「昼飯、楓音は食べたか?」
 奏翔が穏やかな口調で問いかけてくる。そういえば、朝一から図書館で待っていたって言っていた。いくらなんでも早すぎるだろうと思いつつ、昼食をとっていないのは明らかだった。
 私は首をぶんぶんと横に振る。すると、奏翔は安心したように微笑んで、前を歩き出した。どこか飲食店にでも行こうとしているのだろう。
「ま、待って!」
 思わず声をかけると、奏翔が振り返りながら「どうした?」と問いかけてくる。
「わ、私……自転車で来たから」
 自転車置き場の方を指差す。そこには、私の灰色の自転車が無残にも倒れていた。きっと急いでいたせいで、こうなってしまったのだろう。
 自転車置き場に向かおうとした瞬間、奏翔はまるで私が逃げようとしていると思ったのか、握る手の力を少し強めながら駆け寄ってきた。そして、私が手を伸ばす前に、彼が片手でひょいっと自転車を立て直してくれた。そのあまりの手際の良さに、私は驚いて言葉が出なかった。
 こういう時は自分で両手を使ってやった方が早いってわかっているけど、奏翔は離してくれない。ちょっとしたことでもさらっとやってしまうから、なんだか自分が頼りなく感じる。でも、素直に感謝するのが、なぜかためらわれた。
「行こう。さすがに二人乗りは無理だし、降りて隣を歩いてよ」
 奏翔はこれから向かう方向を指差しながら言った。でも私は、心の壁をつくり、彼と距離を置きたかった。そうだ、自転車に乗れば、手を離してくれるだろう。ある程度スピードを落として走ればいいし、それで彼も納得してくれるはず。
 急ぎすぎてヘルメットを忘れたけど、そのまま自転車にまたがる。予想通り、奏翔は驚きながらも手を離してくれた。
 しかし、降りた方がいいぞとどこか忠告するように言ってきた。でも降りたら奏翔との距離が近くなり、また手を繋がれたりするかもしれない。彼に心の壁を壊されているようで仕方ないのだ。
だから無視をするようにペダルをこいだ。
 すると、奏翔はため息をひとつついたものの、私のスピードに合わせて走ってついてきてくれた。
 そういえば、奏翔はどうやってここまで来たんだろう?電車か?でも、私には電車は騒がしすぎて乗れない以前の理由がある。そう考えていると、やっぱり余裕のある彼のことだから、歩いて来たんじゃないかという気もしてくる。