「お前、何してるんだ!」
 事故当時、父さんは母さんの意識を確認しながらも、私をギロリと睨みつけた。そこへ、佐竹暁則がトラックを近くのブロック塀にぶつけ、窓を開けて酔った勢いでこう言ってきた。
「おやまぁ、さっきの見ちまったぜ。ちょうど誰かを殺してぇって思ってたんだよ。あんたがちょうどいい手助けをしてくれたな。礼ってわけじゃねぇけど、黙っててやるよ」
「なんだと?殺したかったなら母さんか十唱じゃなく、こいつを殺せよ!」
 父さんは私を指差して佐竹に怒鳴った。その瞬間、私は背筋が凍りつく。
「それはできねぇな。助けてもらったやつは殺せねぇよ」
「ああ、そうかよ」
 こうして、私の罪を隠す代わりに、進学校の特進クラスに在籍し、学年トップを取り続け、その後、医者か看護師か介護士になるという条件が課された。
 私は父さんに救急車を呼ぶよう命じられ、佐竹暁則は一緒についてきた警察に連れて行かれた。だから、この事実を知っているのは私と父さん、そして佐竹暁則だけだ。
 母さんの治療費は1円も佐竹から支払われることはなかった。彼は「無一文だからムリだ」と断固として拒んだからだ。その事故の真相は一部が隠蔽されたままメディアに報道され、私の心の中にだけ重く残り続けた。
 それから、父さんはまるで別人のように私を罵るようになった。
「自分がやったことの後始末は最後まで自分でやれ。何年かかっても、どんなに苦労してもな。父さんは悪くない。悪いのはお前だけだ。お前がどうにかしろ!」
 そう言って、父さんは私にあるものを投げつけた。それは1冊のノートで、父さんの日記だった。
【お前は、母さんを困らせる天才か?父さんがどう言葉をかけたらいいかわからなくなってしまうじゃないか。いい加減にしろ。もし母さんにお前が何かしたら、その時、お前の人生は終わりだ】
 その日記には、私を罵倒する言葉ばかりが綴られていた。
 私はただおばあちゃんと過ごしていただけで、母さんを困らせるつもりは少しもなかった。それでも、無意識に自分を責める癖がついた。涙で枕を濡らす日々が続き、どれだけ涙を流したかもわからない。
 父さんは毎日のように私を怒鳴りつけ、私は生き地獄の中にいるような気がした。おばあちゃんはすでに自殺していて、私を庇ってくれる人は誰もいなかった。
 死にたい気持ちが強くなり、1日が過ぎるごとにスケジュール帳のその日を真っ黒に塗りつぶしていった。学校にはしばらく通えず、中学3年生になるとき、未弦がいる地元に戻った。
 それから約3年が経った今でも、その習慣は変わらず、塗りつぶしたページはまるで恐怖の象徴のように見える。
 学年最下位だった私は、そこから途方もない不安に苛まれ、勉強に追い込まれる日々が続いた。その果てに受験に合格したが、その直後、スイッチが入ったかのように聴覚に異常を感じるようになった。寿命が急に縮まったかのような錯覚を、今でも忘れることができない。