「ちょっと、楽采?ちゃんと言いなさいよ。譜久原くんは――」
「萌響は黙ってろ!」
 三羽先輩が口を挟んできた。怒った様子で泉平くんの背中を軽く叩いている。しかし、その声は泉平くんによって強く遮られた。
 弟だからではなく、三羽先輩も何かを知っているのかもしれない。いや、それだけではない。未弦の言葉が脳裏をよぎる。
『正直、譜久原くんだからこそ、楓音のパンドラの箱を開けられたんだと思う。弓彩も譜久原くんのことを叩いてたけど、家に着いたころには納得してたし、文句も言わなかったよ』
 未弦も弓彩も何かを知っている。むしろ、私だけが知らないのだ。この壁がどんな意味を持つのかを。
「僕の母さんは、仕事の人間関係がうまくいかなくて、よく僕に暴力を振るってきた。アザもたくさんできた……そのせいで、笑う方法や感情すら、いつの間にか忘れてしまったんだ」
 泉平くんは、突然自分の過去を語り始めた。音符を書いていた手を止め、嗚咽混じりに言葉を絞り出す。
「でも……それを思い出させてくれたのが、あいつなんだ。交番に駆け込んで、警察官を連れてきてくれた。母さんを捕まえてくれて、父さんの二股が発覚した。兄貴は俺に一緒に暮らそうって誘ってくれた。そういう優しいやつほど、つらくて寂しい世界に生きていることがあるんだ。楓音さん、そんなあいつの隣にいられるか?」
 泉平くんは涙をこらえながら机に突っ伏した。その言葉の重みが、私の胸に鉛のようにのしかかる。
 私は意を決して口を開いた。
「いられるよ。いてみせる。私が隣にいたいの」
 今度こそ、手遅れにはしたくない。私はスカートのポケットからティッシュを取り出し、泉平くんに差し出した。
「そうこなくちゃな。曲の作り方、教えてやるよ」
 泉平くんはティッシュを受け取り、涙を拭いながら微笑んだ。それから、音階や音符の基本を教えてくれる。私は見様見真似で音符を書き込んでいった。
「正直、今やってることは兄貴への嫌がらせじゃないかって、時々思うんだ」
 泉平くんは生き生きとした表情で言った。まるで水を得た魚のようだ。
「でも兄貴は僕に笑っていてほしいから、曲を作ってくれって頼んでくるんだ。そんな兄貴にも、笑っていてほしい。兄貴がいなかったら、僕はどうなってたかわからない。命の恩人なんだ。だから、僕は弟としてあいつの隣にいる。ボディーガードみたいだって言われるけどな。で、楓音さんにはカノジョとして隣にいてほしいんだ」
 泉平くんは遠くを見つめ、言葉に込められた意味を強く感じさせた。
 そういえば奏翔は私にも「笑っていてほしい」と言ってくれていたっけ。
「あと、これ。意味、わかるか?」
 泉平くんは突然、右手の指で奇妙なジェスチャーを見せた。人差し指を出し、右手を手首をひねるようにしてひっくり返しながら横に移動させる。それが何を意味するのかまるで分からない。
「わからないよな。今度教えてやるよ。もし、定期演奏会が成功したらな。覚えたら、楓音さんが知らない兄貴とももっと話しやすくなるよ」
 泉平くんの言葉に深い意味が込められていることを感じながらも、私は今は曲作りに集中することにした。