「……今なら弾けそう。楓音が隣で弾いててくれるなら」
 奏翔は恥ずかしそうに頬を赤らめ、視線を楽譜に落としながら言った。私はそれに即座に「弾く」と答え、鍵盤に手を伸ばそうとしたが、彼が「ちょっと待って」と言いたげに腕を掴んで止めた。思いがけない行動に、私は驚いて反射的に「へ?」と声が上ずった。
【防音イヤーマフ、なくて大丈夫なのか?】
 奏翔は言葉を発さず、掴んでいない方の手でスマホを取り出し、文字を打って見せてきた。その内容を見て、私ははっと我に返り、周りを見回す。すると、防音イヤーマフが草原に転がっているのが目に入った。その瞬間、ほっと安心した。風で飛ばされたり、通りすがりの人に取られたりしなくてよかった、と。あれは今の自分の命と同じくらい大切なものだから。
 でも、いつの間にかその存在すら忘れていた。奏翔がすがるように抱きついてきたせいでイヤーマフが外れ、耳元に直接聞こえる音に苦しんだ。でも、今はそれすら気にならなくなっていた。もしかして、聴覚過敏が治まりつつあるのだろうか?
 まさかそんなことはないだろうと思いつつ、私はピアノの椅子から立ち上がり、防音イヤーマフを拾って頭にかけた。すると、耳全体がふんわりと包まれる感覚が広がり、安堵の息が漏れた。程よい圧力が心地よく、まるで魔法にかけられたようだった。
「俺、さっきは感情的になりすぎた。きっとうるさかったよな。ごめん」
 奏翔の隣に座り直すと、彼は申し訳なさそうに顔を伏せて言った。それに首を横に振り、「全然。それより、弾こう」と返すと、再び鍵盤に手を伸ばした。
 ちらりと奏翔を見た。彼の濃い琥珀色の瞳は揺れ動いていて、手がガクガクと震えている。まるでピアノに触れることさえ怖がっているように見えた。
 それをなんとか落ち着かせようと、私は奏翔の顔を覗き込み大丈夫だよ、と優しく頷いた。  
 それから音合わせをするようにラの鍵盤に触れ、すっかり馴染んだ旋律を滑らかに弾いていく。その隣でぎこちなく指を動かす奏翔は、まるでピアノ初心者のようにとてもゆっくりで、音も私とかなりズレていた。彼の方がテンポが遅く、譜面も結構間違えているようだ。初めて弾く曲だから仕方ないのかもしれないが、そんな彼の姿はどこか不思議で、いつもと違う彼らしい光景ではなかった。