「ちょっ、君……」
しばらく自転車に乗っていると、後ろから声がした。小さな声だったし、聞き間違いかもしれないと思ってそのまま走り続ける。
「そこの君、止まりなさい!」
チリンチリンとベルを鳴らしながら、その声が近づいてきた。何事かとブレーキをかけて振り返ると、中年の警察官が険しい顔でこちらを睨んでいた。
「すいませんね、デート中に」
「えっ……」
私、何か悪いことしたっけ?
警察官がわざわざ止めるぐらいだから、何かやばいことをしてしまったのかもしれない。スピード違反は奏翔を気遣って落としていたから違うはず。なら信号無視かと思い、辺りを見渡すが、信号なんてどこにもない。ちゃんと左側を走っているし、どこが悪いのかまったくわからない。
私が困惑しているのを見て、奏翔も足を止めて振り返った。しかし、彼も同様に何が問題なのかわからないのか、何も言わずにただ見ている。
「君、何をしたかわかってる?」
首をかしげると、警察官はますます額にシワを寄せた。口調はどこか苛立ちがにじんでいて、怒っていることが明らかだった。
「ヘッドフォンつけてますよね? 道路交通法違反ですよ。親御さんに連絡しますからね」
その言葉を聞いて、ようやく状況が飲み込めた。まさかこんなことになるとは思わなかった。自分が周りから異物として見られているのを改めて感じて、恐怖が込み上げてくる。通り過ぎる人たちも、私たちを不審そうにジロジロと見ている。その視線が刺さるようで、逃げ出したくなった。
そうだ、この状況を利用して、奏翔と距離を取ろう。
無言のまま自転車のスピードを上げ、ふたりから一気に距離を取る。まるでひき逃げをしているような気分だ。それでも、奏翔は追いかけてこない。きっと警察官と話をしているのだろう。
彼に迷惑をかけるのは申し訳ないけれど、今はとにかく距離を取ることが一番だと自転車をさらに走らせた。へとへとになるまでペダルをこぎ続け、ようやく足を止めると、人気のない公園に足を踏み入れた。そして、誰にも見つからなさそうな遊具の陰に隠れて、膝を抱えて顔を埋めた。
ふと、頭の中に蘇るのは過去の記憶。聴覚過敏になったばかりの頃のことだ。
「今日は一人で外食してこい」
そう父さんにお金を渡され、近くの静かな老舗の飲食店に入った。防音イヤーマフをつけたまま食事をしていた時だった。
「すみません、お客様。お食事中にヘッドフォンはちょっと……」
店員にそう声をかけられ、思わずフォークを持つ手が止まった。遠回しに「行儀が悪い」とか「うちは味にこだわってるんだから失礼だ」と言われているように感じた。
「す、すみませんでした!」
私はそう言い捨てると、千円札を机に置いて飲食店を飛び出した。他の店に行っても同じことが起きるのではないかと思うと、もうどこにも行きたくなくなった。
その記憶を忘れて、私はさっきまで奏翔と飲食店に行こうとしていた。逃げ出したことでその事態は避けられたが、結局のところ、彼に迷惑をかけたことに変わりはない。
「あの子、耳をすごく塞いでるよね?」
「周り、そんなにうるさくないよね? バイクの音とか工事現場ならまだわかるけど」
「ここってそんなに都会でもないしね。田舎ってわけでもないけど」
「都会だったとしても、慣れたらどうにかなるんじゃない?」
聴覚過敏になった日、駅前でそんな噂を耳にした。噂を聞きつけた駅員さんが、私を静かな場所まで連れて行き、精神科に行けとまるで蚊を払うように言った。
その瞬間、自分が「異物」だと強く感じさせられた。それが深いトラウマとなり、私は二度と電車に乗れなくなった。
さっきも警察官に呼び止められたし、まるで難病にかかったかのように、自由がじわじわと奪われていく感覚に、私はまた無性に死にたくなった。
しばらく自転車に乗っていると、後ろから声がした。小さな声だったし、聞き間違いかもしれないと思ってそのまま走り続ける。
「そこの君、止まりなさい!」
チリンチリンとベルを鳴らしながら、その声が近づいてきた。何事かとブレーキをかけて振り返ると、中年の警察官が険しい顔でこちらを睨んでいた。
「すいませんね、デート中に」
「えっ……」
私、何か悪いことしたっけ?
警察官がわざわざ止めるぐらいだから、何かやばいことをしてしまったのかもしれない。スピード違反は奏翔を気遣って落としていたから違うはず。なら信号無視かと思い、辺りを見渡すが、信号なんてどこにもない。ちゃんと左側を走っているし、どこが悪いのかまったくわからない。
私が困惑しているのを見て、奏翔も足を止めて振り返った。しかし、彼も同様に何が問題なのかわからないのか、何も言わずにただ見ている。
「君、何をしたかわかってる?」
首をかしげると、警察官はますます額にシワを寄せた。口調はどこか苛立ちがにじんでいて、怒っていることが明らかだった。
「ヘッドフォンつけてますよね? 道路交通法違反ですよ。親御さんに連絡しますからね」
その言葉を聞いて、ようやく状況が飲み込めた。まさかこんなことになるとは思わなかった。自分が周りから異物として見られているのを改めて感じて、恐怖が込み上げてくる。通り過ぎる人たちも、私たちを不審そうにジロジロと見ている。その視線が刺さるようで、逃げ出したくなった。
そうだ、この状況を利用して、奏翔と距離を取ろう。
無言のまま自転車のスピードを上げ、ふたりから一気に距離を取る。まるでひき逃げをしているような気分だ。それでも、奏翔は追いかけてこない。きっと警察官と話をしているのだろう。
彼に迷惑をかけるのは申し訳ないけれど、今はとにかく距離を取ることが一番だと自転車をさらに走らせた。へとへとになるまでペダルをこぎ続け、ようやく足を止めると、人気のない公園に足を踏み入れた。そして、誰にも見つからなさそうな遊具の陰に隠れて、膝を抱えて顔を埋めた。
ふと、頭の中に蘇るのは過去の記憶。聴覚過敏になったばかりの頃のことだ。
「今日は一人で外食してこい」
そう父さんにお金を渡され、近くの静かな老舗の飲食店に入った。防音イヤーマフをつけたまま食事をしていた時だった。
「すみません、お客様。お食事中にヘッドフォンはちょっと……」
店員にそう声をかけられ、思わずフォークを持つ手が止まった。遠回しに「行儀が悪い」とか「うちは味にこだわってるんだから失礼だ」と言われているように感じた。
「す、すみませんでした!」
私はそう言い捨てると、千円札を机に置いて飲食店を飛び出した。他の店に行っても同じことが起きるのではないかと思うと、もうどこにも行きたくなくなった。
その記憶を忘れて、私はさっきまで奏翔と飲食店に行こうとしていた。逃げ出したことでその事態は避けられたが、結局のところ、彼に迷惑をかけたことに変わりはない。
「あの子、耳をすごく塞いでるよね?」
「周り、そんなにうるさくないよね? バイクの音とか工事現場ならまだわかるけど」
「ここってそんなに都会でもないしね。田舎ってわけでもないけど」
「都会だったとしても、慣れたらどうにかなるんじゃない?」
聴覚過敏になった日、駅前でそんな噂を耳にした。噂を聞きつけた駅員さんが、私を静かな場所まで連れて行き、精神科に行けとまるで蚊を払うように言った。
その瞬間、自分が「異物」だと強く感じさせられた。それが深いトラウマとなり、私は二度と電車に乗れなくなった。
さっきも警察官に呼び止められたし、まるで難病にかかったかのように、自由がじわじわと奪われていく感覚に、私はまた無性に死にたくなった。