楽采は、俺を吹奏楽部に連れ出したこともあった。
「そいつ、耳聴こえないんだろ? 合わせられるわけねぇじゃん」
「やってみないとわからないだろ!」
 先輩たちの言葉が耳に残る。そこは強豪校で、人数も多かった。先輩たちは、口の動きから察するに、俺を追い出そうとしていたが、楽采が俺をかばってくれた。その後、先輩たちは渋々頷いたものの、入部から1ヶ月後、俺の靴箱に手紙が入っていた。
【あんたのせいでみんな気遣ってやってんの。迷惑だからもう来ないで】
 差出人の名前は書かれていなかったが、すぐに先輩たちからのものだと直感した。俺は退部することに決めた。人と一緒に演奏することができず、知らぬ間に気を使わせてしまったんだ。
「兄貴のことを悪く言うなんて許せない!僕、行ってくる。必ず戻れるようにしてみせるから!」
「いいから。そんなことしなくていい。合わせられなかった俺が悪いんだ」
 楽采は怒って、先輩たちのところに行こうとしていたが、俺は作り笑いを浮かべて引き止めた。
「いや、兄貴は悪くない。大丈夫だから。僕がなんとかしてみせるから」
 それでも楽采は行こうとしたが、俺は背中を軽く叩いて止めた。
「大したことじゃないから」
 その言葉に楽采は悔しそうな顔をしながら涙を滲ませ、手話で「なんで兄貴がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と訴えてきた。それに対して俺は、彼を優しく抱きしめることしかできなかった。
 一瞬でもいいから、誰かひとりの声でもいいから聞きたい。その願いは年を重ねるごとに強まっていった。特に、楽采の声を聞きたいと思っていた。血の繋がった弟であり、彼がいなければ今の俺がどうなっていたのかもわからない。彼は命の恩人と言っても過言ではない存在だった。
 だけど、そんな日々がずっと続くのだろうか、という不安も消えなかった。楽采の前では作り笑いを浮かべ、彼に心配をかけまいとしていたが、影では「死にたい」「消えたい」と泣く日々が続いていた。弟に守られている自分が情けなく、兄として不甲斐ない自分が嫌だった。もし耳が聞こえていたら、こんなことにはならなかったのに……。
 それでも、楽采と共に生きたいという気持ちは確かだった。彼がそばにいてくれる限り、少しだけ希望があった。気持ちを吐き出す場所がなく、ただ日記に殴り書きするだけの毎日だった。無音がつらくて、スケジュール帳を何冊も真っ黒に塗りつぶしていた。
 そんなある日のことだった。それは中学3年の10月、俺がピアノを弾いていた見晴らしのいい丘での出来事だ。今、楓音といる場所である。その時弾いていた曲は「カノン」だった。それが、奇跡を呼んだ。
 突然、背後から誰かが優しく俺の肩を叩いた。演奏を中断して振り返ると、目を丸くした。そこにいたのは、異様に白い肌をした親子だったからだ。30代半ばの女性が赤ん坊を抱き、手には色鮮やかな紅葉したカエデの葉のような封筒を持っていた。
 その女性は無言のまま、俺に手紙を渡してきた。彼女の口が「助けて」と動いているように見えた。俺が何かを言おうとした瞬間、彼女と赤ん坊は忽然と姿を消し、手元には封筒だけが残っていた。
 その封筒の中の手紙には、こう書かれていた——。