私は諦めてその場に座り込み、図書室の中にいる奏翔に聞こえていないか不安になりながらも、細心の注意を払って小さな声で事情を説明した。 「なるほどな。安心しろ。楓音さんには、絶対に何も非はないから」
 すると泉平くんは納得したように言い、私の背中をトントンと優しく叩いた。その動きは表面的には優しさを示していたが、どこか機械的な印象も拭えなかった。それから、ズボンのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。彼は寒がりなのか、私と同じ冬服を着ていた。
「今の話じゃ分からないところがあるから、奏翔と話してくる。楓音さんは、ここにいてくれ」
 スマホをサクサクと操作しながら、泉平くんは言った。おそらく奏翔にメッセージを送っているのだろう。普通に引き戸をノックして声をかければいいのに、と思ったが、彼には彼なりのやり方があるのだろうと、何も言わずに見守った。
 私は引き戸にもたれかかっていたので、その場から立ち上がり、泉平くんを通すように端に避けた。それを確認した彼も立ち上がり、引き戸を開けて中に入っていった。すぐに閉められ、その音は私への気遣いなのか、ゆっくりとしたものだった。
 ひとりにしてくれと奏翔からはメッセージで伝えられていたから、大丈夫だろうかと不安になりながらも、スマホの時計を確認すると、始業のチャイムからすでに3時間が経過していた。時間が経てば、少しは心の持ちようも変わるのかもしれないと思い、泉平くんの戻りを待つことにした。
 ひそひそと話しているのか、声がこちらに漏れてくることはなかった。聞き耳を立ててみようかとも思ったが、それはデリカシーのない行動だと自制した。
「お待たせ」
 しばらくして、泉平くんが引き戸を静かに閉めながら言った。彼の表情はどこか辛そうで、俯いていた。まだ私たちの関係は親しいとは言えないため、安易に尋ねることはできず、私は黙り込んだ。
「楓音さんは、奏翔のことを知ってるようで、実は全く知らないんだな」  
 泉平くんは私の方を見ずに、静かに口にした。
「へ……」
 その言葉に思わず息を呑んだ。奏翔が何を言ったのかではなく、私自身について言われたからだ。さっきは私には非はないと言っていたのに、今はまるで知らなかったかのように感じた。
 私が奏翔と関わったのはまだ1週間にも満たない。それだから、知らないことがあって当然だろう。
 今のところわかっているのは、彼がプロ並みのピアニストで、強引なところがあるけれど、まっすぐで優しい性格だということ。そして、自己評価が低く自己卑下しやすい部分があること。
 薄っぺらい関係の割には、様々なことが思い浮かぶが、いくら考えても彼の言葉の意味がわからなかった。
「楓音さんはさ、あいつの隣にいられてる?」
 泉平くんがこちらを向き、直球の問いを投げかけてきた。しかし、答える間もなく彼が口を開いた。
「いないよな? 楓音さんは、あいつの隣にいるようで、実は全然いない。関わってる人の中じゃ、一番あいつから遠い存在だ。今のままじゃ、あいつのカノジョには務まらないよ」
 泉平くんの言葉は冷たいが、どこか焦りを含んでいた。彼にとって、奏翔は大切な存在なのだろう。そして、私が奏翔にふさわしくないと断じられることで、自分が奏翔を守らなければという彼の責任感が垣間見えた。しかし、その思いは私の心をさらに痛めつける。泉平くんは冷徹な眼差しで私を見つめ、最後の言葉を放った。
「だから、これ以上僕の親友に近づかないでくれ」
 その瞬間、冷水を浴びせられたような気分になる。奏翔に拒絶されてショックを受けたところに、さらに追い討ちをかけられた。泉平くんの言葉は鋭い矢となり、私の心を次々と傷つけていった。
「悪いな、役に立てなくて。じゃ、僕授業あるから」
 棒読みで言い捨て、泉平くんは何事もなかったかのように階段を降りていった。どうやら彼のクラスの音楽の授業は終わったらしく、近くからは複数の足音や話し声が聞こえる。私はそれを無視するように、悲しみに項垂れた。