「おい、大丈夫か?」
 その声が響いた時、どれくらいの時間が経ったのか、すでにわからなくなっていた。複数の足音が近づき、引き戸が静かに開く音がした。きっと音楽の授業のために移動してきた生徒たちだろう。その気配を感じながらも、私は何も言えず、ただ身を縮めていた。
 授業の始まりを告げるチャイムが鳴ると、空気は一変して静まり返った。
「体調悪いのか?」
 その声は、どこかで聞いたことがあるようで、しかし感情のこもっていない低い声だった。男子生徒であることは確かだが、まるでロボットのように感じながらも、私はゆっくりと顔を上げた。
 栗のような深い色をした焦げ茶色の髪。まっすぐな眉。濃い琥珀色の澄んだ瞳。心なしか、奏翔に似た整った顔立ちだった。どこからどう見ても、一度は見たことがある顔だ。しかし、名前が思い出せない。おそらく、一言二言話しただけの赤の他人だろう。
「覚えてるか?いや、忘れてるよな?図書室で少し話したんだが、奏翔の親友の泉平楽采」
 彼が改めて自己紹介してくれたことで、ようやく記憶が蘇ってきた。そうだ、彼は奏翔と同じ吹奏楽部でクラリネットを担当していた。初対面のとき、私が防音イヤーマフをつけているのに気づいてくれた。しかし、彼の彼女である三羽先輩と共に、無理やり入部させられそうになったとき、奏翔が止めてくれたんだった。
 今思えば、あれほど印象的な初対面だったはずなのに、どうして忘れていたのだろう。疑問が浮かぶが、だからといって「はい、忘れてました」と開き直るのは失礼だと思った。
「別に忘れてても全然気にしないさ。僕なんか、小さい頃からずっとロボットみたいだって言われて孤立してた本の虫だからな。もっとも、ここ約3年は作曲家になるために音楽の本を読みあさったり、曲を作ったりしてるだけなんだけどさ」
 私の心を読んだかのように、泉平くんはまくしたてるような言葉で弁明した。そういえば、初対面のときも彼は本を読んでいて、それを見た三羽先輩が「またサボってる」と悪態をついていた。
 奏翔が私のためにピアノを弾いてくれたときも、泉平くんが作った曲が含まれていた。あの時は、ソナタやカノンもメドレーの中に取り入れられたアレンジだったので、私はそっちに気を取られていたことを思い出す。