もはやこれは単なる絶対音感ではない。一人のピアニストとしての腕前だ。決まった曲を弾くコンクールでは間違いなく見放されるようなタイプの演奏だろう。それはすごくわかる。
 4年前までは未弦と弓彩のバイオリンをよく家族で聞きに行っていたから。コンクールとか定期演奏会とか何度も足を運んだ。
 バイオリンの音色には澄んだ高音から深みのある低音まであってそれを力強くそれでも優しく繊細に弾こうとする未弦。その隣で未弦の音を際立てるように優しく演奏する弓彩。ふたりの演奏は姉妹だからか、息がすごく合っていて、多くの人の心を動かしていたのを覚えている。私も深い感動を覚えて拍手する手が痛かった。その感覚をすっかり忘れていたなんて。
 音楽室の引き戸を開け、ピアノの音が大きすぎる気がして、防音イヤーマフをつける。これが大きな会場の舞台なら、間違いなく失礼だろう。しかし、そのようなことを気にしている余裕すらなかった。 
 ピアノの椅子には当然奏翔が座っていて、細長い指がまるで怪物のように縦横無尽に動き回っている。そのたびに美しい音が響き渡り、またしても寝入ってしまいそうだ。この演奏とバイオリン姉妹の演奏が組み合わさったものを聞けば、藤井先生が眠ってしまう気持ちも理解できる。
 それより、引き戸の音がしたはずなのに、奏翔は一向に気づかず、時々楽譜をめくりながらも指を動かし続けている。集中しすぎて気づいていないのか、それとも私のように耳がバグっているのか。しかし、後者なら耳に補聴器や防音イヤーマフをつけているはずだ。その可能性はまずないだろう。
 私がいることにどう気づかせようか。そもそも、この演奏を止めてもよいのだろうか。躊躇しながらも、奏翔に近づいていく。
「……そ、奏翔?」
 そう声をかけても死にかけのスズメみたいに弱々しくかすれているせいか奏翔は気づいてくれない。
 これ以上声を張り上げる勇気は持ち合わせていない。泣き腫らした顔を見られるのが恥ずかしいからだ。