それから私はこくりと頷き、靴を脱いで上がろうとした。その時、泉平くんの母親らしき女性がスリッパを差し出してきた。
「はい、これ。楽采がよくカノジョさんを連れてくるから、いつもその子に使ってるんだけど、今日はどうぞ」
「え、ありがとうございます」
 少し驚きながらも、お礼を言ってスリッパを履く。
「さあさあ、沙湊(さなみ)さん晩ご飯作りましょ」
「あ、ええそうね和樂(わかな)さん」
 その間に沙湊さんと呼ばれた奏翔の母親は、和樂さんという泉平くんの母親に手を引かれ、二人は笑顔を浮かべながら居間へと入っていった。
「悪いな、母さんたち騒がしくて。兄貴も友達のひとりぐらい作れよ」
 そこへ泉平くんが少し申し訳なさそうに奏翔を咎めながら階段を降りてきた。
「それは楽采もだろ。教室で俺とばかり話してたら、社会で生きていけねぇぞ」
 奏翔はそれに怯むことなく、すぐさま言い返す。
「僕は兄貴のボディガードだからいいんだよ。それと、兄貴の部屋に布団敷いといたから」
 泉平くんも負けじと答えた。その言葉に驚いて「えっ」と思わず声が上擦る。まさか同じ部屋で寝るとは予想外だった。
「おい、ひとつ空いてる部屋を使えって、メッセージで伝えただろ」
 奏翔も目を丸くして慌てていた。
「僕部屋となりだけど壁薄いから知ってんだからな、兄貴がよく夜中に泣いてること。じゃ」
 泉平くんは全く気にすることなく、そう言い残して居間へと入っていった。どうやら二人とも教室では孤立していて、家族としか話さないらしい。生き別れていたとはいえ、まるでずっと一緒に暮らしていた兄弟のように息が合っている。奏翔が耳が聞こえないことを全く感じさせない、穏やかなやりとりに、私は思わず吹き出してしまった。
「……行くぞ。って、何か変?」  
 肩をすくめてひとつため息をついた奏翔がこちらを向き、首を傾げた。それに対して、私は笑いを抑えながら「ううん、仲がいいんだね」と返す。もし十唱が産まれていたなら、私もこんなふうに家でくだらないケンカをしていたのかもしれない。
「兄弟なんてケンカばっかだぞ。ひとりでいた時よりは楽しいけど」
 私の手を引いて階段に向かいながら奏翔は少し恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。こうしていると、まるで結婚前の挨拶に来ている恋人みたいだな、なんて思った。  
「それはそうと、楓音は教室戻ったら未弦先輩以外にも友達作れよ」       
 階段を上がり始めると、奏翔は話題を変えてきた。それに対して私は「んー、考えとく」と曖昧に返す。新しいクラスがどんな雰囲気かなんて、いきなり入るから孤立するのは避けられないだろうけど、未弦がいれば何とかなるだろう。それより、今は明日の定期演奏会のことを考えなきゃ。