「ねぇねぇ、昨日弓彩があんなに声かけてたのに、なんで今さらなの?」
 放課後、約束通り母さんの病室に向かう途中、弓彩は不満そうに口を尖らせていた。確かに私も声をかけたけれど、弓彩は特にしつこく声をかけ、受付の人に迷惑がられていた。家出中で家族との連絡を拒んでいたから、呆れるのも無理はない。
「目覚めたんだから、それでいいじゃない。ようやく話ができるんだから。死んだと思ってたときは、言いたいこともお別れの言葉も言えなくて寂しかったけど、今は奇跡だよ? 数年越しの奇跡の再会なんだから!」
 未弦は反対に、興奮を抑えきれない様子で、私と弓彩の手を引きながら廊下を駆けていた。
「走らないで。ここ病院なんだから」
 その速さに、通りすがりの看護師さんが注意した。けれど、母さんが目覚めたことを知っているからか、その声には優しさが滲んでいて、にこやかに笑顔を浮かべていた。
「あ、すみません! つい……」
 未弦は急にブレーキをかけ、立ち止まって恥ずかしそうに頬を赤らめた。隣では弓彩が過呼吸になりそうな勢いで息を整えている。それを見て、看護師さんは微笑ましそうに私たちを見送り、手を振ってくれた。それから私たちは、今度はゆっくりと歩き出した。
 母さんの病室の引き戸を二度ノックすると、中から父さんの声がして、私たちは部屋に入った。
ベッドにはもちろん、少しだけ起こされた状態で横たわる母さんがいて、人工呼吸器をつけたままだったが、その目には現実を受け入れられないような、儚げな表情が浮かんでいた。目を閉じている時間が長かったせいか、まるで幻のように見える。その顔がどこか遠くから見ているような気がして、息を呑んだ。
 父さんが「楓音と教え子が来たよ」と優しく声をかけると、母さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。近くには未弦の両親もいて、仕事を抜け出して来ていたらしい。
「弓彩だよー!」
「弓彩、嬉しいのはわかるけど、飛びつかないでよ。ごめんね、楓音のお母さん。未弦です」
 弓彩は、自分の母親でもないのに母さんに飛びつき、はしゃいでいた。それを止めながら、未弦はそっと囁くように声をかけた。
「母さん……」
 私は久しぶりに見る母さんの姿に息を呑み、引き戸の近くで立ち止まった。胸が締めつけられるようで、気がつけば足が動かない。夢でも見ているような気がして、言葉が出てこない。
「ほら、楓音も」
 未弦がこちらを振り返り、挨拶しなよと促す。私はハッとして我に返り、母さんのそばへ歩み寄った。しかし、何を言えばいいのかわからなかった。ただ、ぼんやりと母さんの顔を見つめるばかりだった。
 点滴で栄養を取っていたはずなのに、その肌は青白く、顔にいくつかシワが寄っていて、まだ弱々しく見えた。まるで別人のようで、しばらくその変わり果てた姿に目を奪われた。髪の毛は寝癖がついて、どこか頼りなく見える。
「か、のん……」
 久しぶりに聞いた母さんの声はかすれていて、弱々しかった。それでも嬉しくて、涙が自然と溢れた。私はその手を取り、涙を拭う間もなく、ただひたすらに微笑んで、母さんを見つめた。