体力は残しておかないと」
休日、夕方の上りの車両はそこまで人はいないものの、席は埋まっている。それでもどこかにひと席でも空いていれば、桜庭を休ませることができる。
別にいいのに、という顔をしている桜庭の、持っている巾着を引っ張って歩き出した。
桜庭が俺のうしろをついてくる。
「ほんとにカレシできたみたい。……って言ったら、また怒られちゃうね」
まわりの人に聞こえない小声で、桜庭が楽しそうつぶやく。
つい、即答してしまった。
「いいんじゃない」
握っている巾着袋から、ほてった感情が伝わりそうだった。
「そういうことで……いいんじゃない」
はっきりと言葉にできない自分が情けなかった。
ずっと恋愛小説を読んできたくせに、桜庭が求めるような言葉のひとつも口にすることができない。小説に出てくる王子さまみたいには、なれない。
それでも今、俺の気持ちをひと欠片でもいいから伝えたかった。
俺も今という時間を楽しんでいることを、知ってほしかった。
車両間のドアを開ける。背後にいる桜庭との距離が縮まる。
肩のうしろで、うれしい、と声がした。
花火は荒川の河川敷で行うことになった。
花火が許可されている場所ならどこでもよかったけれど、動画や写真を撮ることを思い出し、背景もこだわりたくなった。そう閃くと、今度はどこがいいかをひたすら考えるようになった。
とにかく、桜庭が行ける範囲であることが前提だ。そのうえで雰囲気がいい、桜庭が気に入る場所。
スマホで探して、毎晩のように桜庭に送った。その中で、「川辺ってロマンチック! ここがいい!」と反応したのが、荒川だった。
今日は、花火当日の日。
体調を考え、念のため俺が桜庭の家まで迎えに行くことになっている。十六時に待ち合わせのため、昼間のうちに姉ちゃんの部屋で髪をセットした。
鏡の中に赤い糸が映っている。
こんなことをしていていいのだろうか。
俺には本命の彼女がいる。どこの誰かもわからないけれど、いつか、桜庭じゃない人と恋に落ちる。じゃあ俺の今の気持ちは不誠実なんじゃないのか?
でも、そう思うたびに頭を振った。
〝運命なんかにしばられたくない〟
桜庭のあの言葉が、たしかに俺の背中を押していたのだ。
「あ、浅見くん!」
桜庭の家は高校に比較的近い大きな一軒家で、チャイムを押すと、すぐに桜庭が出てきた。
危ないというのに、外階段を跳ねるようにして降りてくる。そして門を開ける前に、俺のほうへと手を伸ばしてきた。
「また髪の毛フワフワしてるー。かっこいい!」
髪を触られそうになり、うしろへ逃げた。桜庭は笑いながら、巾着からスマホを取り出して、さっそく俺の写真を撮りはじめる。
そんな桜庭を、俺は呆けた顔で見ていただろう。
「……浴衣?」
桜庭は浴衣を着ていた。
白地に百合の花が咲く、おしとやかないでたちだ。
「そ! 今日はこの辺で花火大会ないみたいだから、周りの人にじろじろ見られちゃうかなぁ」
桜庭が少しの照れを見せながら、袖をつまんでポーズを取る。俺はぼうっとしたままその姿を見つめた。
もし誰かにじろじろ見られたとしたら、それは浴衣が物珍しいからではなく見惚れているからだと思う。
それくらい、きれいだった。凛とした格好とお団子にした髪がよく似合う。桜庭はもともとかわいらしい顔立ちをしているけれど、それがさらに際立っている。
桜庭がおどけるたびに、足元の下駄がやさしい音を奏でた。
「きれい、ですね」
「わ、ありがと! ……なんで敬語?」
俺も浴衣で来ればよかった、なんて思ったものの、俺は浴衣を持っていない。それでも、夜な夜な練習したヘアセットと新しく買ったTシャツは、今日という一日を彩ってくれるはずだ。
駅に向かい、上りの電車に乗り込んだ。
ドアの前に立つと、日の落ちる景色が見て取れた。夕日に照らされて燃え上がる街並みは、神々しいものの、命を使い果たす前の最期の灯火みたいだ。
いても立ってもいられず、桜庭が話している家族旅行の思い出を遮って、話しかけてしまった。
「平気?」
外に目を向けていた桜庭が、こちらを向く。
「ん?」
「やっぱり……近場のほうがよかったかと思って」
「なんで?」
「体力的な意味でさ。駅降りたら、多少は歩くし……」
すると、桜庭は俺の心配を一蹴するように笑顔を作る。
「大丈夫だよ。全然疲れてないもん。ふたりで遠くに行くのはじめてだから、うれしい」
先ほどから桜庭の首元が気になっていた。
車内は夕暮れの空気が入り込んで涼しいというのに、うなじのあたりに玉の汗が浮いている。
「……じゃあ、席が空いてないか探しに行こう。楽しむのはこれからなんだから、体力は残しておかないと」
休日、夕方の上りの車両はそこまで人はいないものの、席は埋まっている。それでもどこかにひと席でも空いていれば、桜庭を休ませることができる。
別にいいのに、という顔をしている桜庭の、持っている巾着を引っ張って歩き出した。
桜庭が俺のうしろをついてくる。
「ほんとにカレシできたみたい。……って言ったら、また怒られちゃうね」
まわりの人に聞こえない小声で、桜庭が楽しそうつぶやく。
つい、即答してしまった。
「いいんじゃない」
握っている巾着袋から、ほてった感情が伝わりそうだった。
「そういうことで……いいんじゃない」
はっきりと言葉にできない自分が情けなかった。
ずっと恋愛小説を読んできたくせに、桜庭が求めるような言葉のひとつも口にすることができない。小説に出てくる王子さまみたいには、なれない。
それでも今、俺の気持ちをひと欠片でもいいから伝えたかった。
俺も今という時間を楽しんでいることを、知ってほしかった。
車両間のドアを開ける。背後にいる桜庭との距離が縮まる。
肩のうしろで、うれしい、と声がした。