事の始まりは、ただ一つの願いだった。虹が空にかかり、流れ星が光る中で、ほんの一瞬でも誰かの声を聞きたいと。
 俺は生まれつき耳が聞こえなかった。1歳の時、母さんが気づいたらしい。何度も声をかけても反応がない俺を不審に思い、病院で検査を受けてわかったことだ。当時の俺には、それを理解することもできなかった。
 けれど、成長するにつれて周りとの違いに気づき始めた。みんなが楽しそうに会話する中、俺だけがその輪に入れない。孤独だった。
 母さんは手話や筆談、発声練習に必死で付き合ってくれたが、そのせいで食事が遅くなったり、母さんの顔にはいつも疲れの色がにじんでいた。怒りすら感じることがあり、そのたびに俺は恐怖を覚えた。オヤジは酒に溺れ、酔うと俺を叱り、時には手を上げた。俺が耳が聞こえないからオヤジは酒に依存するようになったと母さんは言っていた。
 次第に、俺は自分の存在が無意味に感じられるようになった。どんなに努力しても、誰にも届かない。学校でも、誰も俺に話しかけてこない。まるで俺が邪魔者であるかのように。
「消えればいい、死ねばいいんだ」と思うようになった。
 そしてある日、ベランダに立ち、飛び降りようとした瞬間、背後から強い力で引き戻された。振り返ると、母さんが俺の腕を掴んでいた。その時、俺の世界は完全に閉ざされた。 
 そんな俺に唯一の安らぎを与えてくれたのは、ピアノだった。母がプロのピアニストだった影響で、家には常にピアノがあった。こっそりと弾き始めたとき、初めて鍵盤に触れた瞬間、滑らかな水面を撫でるような感触が心地よく、まるで音楽の世界に引き込まれるようだった。弾くたびに頭の中に曲が浮かび、指が自然と鍵盤に吸い寄せられていく。その瞬間、何もかもが一時的に忘れられるような感覚が広がった。
 しばらくして、母さんに気づかれた。俺は「あ、しまった」と思ったが、なぜか「絶対音感がある」と信じ込まれ、すぐにコンクールに出されることになった。
 だが、あの時、確信した。俺は生き地獄のような世界の中に居場所を見つけたんだ、と。
 初めて大きな拍手を受けた瞬間、狭い世界の片隅から広い世界の中心に立っているような爽快感を得た。自分の存在が初めて価値のあるものだと感じ、それが俺の生きる力になった。
 音楽発表会では伴奏者として舞台に立ち、観客からの拍手に思わず目頭が熱くなった。誰かのために音楽を奏で、それで誰かを笑顔にできる――そんな瞬間があるとは、想像もしなかった。
 しかし、それを快く思わない人もいた。オヤジもそのひとりだ。パシリ扱いをされたり暴力を振るうこともあった。俺は「自分が目立とうとしたから悪いんだ」と思い込むようになり、次第に音楽への喜びが苦しみに変わっていった。
 再び、俺は自殺を試みたが、またしても母さんに止められた。母さんの鋭い目に睨まれ、その瞬間、俺は自分が再び檻に閉じ込められたような気がした。
「消えてしまいたい」と思いながらも、あのピアノを弾いた時の小さな希望が頭をよぎった。しかし、それが実現することはなかった。
 その後、俺は目立たないように過ごすことに決め、コンクールや伴奏の依頼を断り、ピアノからも離れた。自ら檻を作り、その中で閉じこもることで楽になったつもりだったが、孤独感は深まり、心の奥にはピアノを弾きたいという気持ちが渦巻いていた。その感情を抑え込むことで、毎晩涙で枕を濡らす日々が続いた。